他人に迷惑をかけない生活なんて、無理じゃない?
2年ほど前から、
寝る前に1章、聖書を読むことにしている。
今、「ヨブ記」まで来た。
あと2年くらいで読み終わるかな。
今あらためて
「ヨブ記」を読んでみると、
つくづく、「相手の身になって考える」ってのは難しいなあと感じる。
昨年の大震災を経験したあとだと、なおさら身につまされる。
どんなに、被災地のことを想ってみても、
実際に津波に命をさらされたわけではない人間には
その辛さや複雑な思いは理解できないような気がする。
じつは今朝、電車の中で、あるイベントのポスターを見た。
宣伝文句として、
「人に迷惑をかけない、
人が不快に感じることをしない、
大切なことを、
こどもに教えていますか」
だったか、そういう趣旨のことを書いてある。
なんか時代錯誤だなあ、と思った。
nikkouは、子供時代、わりと「優等生タイプ」だったので
「人に迷惑をかけない、人が不快に感じることをしない」を
わりと実践するように努力してきたし、人にも強要する「正義漢」でありました。
ところが大人になるにつれ、
「そりゃ無理だ」ということが
ひしひしと感じられるようになったのであります。
日常的にはまあ、まず、
大人になって、キリスト教という、日本人の大多数とは異質の価値観を持つようになったこと、
ネットと、発達した交通網のおかげで、仕事でもプライベートでも、「Always3丁目の夕日」時代であれば考えられないほど多種多様の「人様」と接触せざるを得なくなったこと、そして社会の変化による世代間ギャップなんかが大きい気がする。
たとえば
nikkouは元旦には神社に初もうでに行かず、教会の新年礼拝に出席するが、「それって日本人としてどうなの?」と、友人になじられたこともある。
逆にクリスマスに恋人がいないことを憂う日本の風潮は、nikkouには不快だ。
nikkouの母は、「子供はまだか」と、我々の性生活にまで口を出してくる。
子の幸せを願う親としては当然の愛情だと思っているのやもしれないが、nikkouにはただのセクハラである。
宮城県出身のnikkouの夫は、「日本史」が関西と関東中心で、東北など無きがごとき、出てきても「道の奥」あるいは「蝦夷」と蔑視の対象にあっていることに不快(というか怒り)を表明するが、
それは東京育ちのnikkouには想像もできなかった視点である。
韓国では、友人が席をはずしている間に友人の携帯電話がなった場合、かわりに出てあげるのが友情で、
ほっとく日本人については、「友人の携帯が鳴っているのに無視をするなんて、冷たい人。」と感じるそうだ。
あげればきりがないけど、
ことほどさように「人」の「迷惑・不快」のバリエーションは豊かだ。
いちいち「人」の快・不快を気にしていたら、もう、社会生活を放棄して、ひきこもりになるしかない。
それじゃぁどうすればいいのか、ということだけど、
いまのところ、nikkouが思いつくのは、
「人」じゃなく、「自分」が「不快・迷惑」に思うことは、出来る限り、「人」にもしないこと、
もし、相手に不快な思いをさせられても、悪意がなければ気にしないようにすること、
謝ったり、説明したり、というコミュニケーションをいとわないこと
くらいでしょうか。
主イエスは、「自分がしてほしいことを人にしなさい」と言った。
それこそ、社会が狭かった時代の価値観だと思っていたのだけど、
映画「パッション」を見て、認識が変わった。
当時のイスラエルは、ローマに侵略されて、異なる言語が飛び交う国際社会だったらしいのだ。
さらには、今よりずっと身分制度が強固だったにもかかわらず、
イエスは、
上はヘロデ王やローマ総督、神官、
下は娼婦や羊飼い、
ローマの取税人や兵士のような微妙な立場にある人まで、
積極的に接触しているのである。
「こんな価値観の多様な社会で、相手が不快に思うことをしない、っていうんじゃあ、コミュニケーションは不可能だ」
と主イエスはどっかで気づいたのかもしれない。
だから、
むしろ、「してほしいことをする」と、積極的な接触を図り、
そこで起きた摩擦を糧に、相手を理解する、
という作戦に出たのかもしれない。
それはなかなかに、コミュニケーション能力を試される方法です。
そして、相手にかなり強い信頼感を抱けなければできない方法です。
でも、案外、主イエスの2000年前の価値観は、現代の多文化社会に適応したコミュニケーション方法かもしれないね。







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