« 追憶と思い出 | Main | いたずらに無益な心労にかまけない »

April 09, 2005

像を造るな

4月8日『眠られぬ夜のために』

「『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。どんな形をも造ってはならない』(出エジプト記20章4節)。この言葉は地上における神の似姿である人間にもあてはまるのではなかろうか。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

本日のヒルティは、現代において作られる「あらゆる肖像、写真、自伝」などが、人の虚栄心から出ているということを指摘している。
また、わたしたちが聖書の重要な人物たちについてそうした「像」をもっていなくてよかった、というようなことを言っている。そうした「像」で、なにが分かるというのだ。彼らはそんな「像」が語るより、もっとずっと魅力的な人だったかもしれないじゃないか、と。

「偶像」をおがむな、というのはキリスト教の重要な考え方だけど、
よく誤解されて、クリスチャンはタリバンのバーミヤンの石仏破壊を支持するのか?といわれたりする。
でも、NIKKOUの理解では、「偶像」というのは、そういう目にみえる分かりやすいもんじゃないと思う。今日ヒルティが、まさにずばっと指摘しているように、「虚栄心」から出てきているものにだまされんなよ、一部しか示せていない「像」をまるまる信頼するなよって意味なんだと思うのだ。

今、ある教会の牧師が少女たちに暴行した、という事件がニュースになっている。
報道によると、その教会は、プロテスタント系カルト、だそうだ。
牧師を神格化し、信者たちには教会から離れることに罪悪感を植え付け、恐怖をあおり、依存させていた…という報道の真偽のほどは分からないけれど、教会に通う人間の一人として、わたしもこれを人事として目をそらしてはいけないんじゃないか、と思っている。

わたしが毎週通っているのは、二十人足らずのちいさなちいさな教会で、
わたしはそのちいさなちいさな集まりのひとりひとりや、親子の牧師が、とても好きだし、信頼している。
だから、上記のニュースはとても辛い話だなあ、と思った。
だって、もし、その教会で牧師を信頼している人がいたら、裏切られてしまったわけでしょ。
わたしが、牧師から裏切られたら、本当にいやだもの。

だからこそ、そうやってだれかの信頼を裏切った人に憤りを感じる。
もちろん、女性として、傷つけられた女の子たちのことを思うと、ぐつぐつむかむかと煮えたぎる思いだ。
その牧師に、いかなる罰よりも、深い深い悔い改めが訪れることを祈る。
(悔いてもいない人が罰を与えられても何か割り切れない思いが残るものだ。かつて「死刑になりたくて」幼い子供たちを殺し、「希望通り」死刑になった男のことを思い出す。)

以下は、自分自身へのいましめとして思うのだけど、
牧師を偶像化したらいけない。
どんなに尊敬していても。
「尊敬すべき人」というレッテルを貼って、その人の人間性から目をそらしてしまうのは、確かに楽だと思う。でも、それは相手にとって、とても不誠実な態度なんじゃないかと思う。

牧師と話していて、わたしの考え方と微妙に食い違うことなど、よくある。当たり前だ。いつでもピッタシカンカンなんて気色悪い。わたしはわたしなりに、彼らは彼らなりに、読んできた本、出会ってきた人、目にし耳にしたことなどから培ってきた考え方がある。お互いに見えているところはすこしずつ違う。それらを、パズルのピースをあわせるようにつないでいったり、訂正しあったりして、神様の見ている世界の一部がすこし分かるんだ。だから、牧師とは、ともに神様の被造物同士として、互いに学びあう関係でいたい。

「虚栄心」にだまされるな、「像」でわかった気になるな、という今日のヒルティの忠告は、
こんな事件の後には、ぐっとこたえる。

|

« 追憶と思い出 | Main | いたずらに無益な心労にかまけない »

「2 眠られぬ夜のために」カテゴリの記事

Comments

むむ。ある程度、わかるような気がする。

でも、尊敬するってどういうことだと思う?

さらに、「尊敬すべき」という表現はあっていい? きみはたぶん尊敬は「べき(義務)」として在る心では無い、と言わんとしていることが、文脈から取れるけどさ。

おれにも尊敬する人って居るけど(居ると思うけど)でも本当の尊敬ってどういうことだろ? と考え出すと夜も眠れないよ。
(ああ、そういうときにこの本読むのか)

もう1つ言うなら、「信頼する」、この言葉は曖昧過ぎてあまり好きではないんだな。「信じる」「信仰する」ほど行き着いたような表現ではないし。この「信」がつく言葉からはただでは逃げまへんで。

あ、別にきみの文章にムカついてるわけじゃ全然無いよ、もちろんね。

Posted by: 今瞬 | April 15, 2005 at 11:00 PM

今瞬さま

いつもながら、とても本質的なコメント、感謝します。
ありがとう。

「本当の尊敬」ってなにか、と問われると、わたしもうーんと考え込むしかないなあ、と思う。
なので、それは宿題。


「信頼」については、すこし、言葉にできるかなあ、と思います。
うまくできるかな。がんばってみます。

まず、牧師との関係でいえば、
つまり、「牧師を信頼する」というのは、
この牧師は、「聖書について誠実に学ぶ姿勢をもっている人」という、わたしの期待を裏切らない
―ということを信じて、
彼とともに、聖書を学ぶということ。

もうひとつ例をあげてみると、
上司との関係で、
彼は「この企画については、『なにか粗相があった場合自分が責任をとる』という職務に対して、誠実である人」という、わたしの期待を裏切らない
―と信じて、
彼とともに、仕事をする、ということ。

どちらも、将来は未知なので、「信じる」というしかないんじゃないかな、と思う。
で、「頼る」というのは、「今、この人と一緒に同じ仕事とか勉強をする」というニュアンスかな、と。

どうして、そのように「信頼」できるかというと、
これまでの彼らの態度の積み重ねから、そう判断したから。

牧師とは、これまでも、なにかあったときや、聖書について分からなかったとき、一緒に考えたりディスカッションしたり祈ったりしてきた。たとえ、それが直接答えに繋がらなくても、少なくとも、誠実に、一緒に考えてくれた、という思いは残った。
上司は、もっと直接的で、わたしが著者を怒らせたときに、「予備の著者の用意はあるから、心配するな」と言いながら、一緒に著者のところに行って、頭を下げてくれた。そういう仕事ぶりが、この人と一緒に仕事をしていても、大丈夫だな、と思えた。

そういう「信頼」が裏切られるって、「これから先は、この人と一緒に、同じ仕事をしてゆけない」と思うことだと思う。
それって、人間関係にとって、すごく大きな傷だと思う。
会社の先輩でも、上司との信頼が断ち切られて、やめてしまった人がいるし、今回事件になった教会の女の子たちとその家族も、もうあの牧師と一緒に聖書の学びはできないだろうし。

逆に、自分も、人から信頼されている場面はあるだろうと思う。
それゆえ、自分が人を傷つけてしまう可能性は十分ある。
だから、まず、期待を裏切らないように。
そして、相手の「信頼」が過剰にならないように、なるべく、自分のできること、できないことをきちんと説明していくようにしようと思う。
もちろん、わたしが相手を過剰に「信頼」しすぎないように、相手の言葉にも耳を傾けるようにしたいと思う。

いずれにしても、「信頼」というのは、真面目に人とコミュニケーションしてゆく中で生まれる関係かな、と思います。
だから、あらかじめ、「信頼」という言葉を定義しちゃうのではなくて、関係が生まれてから、これを「信頼」っていうのかな、って考えてゆくほうが、わたしのものの考え方としては、しっくりくる。

「尊敬」についても、これからたくさんの人間関係を積み重ねてゆくうちに、分かってくると思う。
そうしたら、報告しますね。

まわりくどい言い方になってしまいましたが、いくらかでも、伝わりますように。

Posted by: nikkou | April 16, 2005 at 05:16 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/91294/3622300

Listed below are links to weblogs that reference 像を造るな:

« 追憶と思い出 | Main | いたずらに無益な心労にかまけない »