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March 30, 2005

家の教会

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イースターの日曜、
友人にともなわれて、「家の教会」に行った。

「家の教会」とは、文字通り、ちいさな家庭の教会で、毎週ささやかな礼拝が持たれている。
農家の納屋を改築したという木の香りのする家は、周囲を一面の田畑につつまれ、
そこここに農作業をする人のかがみこむ姿が見えた。

おっとりとした若いご夫婦と、わが友と、私。
4人がそれぞれ、こたつの四方に座り、祈りとともに礼拝をはじめる。
牧師も、オルガンもない。
けれども、ちいさな部屋に賛美と感謝の歌があふれ、4人の前には神様の言葉を取り次いでくれる聖書が置かれている。

賛美の歌を歌ったあと、
ご主人が、おおきな大学ノートを取り出した。
そこには、びっしりと彼の聖書の学びがしるされているのが見えた。
誠実に、そして必死に主をもとめる様子がにじんでいた。

4人で「コリント人への手紙第一」から第15章を輪読する。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、 また聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(新改訳 3~5節)

同時に「ガラテヤ人への手紙」を引きつつ、「罪」とはどのようなことか、ご主人が説明した。

「もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」(21節後半~22節)

「罪の下に閉じ込める」とは高い囲いの中に囚われている状態のこと。
神様は、イエスの命という代価を払って囲いからひとりひとり出して、自由にしてくださった。

実は、私は長い間、「イエスキリストの復活」を信じられずにいた。
あまりにも非現実的。だからクリスチャンはわけがわからない、と思っていた。
しかし、ある日、イエスはすっと手を伸べて「いい加減、立ち上がれ。これからは問い続けて生きていこう」と私に呼びかけた。
その言葉の力強さに、「主が我がうちに生きておられる」というクリスチャンの常套句がすとん、と胸におちた。
「聖書(ここでは旧約に書かれた「律法」のことだと思う)は逆に、罪の下に閉じ込める」というパウロの指摘の的確なこと。
そう、「律法」(ルール)は、私に罪を教え、正しく生きることを促すけれど、
守れないとき、それはやがて自責の念を生み、
他人をも責め立てる鞭とも化す。
そのジレンマをあざやかに抜け出したのが、イエスキリストの命のあがないであり、復活だった。
…あなたが罪深いのは百も承知、その身代わりに私が死のう、そして、ともによみがえろう。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。「ガラテヤ人への手紙2章20節」

自責の念からも、人を裁くことからも自由に。
「W.W.J.D.」(What Wold JESUS Do? イエス様ならどうする?)と常に問いつつ、求めつつ進みたい、と願う。

礼拝のあと、ご夫婦の8歳の男の子S君を含め、5人で山へドライブをする。
山腹の牧場で、早春の空に両手を広げ、飛行機のように飛ぶまねをするS君。
S君を高く抱き上げ、くるくると回る我が友。
ぶどうの枝に連なった、主にある小さな家族の春の聖日。

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