May 31, 2014

美知子さんに学んだこと

さて、美知子さんに学んだことである。

 召天式(お葬式)の中で、美知子さんが「人は役に立つから価値があるのではなく、生きているから価値があるのよ。」と言っていた、という思い出が語られていた。

 じつは、nikkouは、昨年夏に出産した赤ん坊の世話をしながら、折々美知子さんのことを思い出していた。

語弊があるかもしれないけれど、美知子さんと赤ちゃんは、少し、似ている。食事にも排泄にも移動にも、人の手を借りなければならない。車いすで移動するときは、ベビーカーで移動するのと同じようにバリアフリーの設備が欠かせない。

  ただ美知子さんは大人なので、こうした状況に切ない葛藤を乗りこえなければならなかった。とくに若い頃、膀胱炎を煩った時のつらさについて、美知子さんはこう記している。

介助者へ……

ここ一ヶ月、神は、いや、神とよばれるものがあるとしたら……
これでもか、これでもかと、私をはだかにしていった。
私のいちばん隠したかった部分を、よりによってはがしていく。
(中略)
管の導入……局部のただれ……生理……と
次々と私の衣をはがし
命そのものへと近づけた。
もうこれ以上、私の衣はない。
もうこれ以上、私に隠されたものはない。
私は命そのものを、あなたがたに託そう。
あるがままの姿で、あなたがたのまえに
在ることの意味を問い続ける者となろう。
(以下略)

「私の自立生活」より

  そして、物理的に赤ちゃんのような不自由さがあるために、精神的にも赤ちゃんのように扱われる屈辱も経験していた。一度、入院のつきそいをしたことがあるのだけれど、看護師さんの話し方に気の利かないnikkouですらカチンときて思わず注意したことがあるほどだ。

  おいしいカレー屋さんやおしゃれな雑貨屋さんの店内が狭くて車いすが入れなかったときもある。でも、美知子さんや、美知子さんと同じ障害を持つ夫君は負けなかった。カレー屋さんの店の前にテーブルを出してもらって食べたり、雑貨屋さんの店先にnikkouが商品を持ち出して広げて、買い物を楽しんだりした。

 介助の帰り、いつもnikkouは深い疲れを覚えた。車いすを押す体力的な疲労感もあったけれど、なにより、この「不便さ」にぐったりする感じだった。

  こんなに動きがままならないのに、どうして美知子さんはこんなに堂々といられるのだろう、と若いnikkouには分からなかった。まあ、そうしたいんだからそうすれば、とあまり考えないようにしていた、というところもある。

  あれから7〜8年たち、召天式で美知子さんの言葉、「人は役に立つから価値があるのではなく、生きているから価値があるのよ。」を聞いて、nikkouは、ああ、そうか、といまさらながら、心の奥底からため息が出る思いだった。

nikkouの赤ちゃんは、今まさに「役に立たない」日々だ。
 おっぱい飲んでねんねしてだっこしておんぶしてまた明日、な毎日である。
 なのに、ものすごく、ものすごく、大事だ。
 自分の命より、大事だ。
 役に立たないのに、価値が、それも、絶大なる、かけがえのない、価値がある。
 それが、人間の命なんだ、ということを、あまりの大事さに息が詰まりそうになりながら、nikkouは、今、毎日、ひしひしと感じている。

  美知子さんは、ご両親や夫君から、「あなたは、大事だ」という思いを、愛を、たくさん受け取っていた人なのだろう。なにより、神様からそのまなざしを感じていたのだろう。だから、自分だけじゃなく自分の周りの人も「大事だ」と心から感じていたのだろう。それゆえnikkouのような気の利かない介助者のことも、とても愛してくれていたのだろう。

  聖書の中に、「わたし(神様)の目に、あなたは高価で貴い」という言葉がある。聞き慣れすぎちゃってなんの感動も覚えなくなっていた言葉だけれど、nikkouは、美知子さんの召天式のときにふと思い出して、まるで初めてその言葉を聞いたような、すごく新鮮な思いがした。

  nikkouは、なにも分かってなかったよ。
 自分自身のことも、役に立っているから偉い、とか、役に立たないからだめだとか、驕ったり卑屈になったりしていた。
 役に立ちたいという思いは大事だけれど、それは人間の価値とは全然関係ない。

  そんな、人生の真理をでも呼べるものを、美知子さんは、日々の生活をnikkouたちと共にする中で、証ししていた。

  美知子さん、今頃わかったよ。
 本当に、nikkouは気の利かない介助者だったね。ごめんね。
そして、ありがとう。

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May 28, 2014

美知子さんのこと

 

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 5月4日、友人の美知子さんが天に召された。60歳だった。

 美知子さんは、生まれつき、重度の脳性麻痺という障害を持っていた。施設の中に囲われて生きることを拒み、地域社会で24時間の介助ボランティアと共に生きることを選んだ人だった。

 とても厳しい道だったと思う。時折介助者が見つからずに苦労することもあった。でも、とても自由で、尊厳に満ちた生き方だったと思う。

nikkouは、今から20年ほど前にボランティアとして出会った。19歳、大学一年生のときだった。友人の紹介だった。それから結婚する29歳くらいまで、途中2、3年ほど途絶えたけれど、足掛け10年ほど介助者をしていた。気の利かない介助者だったと思う。結婚してからは疎遠になってしまっていた。それでも、折々に「nikkouちゃんはどうしているかなあ」とつぶやいていてくださったとのことで、ありがたいような申し訳ないような気がする。

 美知子さんは、お父さんがクリスチャンだったとのことで、聖書への造詣も深く、信仰の種を心に育てている様子だった。ただ、教会には恵まれなかったようだ。一度通った教会では、不快な思いをしたという。詳しくは分からないけれど、その教会で受洗しなければクリスチャンと認めないし、クリスチャンではない人に対する差別的な発言もあったそうだ。なんだかちょっとカルトっぽい。今思えば、そういうところに違和感を覚える、というあたりに、美知子さんの信仰の種の健全さを思える。

nikkouが25歳でクリスチャンになったとき、それを知った美知子さんから共に近所の教会をめぐってほしいといわれ、2軒ほど、日曜礼拝に二人で参加した。どちらの教会もあまりぴんとこない様子だったし、nikkou自身も、あまり気が進まないような感触がした。nikkouの通う教会に一緒に通えないかと美知子さんから相談されたこともあったが、美知子さんの自宅からは遠く、あまり現実的ではなかった。

 やがてnikkouの夫となる人が無教会クリスチャンだと話すと、とても興味を引かれたようで、無教会とはなにか、とさかんに聞かれた。どう説明したのかよく覚えていないのだけれど、美知子さんが子どもの頃、介助に来てくれていたお兄さんが、今、無教会の伝道者をしていることを思い出した、と言われた。初恋の人、といたずらっぽく笑った。連絡してみる、と明るい表情で言っていた。その後、その「お兄さん」には無事、連絡がとれたようだった。

  美知子さんはnikkouの結婚式にも来てくれた。結婚式ではたくさんのゴスペル仲間に歌ってもらったのだけど、そのとき美知子さんの介助で来てくれたNさんもゴスペルを歌うクリスチャンで、会場で共通の友人にたくさん会ったらしい。

 Nさんは、その後も途絶えることなく、介助を続けていらした。Nさんとnikkouは直接の知人ではなかったのだけれど、共通の友人がいると知って、美知子さんはNさんが介助に入るたびに、ゴスペルの集いでnikkouちゃんに会ったか、と雑談がてらに尋ねてくれていたそうだ。

 昨年末に美知子さんが癌に侵されて、余命宣告を受けた、ということを知らせてくれたのは、このNさんである。

 美知子さんがnikkouちゃんはどうしてる、と折々に聞くので、これはnikkouさんに知らせなければと思った、とNさんは言う。nikkouは本当に飛び上がるほどびっくりして、2月、生後半年ほどの乳児を抱えて会いにいった。

 会いにいった前日に、例の無教会の伝道者さんを呼んで、自宅で受洗した、と言っていた。とてもよかった、とうれしそうにしていた。

 あとで「無教会って、洗礼をしないんじゃないの?」と夫に聞くと、「その伝道者さんの考えは分からないけれど、無教会的には、洗礼が救いの条件じゃない、ってだけで、余命わずかな人が無教会のクリスチャンとして証しをしたくて、それが洗礼という形をとるなら、それはそれでありなんじゃない?」とのことだった。

 教会に恵まれなかった美知子さんにとって、無教会の伝道者さんと自宅で、というのは本当にベストな洗礼だったんだろう。

 余命宣告を受けたあとも、美知子さんはけっして後ろ向きにならずに、家族旅行をしたり、友人たちと鍋をしたりと勢力的に人生を謳歌し、最期は家族に見守られながら、ほほえんで旅立ったという。

nikkouは、美知子さんから、ものすごくたくさんのことを学んだ。

一回では書ききれないので、今日はまず、美知子さんとnikkouとの出会いについて簡単にご紹介して、回をあらためて、美知子さんのことをもう少し書こうと思う。

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November 16, 2013

やっぱり欲しいわ、永遠の命

最近、映画鑑賞が趣味になって、毎晩DVDで映画を観ている。
先日は、トミー・リー・ジョーンズ主演の「告発のとき」を観た。
日本では缶コーヒーのCMで宇宙人を演じてすっとぼけた味わいを出しているトミー・リー・ジョーンズであるけれど、この映画ではベテランのハリウッドスターとして、重厚な演技をしております。

詳しいあらすじは申しませんが、イラク戦争したせいで、アメリカの帰還兵の心の荒廃たるや凄まじいことになってるよ、という話でありました。
たいへんいい映画だったので、ぜひ皆さんに観ていただきたいと思います。(予告編を貼っておきます)。


この映画と同じようなことは、たしかベトナム戦争でも言われていたはずで、アメリカはイラク戦争でもなお、同じことを繰り返しているんだなあ、とため息が出る。
日本は憲法9条を廃棄するだの改定するだのと長く議論をしているけれど、
その憲法の草案を作ったアメリカこそ戦争放棄・軍隊非保持の憲法を持たないと、内部から崩壊するんじゃないか、と心配になる。
日本憲法9条を改定するより、
世界中の国が「9条」をもつのが、それこそ「戦争の抑止」になるんじゃないかと思うが、
まあ、幻想だよなあ……、
祈り続け、祈り伝えていけば、何千年後かには、実現したりするだろうか。

そんなことを、Facebookに書いたら、
友人たちが、「遠い夜明け」という映画を教えてくれた。
南アフリカにおいて、醜悪なアパルトヘイト政策が行われていた時代、
黒人の自由と人種の平等を説いた若い黒人活動家、スティーヴン・ビーコと、
彼を支援した白人ジャーナリスト、ドナルド・ウッズの友情を描いた映画だ。

これもとてもすばらしかったので、ぜひ皆様に観ていただきたい。
(映画とコラボレートしたピーター・ガブリエルのビーコという歌を貼っておきます。)


スティーヴン・ビーコは、1977年30歳の若さで拷問死する。
義憤にかられたドナルド・ウッズは、彼を伝えようと亡命を決意する。
ウッズの脱出を、多くの黒人たちが、「ビーコの友なら、我々の友だ」と助けるのである。
その様子を映画で追いながら、nikkouは、まるで、ビーコの魂が生きて、友を守っているようだ、と思った。
肉体死しても、魂は滅びずか……とつぶやいて、ふと、聖書の有名な一節が脳裏に浮かんだ。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)

そうか、ビーコは、肉体を殺されても、「永遠の命」を得たんだなあ、と何気なく思って、はっとした。
「永遠の命」ってそういうことだったのか!

nikkou は、ぶっちゃけ、この聖書の一節があんまり好きではなかった。
なんか、取引っぽいんだよね。
イエスを信じたら、ご褒美に「永遠の命」をあげましょう、信じない人にはあげません、残念ですね怖いですね、どうですか欲しいですか、じゃあ信じてください、
……みたいな。
でも、肝心の「永遠の命」ってのが、なんだか得体がしれなくって、nikkou としては、まあくれるんならもらっておくけど特に欲しくはないかな、くらいな気持ちだった。

でも、そうじゃないんだ。
ご褒美でもなんでもないんだ。
本当に、イエスをーーつまり、イエスが伝えた真の自由や平等や愛や平和ーーを信じるなら、
たとえそれを信じたために殺されたり、一生報われなかったとしても、
後世、真の自由や平等や愛や平和が築かれる日まで、
その魂は決して、それこそ「永遠に」滅びない、
という「事実」を、
福音書が書かれた時代、つまりイエスの死後、人々は目の当たりにして、
それを、わたしたちに伝えようとしたんじゃないだろうか。

「遠い夜明け」のラスト、ビーコ以外にも、平等のために闘い、おそらく拷問死したであろう人名が次々とリストアップされる。
それをいたたまれない思いで見つめながら、みことばを噛み締めた。
この世界に、いつか真の自由や平等や愛や平和がきっとやってくる、
人間が信じなくても、神様は信じている。
そのくらい、この世界を愛している。
だから、それを信じたこの人たちは、死なない、
永遠の命を生きている。
きっとそうだ。
そうじゃなきゃ。

この映画に描かれた通り、1970年代の南アフリカでは、アパルトヘイトが破られるときは永遠にこないと思われていたのに、1994年、とうとうネルソン・マンデラ氏が大統領になった。

今は夢のようなことでも、そう遠くない未来、かなうかもしれないよ、と友人たちは言う。

そう、
だから、
世界中の国々に憲法9条を。
そんな夢のようなことも、
強く強く信じ、
その上に立って、日々の生活を踏みしめていくのなら、
いつか、叶うのかもしれない。

「永遠の命」って、
死んだあと、クリスチャンになったご褒美として、不幸なこの世とまったく無関係のカムフォタブルな天国でずーっとハッピーでいられますよ、
って意味じゃない。
私が死んだあとも、イエスを信じて生きた道のりは、きっと引き継がれ、その思いは永遠に滅びない、
そういうことなんじゃないかと思う。

だとしたら。
わたしも欲しいわ、永遠の命。
子どもたちの、そしてまたその子どもたちの世界のために。

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May 11, 2013

神谷美恵子の功罪

ハンセン氏病という感染症がある。
長年、この日本で非人道的な隔離政策が行われ、小泉政権下で国の責任を問う裁判が行われたことは記憶に新しい。

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このハンセン氏病をめぐって書かれた『「隔離」という病い ◆近代日本の医療空間』(武田徹)を読んだ。
本書の真ん中あたりで、神谷美恵子に関する記述があって、nikkouは、ひとかたならぬショックを受けました。
筆者の武田徹は、神谷美恵子が、この非人道的な隔離政策に、少なからず「貢献」した、と指摘しているのである。 その指摘には、なかなか説得力があって、神谷美恵子を真摯で誠実な愛の人であったと理解していた身には、読み進むのが、ちょっとばかり、つらかった。 でも、とてもとても大きなことを学んだように思うので、みなさまにシェアしたい。

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くわしくは本書を読んでいただきたいのだけれど、 簡単に要約すると、神谷美恵子の「罪」は2点ある。
まず、神谷美恵子がその主著『生きがいについて』などでハンセン氏病施設(療養所)に暮らすハンセン氏病のひとびとが「生きがい」を持って生きていることを礼賛したことについて。
「生きがい」を持つことは、はたして「正しい」のか。「生きがい」とは主観的なものではないか。
病者を社会から隔離することに必死になった人たちは、そのことを「生きがい」としていたのではないか、
あるいは、「国のために死ぬこと」を「生きがい」とする病者もいたのではないか、
生きる目的を一方的にはぎ取られた人たちが、隔離された環境で設定した生きる目的を「生きがい」と呼んでよいのか、
そもそも、「ある時点で生きがいを感じていることが、死ぬまで続く隔離された生活を正当化する根拠にはならない。」

そして、もう1点は、神谷がこうした療養所を「ユートピアとして描いたため、隔離政策を顧みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。療養所がユートピア=良き場所であるという神谷の主張は、病者との共存を快く思わない世間にとって実に都合がよかった。いうまでもなく、そこに病者を閉じ込めておくことへの罪悪感を感じなくて良くなるからだ。」という。

さらに、なによりnikkouの心に突き刺さったのは、神谷のこうした発想が、キリスト教を背景に生まれたものだ、という武田の指摘である。
より正確に言うと、フーコーが指摘した、キリスト教の「牧人権力」にある、という。
「牧人権力」とは、「牧人」すなわち羊飼いが、愛と責任を持って、まずしく弱い羊たちを正しい道に導く、という支配の構造のことだ。近代国家において、それは、支配者と大衆、という構造に置き換えられ、群の秩序のために、個性や人間性を犠牲にする、ということにつながる、というのがフーコーの分析だった。

神谷美恵子や、隔離政策を推進した医師光田健輔に、悪意はない、と武田をいう。 彼らにあったのは、気の毒な病者たちを、愛を持って保護する、という「牧人」としての使命感、責任感である。

……もう、読みながら、心臓ばくばくですよ。

ひとまず「牧人権力」は置いておいて、素朴に、主イエスは病者にどのように向き合ったか、思い出してみよう。
すると、隔離や保護とはまったく逆の方向、つまり、「あなたは病者ではない」と宣言して、社会のなかに押し出す、という行動ばかりしている、ということに気づく(マタイ8ー1〜4、ヨハネ5−1〜9などなど)。
ときにそれで病者が人びとに差別的なことを言われてもお構いなしである(ヨハネ9−8)。
主イエスからしてみれば、病者を受け入れない社会こそが、罪を病んでいるのだ。

だから神谷美恵子は聖書を読み間違えたのだ、と断罪することはたやすい。
今なら、「当事者性」なんて言葉も生まれて、障がいをもつ人や、認知症の老人などは、はたして「弱者」なのか、主体性をもった個人ではないか、なんて議論もなされていたりする。
でも、神谷の時代、「当事者性」なんて考え方、ほとんどなかったんじゃないかと思う。 そんななか、彼女なりに、一生懸命良心に従って働いたのに、 それは誤りでした、ってのは、あまりにも切ない。

そしてまた、その刃が自分にも返ってくるような気がして、身がすくむ。
今、私が一生懸命良心に従い、聖書に学び、なにか行動としたとして、 それが誤りだったら、どうしたらいいのだろう。

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そんな重たい思いを抱えたまま、礼拝後、川崎教会の牧師であり、nikkouのゴスペル仲間であるティーチャー(愛称)にこの話をした。
すると、ティーチャーも、『ハンセン病とキリスト教』(荒井英子)で、神谷美恵子の功罪を知った、と言う。
「でも、神谷美恵子が一生懸命ハンセン病の人たちに尽くした、ということと、 それが、今から見れば、功罪ある、ということとは、 別のことだよね。」
「たとえ、過ちであったとしても、ハンセン病の人たちと神谷さんが結んだ友情はすこしも傷つかないし、 わたしたちは、彼女の罪から、学ぶことができる。 彼女の思想や行動を検証することは、彼女の人格をおとしめることにならないと思うよ。」

ああ、そうか! とnikkou、はたと気づいた。
神谷美恵子が、一生懸命働いたからこそ、わたしたちは、その行動や思想を検証し、 自分の行いを顧みる材料にすることができる。
もし、神谷美恵子が、ハンセン氏病の人びとになにもしなかったら、わたしたちは、なんの検証もできず、何が罪か、よりよくするにはどうしたらいいのか、道しるべもなにも得られなかったことになる。
逆に、神谷美恵子を神格化して、彼女のことをなにも検証しなかったら、彼女の人生がなにも活かされないことになってしまう。

だから、わたし自身も、一生懸命誠実に生きて、過ちも含めて、後世の人びとに学ぶ材料を提供しよう、と考えればいいのかもしれない。

だれもが、過ちをおかす。
偉人と呼ばれる人も、検証すれば、かならず、なにかしら、誤りが見つかる。
「でも、イエスだけは、ないんだよ、誤りが。 これこそが奇跡だと思わない? 病を癒したり、復活したり、ということより、 何千年経っても、誤りがない、ということのほうが、奇跡だと思うんだけどなあ。」 とティーチャー。

そういわれて、ふと思った。
イエスが、わたしたちに伝えようとした道、
わたしたちのただなかに、こうあってほしいという「神の国」を
2000年経っても、
まだ、
わたしたちは理解できていないのかもしれない。

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September 13, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】「日本人である」というタラントン

さて、「日本人である」とはどういうことか、という話である

野々瀬さんが、「環境も、神様からの【恵み・借金】である」といい、
荒井さんから、朝鮮半島の人々と日本とのかかわりについてのお話をうかがい、またその過去にたいして、「うめき」という祈りを示された時、
nikkouの心に、ある化学反応がおきた。
それをシェアしたいと思う。

nikkouは、正直、「日本人であることの誇り」だの、「日本語は世界でもっとも美しい」だのということを言う人が苦手である。
仕事柄、そういうことを言う人と出会う確率はとても高いのだけれど、
そういうことを言う人には、営業上お付き合いをしても、
仕事(=執筆)は、頼まないようにしている。
理由は、大きくわけて三つある。

まず第一に、「日本人/日本語はすばらしい」という時点ですでに、
自分は、外国はもちろん、日本のこともあまり勉強していません、と告白しているのと同じだと思うからだ。
nikkouが執筆を依頼する先生の中には、
国語が専門でありながら、日本以外の国や言葉についてとてもよく学んでいる先生たちがいる。
そうした先生たちからnikkouは、ことばや人間について、じつに多くのことを学ぶ。
そもそも国語の先生をしていれば、いやがおうでも、
漢文にともなって中国文学や中国の歴史を学び、
現代文でも、フランスやドイツの哲学を学ばざるを得ない。
深く広く学べば学ぶほど、
「日本語」だけではなく、「ことば」について、
「日本人」だけではなく、「人間」について
思考をめぐらさざるをえない。
そうした中から、「日本語」や「日本人」をどうとらえるか、という視点が生まれてくることはある。
でも、どの国の言葉や歴史がもっともすぐれている、なんて大胆なことは、
どんな博学な学者でも判断がつかないはずだ。
だから、「日本人/日本語はすばらしい」とか言う人に原稿を依頼しても、
面白いこと、深いことは何もかけないだろうな、とnikkouは判断するのである。

第二に、そういうことを言う人としばらく話していると、
だんだん、すさまじい差別意識をあからさまにしてくることが多い。
「日本人であることの誇り」から転じて
「一神教である欧米文化は狭量だ」だの、
「中国や韓国は日本よりも遅れている」だのと言いだして、
もっとひどい人になると、
学歴が高いこと、勤務校の生徒の学力が高いことなどに優越感を持っていたり、女性差別的だったりする。
この人のクラスに、勉強のできない子や、在日コリアンの子、セクシャルマイノリティの子がいたら、
どうなっちゃうんだろう、と心がさむーくなる。

そして第三に、
そもそも、あなたも、わたしも、ある国に生まれたのは、
まったく、たまたまなんじゃないの? と思うからだ。
もし、あなたが生まれたのがたまたまアメリカなら、あなたは日本ではなく、アメリカを誇るのだろう。
もし、あなたが生まれたのが韓国なら、あなたは日本ではなく、韓国を誇るのだろう。
しかしあなたが、その国の人間や文化を生んだ創造主なのか、あなたの努力でこの国があるのか。
たまたま生まれた国を誇る、というのは、nikkouには、つくづくナンセンスに映る。

だから、nikkouは、「日本人であることの誇り」や「日本語は美しい」という考え方からは、
できるかぎりフリーでいよう、と思ってきた。
そして、職業的良心から、そういう人の本はつくらないようにしようと思ってきた。
できるかぎりニュートラルに、世界のことばや文化と向き合おうと思ってきた。

でも、そうすると、ひとつだけ、大きな問題にぶちあたるのである。

それは、
「日本人であることの責任」からもフリーになってしまう、ということである。
具体的に言うと、たとえば戦争犯罪に対して、どう罪意識を持てばいいのか、わからない、ということである。

第二次世界大戦で、日本軍は、アジア各国にひどいことをした。
話をきけばきくほど、嫌なことばかり。
でも。
でも、それがわたしと、なんの関係があるのだろう。わたしはたまたまこの国に生まれたのだし、日本に限らず、どこの国のどの時代の歴史にもあることだろう。
心のすみで、そんな思いがどうしてもぬぐいきれなかった。

戦争で、女の人を強姦したり、人を殺したりしたのは、
戦争に行った人たちでしょう。
実際に手を汚した彼らが、実際に殺されたり傷つけられたりした人やその家族に会って、謝るべきではないか。

もちろん、一人の人間として、
戦争の犠牲になった人たちを深く悼む思いはあるし、
一人の女性として、
ひどいめにあった女の人たちとともに嘆き、憤る気持ちはある。
でも、そこに、どうしても「日本人であるわたし」という概念が代入できなかったのである。

ところが、
今回、野々瀬さん、荒井さんのお話が、nikkouのなかで、ふと、つながったのである。
「日本人である」というのは、
神様から与えられた、莫大なタラントンの一部ではないのか。

神様から一方的に与えられた【借金、恵み】なので、日本人であることを誇る必要はまったくない。
でも、日本人であることの責任を放棄したら、――つまり、「日本人である」という【借金、恵み】を土に埋めてしまったら、
最後に、神様からげんこつをくらうかもしれない。
今、この時代に、この言葉を用いて生きる、この国に生まれた、という【借金、恵み】を
二倍、三倍の「よいもの」にして、神様にお返しする。
そうすれば、タラントンをいかしきったことになるのではないか。

戦争犯罪についても、あるいは、マスコミでさかんに煽っている独だか竹だけいう島についても、
いつか、
世界中が瞠目し、世界の歴史に語り継がれるような、平和に満ちた解決策を示せたら。
その解決策にむけて、わたしが「この時代のひとりの日本人」として一生懸命尽くして、その解決の一歩に参与できたら。
それは「後世への最大遺物」にならないか。

「日本人としての誇り」にとらわれず、
しかし、
「日本に生まれた責任」を積極的にはたす。
ウルトラC級の難しいことだと思っていた。
でも、意外なところに、解答の糸口があったような気がする。

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September 12, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】野々瀬さんの「タラントンの話」と、荒井さんの「北朝鮮の話」

一泊二日の無教会キリスト教青年全国集会、無事終了いたしました。
たいへん充実したひとときとなりました。

nikkouの心に残ったこと中心になりますが、
みなさまに、会の様子をシェアしたいと思います。

青年大会では、
初日、二日とも、聖書講義があるのですが、
今回は、初日が野々瀬浩司さん、二日目が荒井克浩さん、と
伝道者としては比較的若い50代の方たちからの講義でした。
どちらの講義でも、nikkouには深い感銘を受け、
あらたな気づきを与えられました。
かいつまんで御紹介するとともに、nikkouに与えられた思いをみなさんにシェアしたいと思います。

初日の野々瀬さんのお話は、マタイによる福音書25章14章~30節「タラントンの譬え」にみる未来に向かっての生き方、と題されたものでした。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、  五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 
恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 

このお話のポイントとして野々瀬さんがお話されたことをnikkouなりにまとめると、大きく分けて次の3点だと思う。

1)5タラントンを、兵士の一日のお給料=現代のバイトの日給、で換算すると、1億8000円~3億円!(2タラントンは7200万円~1億2000万円、1タラントンは360万円~600万円)
主人は「小さなものに」と言っているけれど、決して小さな額ではない。
 これは、主人の、しもべに対する莫大な信頼を表している。

2)この莫大な金額は、主人がしもべに「あげた」お金じゃない。
 あくまでも、預けたもの、しもべにしてみれば借金である。

3)1タラントンを土に埋めた人は、なにも悪いことをしていない。
主人のおカネを着服したわけでも、
儲けたほかのしもべたちを脅してお金をだまし取ったわけでもない。
ただ隠していただけなのに、ひどく叱られた。

さて、ここでいうタラントンという莫大なお金が譬えているものはなにか、ということですが、
よく、生まれ持った才能、と解されることが多い。
英語のタレントの語源だとする説もある。
でも、才能だけじゃないんじゃないか、と野々瀬さんは言った。
生まれた環境、出会った人、ひょっとしたら努力する能力さえも、
神様から預けられた莫大な【恵み・借金】ではないかと思う、と言う。
だから、自分の能力やら恵まれた環境やらを誇る人がいるけれど、
それは、借金の額を誇っているだけにすぎない。

神様から与えられたその【恵み・借金】を糧に、
大きく冒険してこい! と、神様を我々に期待している。
もちろん現実には失敗してしまうことだってある。
イエス様の譬え話のようにはいかないかもしれない。
でも、人間的には失敗でも、神様からみたら、喜ばれるような成功ということもあるんじゃないかと思う、とのこと。

一方で、1タラントンの男。
べつに悪い人じゃないのに、こんなにひどく叱られている、というのが、気の毒なのだけれど、
問題は、この人が、主人を、恐ろしい人だと見ているということ、
主人への信頼感がなくって、とても冷めきった関係だということ。
神は恐ろしい、と見る人には、実際に神は恐ろしく見え、
ひねくれた見方をする人には、実際にひねくれて見え、
愛している人には、愛の神に見える。
そんな、神と人との真理が反映されているのではないか、とのことでした。

そんな野々瀬さんのお話を聞いて、驚くこと多々。
まず、タラントンという単位がそんなに大きなものであったこと、
イエス様がこの話をしたとき、きっと人々はどよめいただろうと想像する。
そして、1タラントンの男は、とくに犯罪的行為をしたわけではなかった、と、注意を促されて、
はた、と思った。
悪いことをして裁かれるなら、話は分かりやすい。
でも、何もしなかった、といって裁かれたら、裁かれた側は腑に落ちないんじゃないかしら。

二日目は、荒井さんから、
韓国や北朝鮮と、日本人クリスチャンとの関わりについて、お話をうかがった。

まずは、第二次世界大戦中、日本人が韓国の人々に強要した神社崇拝や、
さらに日本人クリスチャンたちが、韓国人クリスチャンに、妥協するよう説得、勧告した話、
それに抵抗して多くの韓国人牧師が拷問をうけ、獄死したこと、
そんななか、矢内原忠夫は、ロマ書8章を掲げ、韓国のクリスチャンを励ましに韓国にわたったこと、
その際、殉教も覚悟したとの話から始まりました。

ローマの信徒への手紙8章18節‐25節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 

世の矛盾と苦難のなかで、
わたしたちは、うめくしかないときもある。
でも、うめきつつ祈る時、それは、全ての被造物を救う祈りとなる、との証しのあと、
さらに、荒井さん自身、北朝鮮の教会に行った際のお話をされました。

なぜ、北朝鮮があのような軍事力を基礎とする国づくりをしているのか、
北朝鮮の人びとが言うに、
――日本に植民地支配されたことがつらかったから、苦しかったから、
そして、そうなったのは、自分たちが弱かったから、
だから、2度とそういう思いをしないように、
軍事力を強くしなければならない、と考えている、
とのことだということ。

彼らのかたくなな軍事政策を批判するのは簡単だけれども、
その背後には、やはり、日本との歴史的関わりが絡みついている、とのこと、
nikkouも、はっと胸を突かれる思いでありました。

この、野々瀬さんと、荒井さんのお話が、
nikkouのなかで化学反応を起こして、
ある、新しい視点が与えられました。
それは、「日本人」である、とはどういうことか、という視点であります。
長くなったので、項を改めます。

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August 15, 2012

2012年キリスト教無教会青年全国集会

今年もあります! 「キリスト教無教会青年全国大会」
nikkouも参加します。キリスト教、あるいは無教会にご興味のあるかた、U50であればどなたでも、ふるってご参加ください。

 

インフォメーション

開催日時:2012年9月8日(土)14:00 ~6日(日)16:00
開催場所:名古屋「金山プラザホテル」ゼミナールプラザ(JR東海道本線「金山」駅より徒歩6分)
     住所:460-0024 愛知県名古屋市中区正木3-7-15
     電話:052-331-6411
テーマ :「聖書に聞く―私たちの未来」
目的  :信仰に関する基本的なことがらをともに学び、話し合う。主の臨在をともに喜び、主をともに讃美し、主にともに祈る。
対象年齢:満50歳以下
参加費 :5,000円(食事代を含む、宿泊費別、代金支払いは当日で結構です。)
宿泊費 :7,000円(隣接の「金山プラザホテル」滞在の場合)
申込方法:郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・宿泊要不要をご記入のうえ、以下のEメールアドレスまたは住所あてに小舘美彦までお送りください。同内容をファックスでお送りくださっても結構です。
・Eメールアドレス:kodate*c-line.ne.jp(*を@マークに変えてメールしてください)
・住所:〒214-0032  神奈川県川崎市多摩区枡形6-6-1登戸学寮
・ファックス:044-922-7072
しめきり:2012年8月末日(金曜日)

プログラム 全体テーマ「聖書に聞く―私たちの未来」

第1日目(9月8日土曜日)
13:30~14:00 受付
14:00~15:30 開会礼拝 司会 小舘美彦 
・挨拶(15分)司会
・聖書講義(50分)野々瀬浩司
(10分休憩)
15:40~17:00 自己紹介と感想 司会 小舘美彦
・自己紹介と感想(40分)  全員
・近畿集会からの報告(30分) 那須容平
(10分休憩)
17:10~18:00 ゴスペルを歌おう(練習50分)指導 松永晃子
18:00~19:00 夕食・自由
19:00~20:50聖書に基づく学びあい「未来に関する聖句」 司会 小舘美彦
・未来に関する聖句解説(20分) 司会
・話し合い(60分)全員
・分かち合い(20分) 全員

第2日目(9月9日日曜日)
9:30~10:50  聖日礼拝  司会 小舘美彦
・聖書講話(50分) 荒井克浩
11:00~11:50祈りと讃美の集い(50分)司会 中川陽子
12:00~13:00昼食
13:00~14:50話し合い「私たちの進む道」司会 小舘美彦
・導入:様々な未来―明日、近未来、終末(20分) 司会
・話し合い(60分)全員
・分かち合い(20分) 全員
15:00~15:20ゴスペルリハーサル(20分) 全員
15:20~16:00 閉会礼拝  司会 小舘美彦 
・賛美:ゴスペル 全員
・感想(15分) 参加者(2~3名)
・閉会の言葉(10分)  司会

ちなみに、以前の「キリスト教無教会全国集会」のご報告は、下記のとおり。

2009年キリスト教無教会青年全国集会ご報告
2010年キリスト教無教会青年全国集会 ご報告

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August 03, 2012

神様は、ヨブに「知ってるよ」と言った

『眠られぬ夜のために』第一部 8月1日 神はみずからのためになにごとも求めず、すべてをわれわれのために欲したまう。 (岩波文庫:草間・大和訳)

2年ほど前、母校の国語の先生たちと飲んだ。
研究授業で再会したのを機に、
「nikkou、もうお酒飲めますよ~」ということで、
集まって、飲み会をしたのでした。

我々が高校生のころ、
先生たちは、大学院出たてのホヤホヤの、25歳とか26歳とかだった、と聞かされて、
ぶったまげる。
今のnikkouよりずっと若かったわけだ。
そんな初々しい先生たちは、
徹夜で教材研究をし、思いがけない生徒からの質問におろおろし、
毎日必死だったという。

そんな話を聞きながらnikkou自身も高校時代の楽しかったことから始まった思い出話が
だんだん、辛かったことのルサンチマンを縷々述べる段に至った。
いやあ、nikkouはくらーいくらーい高校生活だったんですよ。
月曜日になれば、はやく金曜日にならないかなぁ、と思い、
朝になれば、早く夕方にならないかなぁと思い、
一年生の真ん中あたりで、はやく卒業したいなぁ、と思っていました。
なにせ、勉強はわからない、人格が未熟で友達はできない、先生は私達に無関心。
学校なんか焼けてしまえ、そう思ってました。

「わたし、そんなにたいへんな高校生活を必死にサバイブしてたのに、
先生、知らなかったでしょ」そう言うと、
先生たちに笑って言った。
――知ってたよ。

「でも、
問題が生じたときも、僕らがむやみに介入するよりも、
君らがちゃんと自分のこととして引き受けて、
内面化して、内省して、
人間的に大きく成長していくでしょう。
nikkou、お前たちのほうが、人格的に器が大きかったんだよ。
僕らはそれを目を見張って見ているしかなかった。」

「……そんな褒め殺し、ずるいよねー。教員の責務を放擲してるよー。」と思わずnikkou、ぼやいて、
ぼやきながら涙が出たりして、
先生から
「そうだよな、泣けてくるよなあ、ほんとに悪かったよねー。
君らにしわ寄せがいってたんだよねー。僕らはその上にあぐらをかいてたよ」と言われて、
おもわず噴き出し、
噴き出しながら、
「ああ、先生たちもいっぱいいっぱいだったんだなあ、
そうだ、自分だって社会人になりたてのときはいっぱいいっぱいだった」と
つくづく、そのころの先生たちが愛おしく思い、
そして、ルサンチマンは、さっくり解消されて
幸せでいっぱいになる。

在校中は聞けなかった先生たちの色んな本音を聞かされ、
それが、とっても愛情に満ちていて、
鈍色の高校時代は、美しいセピア色に変わったのでした。

さて、
現在、旧約聖書の通読を試みているのですが、
ひと月ほど前に、ヨブ記を読み終わりました。
ヨブ記については、以前書いたことがあるのだけれど、(ヨブの子供たち
その結末については、長年不満だった。
神の答えが、全然答えになっていない、
そう思っていたのだ。

でも、今回、改めて読み直して、あ! と思った。
ちゃんと、答えになっているじゃん。
ひとことでいうと、神様がヨブに伝えたのは、
――知ってるよ。
ということだ。

ヨブが、とてもつらかったことも、
いや、ヨブだけじゃなくって、
家族も、友達も、
みんな、それなりに苦しんだことも、
みんな、知ってるよ。

だって、こうある。

「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることが出来るか。
(中略)お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。
雌鹿の産みの苦しみを見守ることが出来るか。」(ヨブ記38章39節〜39章1節)

肉食獣のお母さんの悲しみも、草食獣のお母さんの苦しみも、ぜんぶ知ってる。ぜんぶ見てる。神はそう言っているのだ。

nikkouは、母校の先生たちに、
「知ってたよ」と言われた時、おもわず、ほっとした。
神様は、nikkouの母校の先生たちみたいに、「目を見張って見ているしかなかった」わけじゃない。
最後はちゃんと、介入してきた。
でも、以前書いた通り、神様がヨブの何に対してどれだけの数で報いてくれたみたいな「数字」は、
結局、神様にとっても、ヨブにとっても、あまり重要ではない。
重要なのは、
「知ってる」と神様に言われて、ヨブがほっとした、という
そこのところ、だけだと思う。

――知ってるよ。


余計な慰めの言葉を何百何千と重ねるより、こう言うことが、はるかに深い愛を表すこともあるように思う。

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July 28, 2012

もう裁きになっている

『眠られぬ夜のために第一部』7月26日神から遠ざかることは、われわれが出会う唯一の大きな不幸である。しかし、これはわれわれの意志なしには決して起こりえない。(岩波文庫:草間・大和訳)

2012年7月26日朝日新聞朝刊に、森達也氏のたいへん興味深い意見記事が載っていた。
ノルウェーの銃乱射事件の犯人アンネシュ・ブレイビクの公判が結審したとある。77人を殺害しても最高刑で禁錮21年。最も重い刑が死刑でなく、禁錮21年である。
しかも、遺族からはひとりとして死刑を望む声は聞かれなかったとのこと。
殺戮から逃れたひとりの10代の少女からのこんなコメントも紹介されている。「一人の男がこれほどの憎しみを見せたのなら、私たちはどれほどに人を愛せるかを示しましょう。」
ノルウェーには死刑がない。その理由として、ノルウェーの法務官僚はこう説明したという。
「ほとんどの犯罪には、三つの要因があります。幼年期の愛情不足、成長時の教育の不足、そして現在の貧困。ならば犯罪者に対して社会が行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことなのです。これまで彼らは十分に苦しんできたのですから。」
すごい。それって、つまり、人は愛と教育と生活費があれば、罪を犯さない、と信じているってことだ。人に対するすごい信頼感。
もちろん、被害者や遺族への救済は国家レベルでなされる。そして、満期出所者には帰る家と仕事を国家が斡旋する。この政策への反対者も多数いたそうだが、「寛容化政策の推進と並行して、犯罪数が減少し始めた」という。

nikkouは、死刑については、どちらかというと廃止論寄りの保留、と考えている。
死刑が残酷だから、という廃止論にはくみしない。だから、「より残酷ではない」終身刑を代替策とするという発想にも賛成しない。
死刑は、犯人を反省させるためには有効じゃない、と思っている。死んでおしまいなんて、軽すぎる。
犯罪に至った経緯を徹底的に検証すること、加害者にはその後、原因が徹底的に排除された世界で生きなおしてもらって、犯した罪に心底むきあわせること。それができれば、ある意味、死刑より痛烈な重荷をもって生きることになるんじゃないか。

でも、そんなことできるかなぁ、と思ってた。
制度的に実行性が薄いだろうな、だから死刑廃止は保留かな、と思っていた。
だから、びっくりした。できる、と思って実行している国があったんだ。

今後、ブレイビクは、徹底的に愛され、赦されたなかで、罪とむきあわなければならない。
すごいことだ。
そりゃもう、「愛」だの「赦し」だのという、日本語のもっているスイートなニュアンスをずっと超越した、お互い心から血を流すような格闘のような気がする。

ノルウェーの法務官僚のことばは、ヨハネ福音書で、例のニコデモさんにイエスが言った言葉を思い出させる。
「光が世に来たのに、人びとはその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ福音書3章19節)
罪に応じた罰、なんてものがあるんじゃない、罪自体が、もう裁きなんだよ、
だって、罪を犯すっていうのは、それはそれは苦しくつらいこと、暗い闇の中にいるようなものなんだから、光とともに歩むほうが、はるかに気持ちよくて素敵なことなのに、と。

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July 25, 2012

風がどこから吹くのかだれもしらない(下)

『眠られぬ夜のために』第二部いましばらくの間、祈りと心の目ざめをもって、耐え忍ぶがよい。あなたの家族や親しい人びとのためにも。そうすれば、きっとあなたの最良の時が来る。「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」(創世記49章18節)岩波文庫:草間・大和訳

さて、ニコデモとイエスの対話。ヨハネ福音書に出てくるお話である。

ニコデモは、2000年前のイスラエルで大きな勢力を誇ったユダヤ教の一派、ファリサイ派の老教師であった。
ファリサイ派とは、宗教的戒律から、さまざまな「差別」を、おそらく悪意なく、作りだした宗派である。
ある晩、イエスのもとに、ニコデモがそっと訪れる。
なぜニコデモがイエスのもとにやってきたのか、聖書は常に簡潔なので、情報がすくなくて、よくわからない。
イエスの教えに感銘をうけたから、というのが多くの解釈だ。
まあ、ほんとうのところはよく分からないなあ、とnikkouは思っている。
長くファリサイ派を率いてきた老教師の一人として、新進気鋭のリーダー、イエスに会ってみたかっただけかもしれない。
たぶん、ヨハネ福音書に収められているのは対話の一部で、もっと多くのことをふたりで丁々発止論じ合ったのではないかと思う。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音書3章3〜4節」

ニコデモは、イエスに対して「あなたのお考えは、どうも無理があるように思えるんですがね」という感じ。
これに対して、今回、イエスは、あまり煙にまくようなことを言わない。
どちらかというと、熱心に、理解を求めようとしているように思える。

「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

無理なんかないですよ、とイエスは言う。「生まれる」っていうのは、あなたの身体はそのままに、たましいが、まったく別のものになってしまう、っていうことなんですよ、と。
たましいって何か、って。
身体のように目に見えるものではないですが、ちゃんとあります。
まるで風のように。

近代以降の人間にとって、「新たに生まれ変わったように」という表現は、わりに月並みに感じる。
でも、ひょっとしてこの時代、個人の人格や内面と、身体とを分けて考えるというのはとても奇妙で、斬新な発想だったのかもしれないなあ、とnikkouは思う。
そういうと、まるでイエスがデカルトを先取りしていたみたいな言い方になるけれど、それほど抽象的ななものじゃなくて、社会的な役割に、個人が強く強くしばられていた時代、個人の内面が変わったところでどうなるものでもないし、それでも突き進んでしまったら、社会はえらい混乱に陥るではないか、という考えかたが常識だったんじゃないかなという意味。
「生まれ変わるってあんた、もうどうにもならんがな、この内面や人格は、この社会的役割(身体)によって与えられたんだし、そうやって作られた内面や人格でもって、ここまでの社会的役割を築いてきたんだから。
やり直すんなら、もう一度赤んぼうにもどって、あんたのいうような新しい考え方が実現できるような社会的役割(身体)が与えられないと、やれんがな」
というのがニコデモの主張ではなかろうか。そう考えると、ニコデモの主張もそう頓珍漢なものではないように感じる。

でも、変えられてしまうんですよ、社会的役割(身体)なんて、どうせほろびるものですから、捨てちゃってかまわない。人間の内面(霊)は、風みたいに自由で、そんなもの超越しちゃってるんだから、とイエスはいう。常識的なニコデモ先生には、たいへん過激で不穏な主張に映らなかっただろうか。

そして、そんな主張を聞いて、ニコデモに意識の変化はあっただろうか。変わったのだったらいいな、と思うけれど、この後はもう、ニコデモは登場しない。

そんな聖書箇所を読みながら、はた、と思った。
今回の事件について、イエスはどう思うだろう。
もちろん、被害にあった子を、彼は全力で守ろうとするだろう。
当時、被害にあっていた人たち(皮膚病のひとたち、売春婦のひとたち、放牧に従事していたひとたち)に、彼はよりそっていた。

でも、加害者の子たちも、彼は、一生懸命救おうとするのではないか、
そう思った。
もし、彼らが今のようにバッシングの嵐にあったら、
「ざまあみろ、自業自得だ」とは言わないだろう。

ニコデモを「加害者」と呼ぶのはちょっと酷だけど、でも、「加害」のシステムの側にいたことは間違いない。でも、ニコデモのように、年老いて、長らく自分の信じた道を歩き続けた人にさえ、イエスは、新しい道へ生まれ変わろう、と促す。
であれば、これから長い道のりを歩もうとする若者にも、きっと、勧めるだろう、

君のたましいは、今、どこにあるのか。
これまでの歩みは間違っていた、と気づいたか。
新しい道はみつけたか。
まだか。
では、さがそう。変わろう。
そして、もう一度、あるきだそう。

本当なら、あの子が自殺などする前に、
それはちがう、新しい道をあるこう、
と、強く叱ってでも、勧めなければならなかったのに。

でも、今、イエスにならうなら、
加害者の彼らの行き先をふさいで罵倒することではなく、
新しい道はみつけたか、さがそう、と呼びかけることではないか。

そんなことを書いている途中に、ニュースで、加害者へのバッシングがとうとう本当に「リンチ」を呈してきたと報じている。

ニコデモに、イエスは続けてこう言う。

神が御子(イエス)を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである。

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