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May 27, 2005

神に誓う結婚式

5月26日『眠られぬ夜のために』

「人は原則として、助けることのできるお方に訴えねばならない。
人間に向かって訴えるべきではない。
人間はしばしば他人を助けることができないし、またそれを欲しないことが多い。
しかも、ほとんどつねに、人を助けることに多少とも恐れか、嫌悪を覚えるものである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

最近の結婚式で、「人前式」というのがはやっていて、友人の何人かはこの形で結婚式を挙げた。
家族や友人に、「一生支えあい、愛し合います」と誓う、という形式である。
神など信じてもいないのに教会や神社で式を挙げるのはいやだ、ということらしい。
なるほどなあ、それもひとつの誠実さだなあと思いつつ、でもいいのかなあ、とも思ったりしてる。
だって、人間の記憶って不安定だから、ふたりの誓いを一生覚えているわけじゃないし、
立会い人の全員が、ふたりのこれまでの道のりを導いてきたり、
今後のふたりを助けたり守ったりできるわけじゃあるまいに。
まあ、気持ちの問題なので、とやかく言うのは野暮なんだろうけどさ。

nikkouはクリスチャンなので、結婚式はキリスト教式ということになるんだろうけど、
神の前での決意表明というのは、もう、生半可なことじゃできないと思っている。
このひとと結婚することは本当に神の計画に沿うのか、
わたしの決意は一生神に覚えられるので、一生決意を翻さない自信はあるのか、
そもそも、ひとりでいるよりふたりでいるほうが、神の用をはたせるのか、
神に愛されたこの身を大切にすることになるのか、
熟考に熟考をかさねて、決断する、ということになる。
熟考の結果、やっぱり結婚にふみきれない、となっても不幸ではなく、
むしろ、みずからの「成長のため」というわけで、長い眼でみればよかったね、ということになるのだ。

先日友人の人前式でゴスペルを歌った。
このときも人前式の不安定さを居心地悪く見ていたのだけど、
最後にゴスペルを歌ったらすこしほっとした。

「あなたは愛されている、主の恵みで満ちています。あなたは主イエスの大切なひと」

友人は歌声に包まれながらぽろぽろ泣いて、nikkouもついもらい泣きをした。
そう、わたしたちの全員が今日の式を忘れるようなことがあっても、
あなたを大切に思う主イエスは、あなたを忘れない。
そう思って、友人のためにちょっと安心した。

かみさま、Fちゃんをあなたにお任せします。Fちゃんをどうぞよろしく。アーメン。

キリスト教式の結婚式は今までに、4組出席した。
うち3組がクリスチャンカップルで、1組だけクリスチャンじゃないカップルだった。
ノンクリスチャンの式で困ったのは、牧師の祈りに、参列者がだれも「アーメン」といわなかったことだ。
自分の「アーメン」という声が周囲に響いてちょっと恥ずかしかった。
でも、たしかに聞きなれない言葉だもんなあ。
「アーメン」とは「そうでありますように」という意味だ。

nikkouは、自分の結婚式には、牧師に祈ってもらうだけでなく、自分の言葉で、神様に感謝と決意の祈りをささげようと思っている。
これまで出席してきたクリスチャンカップルの結婚式でも、本人たちが祈るという式はなかったけど、nikkouは自分で祈りたいのだ。

そして、自分の式のときには、ノンクリスチャンの友人や親戚や家族に、「アーメン」の意味を教えて、
そうであってほしい、と心から思っていただけたら、「アーメン」といってください、と伝えたい。

「アーメン」という声がみんなから聞こえたら、それは「末永くお幸せに」という言葉よりもはるかに力強い祝福のことばになると思う。

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May 18, 2005

ただ一度呼びかけるだけ

5月17日『眠られぬ夜のために』

「ある人の魂を正しい道から背かせるにはひどく手数がかかるので、悪魔でさえ高尚な動機の助けをかりなければ、それをなしとげえないのに反して、
他方、悪魔のすべての仕業を水泡に帰せしめるには、ただ一度だけ神を仰ぎ見るか、呼びかけるかすれば十分である。」(岩波文庫:草間・大和訳)

nikkouは、クリスチャンになってまもなくのころ―いや、今でも、
「クリスチャンです」と名乗りをあげる人は無邪気に信頼してしまう。
だって、イエスに従う人だ。
  主に愛されていること、許されていることを自覚している人だ。
  隣人を愛し、敵を愛し、最も弱いものに仕えることを目指す人だ。
  人を裁かず、裁きは主にゆだねる人だ。
変な人であるはずがない。
…って、自分を振り返れば、そんなん無理だって分かるけどさ。
自分にはレッテルを貼って欲しくない、といいながら、自分は人に期待しているわけだ。勝手なもんです。

しかし、クリスチャンはこの日本におけるマイノリティであるだけ、出会ったときの喜びは大きい。
喜びが大きい分、失望すると、ショックはさらに大きい。
クリスチャン同士、互いに補いあって生きてゆくことは大事だ。
でも、結局は人間なので、ふつうの人間社会と同じようなもつれはある。
いや、相手への信頼が大きかった分、ずっとやっかいかもしれない。

nikkouは最近、ずーっと自分に言い聞かせている。
たちかえれ、たちかえれ。
主イエスに出会ったときの喜びと、主に従って生きる決意に。
クリスチャンに失望しても、神にだけは失望しまい。

nikkouがイエスに出会ったのは歌であった、ということの恵みは、当時予想もしなかったくらい大きい。
歌い慣れた1曲をそっと口ずさむだけで、「神を仰ぎ見」「呼びかける」ことが可能だからだ。
日曜の午後、ゴスペルのコンサートに行った。
「ジーザス、天からわたしたちを治めてください」
「わが助けはいずこより来るか。わが助けは天地をつくりたるわが神から来る」
今まで散々歌ってきた歌詞のひとつひとつに、強烈な感動を覚えた。

「それが福音なんじゃないの?」とわが友は言った。
友よ、アーメンだ。
なんどでも振り仰ぐことができる。
なんど聞いても胸をうつ。
だから福音、よろこびのおとずれなのだね。

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May 17, 2005

いつも、いつまでも、祈り続ける

5月16日『眠られぬ夜のために』

「人との交際において最も気持ちのよい、最も有効なものは、落ち着いた、いつも変わらぬ友愛である。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

今日のヒルティの格言で、いささか季節はずれだが、ディケンズの『クリスマスキャロル』を思い出した。
その中には、主人公である冷血な老人スクルージのために祈り続ける人びとが描かれていた。
小説そのものが今手元にないので、ちょっと心もとないのだが、
たしか、スクルージが愛した妹の息子や、雇い人の貧しい男、そしてその家族。
どうしてあんなやつのために祈るのだ!とののしる友人や家族をなだめて、祈り続ける人たち。

ヒルティ『眠られぬ夜のために』第二部の2月19日には、こんな記事もある。
「あなたはある人のため真剣に、くり返し祈ることもしないで、その人に絶望することがあってはならない。」
(草間・大和訳)

映画『クリスマスキャロル』を見たとき、ははあ、なるほど…と思った。
スクルージは、「忘れていた」んだ。
彼は、もともと冷酷な男ではなかった。ただ、あまりにも長い間、人から離れていたので、人の交わりの中にある喜びやあたたかさを忘れてしまっていただけなのだ。
幽霊につれられて、そうした祈り続ける人々を目にし、スクルージは人びとの中に戻ってゆく。
そして、人びとは、彼のことを喜びをもって迎える。
絶えず、変わらず、彼のことを祈り続けていたから、できたことだ。

ほんとに、人は死ぬまでなにがあるか分からない。
神は、それぞれの道のりに、いくつものチャンスを用意する方だ。
もしわたしが友に失望したら、それは、その友を変えようとしている神への挑戦であり冒涜だと思う。
だから、今、もし、だれかの言葉や行いに傷ついても、あきらめないで、神に期待して、変わらず祈り続けよう。
そう決意する。

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May 14, 2005

「騒音おばさん」を愛することはできるのか

5月13日『眠られぬ夜のために』

「キングスレーのたいへん美しい言葉に、『人の心を見て慈悲を持て。行いだけを見て責めるな』というのがある。これは神の教えにもひとしい、正しい人間知識をあらわす教えである。この言葉はどこの法廷にも掲げておくべきであろう。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

先日、奈良の「騒音おばさん」なる人が逮捕された。じゅうたんをばたばた叩きながら「ひっこし、ひっこし!」と叫ぶ、あの人である。先ほど、ぼんやり見ていたバラエティ番組では、彼女をパロディにして笑っていた。
彼女の行いはたしかにかなり奇矯だった。
もし自分の近所にああいう人がいたら、本当に怖いし、わたしだったらすぐに引っ越すだろうな、と思う。
迷惑というよりも、怖い。
「攻撃」という行動は、それが自分に向いていなくても、なにか吐き気を催すような恐怖を感じさせる。
だから、今日の番組のように、相手を見下した笑いで恐怖をやわらげるんだとおもう。

nikkouは比較的人間関係には恵まれてきたほうだけれども、それでもごくたまに、人間関係で食欲が失せるような思いをする。そんなとき、今日の番組じゃないけれど、「この人はおかしいんじゃないか」と軽蔑したり、「なにか心に深い闇があるんだろうか」とかんぐったりすると、鉛を飲んだような気分がすこし和らぐ。
それでいながら、心の隅で危険信号がぴこぴこ鳴る。
…こうして、相手との溝が深まっていくんだぞ。いつか、取り返しがつかなくなる。
とはいえ、怖い、という思いを処理しないままでいるのは、本当につらい。
どうしたらいいのだろう…。

ヒルティは弁護士だった。
晩年は裁判官もしていた。
人の責むべき行いを数多く見てきただろう。
だからこそなのか、心を見よ、行いを責めるな、というキングスレーの言葉を「正しい人間知識」と言う。
しかし、神ならぬ身に、人の心がどれほど分かるというのだ。
そう、人の心の本当のところは、神しか分からない。
だから、わたしには祈るしかすべがない。

主よ、あなたに見えている人の心の一端でも、わたしに見せてください。
いえ、せめて、隣人には「心」があるのだ、ということを忘れさせないでいてください。
そうすれば、幾分か、わたしの恐怖も和らぐように思うのです。

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May 11, 2005

出会いは神様の筋書き

5月11日『眠られぬ夜のために』

「神のそば近くあることは、それら(宗教的熱狂や興奮)とはまるで別なことで、むしろ全く独特な、静かで、平和に満ちた感情である。
しかもこの感情、すなわち神の近くにあるという喜びは、あらゆる人間的感情のうちでとりわけ強烈なものである。
つまりこの感情は、それが人の心を完全に満足せしめるばかりでなく、またあらゆる制限から精神を解放し昂揚する効果の点で、友情や恋愛やその他の感情とは、とうてい比べものにならないほど強いのである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

2年くらい前、ふと、「わたし、ひとりで生きてゆけるかも!?」と思った。
今の仕事で十分食べていけるし、仕事も、その後もゴスペルやら買い物やらで充実しているし。
恋愛に関しては、ほとんどオリンピック状態(4年に一回。だからもー、国際的なすさまじいイベントのノリとなる)。

30前のそういう娘に恐れをなした母が、佐野洋子著「100万回生きたねこ」という絵本を押し付けてきた。
有名な絵本なので知っている人も多いと思うけれど、
まあ、ある猫がですね、豪勢な暮らしやら、権力的な地位やら、なにやかにやと、この世の富と誉れを思うままにしながら、何度も生き返ってしまって、なかなか死ねないわけです。
しかし、あるとき、メスの白猫と出会い、彼女を深く愛し、白猫が老衰で亡くなったとき、彼は激しく泣き、そしてそのまま死んで、ようやく、生き返らなかった…というお話。

…あてつけがましい母である。

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May 07, 2005

信仰が守られますように

5月7日『眠られぬ夜のために』

「…宗教的傾向の仲間(サークル)のなかでは、まだエゴイズムに深くひたっている人が『至高者のしもべ』などと見なされる例が、しかもしばしば見受けられる。これに反して、一般世間の人たちがこんなにせ者にだまされたという実例を、私はただ一つも知らない。」(岩波文庫版:草間・大和訳)

今日のヒルティはちょっと辛らつ。
京都の牧師による少女への暴行事件を思い出す。
「その『仲間』の中にいなかったら『だまされ』なかったのにね」という意味に読める。
つらいな。

nikkouは、ゴスペルのスタジオでイエスに出会ったのだけど、そのスタジオは教会主催ではなかった。
だから、そのスタジオでイエスに出会い、感動したり、もっと知りたい!いや、もうイエス様と共に歩みたい!と思った人は、自分で教会を探す事になった。
nikkouはイエスに出会った後に、
「ゴスペルに理解があって、聖書については理知的な読み方をしている教会に行きたい」と祈った。
そして、神様はちゃんとそういう教会に導いてくれた。

逆に、「毎回の礼拝がまるでお祭りみたいな教会がいい!と祈ったら聖霊派というところだった」という人もいたし、
「キリスト教についてなんにもしらないから、平日に概論みたいなことをセミナーをしてくれるところを探したら、カトリックだった。」という人もいたし、
「とにかく近所がいい」と近所の日本基督教団の教会に迷いつつ悩みつつ通っているうちに、教会の人ひとりひとりと深く結びつくようになって、そのまま今もそこに通う人もいる。
家族に反対されたり、結局コレ!という教会がなくて、ゴスペルだけが礼拝だという人もいる。
nikkouは、それらすべて、ひとりひとりの個性を知り尽くしている神様が導いてくれたものだと信じている。

そんな、さまざまな状況にいるクリスチャンたちが、一緒に神様を賛美する歌を歌って、一緒に祈る。
そういうところで、わたしはイエスを信じた。

わたしたちは時々、互いの教会を行き来する。
礼拝のスタイルがちょっとずつ違っていて、まるで子供の頃ともだちの家庭に遊びにいったような感じだな、と思う。当たり前に思っていたことが、それぞれの考え方によって違っていることに、驚いたり感心したりする。

だけど、どの教会に行っても、切に祈る。
神様。わたしの大事な友達の信仰を、どうか守って。
それぞれの信仰―イエス様が大好き、神様に繋がっていたい、という思いが、けっして傷つけられることがありませんように。
この場所が、彼や彼女の信仰を支えることがあっても、踏みにじるようなことはけっしてありませんように。

と同時に、自分についても祈る。
神様、なにがあっても、どこにいても、あなただけは信じていられるよう、わたしの心にしっかり、信仰を植えつけてください。

アーメン。

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「より良く」なるんか、わたしは

5月6日『眠られぬ夜のために』

「われわれはかなり長い間、自分が内的にいっこうに進歩しないように思われることがしばしばある。
ところが、そういう場合に、いつの間にか自分が全く別人になっているのに気づく日が突然やってくるものだ。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

わたしが初めて教わったゴスペルは、「make me better」(より良くしてください)という曲だった。
その後も、「わたしを変えてください」とか、「イエス様みたいになりたい」とかいう歌詞には多く出くわす。
クリスチャンは、とにかく、「別人」になることを強く望む人々である。
それだけ、今の自分の醜さ(「罪深さ」とも言う)にうんざりしている、というか、こりごりしている、というか、そういう感じ。
しかも、みんな「変わる」じゃなくって、「変えられる」なんて言い方をする。
受身なのね。
たぶん、自分の努力でなんとかしたい、というよりは、
自分の力ではどうにもならないような(=神様が与えてくれる)いろいろな目に出くわしているうちに学んだり知ったりして、人として成熟できるといいな、というニュアンスな気がする。

わたしも、イエスに出会ったときには、
「うおーイエス様ってすげー、
わたしってば、今までなんで彼を無視しつづけて生きてきたんだろう!
これからは、イエス様に倣って、いろんなことにきちんと向き合って生きて行こう!」
とわたしなりに悔い改めて、ちょっぴり生まれ変わったような気がしたものだ。

ところが、ある日、神様から「おまえなんかまだまだ醜い!」と叩きつけられた。

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May 01, 2005

神性を心に抱く生活

4月30日『眠られぬ夜のために』(岩波文庫:草間・大和訳)

ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの言葉から
「たえず何かしら人の役に立つ者になれ。
そしてこのような不断の鷹揚さをおまえの唯一の楽しみとせよ。
しかも、時おり神性への一瞥をささげる義務があることを忘れるな。」


たぶん、ヒルティが重点をおいているのは、最後の一行だと思う。
つけたして、こう言っているから。

「けれども、このような『神性』を心に抱く生活、もしかしたら全く神性などとかかわりない生活は、なんと貧しいものであろう。」

しかし、「神性」とはなんだ。
神の性(さが)?
人智を超えた何者かからは、どのように見えるかちらっとでも考えよ、ということか。

ヒルティの生きた国とその時代とは違い、
今のこの日本では、「『神性』を心に抱く生活」を送るなんて、とっても珍しい。
ヒルティから見たら、「貧しい」生活ばかりなのかしら。

そういえば、一年ほどまえ、わたしがゴスペルを歌っていると知った会社の同僚と交わした会話がちょっと面白かった。

同僚「最近、うちのかみさんもゴスペルを始めたんだよ」
わたし「おぉっ、いいじゃないですか~、どこでですか」
同僚「地元の教会」
わたし「本格的でいいですねえ」
同僚「いや、連中は布教活動であれやってるんでしょ。歌うのはいいけど、ひっかかるなよ、って言ってるんだ」
わたし「…(^^;」

こうゆう場合、「ひっかかって」クリスチャンやってるわたくしとしては、なんと申すべきなんでしょうか(笑)。
同僚に悪意はないんだが、でも、こうゆうキリスト教への潜在的な嫌悪感って、新米クリスチャンには正直しんどい。
わたし自身は、クリスチャンになる前から、キリスト教を信じている人に対して、特に警戒心はなかったので、こういう発想はよく分からない。
もし、この同僚の奥さんが、本当にクリスチャンになりたい、って思ったとき、
同僚からこういうふうに言われ続けていたら、ちょっとやりづらいだろうな、って思う。

キリスト教は自分には関係ない、って思うのは勝手だけれど、
必要だと感じている人が身内にいる場合、手を伸ばしにく~い雰囲気を作るのはやめてほしいと思う。
『日本人はなぜ無宗教か』(ちくま新書・阿満利麿)などで、日本人には「宗教はあぶない、うかつに主張するとお上ににらまれる」という記憶が歴史的にすりこまれているのだ、ということが書いてあったけど、
もう、いい加減、そういうのから自由にならないものなんだろうか、この国は。

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