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April 28, 2005

初めて訪れる故郷

4月27日『眠られぬ夜のために』

「 新しい国

旅路は終り、この決行によって
暗い潮路に橋渡しされた。
霊の船にのって、わたしは無事に
新しい国まで運ばれた。

(中略)

わが心よ、今やここがおまえの祖国なのか、
おまえはこれがわが国だとあえて言えるか、
これまでおまえを外に縛っていたものを棄てうるか、
はたして自由な空気に堪えられるか。

(後略)」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

『眠られぬ夜のために』にはしばしば、詩が掲載されている。
とくに出典が記されていないのだけれど、ヒルティ本人の詩なのかしら。
今日は、昨日と同じような「いろいろ案じている間に敢行せい!」という忠告のあとに、6連からなる詩が挿入されている。うち2連を引用したが、なんとも不思議な詩だ。

新しい国なのに、ここがふるさと。
初めて訪れた、「わが国」。

室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの」ではないけれど、
現実の故郷は、なんだかみすぼらしく汚辱にまみれた自らの過去の地、に思えることもあるだろう。
そもそも、わたしにはふるさとがありません。
借家を転々としたうえに、幼き日に育ったその家も今は、もう取り壊されている。

でも、「なつかしい」という感情そのものはとても甘く慕わしい。
「なつかしい」けれど「新天地」。
人びとが望む天の国とは、そういうところなのかもしれない。

「国」といえば、日本は、ヒルティのように確固たる宗教的精神を持って生きることが、
とってもたいへんな国である。
「宗教に頼るなんて、弱いもののすることだ」と、多くの日本人は言うけれど、
いやはや、クリスチャンであることのほうが、ノンクリスチャンであることよりも、はるかに勇気のいることですよ。
なんってったって、「無宗教」という「単一民族国家」であることが誇りのこの国において、
栄えある「マイノリティ」だもんね。
クリスチャンだ、とカミングアウトすると、とたんに貼られるレッテル「堅物、ストイック、モラリスト、融通がきかない、偽善者」…
そして、たまに、「クリスチャンらしくない」というほめ言葉まで頂く。
クリスチャンが100人いれば、100通りの個性なのに、なぜ、そうひとまとめにしたがる。

学生時代、キリスト教にかぶれてふと「クリスチャンになりたい」と、もらしたら、
父に「日本ではクリスチャンは1%から絶対に増えないからやめておけ」といわれた。
まあ、愛する娘がこの国のマイノリティになることを、恐れたのでしょう。
母はもっと直裁に「クリスチャンの女の子となんて、誰も結婚しないから、やめて」と言った。^^;
日本とは、なんとまあ「宗教」が嫌悪される国でしょう。

この詩、一点とても気になるフレーズがある。
「はたして自由な空気に堪えられるか」
耐え難いほどの自由。
ちょっとぞくっとする、いい言葉です。
意味深だけどね。

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April 26, 2005

いつか分かる日がくるさ

昨日紹介した『ガンに生かされて』の前書きに、ヒルティ『眠られぬ夜のために』がが引用されていた。
おおお。なんたる偶然。

http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2005/03/ganniikasarete.htm

うつ病がまだ軽かった頃、一年間かけて、まるで牛が反芻するように読んでいた本に書かれていた言葉が浮かんだ。


「どうしたらすばらしい、愉快なことが楽しめるか」を問うかわりに、「今どんな善いこと、正しいことをなし得るか」をたずね、あるいは、この究局の目的のためにどのように自分の状態を改めたらよいかを絶えず問うことに、あなたの全思考力を向けているならば─あなたが住むこの世界について、全く違った、より満足すべき観念が得られるであろう。(中略)
そうなると、さしあたり、善を行う機会さえあれば(この機会がないことはまれだ)、あなたの生活がいくぶん苦しかろうと楽であろうと、また、あなたが健康であろうと病気であろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでもよくなるだろう。(ヒルティ『眠られぬ夜のために』草間平作他訳/岩波文庫)

病に翻弄され続ける今、僕はこの言葉の持つ深い意味を心の奥底で理解する。

しかしまあ、古典の言葉とは、なんとさまざまな状況で受け取られることよ。
若輩者nikkouには、この言葉が死の直前の精一杯の日々を励ますものとなるとは、想像もできなかった。
読み手の人生の深み、彩りにしたがって、言葉も力を増すものだ。
古典の古典たる所以である。

だから、今は『眠られぬ夜のために』のなかで、なんだかよく分からない、ピンとこない、とかっとばしている箇所も、いずれ、「はっ」と思い当たるようになるのだろうね。
そう思うと、時間を重ね、歳を重ねてゆくのも悪くない。

今日のヒルティは、仕事論である。

4月26日『眠られぬ夜のために』
「どんな仕事でもすべて、長い間かかってまわりくどい『下準備』などはせず、
即座に、元気よくとりかからねばならない。
ただちに目標とする中心的な思想に向かって突進すべきである。
その場合、たいてい、重要な思想は、きわめて数少ないものである。
そうすれば、付随的な思想は、仕事をすすめる間に、おのずからそれにつけ加わって思い浮かぶものである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

今のわたしにできるのは、この忠告にしたがって、仕事には「即座に、元気よく」ということを試してみることだけ。
そうすればいつか、「なるほど『重要な思想は、きわめて数少ないもの』だなあ」と思うようになるのだろうか。
今はまだ、なにもかもがとっても大事に見えて、毎日、こっそり小さなパニックを繰り返している。

やれやれ。早く大人になりたい。

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April 25, 2005

ヨブ記とは何か

4月25日『眠られぬ夜のために』

「われわれは神を喜ばせねばならない。神が喜ばれるように、われわれ自身がならねばならない。
…その方法がヨブ記のなかに、おそらく最も如実に描かれているので、それを参照しなさい。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

「ヨブ記」というのは、旧約聖書のなかでもおそらく、かなりの人気を誇る章である。
ヨブというきわめて誠実に生きてきた男がある日突然、10人の息子、娘と、財産と、健康を一気に失う。
そこへ、友人3人が訪れてきて、なぜこんな目にあうのか、ということをヨブと延々議論する、という話である。

最近買った『ガンに生かされて』(飯島夏樹・新潮社)の扉にも「ヨブ記」が引かれている。

「私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私は彼処へ帰ろう」

飯島氏は若いプロウィンドサーファーであった。サーフィンの世界で絶頂を極めた後、ガンに侵され、四人の子供と妻を残して今年2月他界した。死の直前までの想いをつづったのが本書で、年末にはフジテレビのドキュメンタリーにも取り上げられた。絶頂を極めた後、命を奪われる、という状況が、ヨブにシンクロしたのだろうか。これから読む本なので、まだ何ともいえないけれど。

たぶん、ヨブというのは実在の人物ではないのだろう。
単に実在したひとりの男をルポしたような話じゃない。
この物語には、旧約聖書が結実するまでの長い長い時間に起きたさまざまな不条理、そして、何人分もの嘆きがぎゅうっと凝縮している。
そのくらい、ヨブの言葉には、すさまじい迫力がある。

この物語にも、
―当事者でないくせに「わかる、わかる、つらいよね~」と安易に「理解」するな!
…という叫びがびりびり響いている。
友人たちの「なんか、悪い事をした報いじゃないの?」という説教も、安易な慰めも、「むかつく!だまれ!」というヨブの嘆きと憤りはすんごいリアルである。

芝伸太郎「うつを生きる」(ちくま新書)は、ヨブ記について、面白い解釈をしていた。ヨブは、罪と罰が等価ではない、と「応酬思想」を真っ向から否定している、というのだ。そして、神もその発想をよしとする。

じつは「応酬思想」というのは、聖書にも時々見られる。
「神様の言うことを聞かなかったからわたしたちはこういう目にあうのだ、悔い改めよ…」と。
その一方で罪と罰は等価ではない、と主張する「ヨブ記」みたいな話もあったりする。
聖書は一貫しているようでいて、一冊の中にまったく逆に読めるようなことも、同居していたりするのだ。
(だから、聖書の一部だけ読んで、キリスト教とはこういうものだ、と断言できる人はなんて頭がいいんだろう、とnikkouは思います。わたしはクリスチャンだけど、わからないことばかりだよ。神様は信じるけれど、「理解」できない。)

ヒルティは「ヨブ記」から何を読み取ったのだろう。
『ガンに生かされて』の飯島氏は、何を。
そして、わたしもまた、これからの歩みの中で、「ヨブ記」の読み方が変わってゆくだろう。
今はただ、圧倒的に無力な人間の、みじめで苦しい叫びの記録にしか読めなくても。

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April 24, 2005

努力してもしなくても、あなたが大好き

4月24日『眠られぬ夜のために』

「こころみがやってくるのは、そうしなければ祝福が与えられそうもない時である。なぜなら、特に、自分自身の力を頼みとする心の自信と傲慢とがあって、祝福の訪れをはばむからである。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

ヒルティ爺さん、NIKKOU、さっそく「こころみ」にあっております。


        昨日より、声が、でません!!


また、たわいもない、と笑うなかれ。けっこうつらいですよ、言いたい事を言葉に出せない、というのは。
電話なんて、もぉたいへん。
「すぅ…」とか「ひぃ…」とかいう呼吸音で相槌を打つ。
まともな返事がないと、相手も次第に興ざめして、あまり話がはずまないまま、電話を切られてしまう。
今は週末だからまだいいけど、明日の仕事に差し支えるなあ、これは。

原因は、また、たわいもないのですが、風邪気味なのに、友人の結婚式でゴスペルを熱唱してしまったゆえです。
てきめんでした。
つばを飲み込むのも、おそるおそるなくらい、のどが痛い。
おしゃべりなNIKKOUですが、しばし、沈黙の修行を強制されるはめになりました。

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April 22, 2005

正しい、気品ある態度で別れを告げ、

4月20日『眠られぬ夜のために』

「われわれはよくも悪くもあらゆる出来事から、正しい、気品ある態度で別れを告げ、最後には人生そのものからも立派な別れをするよう努めなければならない。」(岩波文庫:草間・大和訳)

nikkouは、いま、会社の仲の良い先輩、Nさんの退職のお祝い会を準備している。
Nさんは今月60歳になり、めでたく定年退職なのである。
「このごろ若い人の顔と名前が一致しない」と言って、あまり若い社員と付き合わなかったくせに、わたしだけはむやみと気に入ってくださった。
おかげでこの一年、Nさんには、いろんなところに連れて行ってもらった。在日朝鮮人のミュージシャンのライブやら、韓国人の詩人の記念パーティやら。
そこで彼はわたしをせっせと紹介してまわった。
「これ、ぼくの後輩。来年ぼくがいなくなったら、彼女が仕事を引き継ぐから、かわいがってやってね。」
紹介された著者は、たいがい困ったような顔でわたしをチラッと見る。
「こんな若い子が、大丈夫なの?」と、顔にはありありと書いてある。
そしてわたしも、困った顔をしてうつむく。
「こんな若いので、すみません。勉強しますから、お手柔らかに」…。

出版社に入ってまもなく、「若い」とはすなわち「無能」だ、ということを悟った。
編集会議でも出版交渉でも営業先でも、若い、というだけでみんな、わたしの発言を軽んじる。
30代を目前にして、その傾向はすこし和らいだものの、いまだに編集長がわたしを新しい著者に紹介するときは、「若いわりには、できます」…である。
「若い」ということは、あくまでマイナスなのである。
学生時代は、若い、というだけで価値があったのに。

そもそも、モノを書く、というのはオトナのたしなみである。
この世界では、40代にしてようやく「新進気鋭」である。
最近この国では、モノを読む、ということもオトナの楽しみとなってきてしまった。
年をとらないと、この世界の奥座敷には座らせてもらえないのである。

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April 18, 2005

「主の祈り」と太宰治

今日の礼拝から。

「わたしたちに必要なパンを、今日、わたしたちにお与えください。」(マタイによる福音書6章11節)

今日は日曜日。nikkouの通うちいさな教会でも礼拝がもたれた。
今、わたしたちの教会ではマタイ福音書をはじめから少しずつ読んでいる。
今日は6章の11節、イエス様がわたしたちに教えてくれたお祈り、通称「主の祈り」と呼ばれているものから学んだ。
これは、「神様、わたしたちに、今日のごはんをください」というすごく素朴なお祈りだけど、イエス様のシンプルライフが端的に現れているフレーズだ。

彼には当然、金銭欲というものが無かった。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節)
だから、弟子たちがおなかをすかせて、安息日に畑の麦をむしって食べてしまったというシーンまで聖書には記録されている。(マタイ福音書12章1節)
かといって、禁欲主義でもなかった。出されたものはしっかり食べる。だから、律法家たちに、「大酒のみの大飯ぐらい」と陰口をきかれたりした。(マタイ11章18~19節)

お金持ちになんか、なりたくない。
でも禁欲もしない。
今日一日食べてゆければ、それで幸せ、という彼の祈りは、その生きかたを通しても、一貫している。
それはシンプルだけど一番健康な生活のように思う。

そんな話を聞きながら、nikkouは、ふと太宰治の「富岳百景」という小説を思い出していた。

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April 13, 2005

たまたま、クリスチャンになった

4月13日『眠られぬ夜のために』

「人間の生涯には、時として次のような瞬間がある。すなわち…(中略)…魂が神に近づく瞬間である。
こういう時には、あらゆる既成宗教がただお粗末な象徴にすぎない気がし、また、すべての信条や礼典がいかにも人間くさいものに見えてくる。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

クリスチャンでなくとも、人智をこえた「何か」を感じることって、ある。
人より遥けく、清くて、強い「何か」。
その前では、人が圧倒的に無力になる「何か」。

わたしもかつては、マジメな文学少女ちゃんだったので、大学一年生くらいのとき、すごく真剣にその「何か」について考えたりした。
キリスト教も勉強した。

…よくわからなかった。

「何か」はきっとあると思うんだけど、それが「キリスト教の神」なのかどうか、断定できなかった。
もし、「キリスト教の神」としてしまうと、「それ」が、とても小さくなってしまう気がした。
外国の人たちが信じている、なんだか小奇麗なくせに血なまぐさくって、生真面目だけど理屈っぽい「それ」じゃなくって、もっと本質的でもっと強い「何か」があるはずだ、と思っていた。

そのうち、学生生活のほうが面白くなってしまって、だんだんそんなことを考えるのも、面倒になって、忘れた。
そんなこんなで、大学3年生くらいのとき。
東後勝明という早稲田大学教育学部の教授の講演を聴いた。
東後先生は、NHKラジオ英会話の講師をしていた人で、すごく声がいい。クリスチャンでもある。
話の内容は、あまり覚えていない。たぶん、英語の教育法が中心で、信仰の話もすこししていたと思う。

ただ、ひとつだけ、すごくよく覚えていることがある。
東後先生のゼミの学生だという男性が、立って質問したのである。
「先生はなぜ、よりによって、キリスト教なんですか。ほかにも、仏教とか、哲学とか、いろいろあるじゃないですか。」
先生は、「うー…ん」とすこし考えて、こう言い放った。


「たまたまかな。」

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April 11, 2005

名誉なんて、いらない!…って言えない

4月11日『眠られぬ夜のために』

「修養によってわずかに謙遜の徳を身につけた人は、名誉の表彰を辞退したりするが、内心はやはりそれをうれしいと思い、それが与えられない時は、物足らなく感じる。
もっと謙遜な人は、自分の真の幸福をまもる用心から、それを避ける。
さらに謙遜な人は、そのようなものにもはや心を動かされないので、本当に無関心である。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

わたしも、一度だけ、地位も名誉もいらない!と思ったことがある。
イエスの「求めなさい、そうすれば与えられます」という言葉に出会ったとき、つまり、「あなたが生きていることは無意味じゃないよ、あきらめないで、考え続けて!」とイエスから言われたときである。
ああ、その答えが分かるなら、お金も名誉も、なんにもいらない、と思った。そのときは、本当に。

ま、あれからさほど時間は経っていないんだけれどさ、あっさり名誉欲に囚われる日々ですよ、ええ。弱いっすから。
NIKKOUは、本を作る仕事をしているんだけれど、自分が作った本は、売れてほしいな、と思います。
売れて、「あ、その本、わたしが作ったの」って言いたいさ。社内でも、有能な編集者だ、って一目置かれたいです。あさましいです、ええ。

だから、今日のヒルティ爺の忠告は、わからなくもないけれど、ちょっと反発もあったりする。
なので今日は、私自身のことではなく、いま思い出した知人のことを書きたい。

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募金すりゃいいってもんじゃないらしい

4月10日『眠られぬ夜のために』

「善に対する怠慢は、きわめて大きな欠点である。おそらくあらゆる欠点のなかで最も大きいものかもしれない。というのは、そこになんらよい面が見あたらないからである。」

「…怠惰な金持ちがたくさんいる。彼らはそのあり余る金の一部を、よく選択もせず、ときには大して善意すらなく、なにかの団体や施設に寄付すれば、それでもう大きな善行をしたつもりでいるのだ。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)


昨年から今年にかけて、とにかく自然災害が多い。
でも、被災者の方たちには、うかつに「神の試練だ」なんて言えない。
自分自身でそう思うならともかく、現地にいなかったし、これからそこで生活することもないのに、そんなことばを吐いたって、実際につらい思いをしているひとたちには、高みの見物にしか聞こえない気がする。

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April 09, 2005

いたずらに無益な心労にかまけない

4月9日『眠られぬ夜のために』

「なにかあなたにとって有害なことが、思いがけなく身に迫ってきたならば、これを防ぐために、まず常識の原則にしたがって直接できるだけのことをするがよい。つぎには…。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

ヒルティといえば、仕事論、である。
ヒルティが日本で好まれる理由のひとつが、このきわめて実践的・理知的な仕事論だと思う。

今日のヒルティを読むと、さっそく試してみたくなる。
全文掲載したいところだけれど、訳者の著作権がまだ生きているので、NIKKOUなりの要約および解釈でご紹介したい。

トラブルがあったときの対処のしかた。

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像を造るな

4月8日『眠られぬ夜のために』

「『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。どんな形をも造ってはならない』(出エジプト記20章4節)。この言葉は地上における神の似姿である人間にもあてはまるのではなかろうか。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

本日のヒルティは、現代において作られる「あらゆる肖像、写真、自伝」などが、人の虚栄心から出ているということを指摘している。
また、わたしたちが聖書の重要な人物たちについてそうした「像」をもっていなくてよかった、というようなことを言っている。そうした「像」で、なにが分かるというのだ。彼らはそんな「像」が語るより、もっとずっと魅力的な人だったかもしれないじゃないか、と。

「偶像」をおがむな、というのはキリスト教の重要な考え方だけど、
よく誤解されて、クリスチャンはタリバンのバーミヤンの石仏破壊を支持するのか?といわれたりする。
でも、NIKKOUの理解では、「偶像」というのは、そういう目にみえる分かりやすいもんじゃないと思う。今日ヒルティが、まさにずばっと指摘しているように、「虚栄心」から出てきているものにだまされんなよ、一部しか示せていない「像」をまるまる信頼するなよって意味なんだと思うのだ。

今、ある教会の牧師が少女たちに暴行した、という事件がニュースになっている。
報道によると、その教会は、プロテスタント系カルト、だそうだ。
牧師を神格化し、信者たちには教会から離れることに罪悪感を植え付け、恐怖をあおり、依存させていた…という報道の真偽のほどは分からないけれど、教会に通う人間の一人として、わたしもこれを人事として目をそらしてはいけないんじゃないか、と思っている。

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April 08, 2005

追憶と思い出

4月7日『眠られぬ夜のために』
「死後にもその人柄の印象を長く残すような人は非常に少ない。たいていの人は、重要な地位にあった者でも、数年ならずして忘れられてしまう。最も長く心ののこるのは、その人の誠実の追憶であり、また女性の場合は、彼女の真にやさしい愛情の思い出である。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

岩波文庫の解説によると、ヒルティは奥さんのことを深く愛していたらしい。
今日のヒルティは、聖書の話はなしで、わずか3行だけ。
しかしこの中には、聡明で優しかった奥さんへの思い出がじんわりにじみ出ているようである。

死後残る「追憶」や「思い出」。
でも、これが、じつはけっこうクセモノなんだなあ…。

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April 06, 2005

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)

『眠られぬ夜のために』4月6日

「今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実なものを見分けるある種の本能である。」
(岩波文庫:草間・大和訳 以下同)

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)読了。
問題点を、順を追って解説してあり、論点がまとまっていて、とても読みやすかった。
「靖国問題」とひとことで言っても、かなり重層的になっているらしいし、
そのすべてについて、わたしにまとまった考えがあるわけではないので、
ここでは、いちクリスチャンとして、思うことを書いてみたい。

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April 04, 2005

「ありのまま認める」ってむずかしい

20050401_1930_000
4月1日の記事で、『不登校、選んだわけじゃないんだせ!』という本から
安易に「わかる、わかる」というな、「分からない」相手の存在を認めよ、ということを学んだ、と書いた。

あの言葉は本当に胸に突き刺さったので、
以来、とても注意しているのだけれど、
これが、かなり、難しい、ということが分かってきた。

「わかる、わかる」って言いたくなるんだよね。
だって、楽なんだもん。
自分の身近な例にひきつけたり、本で読んだなんかの例と引き比べて考えて、目の前の相手の話はすっかり無視して、勝手なストーリーの中に回収してしまう、という理解のしかたって。

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April 03, 2005

それを「おためごかし」という

20050402_1447_000

4月2日『眠られぬ夜のために』

「いつでもできるだけある種のうす暗がりに身をおき、美徳の仮面さえかぶろうとするのが、悪の政策である。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

わが蔵書は古本なのだけど、
前の持ち主も、この一文には共感したらしい。赤鉛筆で丸をつけている。
つまり、「悪の政策」は、
ヒルティの時代である19世紀末から「美徳の仮面をかぶろうとし」、
前の持ち主が読んだ70年代もそうで、そして、今もなのか。

じつは、NIKKOUここ10年ばかり、脳性まひの方の自立生活の介助をしている。
「施設ではなく、自分の家で」、「家族ではなく、自分の意思で」生活したいという障害者の人の生活の手伝いである。
月に一回だけの、有償ボランティアである。
大学一年生のときに始めて、ずるずると今に至ってしまった。
月に一回だけだけど、まあ、今の自分でできる範囲で、というのと、
今、ひとりでも抜けると、ほかの介助者の負担が増えたり、
だいたい、本人が介助なしの日を迎えてしまうかもしれないのは、非常に困る、というかなり切迫した理由で、
なんだかんだいって、続いてしまって、
今は、まあ、いないよりはまし、ぐらいの存在にはなっているかもしれない。

最近、私が通っているお家のある行政区が、公務員ヘルパーの派遣を打ち切る、と言い出した。
今の介助体制というのは、公務員ヘルパー・民間ヘルパーと私のような有償ボランティアでなりたっている。
でも、ただでさえ、人手不足なのに、どうするんだろう。
役所はなんて説明するつもりなのか。
「民間の介護福祉サービスの発展のため」とか言うのかな。

そもそも、2004年度に「措置制度」っていう障害者福祉制度が、「障害者の自立支援のため」という「美徳」をかぶって、「支援費制度」に移行したあたりから、おかしくなってきたらしい。
単純にいうと、
これまで「措置制度」というのは「障害者の生存権のために、補助金を出す」ということで、
現在の「支援費制度」というのは「障害者も『自己責任』で生きるべきだから、行政がきめた介護団体にだけお金を出すので、あとはなんとかやってね」ということらしい。
だから、私のような有償ボランティアには交通費とか食費も含めて、「介助費」は出ない。
障害者団体の人たちが、それは困る、と、かなり格闘して、結局ボランティアは「準・公務員ヘルパー」みたいなあつかいになって、「介助費」がでるようになったんだけど。
なんだか、お役所にはボランティアって、迷惑な存在みたい。

参考↓
【厚生労働省の説明】
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/syakai/sienhi/qa.html#1
【障害者側からの意見】
http://www.onfield.net/kato/1/01.html

公務員ヘルパーが打ち切られると、介助者が減ったり、介助費が出なくなったりして、
NIKKOUにとっても、かなり切実な問題なので、職場で反対の署名を集めてもらった。
同じ行政区に住む先輩に、「○○区ってな~んか、金の使い方が下手というか、けちだよねー、そんなに金がないのかね?」と言われた。

厚生労働省の説明では、
「障害者の自己決定が尊重されるとともに、利用者と施設・事業者が直接かつ対等の関係に立つことにより」って、すごい「美徳」みたいだけど、正直に言えばいいのに。
「お金がないんです」って。

ヒルティは最後に言う。
「なにかの哲学や倫理でキリスト教の代弁をさせようとするすべての試みがしょせん失敗だと分かったら、そののちにキリスト教はふたたび本当の覚醒に向かって進むことになるであろう。」

イエスの障害者にたいするスタンス、
生まれつき障害があるのは、
「本人がつみを犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネによる福音書9章3節)
とか、
パウロの、わたしたちひとりひとりを、大きな神様の体にたとえ、
「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
(新共同訳「コリント信徒への手紙一」 12章21節22節)
とかいう考え方が、本当に「覚醒」するまで、どれほどの「失敗」を重ねなきゃいけないんだろう。

神様、ちいさなちいさな私です、きっと、体にたとえると足の小指の爪くらいの存在でしょう。
でも、小指の爪くらいなりに、体の一部として働かせてください。
イエス様のお名前を通して祈ります、アーメン

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April 01, 2005

『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』

ひさしぶりに痛快な本に出会った。
『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵・常野雄次郎著 理論社YA新書)
不登校の当事者であった著者ふたりが、子供不在の不登校論に異議申し立てをする一冊である。

80年代の「不登校もひとつの生き方、選択である」という考え方に、不登校の子供も親も救われてきた。
「ほんとうにありがとう。」と、貴戸さんは言う。
そして―――

「よくも言ってくれたわね。」


ぎくっ、としないか。

そして、もう一人の著者、常野さんはいう。
「登校拒否」を認める論理には、ひとつの物語がある。
「かつて、不登校でした。でも、今は明るい社会人です。」
あるいは、「学校に行かなくても、明るくのびのびやっています、そういう道を選択したのです。」
だけど、

リアリティのないハッピーエンドはもうたくさんだ。

貴戸さんは、こういう。
学校に行きたくない、行けない。いやだ、本当につらい。
だけど。
家で孤独を抱えているのもつらかった。
行けない、でも、行きたい。
どこにも逃げ場がない。矛盾だらけ。
私は、そんな「生き方」を「選択」したのか?
自分でも分からない。
だから、
軽々しく、「わかる、わかる」「理解できるよ」といわないでほしい。
そして、上野千鶴子のことばを借りて、こういう。

「一番望ましいのはよく理解できないが理解できないものがそこにある、ということを認めること」

このメッセージに、私は肩をつかまれて、がくがく揺さぶられるような衝撃を受けた。
――相手を「理解」しなければならない、「わかる、わかる」とうなづいて、あいづちを打って…、
それが人とのベストのコミュニケーションなのだ、と思っていた。
でも、不可能なのである。
わからないのである。
なぜ、この人がそんなことを言うのか、なぜ、あの人はこんなことをするのか。
当然だ。私の得てきたほんのわずかな知識と経験で、なにが分かるというのだろう。
だから、結局「あの人もイロイロ大変だから、しかたないのよね、わかるわ」と、お茶をにごす。
ちっともわかっていないくせに。

「裁くな」いう聖書の思想は、ひょっとして、「理解しろ」ということではないのではないか、とふと思った。
あ、そういえば、イエスも言っていた。

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。」(マルコによる福音書14章6節)

食事の席に突然入ってきて、イエスの頭に高価な香油をそそいだ一人の女。
あっけにとられて見ていた周囲の人々はわれにかえって、口々に彼女を責めた。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。香油を売って、貧しい人に施したほうがいいのに。」
しかし、イエスは逆にその人々を一喝するのである。
「するままにさせておきなさい。」
イエスは「いやん、やめて~」と身をよじって逃げない。
「何があったのか?話してごらん」と肩に手をおくのではない。
「こんなことよりもっといいことがあるよ」と説教もしない。
堂々として、ただ、まるごと受け止める。
女になにがあったのか、なぜそんなことをしようと思い立ったのか、聖書にはなにも書かれていない。
ただ、イエスの、どっしりとした態度だけが、光っている。

ああ、こんなコミュニケーションのあり方があったんだなあ…、と思う。
私はともすると「頭でっかち」な解釈で、人を理解しようとする。
ニューヨークのハーレムで出会った黒人さんたちを「理解」するため、帰国後アメリカ史をひもとき、
いつまでも社会に出てこない友人を、精神科の本を読むことで「理解」しようとした。
でも、わかんないんだよ、ほんと。
だから、正直にいって、「理解しなくていい」って、言われると、ちょっとほっとしたりする。

ごめん、わからないや。
でも、あなたがそこにいることを、私は知っていて、いつも心にとどめている。
それで、いいかな。

貴戸さんは、最後に自分の妹にいう。
不登校の姉を持ち、学校でも家でもいたたまれない思いをしてきただろう、妹。
ごめんね。

わたしには、あんたの気持ちを書くことはできないから、いつかどこかで、何かのかたちで、あんたが自分のことを語るのを、待ってる。

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