January 14, 2012

他人に迷惑をかけない生活なんて、無理じゃない?

1月7日「眠られぬ夜のために」第1部 かれらをそのただしき裁判官にゆだね、 ためらうことなく おまえの道を歩み続けるがよい。 神は、ありきたりな考えをいただいた 時事詩人とはわけがちがうのだ。 (前田敬作訳)

2年ほど前から、
寝る前に1章、聖書を読むことにしている。
今、「ヨブ記」まで来た。
あと2年くらいで読み終わるかな。

今あらためて
「ヨブ記」を読んでみると、
つくづく、「相手の身になって考える」ってのは難しいなあと感じる。
昨年の大震災を経験したあとだと、なおさら身につまされる。
どんなに、被災地のことを想ってみても、
実際に津波に命をさらされたわけではない人間には
その辛さや複雑な思いは理解できないような気がする。

じつは今朝、電車の中で、あるイベントのポスターを見た。
宣伝文句として、
「人に迷惑をかけない、
人が不快に感じることをしない、
大切なことを、
こどもに教えていますか」
だったか、そういう趣旨のことを書いてある。

なんか時代錯誤だなあ、と思った。

nikkouは、子供時代、わりと「優等生タイプ」だったので
「人に迷惑をかけない、人が不快に感じることをしない」を
わりと実践するように努力してきたし、人にも強要する「正義漢」でありました。
ところが大人になるにつれ、
「そりゃ無理だ」ということが
ひしひしと感じられるようになったのであります。

日常的にはまあ、まず、
大人になって、キリスト教という、日本人の大多数とは異質の価値観を持つようになったこと、
ネットと、発達した交通網のおかげで、仕事でもプライベートでも、「Always3丁目の夕日」時代であれば考えられないほど多種多様の「人様」と接触せざるを得なくなったこと、そして社会の変化による世代間ギャップなんかが大きい気がする。

たとえば
nikkouは元旦には神社に初もうでに行かず、教会の新年礼拝に出席するが、「それって日本人としてどうなの?」と、友人になじられたこともある。
逆にクリスマスに恋人がいないことを憂う日本の風潮は、nikkouには不快だ。
nikkouの母は、「子供はまだか」と、我々の性生活にまで口を出してくる。
子の幸せを願う親としては当然の愛情だと思っているのやもしれないが、nikkouにはただのセクハラである。
宮城県出身のnikkouの夫は、「日本史」が関西と関東中心で、東北など無きがごとき、出てきても「道の奥」あるいは「蝦夷」と蔑視の対象にあっていることに不快(というか怒り)を表明するが、
それは東京育ちのnikkouには想像もできなかった視点である。
韓国では、友人が席をはずしている間に友人の携帯電話がなった場合、かわりに出てあげるのが友情で、
ほっとく日本人については、「友人の携帯が鳴っているのに無視をするなんて、冷たい人。」と感じるそうだ。
あげればきりがないけど、
ことほどさように「人」の「迷惑・不快」のバリエーションは豊かだ。
いちいち「人」の快・不快を気にしていたら、もう、社会生活を放棄して、ひきこもりになるしかない。

それじゃぁどうすればいいのか、ということだけど、
いまのところ、nikkouが思いつくのは、
「人」じゃなく、「自分」が「不快・迷惑」に思うことは、出来る限り、「人」にもしないこと、
もし、相手に不快な思いをさせられても、悪意がなければ気にしないようにすること、
謝ったり、説明したり、というコミュニケーションをいとわないこと
くらいでしょうか。

主イエスは、「自分がしてほしいことを人にしなさい」と言った。
それこそ、社会が狭かった時代の価値観だと思っていたのだけど、
映画「パッション」を見て、認識が変わった。
当時のイスラエルは、ローマに侵略されて、異なる言語が飛び交う国際社会だったらしいのだ。
さらには、今よりずっと身分制度が強固だったにもかかわらず、
イエスは、
上はヘロデ王やローマ総督、神官、
下は娼婦や羊飼い、
ローマの取税人や兵士のような微妙な立場にある人まで、
積極的に接触しているのである。
「こんな価値観の多様な社会で、相手が不快に思うことをしない、っていうんじゃあ、コミュニケーションは不可能だ」
と主イエスはどっかで気づいたのかもしれない。
だから、
むしろ、「してほしいことをする」と、積極的な接触を図り、
そこで起きた摩擦を糧に、相手を理解する、
という作戦に出たのかもしれない。

それはなかなかに、コミュニケーション能力を試される方法です。
そして、相手にかなり強い信頼感を抱けなければできない方法です。
でも、案外、主イエスの2000年前の価値観は、現代の多文化社会に適応したコミュニケーション方法かもしれないね。

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January 09, 2012

愛は老いることがない

1月9日 「……愛は、ほかのどんなものにもまして、ついにそれをわが物とした人間に力だけでなく、英知と忍耐心をあたえる。というのは、愛は、永遠の存在であり生命であるものの一部分であり、このものは、すべての地上の事物のように、老いるということがないからである。」 (『眠られぬ夜のために』第二部 前田敬作訳)

あけましておめでとうございます。
2011年はたいへんな一年でありましたが、
自分にとっては、様々なことを考えさせられた年でもありました。
一生の課題を与えられたといっても過言でないかもしれません。
今年も、それこそ「一生懸命」考え、学び、進みゆきたいと思います。

さて、
お正月は、夫の実家におりました。
夫の祖母宅で、おせちを御馳走になりつつ、
祖母より、自選歌集を頂戴しました。
これが、なかなか素晴らしい短歌で、
ああ、文芸の道には、こういう方法があったんだなあ、とつくづく感動いたしました。

…大きな声では言えませんが、
じつはnikkou、子供のころ、歌人になりたかった。
そこで、当時有名歌人が教授をしておりましたW大学に入り、
4年間、仲間たちとともにあれやこれやとミソ一文字をひねっておりましたが
結局、文芸なり芸術なりってのは才能なんだなあ、という、ごく当たり前のことに気づいて、断念。
ただ、「読む」能力のほうは、努力で磨ける気がする、と
文学研究者か、編集者か、国語教師になるか、の三叉路にしばし悩み、
やがて一番「面白そうだー」と感じた編集者の道を選んだのでした。

というわけで、
作歌からは遠ざかって十数年、
すでに、そんなことに手を染めたことさえ忘れかけていたのですが、
今回の祖母の歌集を読んで、
若いころには思いもよらなかった「歌の役割」に気づかされたのであります。

たとえば、亡くなった友人のこと、
たとえば、子供や孫の成長、
たとえば、老いのこと、
たとえば、感動した歌や詩の本歌どり、
たとえば、庭に咲いた花のこと……

nikkouは若いころ、このテの歌を、
正直、バカにしておりました。
なにせ、加藤次郎、水原紫苑、穂村弘、桝野浩一といった若い歌人がばんばん出ておりまして、

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはドラえもんのはじまり(穂村弘)
洪水だあ、とはしゃいでいたのは私です むろんヨーグルトになっちまいましたが(加藤次郎)
真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウオーリーの声(枡野浩一)

なんて歌をばんばん発表していたころであります。
私小説よりはファンタジー、あるいは純文学、あるいは大河ドラマ、
短歌1首で小説1冊分の、いや、映画1本分の創造性を、
直立せよ一行の詩(佐佐木幸綱)、
おまえはあかまんまの歌を歌うな(中野重治)
と、それはそれは力んでいたのであります。

祖母はアララギ派の先生に師事したとのことですが、
アララギ派というよりは、いくぶん「未来」とか「中部短歌」とか、そのあたりを思わせるような
若々しくユーモアのにじむ詠みぶりでありました。

しかしなによりnikkouが感動したのは、
本人を知っている人間だけが、共有できる感覚を、きちんと、いや見事に、言葉でもって、いまここへつなぎ留めているということでありました。
とくに、我が夫や、その弟を詠んだ歌、

七草の粥つくるとふ鳥取にひとり住まひの男の孫が
フロイトを熱く語れる孫のいて死ぬのはずっとあとからにしよう


などというものを目にすると、
おもわず、胸にぐっときてしまう。
お祖母ちゃんの愛がひしひしと、ひたひたと、あふれております。
ぶっちゃけ、こうしたものは、商業出版としては価値のない作品なのでありますが、
家族の関係の中では、Pricelessであります。
祖母と、ともに歩んだ家族との、
生活、いや、命が、
深く深く掘りこまれた詩であります。

商業出版にのらない、こうした美しい詩と、そこに刻まれた命は、
きっと、この日本中にあふれているんだろうな、
短歌って、それができるんだな、
それって、ありだな、
いや、それって、素晴らしいな、
大きく言うなら、一回性の命、地に足のついた生活、ヒルティの言葉を借りるなら、「老いることのない愛」
そんなことに、初めて気づいた新春でありました。

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December 24, 2011

手話讃美2011

ろう教会のクリスマス会用の動画です。
歌は、「パン・パカ・パン二色パン」の「クリスマスの話」

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December 22, 2011

クリスマス・ページェント

こないだの礼拝で、
「東方の三人の博士」の話が出た。
この博士たちが出てくるのは、マタイ福音書。
ほかの福音書には出てこない。
しかも、通常「三人の博士」と言いならわされているけれど、
「三人」とはどこにも書いていない。
マタイがこの話を書いた時、彼の脳裏にあったのは、
二人だったかもしれないし、十人だったかもしれない。
後世、三人と言いならわされるようになったのは、贈り物が3つだったから。
マタイ福音書には「黄金、没薬、乳香」と書いてある。

だから、ここで重要なのは、三人だったか否かではなくって、
イエスの誕生にビビットに反応したのが、外国人だったことと、
贈り物に「没薬」「乳香」という、死者のためのものが含まれているということだそうだ。
ここには、
福音がユダヤを超えて伝わることと、
イエスが誕生から遠からぬ将来、恐ろしい死を迎える、
というメッセージがこめられている。

…という話で、はたと思いだした。

nikkouの9歳年少の妹が、nikkouも通った幼稚園で、クリスマス・ページェントをしたときのこと。
配役の立候補を募った時、
この幼稚園史上初、
天使に男の子が立候補し、
博士に女の子が立候補したそうであります。
博士はともかく、男の子の天使役の衣装の準備に、先生たちはてんてこ舞いだったそうです。

でも、男の子の天使も、女の子の博士も、
主イエスはとても喜びそうだ。

…なんて話を、教会でしたら、
ティーチャーいわく、
「A(現在、小学2年生の息子さん)が幼稚園のときは、
マリアさんに男の子が立候補したよね。
ケンちゃんって子

おもしろいやつだったね。」

へー。それはさすがにびっくり。

でも、あとで考えてみたら、そんなケンちゃんの気持ちも、わからなくもない気がしてきた。
幼稚園でやるクリスマス・ページェントのマリアさんは、
ベィビー・ジーザス(役の人形)をだっこして、子守歌を歌う。
nikkouが子供のころはバブル全盛、猛烈社員と専業主婦まっさかりの時代で、
働いているお母さんのほうが少なく、
父親ってのは、あまり家にいない、
ましてや赤ん坊をあやすなんてことはほとんどなかった。
だから、マリアさんの役柄をみれば、それはイコール、お母さん=女、だった。

でも、今のパパたちは、
ふだんから赤ちゃんをあやしたり、お風呂に入ったり、ご飯を食べさせたりしているんだろうと思う。
お母さんが働いて、
お父さんが育児休暇を採ることも可能になった。

ケンちゃんのお父さんは、一生懸命子育てしているんだろうね。
マリアさんが、赤ちゃんを抱っこして歌を歌う役なら、
僕がやってもいいだろう、
だって、うちのパパだってやってるよ、というのが、
ケンちゃんの主張だったのかもしらん。

ケンちゃんみたいな男の子が増えたら、
出生率もあがるかもしれない、って
既婚・子なしのnikkouがいうと、説得力あるかも?

さて、幼稚園で博士をやった女の子と天使をやった男の子も、いまや26歳。東方の博士のように、飽くなき探求心と勇気をもった女性と、天使のように美しい心と喜びを告げ知らせる明るさをもった男性に成長しているといいなあ、と思います。

みなさま、どうぞよいクリスマスを。

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December 15, 2011

クリスマスイブのつどい

恒例、クリスマスイブのつどいです。川崎リトルライトシンガーズも歌います。どなたもお気軽にどうぞ。

リトルライトにご興味があって、でも、なかなかきっかけがつかめなくって……と思っていらっしゃる方(ときどき、そんな方のお問い合わせのご連絡をいただきます)、これを機に、遊びにいらしてください。一緒に歌いたくなったらぜひご遠慮なく。

2011

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December 13, 2011

教会に凶悪犯が立てこもったら

先週のハングル教室で、
韓国社会における教会の立場という話を聞いた。

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光州事件で教会が民主主義運動の拠点になった理由のひとつに、
韓国では、教会はけっして国家権力と関わらない、という意識が高い、ということがあげられる、と李先生はいう。
だから、今でも、教会に殺人犯が逃げ込んでも、
教会はけっして、警察を教会に入れないんだそうだ。
それは、どんな保守的な人や、政府関係者であっても、犯さないルールなんだそうだ。

「え、そいじゃあ、犯人は、どうするんですか!?」
と生徒たち、唖然として聞く。

李先生
「牧師かだれかが、説得して、自首させる。
自首しないとしても、
一生教会のなかに閉じこもるなんて、無理でしょう?
だから、いつかは、教会の外に出る。
そしたら、教会の外で逮捕すればいい。
ただ、教会の中に警察が踏み込んで、犯人を逮捕することは、
韓国の教会は、ゆるさない。」

生徒
「それは、犯人をかくまう、ということになるんじゃないですか?」

李先生
「まさか、ならないですよ。
かくまってはいないですもの。
ただ、警察が入ってはいけない聖域だ、というだけ。」

はー、と生徒たち、絶句する。

まつも、ちょっと混乱する。
教会と警察って、そこまで鋭く対立すべき存在なのか?

日本で、犯人が教会にたてこもったとしたら、
まず、警察を呼んで、
きっと、警察は教会に踏み込んで逮捕するだろうし、
それをしなかったら、逆に、教会も警察も批判されるだろう。
もし、立てこもっている教会に人がいて、
殺されたりしたら、どうするんだ。
教会の責任問題にならないのか?

李先生は
日本の教会が警察に無警戒なことのほうが、
逆に驚きなんだそうだ。
韓国の人が、警察に警戒が強すぎるのか、
日本の人が、無警戒なのか。

韓国にかぎらず、アメリカやヨーロッパはどうなのか。
日本では、警察が踏み込めない領域っていうのはあるのかどうか。
(生徒のおばちゃんの一人が、
「日本だと、皇居がそうかしら?」と言っていたけど、
皇居に犯人が立てこもったら、
宮内庁警察が入るだろう。)

これも、映画やドラマでは分からない韓国の一面。
そして、考えたこともない価値観でした。
ちなみに、昨晩のハングル教室では、韓国で人気のあるチョン・ジヨンという詩人の「郷愁」という詩を聴いた。
ハングル教室に通い始めて、つくづく感じるのが、nikkouはこれまで、韓国を日本との関係でしかとらえてこなかった、ということだ。日本が植民地支配をし、そのせいで南北分断し、いまなお、経済問題や竹島・教科書などで、日本とホットな関わりが続いている彼ら、という認識ですね。
でも、李先生と話していると、もちろん、隣国として無視はしていないけれど、日本とは無関係に、文化や歴史や政治を築いてきている独立した国なのだ、というごくごく当たり前の見方ができなくなっていたことに気づいてはっとさせられる。日本との関わりも大事だけれど、それはそれとして、ひとつの独立した文化と歴史をもつ国として、尊重し、理解する、ということも大事なんだろうなあ、とここのところ、本当に強く感じる。

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December 05, 2011

がむしゃら君の生き方

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先週の金曜日、夫と三谷幸喜監督「素敵な金縛り」というコメディ映画を観に行く。
深津絵里が演じる失敗続きの弁護士が、
転んでも、つまづいても、まけるもんか、と、がむしゃらに立ち向かっていく様子に
なんだか親近感。
夫からも「nikkouさんとキャラがかぶるんじゃない?」と言われた。
私も、職場の同僚たちにはあんなふうに見えているんだろうか。
でも、不器用な人間が人並みの結果を出すには、
がむしゃらにがんばるしかないんだよな。

先々週の水曜日には、兵庫の宝塚で、宝塚歌劇を観てきた。
宝塚を見ると、ラストの大階段で必ず泣く、というのは聞いていたけれど
予定調和のこの話の、どこで泣くんだ、と
半ばバカにして、思いっきり油断しておりました。
ええ、油断しておりましたよ。
だから、ラストで、―― あれ、なんの涙だ、これ? ――と思いました。
なにに泣かされたのか、っていうと、
それはもう、ひとえに、トップ女優さんの役者魂に尽きる。
トップ女優さんは、その他大勢とまったく違う扱いで、ずっーとスポットライトがあたっていて、
ひとり出ずっぱりの、歌いっぱなし躍りっぱなし。
彼女が、台詞ひとつ噛んだり、ダンスを一歩踏み外したりすれば、
すべての舞台がおじゃんになるだろう、とはらはらするほど、彼女に劇場中の視線が集まり続けての、
ラストの大階段なわけでした。

トップ女優さんは、深津絵里演じる弁護士と真逆、
ひとつの失敗も許されない。
でも、その緊張感を微塵も感じさせないほどスマートで華麗で、
自分とは遥かに遠い存在であることよのー、と思ったものです。

さて、昨日の礼拝で、
川崎教会の牧師、通称ティーチャーが、
「自分と同じ者として、隣人を愛せよ」という主のことばについて、
「どういうことなのか、ずーっと考えてきたんだけど」
と言った。
「ずーっと考えてきたんだけど、
最近、こういうことかな、って考えているんです。

世の中には、たしかに、やなやつがいて、
そういうやつとは、付き合わないっていう処世術もある。
でも、自分だけは、どんなに嫌いでも、別れたり、距離を置いたりできない。

もし、『やなやつ』が、主が出会わせてくれた隣人であるなら、
好むと好まざるとかかわらず、勝手に切り捨てたり、見限ったりできないんじゃないか、
『自分と同じ者として』っていうのは、
そういうことなんじゃないか、
って思うんですよね。」

それで、はたと、
仕事の取引関係のある若い男性のことを思い出した。

昨年からよく売り込みに来るようになった写真のエージェントの営業マンなのだけど、
不器用なnikkouから見ても不器用な人で、
忙しい時間や季節にアポなしでやってくるわ、
こちらの仕事の中身を理解していないわ、
売りこんでくる商品は的外れだわで、
あー、この人、この仕事向いていないんじゃないかなあ、と
ちょっと気の毒だった。
ただ、とにかく「がむしゃら」で、
しょっちゅう売り込みに来る。
nikkouより10歳は若いかなあという感じだったので、
10年「がむしゃら」やってれば、すこし、人並みになるかもよー、と
無責任に眺めていた。

ところがそのうち、ぱたりとこなくなり、
そして、先日、
別の、もっと遣り手な感じの営業マンが挨拶に来た。
なんでも、その不器用な彼は、病気になり、会社に来なくなり、
そのまま引き継ぎもせず、やめることになった、という。

がむしゃら君、折れちゃったのかなあ。

宝塚トップ女優と程遠い、がむしゃらタイプnikkouとしては、
がむしゃら君の、会社に行きたくなくなって、やがて本当にやめちゃう気持ち、
それほど想像に難くはない。
がむしゃらタイプにとって、
仕事で一番しんどいのは、じつは、人間関係だ。
仕事そのものは、まあ、最終的に帳尻があえばいいと思っている。
ただ、スマートタイプと同じ結果だとしても、
がむしゃらタイプは
その過程で、人間関係の摩擦でもって、叱責やら罵倒やら、女子の場合はセクハラやら蔑視やら、
まあ、それはそれは、たくさんの試練にあうわけで、
なんで、わたしばっかり、こんな嫌な思いをするんだろう、と思うことは少なくない。

ただ相手に嫌な思いをさせられるだけじゃなく、
相手に嫌な思いをさせたかも! それで怒らせたかも!なんて、考えていると、
すくんじゃって、仕事に出ていけなくなっちゃうよね。
nikkouだって、怒らせちゃった結果、会ってもらえなくなった相手が何人も(!)いる。
よく、それで仕事を続けているもんだと思う。

それでもnikkouが、なんとか折れずに進んでいけているのは、
ティーチャーの言葉を借りれば、
「主が出会わせてくれた隣人」という考え方のおかげだ。
これは断言してもいい。
何度も、その考え方で切り抜けてきたから。

世界観が、「いやなヤツと二人だけ」になってしまうと、
社会を突き進む気力は萎えてしまう。
ここに「主」という第三者が入ってくると、
しんどいのはそのままだけど、
案外、突き進む勇気が、相手と関わる力が、折れずにすむんだよね。
主よ、ご覧じあれ、ガンダム―じゃなかった、nikkou行きます! ってノリです。
突き進む先に、ちゃんと通り道が用意されていることを信じているしね。

がむしゃら君とは営業されるだけの関係だったので、
もう会うことはないかもしれないけれど、
そのままひきこもってしまうことのないよう、祈ってる。
今はすこし休んでいても、
また、がむしゃら君なりの活躍の場が与えられますように。
そして、願わくは、その傍らに、主の支えがありますように。

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November 30, 2011

民主主義ってなんだ?

『眠られぬ夜のために』第二部

「10月29日

悪は今のところ、たしかにこの世の巨大な力であり、ひろい範囲を領している。それはいぜんとしてこの世の王であるが、しかし『裁かれた』王であって、その支配権を『しだいに』放棄しなくてはならないだろう。
 それゆえ、この王はいつも恐れているのだ。(中略)

しかし、善のほうでもまた恐れるならば、それによって、善は、悪にたいするその優越性の主な根拠を、たちまちうしなってしまう。最もよい事柄でも、勇気がかけていると、それだけですでに、全く、あるいは半ば、くりかえしだめになってしまった。そこで、いくどもまた新しくやり直さねばならない。若い人たちに勇気を教え込むことが出来れば、それは現代のあらゆる教育のとりわけよい仕事となるであろう(以下略)。」
(岩波文庫:草間平作・大和邦太郎訳)

ハングル教室の李先生から、韓国の民主化のため、どれだけ多くの犠牲があったか、というお話を聞いて、ふと、思った。
民主主義ってなんだ?

生まれたときには、もう日本は「民主主義」だった。だから、あらためて考えると、それがどういうものか、よくわからない。命をかけて勝ち取るべきものなのかどうか。
李先生は、韓国の民主化運動の中心となったのがキリスト教教会だった、という。
教会でその話をすると、nikkouのゴスペル仲間で牧師である通称テイーチャーが、「民主主義の根幹はイエスの福音なんだよ」という。
えー、まじでー?
nikkou の乏しい知識では、民主主義のルーツはたしか、ギリシャのポリスだったはず。主イエスとは関係ないんじゃないの?
そうこうするうちに、大阪では橋本さんが当選。うーん、ほんとに民主主義と福音に、関係があるのかなあ。そういえば、以前、内村鑑三の読書会で、「キリスト教がある国は、民主主義国家でなければならない」というようなことを言うひとがいて、学生さんが、「でも、多数決とキリスト教の倫理は対立することがありますよね」と反論した。それがnikkouの心にずっとひっかかっていたのでした。

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ということで、あらためて勉強してみました、民主主義。
まずは『民主主義という不思議な仕組み』(佐々木毅)から。
それで、ようやく頭の整理がされた。
まず大事なポイントとして、「民主主義」と、「民主制」は別だってことだ。
民主主義」は、「人はすべて、生まれながらに自由で平等で、だから、政治に参加する権利がある」という考え方のこと。
民主制」は、「民主主義を反映させる政治システム」。ただ、鏡のように完璧に反映するシステムというのはなくって、大統領制にせよ、議院内閣制にせよ、一長一短なのだそうだ

この「民主主義」の「だれもが自由で平等という考え方」、大きな動きとなって実現したのはイギリスのピューリタン革命が最初だそうだけど、この本を読むと、なんだか唐突にでてきたような感じがする。それ以前の政治には、まず、「戦争にいくのだから政治に参加すべきだ」という成人男性が中心だったギリシャのポリス、
そして、「力のあるものが政治を行うべきだ」という王政
「貴族も大きなの力と経済力があるのだから、特権を認めろ」という貴族制などがあった。

しかし、「人はみな、自由で平等だから政治に参加すべきだ」という理屈は、よーく考えてみると、あまり説得力がない。「戦争に行くから」「お金があるから」「力があるから」という理由に比べて、「人はみな自由で平等」という理由には目に見える証拠がないのだ。
ああ、ここに、福音があるんだなあ、とぴん、ときた。この本には書いていないけれど、民主主義を唱えた人たちの脳裏には、主イエスの「神の前には、男女も社会的地位も、経済力も軍事力もなく、みな、等しい」という理念があったのだろう。

さて、そこで問題の多数決だけど、これは「民主主義」の問題ではなく、「民主制」のほうの問題なのだそうだ。
本書では、「一見多数の意見のようだけれど、じつは少数派による情報コントロールがあるのかもしれない(たとえばナチス・ドイツとか)」、「そもそも投票率が低いのかもしれない(日本の選挙なんかいつでもそうだ)」、という見方を紹介する。そして、なにより、衝撃的だったのは、「正理をもって身を棄つる」(福沢諭吉)という発想だ。
これは、政治よりも良心を上に置く、ということで、具体的には、19世紀アメリカにおいて、奴隷制に反対して納税を拒否したヘンリー・デイビット・ソローという人を紹介している。同じ発想の持ち主には、ガンジーやキング牧師がいる。日本では君が代日の丸問題などが関係してくるだろうか。

つまり、多数決で決まった法律であっても、倫理的じゃない、良心に反する、と考えたなら、反対していい。いやするべきだ。そして、情報コントロールされていないか、注意深く見守る。「良心には反しているけど、決まったんだから仕方ないんじゃない?」と考えている人たちを説得する。そして、ときには、その決定に従わない(←!)。

でも、これは、正直、難しい。民主主義国家の日本に生きる一市民としても、つくづく難しいと思う。法と対立する良心。福音や隣人愛に反する社会と闘う。まさに信仰レベルの話だ。

法律で決まっちゃったもんは仕方ないんじゃない? と考えて良心を殺してしまうことは、民主主義を殺すことにもなるのだろう。民主制の欠陥に、民主主義が負けちゃったらだめなのだ。結局、民主主義をつくるのは、制度ではなく、人間だということだ。

主イエスのことば「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ福音書2章27節)にならっていえば、「民主主義は人のためにあるもので、人が民主主義のためにあるのではない」というところか。

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さて、日本で民主主義について深く考えた人、といえば、丸山真男という政治学者である。
ということで『丸山真男』(岩波新書 苅部直〉も読んでみた。
丸山は、揺れ動く「政治」に対抗するために、人は「人格的内面」を持たなきゃならない、ということを言っているのだけれど、
その「人格的内面」を徹底して守りうるのは宗教の立場、とりわけ「ラジカルなプロテスタント、例えば無教会主義者であろう。」と書いているそうだ。
丸山の師匠は、南原繁という学者で、無教会のクリスチャンだった。師匠の影響から出た言葉なんだろうけれど、丸山自身はクリスチャンではない。
丸山は、信仰と政治について、なにを思い、どう考えていたのだろう。もう少し、民主主義の勉強をするため、丸山真男の著作を読んでみようと思います。

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November 17, 2011

ネット社会とキリスト教の倫理

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きのう今日と宇野常寛『ゼロ年代の想像力』という2000年代の文化を論じた評論を読んでいて、はたと、そういえば、この5年間くらいで、だいぶネットに対する認識が変わったなあ、と気づいた。
5年前というとちょうどこのブログを始めたころだけれど、
まだ試行錯誤する部分が大きかった気がする。
特に、見知らぬ人からの書きこみには疲弊した。
思いもかけない攻撃的・暴力的な言葉はもちろん、
なんでもない書きこみにも、それはそれは気を使って返信したものだ。

やがてSNSが登場した。
ただ教会でも、SNS内にコミュニティを開設しよう、という話になったときには、
ちょっと微妙な気持ちになった。
nikkouはSNSには慎重だったからだ。
コミュニケーションをとる相手を最初から選別する、というのは、
キリスト教的な倫理観からすると、よくないんじゃないかなあ、と思っていたのだ。
一方で、知人のホームページやブログが攻撃的な言葉や性風俗の営業で
ひどく荒らされるのを見ていたし、
説教をホームページに載せている教会では、
その内容に執拗に絡んでくる人がいる、ということも問題になっていた。
自分も疲弊気味だったので、
まあ、わからなくはないかな、仕方ないのかな、とも思った。

あれから5年、
SNSを使って見ると、思っていた以上に快適な空間なのは、否めない。
読む相手を選べる、というのは、
ブログよりもはるかに、言葉に気を使わなくていい。
前提が共有できているし、攻撃されるダメージもない。
そしてなにより、SNSを使ったおかげで、SNS外のホームページやブログとの使い分けが分かって、ブログを通じてのコミュニケーションにもずいぶん慣れてきたような気がする。

SNSに置かれた教会のコミュニティは、完全にクローズトではなく、
リアルでコミュニケーションをとった相手には、
「よかったら、SNSのコミュニティを見てみてくださいね」と誘っている。
まずリアルありきなわけだ。
ホームページはホームページでちゃんとあって、所在地や電話番号も書いているので、SNS外のホームページは教会の看板や電話帳に掲載している案内みたいなもの、SNSは、教会を訪れてきた人が、教会の中で話を聴いたり、気持ちを打ち明けたりするようなもの。
そう考えると、必ずしもキリスト教の倫理と対立しないのかもしれない。

自分のブログとSNSの日記も完全に住み分けるようになってきて、
ブログは不特定多数にむけての「壁新聞」で、
SNSはリアルで親しい友人にむけての「私信」みたいな感覚だ。
だからSNSでは、仕事が忙しいとか、甥っ子や姪っ子が遊びに来た、とか
他愛のないことを書いている。

一度夫に、ブログもSNSのように書けばたくさん書けるから、そういう形にしようか、と言ったら、
それはかえって読者を失うのではないか、といわれた。
たしかに、30後半のおばさんの日記など、世間的にはどうでもいいわな。

ブログのコミュニケーションも慣れてきた。
さんざん使い古されてきた言い方だけど、
やはり、誤解の少ないコミュニケーションのためには、
パソコン越しではなく、リアルで会うのがベスト。
だから、この人への対応は、パソコン越しでは難しいなあ、というときは、
「そっとしておく」というのがもっとも適切なんだろう。

そんな対応方法を、キリスト教の倫理的に言えば、「時が来るのを待つ」というのかな、
そして、大事なのは「いつかこの人と顔を合わせた時が与えられたら、ちゃんとコミュニケーションをとろう」
という意思を持ち続けることだろう。
同じ人からの書きこみを禁止する機能もできたけれど、
性風俗関係以外には、使っていない。

ツイッターやSNSは気楽で便利だ。でも、やはり、ブログのような不特定多数向けというコミュニケーションは、まだまだ魅力的な気がする。
開かれている分、ツイッターやSNSに比べて押しつけがましさをあまり感じないところも、長所だと思う。
ブログを久しぶりに再開したところで、SNSとの違いにあらためてビビり気味なのだけど、ここは気持ちを強くもって、また続けていきたいと思います。

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November 15, 2011

結婚という祝福と呪い

『眠られぬ夜のために』第一部

11月14日
結婚は軽く見てよいことではなくて、本当は恐ろしい事柄である。それは、個人にとっても国民にとっても祝福の源にもなれば、または全く立ち上がれないほど重く彼らの上にいつまでものしかかるように見える呪いの源にもなる。このことは、個人についても、全体としても、実にしばしば指摘することができる。
結婚の日は生涯におけるとりわけ重大な日であって、ただ女性にとってそうであるだけではない。結婚式当日のいろいろ楽しい催しも、往々にして、結婚という事柄のあまり厳粛さを当事者とその家族に対し、ただいくらかでも覆い隠そうという秘かな意味を持つものかもしれない。
(岩波文庫 草間平作・大和邦太郎訳)

今日、同僚と、隅田川沿いのフレンチに行ったら、「本日のパスタ」が「長ネギと鶏肉の塩味パスタ」だった。思わず、しみじみしちゃったよ。
今から7年くらい前だったか、今の夫とつきあって最初のデートが、このフレンチレストランで、そのときの「本日のパスタ」がやはり「長ネギと鶏肉の塩味パスタ」だったのだ。
その日、nikkouは、食べている最中に、ふと食欲がなくなって、半分以上のこして、彼に食べてもらったのでした。
なぜ、食欲を失ったのか。
じつは、その間、nikkouは「私は、この人と結婚するんだな。私の人生、これで、決まっちゃったんだなあ」と思ってたのでした。
彼が男性として魅力がなかった、というわけではない。むしろ、ナイス・ガイでした。
そしてなによりも、nikkouは「年齢=彼氏いない歴」であったので、やっと、この「恋愛戦争」から降りられる、と、ほっとしていた。
しかし、その一方で、もう、この人以外の男とつきあったり、この人以外の人との将来を夢見たりする可能性はいっさいなくなるんだなあ、と思った。そう思った瞬間、自分に与えられた人生の時間の、ある期間が終わったんだ、と感じたのでした。「ああ、こうして、ひとつひとつ、区切りをつけていって、やがて、わたしは死ぬんだ」と、つまり、その瞬間、今まで考えてきたこととまったく違うレベルで、生々しく、「死」を意識したのでした。
そういう意味で、「結婚」は、当時のnikkouにとって、「祝福」であり、「呪い」だった。

あれから7年たってみると、そんなこと考えたなんて、すっからかんに忘れてしまっていたほど、お気楽〜な結婚生活を送っております。

ただ、あの一瞬、死を、人生は時間的に限りがあるんだ、ということを、生々しく感じたというのは、案外貴重だったような気がします。

今日のヒルテイを読んで思い出したことをもう一つ。
結婚が決まったとき、教会の長老さんにこう言われた。
「今はセクハラだっていわれるから、あまりこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけれど、nikkouさん、結婚が早く決まってよかったと思うよ。結婚するとわかるから。人間って、自分の思い通りにはならないなーって。」
「へー、そんなもんですかねー」なんて相槌をうってから半年後、
他人だった人間と生活するってのは、こんなに大変なことなのか、と感じていたころに、
あらためてその長老さんに、「おっしゃっていた意味がわかりました」と言ったところ、
「え? そんなこと、言ったっけ?」と、きょとんとされる。
そして、「いやー、自分が言っときながら、忘れていてなんだけどね、ほんと、その通りだと思うよ。結婚するとわかるよね、思ったことは、なんでもかんでも口にすりゃいいってもんじゃないってね」と、またもや金言をはかれました。
この話をすると、結婚している人は、たいがい、とても強く賛同してくれます。

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