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March 26, 2005

いつわりの平和とまことの平和

今宵、ヒルティは『タウラー説教集』から一篇の詩を引く。

「主よ、これからもわたしに耳を傾けて下さるなら、
もはや平和をあなたに願いません。
安らぎに心をだまされてはならない、
願うのは、ただ勇者の力が与えられることだけです。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

旧約聖書の預言者エレミヤのようである。
堕落し、滅ぼされようとする祖国に対し、敢然と滅びの預言を伝えつづけたエレミヤ。
まだ若かったし、そんな役回りなど、本当は怖くて、不安で仕方がなかったのに。

では、「それって、人として、どーなのよ」と思うような場面に遭遇したとき、
私NIKKOUはどうしているか。
正直に言います。


  黙る。


臆病者ですから、ええ。(開き直り)

自分さえ、加担しなければいいや、と思ってひっそりと黙り込む。
ドン引きされて、座がしらけるのもいやだし。

そういえば、先日のウィメンズカンファレンスでのこと、
ある女の子が立ち上がって、こんな話をした。
「自分は、容姿や体型のことで、よく周囲からからかわれる。(たしかに、ちょっとふっくらした子でした。)
本当はいやなのだけれど、盛りさがると悪いので、からかった相手に、さらなるからかいの言葉を返したりしてやりすごしてきた。しかし、クリスチャンになって以来、人を傷つける言葉を投げつけることを、ためらってしまう。私が言い返さないので、周囲はしらけてしまう。どうしたらいいのだろう。」

うー・・・ん、若いころはあるよなあ、そういうコミュニケーション。
まあアケスケに言ってみるなら、「でぶぅー!」「なんだよぉ、出っ歯ー!」みたいなのですね。(ちょっと幼すぎ?)
10代くらいの仲良しグループ(と周囲から見られる)女の子同士でよくやってる。
ある程度社会人生活を重ねると、そんな「突っ込みあい」コミュニケーションは減るんだけどね。

それに対する講師の答えは以下のようなものだった。
「あなたをからかったり、それを見て楽しんだりする人々全員の前で、あなたの正義を主張する必要はない。
ひとりひとりと向き合って、食事やお茶をしながら、自分は傷ついているし、人を傷つけたくもない、ということを伝えていくことだ。」
そして、彼女のクリスチャンとしての生きかたを通して、周囲が変えられてゆくことを祈った。

座をしらけさせたくない、でも正義を主張したい、という場面というのは、
人とかかわりあう中で、何度も出会うことだ。
そのためには、地道に、かつ毅然として戦う。
まあ、わかるけど、なかなか、ね。タイミングも見計らわなきゃいけないし、友達失っちゃうかもしれないし。
がんばれヨ。

大人になると、なにごともナアナアで切り抜けようとする。
まさに「いつわりの平和」の世界だ。
本当の本当に、正直に言うと、私は「いつわりの平和」のほうが楽。
目をつぶってやり過ごしたいことばかり。
されど、まことの平和の戦いに出てゆく勇気を、
ああ、神様、こんな私にどうぞお与えください。

「地上では敵陣のさなかにあって
つらい仕事でのいくさをさせてください。
天上の救われた人々の家に行ってから、
私は平和の椰子(しゅろ)の枝をかざしたい。」
(岩波文庫:草間・大和訳)


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