「ある種の世界的倫理観や哲学」について
昨日付けのヒルティ「眠られぬ夜のために」は、仏教やイスラム教などの「世界的倫理観や哲学」についてキリスト教との比較が述べられている。
ヒルティ自身の文化的時代的背景によるものなのだろうけれど、
あまり理解ある書き方じゃないなあ、と思った。
とはいえ、私のほうが理解している、といえるような事項でもないのだけど。
でも、仏教のことについて、ちょっと書いてみたい。
7年前、大切な人を事故で失った。
その日、急に世界から色が抜け落ちた。
モノクロ映画の中で生きているみたい。
ああ、これが「色即是空」か、と思った。
若くて健康だった人が、突然消えうせるなんて。
文学部だったから、一応「仏教概論」等の授業は受けていて、そのおぼろげな知識で、
なんとなーくの感覚だけど、むかしの日本人に共感したのだった。
最近、玄侑宗久「死んだらどうなるの」(ちくまプリマーブックス)を読んだ。
玄侑さんは、禅宗のお坊さんで、芥川賞作家である。
この本のなかで、良寛の歌が紹介されている。
「形見とて何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
つまり自然のなかに広がった我々のからだのエレメントは、しばらくするとまた新しい命の材料としてつかわれていくだろう。春の花にも、夏山で啼くほととぎすにも、あるいは秋に綺麗に紅葉する葉っぱのなかにだって、私は居るぞ。それ以外にとりたてて形見を残すこともあるまい。」(「死んだらどうなるの」玄侑宗久)
死んだ身体が焼かれて煙になったり、土になったりして、
やがてそれが植物や動物や、いずれはまた人間の身体の一部になってゆく、
その分子の一粒一粒に自分がいる、と考えてもいいじゃないか、ということだろうと思う。
こうした考え方というのは、昔の日本人にとって、「信ずるもの」「宗教」というよりは、
見たまま感じたままの実感だったんだと思う。
大切な人を失ったとき、大学時代の同級生に無理やり引きずられて、教会に行った。
新宿にある大きな教会だった。
そこで旧約聖書にある「ヨブ記」の話を聞いた。
(「ヨブ記」というのは、ヨブというおじさんが、10人もの子供も財産も健康も一気に失って、
それでも神様を信じる、といったり、神様にうらみごとを訴えたりするお話で、
文学的にはこの世の不条理を現した話として、わりと評価が高かったりする。
でも、信仰的にはよく分からない話である。)
なんて気の毒な人がいたものだろう、と思った。
そして、なんと残酷な神だろう、と思った。
牧師の話のオチも、とってつけたようで、ひどかった。
そのうえ、同級生は、私に信仰を迫った。
キリスト教もクリスチャンもきらいだ、と思った。
そのとき圧倒的になぐさめになった考え方は日本の仏教だったといえる。
少なくとも、自分のおかれた状況を理解する手助けにはなった。
なるほど、すべてはむなしい。「諸行無常」だ、って。
イエスに出会ったのはそれから3年後である。
「求めなさい、そうすれば与えられます」という彼のせりふは、
わたしには、「あきらめないで、あなたの命はむなしくないよ、その意味はきっとあるよ」
と聞こえた。
びっくりした。
「ああ、意味を問うてもいいんだ。答えはあるんだ」と思った。
ぼんやりしていた世界が、またくっきり見えるようになった。
だから私は仏教徒ではなく、クリスチャンになった。
キリスト教と他の宗教は簡単に比較できない気がする。
それもまた、私にとっては
「求めなさい」といわれる課題のひとつだと思っている。
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