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May 07, 2005

「より良く」なるんか、わたしは

5月6日『眠られぬ夜のために』

「われわれはかなり長い間、自分が内的にいっこうに進歩しないように思われることがしばしばある。
ところが、そういう場合に、いつの間にか自分が全く別人になっているのに気づく日が突然やってくるものだ。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

わたしが初めて教わったゴスペルは、「make me better」(より良くしてください)という曲だった。
その後も、「わたしを変えてください」とか、「イエス様みたいになりたい」とかいう歌詞には多く出くわす。
クリスチャンは、とにかく、「別人」になることを強く望む人々である。
それだけ、今の自分の醜さ(「罪深さ」とも言う)にうんざりしている、というか、こりごりしている、というか、そういう感じ。
しかも、みんな「変わる」じゃなくって、「変えられる」なんて言い方をする。
受身なのね。
たぶん、自分の努力でなんとかしたい、というよりは、
自分の力ではどうにもならないような(=神様が与えてくれる)いろいろな目に出くわしているうちに学んだり知ったりして、人として成熟できるといいな、というニュアンスな気がする。

わたしも、イエスに出会ったときには、
「うおーイエス様ってすげー、
わたしってば、今までなんで彼を無視しつづけて生きてきたんだろう!
これからは、イエス様に倣って、いろんなことにきちんと向き合って生きて行こう!」
とわたしなりに悔い改めて、ちょっぴり生まれ変わったような気がしたものだ。

ところが、ある日、神様から「おまえなんかまだまだ醜い!」と叩きつけられた。

それはクリスチャンになって丸一年後、長年親しくしてきた友人と、すんごくいや~な感じの喧嘩をする、という形で現れた。
原因は、とてもくだらないことだった。
それが、売り言葉に買い言葉みたいな、もう、ほんっと、幼稚極まりない展開になった。
世の中には、実りある議論とか、新たな人間関係のステップになる言い合いとかもあるけど、
このときの喧嘩は、本当に不毛な、本当にしょーもないののしりあいにすぎなくて、
あいつめは自分のホームページにわたしのことを悪意に満ちた筆致で書き付ける、という挙に出たりもして、
わたしは悔しくって泣いて仕事にならなかったりして、
…あぁ、もう、今振り返っても疲れる。

疲弊しながら、
「わたしはイエスに従って、忍耐強く、人を愛していこう、と決意したのに、なんだ、このざまは」と思った。
その後、あらためて電話をしてきたその友人に
「わたしはクリスチャンになって一年も経つのに、まったく進歩がなくって、情けない」ということを言ったら、
「クリスチャンになったら、人はそんなに偉くなるんか」と言い返された。
いやあ、偉くなんてなりませんよ。
ただ、ちょっと期待したんすよ、あたしゃ。
聖書を学んだら、わたしももちっと精神的に成熟できるんじゃないかって。

長く信仰生活を続けてきたヒルティ爺さんも、やっぱり、「進歩」には長い時間がかかるよ、ということを知っていたんだな、と思う。
で、エゼキエル書という旧約聖書の中の一節を引いてくれている。

「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書11章19節:新共同訳『聖書』)

「石の心」ではなく「肉の心」ってちょっといい表現。
ぬくぬくしてる。
じたばたしなさんな、旧約のむかしっから、神様は私たちの心を変えられてきたじゃないの、と指摘してくれる。
爺さん、ありがと。
以前にくらべたら、わたしもすこしはましになったかなあ、と思う日が来る事を信じて、今日も聖書を学ぼうと思う。

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