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March 23, 2005

俗耳に入りやすい形で

3月22日付けの「眠られぬ夜のために」はふたつの段落に分かれている。

前半は、人生の過程にいるわたしには、まだ理解できない。
「社会的水準よりほんのわずか抜きん出た者」は、生きている間には幸福を得ることができるだろうが、
死後、「彼らの受くべき報酬はすでになくなっている」というのである。

たしかにイエスは、
「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」(ルカ6章24節)と言った。
でも、わたしはまだ死んでいないので、
「ああ、そうそう、そうなのよねー」という具体例が思い浮かばない。
具体例といわずとも、どなたか生活のなかで、このヒルティのことばが実感できる、という方がいらしたら、
シェアしてください。

さて、後半は、私にもよくわかる。
要約すると、こういうことだ。

聖書の話、イエスの言葉など、「偉大な善き思想」について、だれもが、一応は
「いいこと言うな~」と思うものだ。
しかし、時々ぴんとこないこともある。
そういうときに、ひとびとはその思想を分かりやすいことばに置き換えて理解しようとする。
もしその「善き思想」が、曲げられず、「本分」が守られていれば、ひとびとは、ついには、理解できるはず。
ただし、そのように「俗耳に入りやすい形で」噛み砕いて話すということは、神様の恵みがないとできない。
自分の考えだけで行動するような人間にはできない仕事だ。

…ということでいいのかな。

このヒルティの忠告で思い出すのが、
わが愛するゴスペルのディレクター(指揮者)たちである。
彼らは、クリスチャンの少ないこの日本で、キリスト教の信仰に基づいた歌を歌い、指揮していかなければならない。
クワイアーのメンバーたちが、ぴんとこないな~という顔をしていることなど、しょっちゅうだろう。
そうした中、「本分」から逸れないよう、しかし、理解されるよう、知恵を振り絞らなきゃいけない。
大変な仕事だと思う。
でも、だからこそ、大切な仕事だと思う。
(ああ、だから、神様、彼らを守って導いてください。)


先日、ある大学病院で行われたゴスペルの練習に参加させてもらったのだが、
なぜか、とても奇妙な感じがした。
ディレクターが、なんだか、とてもひっかかる話し方をするのである。
歌の解説をするにしても、歌を指揮するにしても。
どうやら、それは、病院側から、ミッション系ではないので「宗教色を出さないで」と依頼されたせいだったらしい。
かわいそうに、彼女はとても苦しかっただろうと思う。
だって、ゴスペルから「神」を抜くなんて、どうしても無理だもの。
おかげで、なにに感謝しているのか、なんで喜んでいるのか、さっぱりワケがわからないのである。
そして結局、ただただ、テンションが高いだけの歌を大勢で歌う、という奇妙な状況が生まれてしまっていた。
なにより、歌がとてもかわいそうだった。

「宗教色」なんか出さなくても、ゴスペルの「本分」を伝えることはできるんじゃないか、と思う。
この歌を作った人を尊重する、という立場で解説をする、というのはどうだろう。
たとえば、
「この歌を作った人は、神様を信じていて、神様が自分を愛している、ということを信じていて、だからうれしい、という気持ちを歌にしたんですね」
と、いうふうに、
つまり、「事実」だけ、伝える。
あとは、もう、押し付けない。歌う人たちの心に任せる。

「俗耳に入りやすい形」にする、ということはとても大切だけど、
一番大切なことから離れてしまうのは、歌も、そして歌うひとたちにとっても、とても不幸だと思うよ。

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