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August 30, 2005

フジ子・ヘミングの信仰

8月27日『眠られぬ夜のために』第一部

「神とその支配とはゆるぎない事実であり、
また自分の内的生活におけるあらゆる真の進歩も同様に一つの出来事であって、
獲得された知識や、まして単なる観念では決してないということが、
自分の経験によって分かったときに初めて、人は本当の信仰に到達するのである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

hujiko
イングリッド・フジ子・ヘミングの「天使への扉」(光文社 知恵の森文庫)を読んだ。
正直、暇つぶしの気持ちで手に取った一冊であったのだが、
読み始めて、おもわず、うめいた。なんとまあ。
これほどにも篤い、
・・・いや、熱い熱い、信仰告白の書であったとは。

フジ子・ヘミングは、いわずと知れた、波乱の人生を乗り越えてきた名ピアニストである。
その半生はNHKの特番から始まって菅野美穂主演でドラマ化もされた。

戦時中に、建築家でスウェーデン人の父と、ピアニストで日本人の母との間に生まれるが、
手続きの不備でスウェーデン国籍を喪失、無国籍となる。
母親との確執、ハーフゆえのいじめ、音楽の世界でのねたみ争い、そしてついに難民ビザで留学したドイツで聴力を失い、帰国もできず砂糖水で飢えをしのぐほどの極貧…と、次々に試練を受ける半生なのである。なるほど「ドラマ」である、見所満載である。
50代で帰国後、聴力が40%回復した右耳で、友人の求めに応じて聖路加病院でのチャリティコンサートなど続けていたところ、ふと、NHKに取り上げられて、アルバム「奇跡のカンパネラ」がベストセラーとなり、今に至る。

nikkouはさほどクラシックにくわしいほうではないが、それでも、
ある日CDショップで頭上のスピーカーからすごい面白いカンパネラが聴こえてくるので驚いて、
カウンターで確認したらフジ子だった、ということがあるので、
素人にもわかる、豊かな表現力のある人なのだと思う。

彼女は言う
「…途中、何度も思いました。
なんで神様は私をこんな目に遭わせて平気でいるのだろう、と。
だけど、そうではなかった。
まるで、私の人生は神様にプログラミングされていたかのように感じます。」
(「天使への扉」)

有名になったからではない、自分の音楽をだれかが聴いて喜んでくれるから、うれしい。
お金は、寄付をしてしまう、自分は古着を着ていればいい、天国に貯金したほうがいい。
コンサートでは、「イエス様、イエス様」と心で祈りながら弾く、
耳が遠いから「牧師」の声が聞こえない、だから教会に行かず、家で聖書を何度も何度も読む…。
別の本によると、彼女が受洗したのはカトリックだというが、本人は「神父」だろうが「牧師」だろうが、頓着しない。
教派も神学もない。
ただ、心に、聖書が生きている。
試練をくぐりぬけた人の持つ、主に命を捧げる覚悟だけが、どっしりと据わっている。

ああ、そうでありたい、とnikkouは切に願う。

クリスチャンになる前は、「教派の争い」は外国のお話だったし、
とりとめもない議論のことを、洒落て「神学論争」と呼んだものだけれど、
主を信じる人の群れに身を投じれば、それが外国のことでも、シャレでもなんでもない人があることに愕然とする。
そんな中で、フジ子の信仰に、はっと目を見張るおもいだ。

nikkouも、今はただ、イエスに従い、神の国へ帰ってゆくことだけを目指したいと切に思う。
普段の生活のなかで、淡々と、されど熱く、み言葉を実践していきたいだけ。

(注)「フジ子・ヘミングウェイ」で検索してこられる方が多いのですが、正しくは「フジ子・ヘミング」ですよ。

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August 26, 2005

「畏れ」ということ

8月24日『眠られぬ夜のために』第一部

「悪が全力をつくしても徒労に終わるような人間を見出すのは、神の勝利であり、
神にこのような喜びをささげるのは、人間の最高の任務である。
しかし、みずから好んでこの任務を求める者、
あるいは、この任務につかせられた時その遂行にあたり自分の力がどんなにわずかしかないかをたえず自覚していない者は、
はなはだ不遜な人である。
さもなければ、
あまりにも悪の力を知らない人である。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

ヒルティは、上記の文章の前にヨブ記を引いて、時々、神は人間に「悪」と立ち向かわせることがある、ということを言う。
その時は、神とともに、勇敢に立ち向かおう。
しかし、「やぶへび」って言うんですかね、わざわざ、「悪」につっこんでいくことはないよ、というのがヒルティ翁の忠告であります。
大人であります。

先日の「奈美(ちひろ)」さんに関する記事を、「奈美(ちひろ)」さんのブログにトラックバックしたい、と周囲の友人たちに話したら、全員に止められた。
「トラックバックを伝って、どんな人がブログを訪れるか、分からないから、危険だ」と。

はっきりいって、いまさらなのですが、
この「どんな人か分からない」というのが、ネットの世界のクセモノなのですね。

そう、そういえば
今から3年ほど前のことになるが、
友人が、あるゴスペル関係者の掲示板でひどいう中傷をうけた。
ひとつの掲示板を閉鎖しても、検索やリンクを伝ってくるのか、別のゴスペル関係の掲示板に現れ、執拗に書き込みをする。
犯人はだれか、分からない。
物陰から石を投げられているようなものである。
友人は、それからしばらくして、心労のため半年近く入院してしまった。
医師の診断でも、その件が影響している、とのことだった。

もし、その診断書があって、
もし、そのときの書き込みがデータとして残っていたら、
犯人を突き止めて訴訟を起こしてもいいくらいだ、とniikkouは思っている。
民事で慰謝料を請求するか、刑事告発して、傷害罪を問うか。
まあ、被害を受けた当人は蒸し返すのも嫌なようだし、
訴訟にどれほどの効果があるか分からないのだけど。
でも、本当に訴訟になったら、犯人は驚くだろうな。

この掲示板での事件のとき、nikkouは、「Amazing Grace」の2番の歌詞を思い出した。

T'was Grace that taught my heart to fear
And grace my fears relieved
「大いなる恵みが、わたしの心に畏れることを教え、
そして、その恵みは、わたしの恐れを取り去ってくれた」

掲示板にひどい書き込みをしたその人は、
この世に「畏れる」べき存在がある、ということを知らないのだろう。
だれにも知られなければ、
人を傷つけることなど、なんでもないのか。

そう、そして、「奈美(ちひろ)」さんと、彼女を取り巻く人々も。
ポルノはお金になるだろう、「奈美(ちひろ)」さんは納得した上での出演だろう、だから、ポルノに出演して、詐欺まがいの営業をしても、かまわない、と思っているのかもしれない。

今のnikkouは、彼らを説得する言葉を持たない。
それは、nikkouの力を超えている。
ただ、主を畏れる気持ちだけは、幸いにして、主から教えられてきた。
だから、祈ろう。

主よ、
あの、掲示板の書き込みをした人に、
そして、「奈美(ちひろ)」さんと、その周囲の人びとに、
あなたへの「畏れ」を伝えてください。
そして、また、彼らの心から、「恐れ」を取り除いてください。
あなたがわたしにそうしてくださったように。
イエス・キリストの御名を通して
アーメン

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August 21, 2005

「奈美」さんは、大丈夫なんだろうか

8月18日『眠られぬ夜のために』

「もしも一人でも善に心をよせている者が地獄に入ってきたとしたら、
そして地獄のやからがその人を誘惑する望みがないとすれば、
悪人どもは彼と共にいるよりは、むしろ地獄をあけわたして立ち去るであろう。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

ちょっとデリケートな話。

数ヶ月前の話である。
ブログの人気ランキングというホームページがあって、
その「恋愛」というジャンルで常に上位に入っているブログがあった。
18歳の女子高校生だという「奈美」ちゃんという女の子のブログである。

nikkouはこのランキングからこのブログにいきあたり、
それ以来、ちょくちょく見に行っていた。

彼女は、一時不登校になったそうであるが、
兄から親身に介抱され、
精神的な傷は癒された、というようなことを書いていた。
そんな兄が結婚してしまうのがつらい、とか、
幼馴染とのデートであるとか、
そういったことをつらつらと書いていた。
また、毎回、彼女は、自分の顔が写った写真を掲載していた。

nikkouは、まあ、そういうこともあるのかなあ、と思いつつ、
やはり写真の掲載はよくないだろう、その点、あんまり聡明な子ではないなあ、
一度メールして、
「顔写真を載せるのはやめなさいよ、世の中には、悪い人もいるからね」
ということを忠告しよう、とまで思っていた。

ところが、である。
ある日、「兄から恋愛感情を告白された」という意味の記事があり、
「え? そんなバカな。こりゃ、フィクションのブログだったかな」と思った翌日には、
「アダルトビデオに出ました、見てください」という記事になった。

つまり、このブログはすべて、
アダルトビデオの宣伝につなげるためのフィクションだったわけである。

このことを周囲の友人たちに話すと、たいがい
nikkouが世間知らずなのだ、と笑われるのであるが、
本気でショックでしたね。
一週間くらい、胸が痛かったですよ。

ショックからすこし立ち直った後、いろんなブログを検索した結果、彼女は実は「ちひろ」という芸名のポルノ女優であることが分かった。
また、この「奈美」というブログの結末にショックを受けた人も、少なからずいたことも分かった。

で、nikkouも物好きなことに、「ちひろ」の名前で検索してみたところ、
ぎょっ!とするようなタイトルとパッケージ写真のポルノビデオがわんさか出てきたのである。

カマトトぶるのではなくて、正直、nikkouは、ポルノのパッケージなどをまじまじと見たことなど一度もありません。
まあ、出張先のビジネスホテルで、アダルトチャンネルの番組表を見て、
荒唐無稽なタイトルに「へぇ~」と感心することがある程度であります。
ゆえに、nikkouの感想のほうが、世間一般からすると荒唐無稽なのかもしれませんが、
一言でいうなら、
「これは、性的虐待、というか、性暴力ではないか!」
ということにつきます。

「ちひろ」や「奈美」と名づけられた彼女は、大丈夫なのか。
本当に、このようなことが行われていたら、まず間違いなくなんらかの感染症になるだろう。
いや、ならなくたって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になるだろう。
深い、精神的な傷を負うだろう。病を患うだろう。
なぜ、こんなにひどく体と心を痛めつけるようなことを、彼女はしているのだろう。

nikkouも大学時代に習った、
「神殿娼婦」から始まって吉原や島原の遊郭だの赤線だの、といった売春の歴史やら、
明治以降、「苦界」から女性を救い出そうとするキリスト教徒の風紀運動から始まって
フェミニズム論者による、性産業の女性たちのための組合結成だの、人権擁護運動だの、
とった話は、
知識としては、うっすら知っている。
だから、ポルノ規制だのなんだのという話になると、ちょっとめんどくさいなあ、とも思っている。

でも、でも。
そういうんじゃなくって。
なんていうんですかね。
ごくシンプルに、
ありゃ、ひどいですよ。
人は、あんな目にあっちゃいけません。
あんまりにも痛ましいです。

世の中で何兆円といわれるポルノビデオ産業の中の、
たった一人の女の子がかわいそうだ、という
nikkouのつぶやきなど、何の力もないんですが、やっぱり、
どうにかならないものなのか。
「奈美」でもなく「ちひろ」でもない、あの女の子を、どうにかして助けられないものか。

私の主、イエスは、性風俗産業の女性をも助けられると信じている。
むしろ、彼は積極的に、彼女たちの元に行った。

「私はあなたたちに言う。徴税人と売春婦たちの方が、あなたたちより先に神の王国に入る。
なぜならば、ヨハネは義の道を示しながらあなたたちのところに来たが、
あなたたちは彼を信じようという気にならなかった。
しかし徴税人と売春婦たちは彼を信じた。」(マタイ福音書21章31節~32節)

主よ、本当に、彼女をなんとかして、助けてください。
っていうか、nikkouのほうが、まだ、ちと、ショックから立ち直れないんですけど。

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August 19, 2005

バナナ君、また会う日まで

「彼自身(イエス・キリスト)、苦難を受けたときに試みにあったので、
試みられている人びとを援けることができるのである。」
(新約聖書「ヘブル人への手紙」2章18節 小林稔訳)

昨晩、バナナ君の「お別れ会」に行って来た。
「お葬式」ではなく、「お別れ会」である。
バナナ君の思い出の写真がスライドで映され
バナナ君のお友達がお別れの言葉を述べ、
バナナ君の好きだった歌をみんなで歌った。
お父様がご挨拶に立たれて、
ゴスペルを歌っていたバナナ君にお経は似合わない、と思って、こういう会にした、ということをお話なさった。

彼は、お父さんお母さんとお兄さんにとても愛されていたんだな、と思う。
何度も自分たちの場合と引き比べてしまうけれど、
仏式のお葬式は、疲れと悲しみでぼんやりしている遺族にとってはとてもらくちんだ。
葬儀屋さんが全部やってくれるし、
意味のわからないお経やお焼香の儀式も、
「とりあえず、なにかはやった」というけじめになるし。
そうじゃなくって、きちんと彼の生涯に向き合うときを設けたご家族の強さと賢明さを思う。

2003年のクリスマスコンサートで、彼が、
体調もしんどいだろうに、2時間舞台にたって、みんなと歌いきった姿を見たとき、
お父様は、彼の上に、
苦しみの中、十字架を背負って歩んだ、というイエス・キリストの姿が重なった、ともおっしゃった。

そうか、とnikkouは、ぐっとした。
イエス様は、
バナナ君と、ともに、歩んでおられたのだ。

ゴスペルを歌っていると、時々、とても純粋で素朴な「思い」に出会う。
既成の「宗教」や理屈ではない、純粋で素朴な「畏怖」の念というか、なにか、そういうもの。

霊前での「Oh Happy Day」、すごくよかった。
いつもは大はしゃぎで歌う歌だけれど、
この日は、とても優しくあたたかく聞こえた。
なによりも、nikkouが、ほっとする想いにつつまれた。

ああ、そういえば、黒人霊歌の多くは、天国に向かうブラザー・シスターたちを見送る歌だ。
天国へ凱旋してゆく友にむけて、ゴスペルはなんとふさわしいことか。

いつか、nikkouが、主のもとに帰る日がきたら、
もうしばし地上に残る友たちよ、
どうか、元気にゴスペルで見送ってほしい。
そうね、やっぱりJesus is the answerかな。
Oh Happy Dayもいいな。
歌声に乗せて、主が、地上に残る愛する人びとを慰めてくださいますように。


「神は人の目から流れる涙を一滴残らず拭い去ってくださる。
もはや死はなく、
もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
古い秩序の事柄は消え去ったからである。」
(新約聖書「ヨハネの黙示録」21章4節)

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August 17, 2005

いつか、旅立つ日が来たら

8月17日『眠られぬ夜のために』

「『ヘブル人への手紙』4の9について
実際、今日のような騒がしい、全般的に落ち着きのない時代においても、
そのような人びと(神の民)には、
つねに、安息がある。

(中略)

人の一生は、その大部分をまったくむだに過ごすには、あまりにも短い。
良い目的も意味もない楽しみ、そればかりか、悪い結果をさえともなうような楽しみは、
楽しみとはいえない。」


昨日、愛する友人のひとりが、神のもとに旅立った。
バナナが好きなので、バナナ君と呼ばれていた。
nikkouより、二つか三つ若い男の子である。

長く闘病生活をしていたから、こういう日が来る事は覚悟していたし、
実際、知らせがきたときは、
「ああ、ついに」と、心のどこかで思っていた。
でも、やっぱり、胸が痛い。
先週の金曜、顔を見に行ったばかりだったから、まだ信じられないでいる。
本当なのかな。
バナナ君は、本当に、もう、この地上にいないのかな。

バナナ君に出会ったのは、2年ほど前だろうか。
当時通っていたゴスペルクワイアーの一員だった。
背が高くて、おっとりしていて、
でも、歌うときは、朗々と歌った。
料理学校に通っていて、調理師になりたい、と言っていた。

その年の冬、入院したのだけれど、
春には退院して、元気に歌いに出てきた。
でも、握力が落ちてしまって、包丁が握れなくなった、と言っていた。
どんな感じ?と握手を求めたら、
ものすごく大きな手だった。

あとで知ったことだけれど、
バナナ君がゴスペルを歌いに来たのは、
もう、病を患っていて、趣味のテニスができなくなったからで、
かわりに楽しめるものを、ということで、お友達に誘われたのがきっかけだったらしい。

「包丁が握れなくなったときが、一番つらかったね」
…と、これはあとで、バナナ君のお母さんから聞いた。
「でも、調理師がだめなら、栄養士になろう、とすぐに切り替えて、勉強を始めたんだよね」
…と、お兄さんにも聞いた。

バナナ君って、そういう奴だったんだね。
テニスがだめなら、ゴスペル。
調理師がだめなら、栄養士。
そうやって、与えられた環境と時間と、そして命を大切に使う人だったんだ。

バナナ君が、再度入院したとき、nikkouは、言い方はわるいけれど、タカをくくっていた。
若い男の子だ。
また元気になって、出てくるだろう、って。
だから、先月「意識不明になった」と聞いたときは、自分のうかつさに、悔しくて悔しくて、じだんだを踏んだ。

それから一ヶ月、ゴスペル仲間たちや、時々ひとりで、病室に足を運んで、
歌ったり祈ったりした。
いつも、こんこんと眠るバナナ君の傍らには、
綺麗なお母さんとおばさんと、元気な従妹さんがいて、笑顔で迎えてくれた。

7年前、nikkouの妹も、バナナ君のような状態で、ベットの中で一週間眠り続け、
静かに心臓を止めた。
その一週間は、家族みんな感覚が麻痺したみたいになっていて、
ふとだれかが泣き出したり、急にどうでもいい話をしてげらげら笑ったり、
すっかり壊れていたことを思い出す。

だから、バナナ君の家族が静かで、強かったことが、
本当のことをいうと、nikkouは、とてもうらやましかった。
バナナ君がきちんと生きてきたのは、
この家族の一員だったから、なのかもしれない、と思った。

一時は、本当に危篤状態だったのだけれど、
病院の方が言うには、「奇跡的」に呼吸が戻った。
そっと、自分の肺で息をして眠りながら、
バナナ君は、nikkouに、いろんなことを教えてくれた。

明日、バナナ君のお別れ会に、ゴスペル仲間たちが歌いに行く。
「Oh Happy Day」を歌おう、と連絡がきた。
「喜ばしき日。イエス様が僕を清めてくれたその日」という歌。
結婚式や洗礼式で歌われる歌だけれど、
そうか、天国に旅立つ日も、
喜ばしき日なのか。

でも、どんな顔で歌っていいのか、わからない。
神様。
本当に、今日は、喜ばしき日、なのでしょうか。
頭では、分かるのだけれど、
心が、痛いのは、どうしようもないのですけれど。

ああ、でも神様。
もし、わたしが天国に旅立つ日が来たなら
そう、もしそれが今夜であっても、
きっと「喜ばしい」とは思うのです。
主よ、あなたには、いつだって、会いたいと思う。
けれども、この地上にまだ生きねばならぬ家族や友人たちを思うと、
やはり、胸が痛い。

主よ。
だから、この地上にいるひとりひとりは、どうか、あなたが慰めてください。
バナナ君の家族を、お守りください。

もし、nikkouが旅立つ日が来たなら、
どうぞ、nikkouの家族を、愛する人らを、あなたがお守りください。
アーメン

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August 15, 2005

人は人を変えられない

8月5日『眠られぬ夜のために』

「ペシミストたちを言葉で転向させようとして、むだな骨を折らないようがよい。

(中略)

彼らから離れることのできない義務があるならば、辛抱づよく彼らをがまんしなさい。
彼らの考えを変えうるのは神だけであって、われわれにできることではない。」

人を変えることができるのは神だけだ。
人は他人を変えることができない。
…という、多くのクリスチャンの先輩たちの忠告を、nikkouはなかなか受け入れられない。

以前、ある友人から、
「nikkouはだめ男を更正させて、その中に自分の影響力を見ようとしているんじゃないの?
一種の自己顕示欲だよね」
と言われた。

うわー、サイテーじゃん。
それって、まるで「だめんず・うぉ~か~」みたい。
「だめんず・うぉ~か~」というのは、倉田真由美という漫画家の、
だめ男ばかり渡り歩く女性に取材した作品だ。
アルコール依存症とか、D.V男とか、うそつきとか、浮気男とかばっかり、付き合ってしまう、という女性たち。
漫画はコミカルに描かれているけれど、結構イタイ。

恋愛相談の類は、
「結婚したら、この人も変わるかもしれない、子どもができたらこの人も変わるかもしれない」なんて、期待するな、ということをくり返し言う。

今日のヒルティも、半分はおんなじ。
人は変わらない。
ただし
「神だけは変えることができる。」
そう、イエスに出会って180度人生が変わったパウロのように。
この一点が信仰の世界なわけで。
nikkouには、その点の認識がまだ、甘いわけで。

ミッション・バラバというキリスト教の伝道集団がある。
元ヤクザの男たちだ。
今、彼らの妻について取材した「バラバの妻として」(NHK出版・坂口かおり著)を読んでいる。

ミッション・バラバの彼らが主イエスに出会う前というのは、まさに「だめんず」の極みである。
その中のひとり、鈴木まり子さんは
ヤクザの組を追われて失踪した夫のため、
毎日、近所から苦情が出るほど泣き叫びながら、
「夫を返してください」と祈ったという。
しかし、夫が失踪先で逃げ込んだ教会で、主イエスに出会い、劇的な変化を遂げて帰ってきたのち、
さらに神学生となって、大工の仕事のかたわら、学校に夜毎、通いはじめたら
今度は、
「神様、なんでこんなに変わったんですか、かわいそうですよ。」
と祈ったという。

いいなあ。
神様とこんなに密接な人。
自分ではなく、神様が彼に臨んでいるんだ、と心から分かっている人。

nikkouはなんでこんなにおせっかいなんだろう。
神様にゆだねず、自分の力で、力ずくで、相手にせまってしまう。
失敗してから気づいても、もう遅いのに。

主よ。わたしが、あなたにすべてをゆだねることができますよう、わたしの信仰を強めてください。
心を尽くして、主の御名にあって、アーメン

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