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September 29, 2005

いよいよドイツへ

9月30日『眠られぬ夜のために』第一部

「大きな仕事の重荷をかかえた週日のあとで迎える日曜日がことのほか楽しいように、
苦難のあとの幸福は最もさわやかで、危険も一番すくない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

本日、午後、ドイツに旅立ちます。
胸には木製の十字架のペンダント、ポーチには聖書、
むかうはドラキュラ退治、…ではなく、
グーテンベルク博物館であります。

一般の人びとの手にも福音がゆきわたるように、とルターが翻訳した聖書を、
活版印刷の発明によってひろめたグーテンベルク。
彼は聖書のみならず、カソリックの免罪符まで、バコスカ刷って大もうけしたらしいので、
よく分からない人でもある(笑)。
彼の功績によって、nikkouも怠け怠けでありながら、聖書をよみ、
ヒルティと、みことばを共有しあい、
さらには、出版社の社員までやっている。
まさに、霊と肉の糧を、えているわけてあります。

グーテンベルク博物館には、
かの平澤弥一郎氏が、無教会の小冊子を発行する際に使った活字の字母も展示されているとのこと。
これもまた楽しみのひとつ。

それから、もうひとつ。
本屋に立ち寄って、ヒルティの原書を買い求めてきたい。

これまで、このブログは、草間、大和両氏の翻訳にお世話になってきたのであるが、
両氏の誠実な仕事ぶりに敬意を表しつつ、
いつか新たに、初々しいドイツ文学者の翻訳でも読みたい、と
nikkouはもくろんでいたりもするのであります。
そんなたくらみにむけて、まずは原書を手に入れねば。

「大きな仕事の重荷」もなにもないぐうたら社員ぶりを発揮して、
のうのうと遅めの夏休みをとるnikkouを快く送り出してくれた同僚上司諸氏、感謝感謝。
nikkouは今、「ことのほか楽しい」思いであります。

愛する兄弟姉妹のみなさまには、
旅中、nikkouが主が示してくださるしるしに、ぼーっと気づかないことのないように、
また旅中の主の守りを、お祈りいただけると幸いです。

ではでは、行ってまいります。

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September 19, 2005

暗黒のキリスト教史

9月16日『眠られぬ夜のために』第一部

「最も確実な、つねに目の前に生きている信仰は、
歴史にもとづく信仰である。
(中略)
キリストについても、われわれは歴史によってのみ、
本当にかたい信仰を抱くことができる。
ロゴス理念による形而上学的思想内容などは、
あらかじめ信じていない人たちに対してはほとんど説得力をもたない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ドイツ旅行にむけて「物語ドイツ史」(中公新書・阿部謹也)を読んだ。
ドイツとは、ヨーロッパのキリスト教の歴史のメインストリートですな。
カノッサの屈辱あり、十字軍あり、魔女狩りあり、ルターの宗教改革あり、バッハの宗教音楽あり…
歴史の中心にキリスト教あり、である。

学生時代、nikkouはよく、「歴史上のキリスト教会は、科学を批判し、人を弾圧してきたではないか…!」
なんて、
クリスチャンの友人たちに食って掛かったけ。
ちなみに、わたしに食ってかかられた友人の答えは、
「歴史を見るとつまづくよ」でありました。
…オイオイ、なんの返答にもなってねーや(笑)。

しかし今の自分は、当時と歴史の見方が変わっている、ということを、
最近、はた、と気づきました。
ひとことでいうなら、
「歴史はひとごとじゃない。」

ノン・クリスチャンのときは、キリスト教の血なまぐさい歴史、いや、旧約新約を通じて描かれる、愚かでみっともない群集や登場人物は、すべて、「ひとごと」でありました。
わたしは、おだやかで平和な仏教と八百万の神々の国のひと。
こーゆーヒドイ人たちとは無関係だわ、あーよかった、って。
おそらく、そう感じている人は多いだろう。
以前、イラク戦争についても、そのことを書いた。
http://nikkou.cocolog-nifty.com/nemurarenuyorunotameni/2005/03/post_15.html#comments

聖書の中で、罪なく描かれているのはイエスだけである。
それ以外の人びとは、どんな大物であっても、なにかしら欠点があり、罪を犯す。
ましてや、群集たるや、まさに衆愚である。
それらを正直に語り伝えてきたユダヤ民族たちの精神力はなかなかのものである。
では、キリスト教が広まったのち、人間はみな、清くなったか。
否、2000年来、累々と罪に罪を重ねている。
nikkouはクリスチャンになったとたん、清い人となったか。
否、あいかわらず、やな女であります。

「敵のために祈れ」
「7を70倍した回数、相手をゆるせ」
と口をすっぱくして言い続けたイエスを、
けっ、しゃらくせーと十字架にぶちつけた、…のは、「わたし」?とはたと思い当たったとき、
わたしのクリスチャンライフはスタートした。

自らの罪に気づかない、人をゆるせない、待てない、愛せない…という
何千年の人類の歴史の末端に、
21世紀の自分がいる。

キリスト教の歴史は、聖書時代ならずとも、
そう、現在であっても、
罪と、神への立ち返り、しかしまた罪、そして立ち返り、…の延々たるくり返しである。
戦乱に疲弊した中で、
「彼らはそのつるぎを打ちかえて、鋤とし、
その槍を打ちかえて、鎌とし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ書2章4節)
といい、
しいたげられている民族の中から、
「あなたたちの敵を愛せ」(マタイ福音書5章44節)と言い放ってきた人々の歴史である。

たとえ、人びとが罪を悔いても、
それを実体験としない新しい世代が次々と生まれ、罪を犯し続ける。

だから、私たちクリスチャンは歴史を、自分の罪として、学ばなければならない。
マザーテレサやシュバイツアーやキング牧師のような、
賢明で善良な人々ばかりではなく、
隣人を愛せず、赦せなかった人々からも。
せめて、すこしだけでも、「門口に待ち伏せている罪を治める」(創世記4章7節)ために。

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待つ、という賭け

9月13日『眠られぬ夜のために』第一部

「多くの人たち…は
自分が体験するすべてのことについて、即座に判断をくださなければならぬと思っている。

たとえば、初めて会ったすべての人について
また2,3ページめくっただけのすべての書物についても。

それだから、しばしば判断を誤って、あとになって訂正をせざるをえなくなる。

あるいは誤りとわかっても自分の考えを固執して、
その結果、自分の品性をそこない、
さらによくないことに、他人をしばしば傷つけたりする。

もしあなたがたがこのような習慣をもっているなら、
しかも新聞通信員を職業としているのでなければ、
そのようなくせをすててしまいなさい。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

「新聞通信員」というのは、今で言うマスコミのことだろう。
今も100年前も、マスコミとはまこと、因果な商売である。

さて、nikkouの好きな聖書のことばに、
つぎのようなものがある。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。
だれでも、聞くのに早く、
話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。」

(ヤコブの手紙一章19節)

まあ、待ちなよ、
まずよく人の話を聞こうや、それから自己主張したり怒ったりしようや、というわけである。
nikkouはけっこうトロいほうなので、聖書に言われるまでもなく、大概すぐには言い返せなかったりする。
しかし、確かにたいてい、3つムカついたことがあったら、
そのうち1つは忘れてしまい、1つは「早まらなくてよかった」というようなことである。
あと1つについては、熟考して、言い返すタイミングと言葉遣いを考えて…といいたいところだが、
ふとしたきっかけでどっかーんと爆発してしまうので、
たいがい先方は驚く。
なんだなんだ、そんなことを、いつまでも根に持っていたわけー?みたいな。
…もうしばし、修養が必要であります。

「待て」というのは、nikkouの信仰そのものにとっても、かなり重要なキーワードである。
「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイ福音書7章7節)のイエスの約束を信じて、
nikkouは、それまで思考停止にしたり、分かったふりをしたり、あきらめたりしていた問題について、
きちんと向き合うことにした。
そうして、クリスチャンをまるまる3年やってきたわけですが、
さあ、答えは得られたのか。

胸を張って答えます。

NO!

わかりません。
わかりゃーしないよ。
人生は奥深い。
バナナ君は27歳で死んじゃうし、
奈美ちゃんは、あたらしいAVに出演するらしいし、
nikkouはあいかわらず、恵まれているし、
主は、それぞれの人の道行きと、この世全体を、一体全体どのように捉えて、どうなさりたいのか。

では、これからの生涯のどこかで分かるのか、
…わかる、かもしれない。
結局よくわからない、かもしれない。
nikkou個人に限って言えば、確信はできません。
(世の中には、見事悟りを開くかたもおられるでしょうが)。

だから、即断して絶望せずに、待ち望む、
「そうすれば、与えられます」というイエスの言葉に期待をかける、ということは、
一種の賭けであるな、と思う今日この頃である。

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September 11, 2005

だれも飢えることのないように福音の種まきをしないか

9月11日『眠られぬ夜のために』

「いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ、
単なる幻想であり、自己欺瞞にすぎない。

(中略)

このような人間愛では、一方に年々数百万の人たちが
精神的あるいは肉体的に餓死することも起こりうるし、
しかも、
人はそれをひどく悲しむこともなく、また自分はほんの僅かな不自由をも忍ぼうとしないのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳*太字は原文では傍点)

「奈美(ちひろ)」さんのブログにショックを受け、数日間、ウンウンうなされた結果、
AV女優に関する本を読んでみることにした。

namaenonai

『名前のない女たち~企画AV女優20人の人生』(中村淳彦・宝島社)
AV女優へのインタビュー集である。
AVの宣伝に流されない秀逸なインタビュー集であった。

読んでいる間、ずーーーーっと、nikkouの眉毛は八の字になっていたと思う。

彼女らの告白をひとことでまとめると「絶望」である。
「お金がほしい」という言葉の裏には、人間への底なしの不信がある。
「セックスが楽しい」という言葉は、「それ以外はなにも楽しくない」という告白と抱き合わせである。
いくつかの暗い要素の組み合わせと重複のせいで、心にふっと入り込んでくる絶望感。
nikkouがAV女優にならなかったのは、たまたま運がよかったからではないか、と思うほど、
女性たちを襲う暗闇は唐突で理不尽である。
行間から立ち上る飢えと渇きは、あまりに痛々しく、哀しい。

ホワイトバンドプロジェクトが対象としている「飢えと渇き」は、お金によって、ある程度は解決できるかもしれない。
しかし、彼女たちの「飢えと渇き」はお金じゃ救えない。
お金はもうすでに、手にしているのだから。

hukuinn
『名前のない女たち』の中に、一人、クリスチャンのAV女優が出てくる。
8人兄弟と母親の9人家族で、父親が残した借金とりから逃れて各地の教会を転々とし、
「百万人の福音」で記事にされたために献金が集まって、家が借りられた、という生い立ちを持つ。(写真は今月号で、彼女の家族が掲載された号ではない。)
長じてから、ひとり借金の返済を決意、AVと風俗で荒稼ぎをするのである。

このインタビューでは、彼女の信仰について、突っ込んだ質問はなされていない。
だから、本当のところは分からないし、
クリスチャンへの身びいきなのかもしれないけれど、
nikkouには、彼女が唯一、「希望」を語っていたように感じた。
ほかの女優と違って、彼女だけがみずから精神科と産婦人科を受診、入院している。
「将来の夢は?」と聞かれて、多くの女優は
「夢などない」
「結婚して、ダンナに養ってもらう」と答えるのに、
彼女だけが「孤児を養子にもらって育てる」と答える。
AVの撮影で子宮外妊娠してしまい、子どもを産めない体になってしまった、ということさえ、
「孤児を助けるためには、むしろよかった」とも言う。
でも、子宮外でなければ、絶対産んだ、といいながら。

確かに、彼女の性生活には無茶なところがある。
「姦淫するなというママが信仰しているキリスト教の教えはどこへ行ってしまったのか、
彼女はクリスチャンだが、聖書のストイックな教えはまったく届いていないようである。」
とインタビュアーがちゃちゃをいれたくなるのも分かる。

しかし、nikkouには、彼女にはなにか、教条主義的なキリスト教でははかれない、神の影響力が及んでいるような気がしてならない。
ここに、nikkouは、か細いか細い希望の光をみる。

ひとつの価値観としてでもいい、
彼女たちに福音を知ってもらえないか。
たとえば、ゴスペルを、彼女たちの前で歌うとか。

もちろん、困難は予想がつく。
どうやって彼女たちに接触するのか。
たとえ出会えても、企業の飲み会で歌うよりもはるかに不毛な働きに感じるやもしれぬ。
いまだ、長い説教と文語の賛美歌を歌い、教養と品位の高い空気をただよわせている多くのキリスト教会のどこが、彼女たちを受け入れるだろう。
わたしたちの想像もつかない社会の暗黒部分に触れることもあるだろう。
多くの備えが必要だ。

しかし、主はわたしたちの必要を満たし、
あらゆる人を赦し、愛するのではなかったか、
そう、歌ってきたではないか。

愛するゴスペルの兄弟姉妹たち、
AV女優たちに福音の種まきをしないか。

nikkouは今、そのために祈る。
もし賛同するのなら、ぜひともに祈ってほしい。

主よ、哀しみの中にいる女性たちに、あなたの声を届けてほしい。
そのための必要を整えてください。

そして。

「奈美(ちひろ)」さん、わたしがあなたを知ったのは、主の計画であったか。
nikkouは、いつか必ずあなたに会って、あなたの手をとって祈りたいよ。
主よ、どうか「奈美(ちひろ)」さんの心と体の傷を癒し、
これから、新しい道のりを歩み行けるよう、祝福してください。
イエス様の名にあって
アーメン

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September 10, 2005

選挙前に

3月17日『眠られぬ夜のために』第一部

「自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、
世の中はかぎりなく良くなるであろう。

たとえこのような人が反対者となっても、
彼らの意見の誤りを納得させることができるので、
その考えを改めさせられもする。

ただひとのまねをしているだけの者は、てんで自分でものを考えようとしないから、
説き伏せることもできない。

このことを少しちがった言葉でロックは次のように言っている、

『世の中に間違った考えというものは、一般に考えられているほど多くはない。
というのは、
たいていの人は意見などまったく持たないで、
他人の意見か、ただ噂や世評などの受け売りで満足しているからだ。』

あなたはそんな仲間に加わってはならない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

友人のひとりが、
クリスチャンになって、はじめて投票にいくようになった、と言った。
「その前は、ロックやってたからさあ、
ほら、ロッカーが投票って、かっこわるいじゃない?
でも、よくわからなくって…、
クリスチャンならここに投票しましょう、みたいな目印があればいいのに」
(もちろんジョークです。)

また、ある友人(ノン・クリ)は、
「キリスト教徒も創価学会みたいに、一致団結して政治に打って出るくらいじゃないと、
その発言は美辞麗句にすぎなくなっちゃうんじゃないの?」
と言った。

でも、nikkouは思う。
クリスチャンは、盲目的に、集団にしたがっちゃだめだ。
自分の立場で、働けるだけ働き、考えるだけ考えるべきだ。
主は、ひとりひとりユニークに作ったのだから。
まるで、ひとつの体のいろんな器官のように。
そして、その個性で、互いに関わりあいになることを求めておられるのだから。

郵政民営化法案に賛成のクリスチャンは、その立場で、
反対のクリスチャンはその立場で、
神様に従う働きをすればいい。
すべての政党にクリスチャンがいて、
すべての立場で、発言し、行動し、考え、とことん議論し、たがいに刺激しあって、
前に進んでいけばいい。

クリスチャンの先輩、ヒルティの言うとおりだ。
自分の意見さえあれば、話し合いを持つ事ができる。
自分の心を尽くして、投票しよう。
愛するクリスチャンの兄弟姉妹たち。
言うまでもないことだけれど、
「うちの牧師が何々党に投票するから、わたしも」なんてしないようにしようよ。

あした、nikkouは、早起きして、朝一に投票にいこうと思う。

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September 09, 2005

9月10日はホワイトバンドデー

9月9日『眠られぬ夜のために』

「…あわれみの心はいわば第六感のようなもので、
根本的にはただ厳しい苦難を通じてより善い人びとの心に生じる感情であって
――みずから犠牲を払わず、他人の助けにもならない弱弱しい同情などとは違うのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ホワイトバンドプロジェクトなるものがある。
http://www.hottokenai.jp/home.html

あまたある「世界の貧困を救おう」という働きのひとつである。

nikkouも、ひとつ買った。
300円で世界の貧困に役立てるならお安い御用である。
そう、遠くの隣人を助けるのは、実はたやすい。

poriannna
『少女パレアナ』という小説がある。
明るい孤児の成長物語、まあ、『赤毛のアン』の一類型といおうか。

この中に、きわめて痛快なシーンが描かれている。

ふとしたきっかけで、ホームレスの少年と親しくなったパレアナは、
「あなたを引き取って、めんどうをみてくれる親切なおばさまたちがいる!」と思いつく。
そのおばさまたちは、遠い国の貧しい子供たちのために、衣類やお金を贈っているのである。
遠い国の子供たちでさえ、援けずにはいられない人たちだ、
目の前のあなたを助けないわけがないじゃない!
・・・このおばさまたち、というのは、――教会の婦人会の方々なのである。
むろん、婦人会にはていよく追い払われてしまうのであるが、
nikkouは、どちらかというと、この婦人会の側の人間だろう。
自分と関わり合いにならない限りの援助なのである。

ホワイトバンドをつけるとき、胸に浮かぶのは、パレアナの痛烈な批判、そして、
「みずから犠牲を払」って、世界の貧困に立ち向かっていった人々である。
インドにマザーテレサがゆき、
アフリカにシュバイツアーは行った。
ネパールには岩村昇医師が診療所を開き、
アフガニスタンでは中村哲医師が井戸を掘っている。
そして、その無名の多くのスタッフたち。
white_band
ホワイトバンドを腕につけつつ、nikkouの心は、いささかの含羞を覚える。
ホワイトバンドに参加しています、と胸をはってはいけない。
ホワイトバンド、しか、参加できません、といわねばならない。

この心を主はすべて見ている。
いつか、nikkouの含羞を取り除くべく、招命なさるかもしれない。
そうなったら、もう、
「満天の星空の下、岩陰で用を足すほうがはずかしいよっ!」ってのが本音であっても、
ゆかざるを得ないでしょうか。

なんともひねくれもののホワイトバンドデーなのであります。

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September 07, 2005

一生、「求める」という希望

9月7日『眠られぬ夜のために』第一部

「本当の内的進歩が行われる仕方には、つねに三つの段階がある。

第一の段階は感激であり、さながら枯れ柴をもやすように、勢いよくパチパチと音をたてて高く燃え上がる火焔である。

第二の段階は、この炎々たる火がいくらか消え衰える状態であって、つい先ほどまで火焔そのものであった人と同じ人間とはどうしても信じられないことが多い。

第三の段階は、いつまでも燃え続ける石炭の火の、たえまなく暖かさをあたりにひろげる、静かな、変わりない焔に似ている。そこにはもはやすこしの動揺も変化もなく、その有益なはたらきはだれにもはっきり分かる。

人間の精神がなにか大事な問題で、この最後の段階にまで達したならば、
それは、内へむかっては平和、外へむかってはと呼びうるような、
あの活動的な平和を得ることになる。」
(岩波文庫・草間・大和訳*太字部分、原文では傍点)

いいですね~。
もう、何も書き足したくない気分。
はやく第三の段階にたどりつきたいと思うnikkouであります。
たぶんnikkouはまだ第一の段階。ブログで熱く神の愛を語るなんて、うひょ~若~い(笑)。

さて、これは「第三の段階」と思える人を紹介したい。
無教会のクリスチャンで平澤弥一郎さんという。
hirasawa

彼の著書、『75歳 ドイツで聖書を学ぶ』を読んだのは、わたしがイエスに出会う2年ほど前のことだ。
そのころノン・クリスチャンだった私にも、彼の心にふつふつとたぎる神への愛は響いた。
そして、そのユーモアに笑い、人生の積み重ねがつかんだ愛に泣いた。

タイトルにあるとおり、仕事からリタイアしても、人生はリタイアせず、
75歳、胸にペースメーカを埋め込んで、ドイツの神学校に留学、主を求め続けた。

そう、「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイによる福音書7章7節)の言葉は、
一生涯、尽きる事のない希望の宣言である、ということを、
身をもって示したのである。

彼はドイツ留学中に、ヒルティの墓参もしている。
彼の師、塚本虎二は終戦後まもなく、
「戦争に負けた日本の青年たちには、今こそ聖書とヒルティのものを読む絶好のチャンスだ」と言ったという。
また著者は、心配性の自分が、ドイツ留学を思い立つことができたのも、
ヒルティの
「とにかく思い立ったらすぐやり始めよ」という言葉に励まされてのこと、と言う。

この本が発刊されて数年後、nikkouも、クリスチャンとなった。
そして、驚く事に、この本を手がけた編集者と知己を得た。
「平澤さんに会いたい」と初対面の挨拶もそこそこに、そう告げたnikkouに、
「こんなに若い子が、あの本を」と、うれしかった、とその編集者は今でも言う。

平澤さんが、日本に帰ってきたら、
体調がよくなったら…、とタイミングをはかっているうちに、
平澤さんは天国へと帰ってゆかれた。
2002年、5月ごろだったか。79歳であった。

編集者とふたり、小さな飲み屋で、あの本について語り合った。
あの本が、nikkouに教えてくれた事を、彼に話した。
彼はうっすらと目に涙を浮かべていた。

この秋、平澤さんの跡を訪ねて、ドイツのマインツに旅する。
一週間にも満たない、ささやかなツアーであるが、
求め続ける世界の広さを、胸に刻んできたい。

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September 05, 2005

「積み木くずし 真相」

9月6日『眠られぬ夜のために』第一部

「謙遜は、人間の心の中のあらゆる性質のなかで、
おそらく一番生得の性質から遠いものであろう。
人間は生来つねに、あまりに高慢であるか、あまりに臆病で小心であるかである。
本物の謙遜は、
自分のものではない力が与えられているという不思議な気持ちである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

tsumiki
先週末、ドラマ「積み木くずし真相~あの家族、その後の悲劇」がやっていた。
2夜連続、一生懸命見ちゃった。
安達祐美、名優ですね~

23年前に「積み木くずし」がベストセラーになったころ、nikkouは小学生だったので、
それがどれほどの影響があったものか、知らない。
しかし、300万部は尋常でない。
出版社ならビルが建ちますよ。

大金の印税や講演の依頼で有頂天になった両親が、ふたたび娘を顧みなくなるところから、
「その後の悲劇」が始まる。

ドラマの仕立てとして、視聴者には、
「娘がかわいそうじゃんかよぉ、あんたたちがしょーもないんじゃんかよぉ」と
涙を流しつつ両親をとがめる視点が与えられる。
文学理論ではこれを、
「三人称・全知視点」っていうんでしたっけ。
読者には初めからすべてが明かされているが、
当事者である登場人物には、限られた視点しか与えられない、という描き方である。

娘の死後、残された手記をもとに、父親を難詰する編集者の男が登場する。
学校でのイジメ、レイプ、親の不在、病の進行…
これらを、彼女は何一つ、両親に訴えることができなかった。
「娘がグレたから『積み木』が崩れたのではない、
あなたの家庭という『積み木』は、彼女が暴れだす前から、すでにがたがただったのだ!」
父親は泣き崩れつつ、亡き娘に赦しを請うところで、物語は終わる。

「唯一神」であるキリスト教の神の視点とは、すなわち、この
「三人称・全知視点」なんだろうな、と思う。
「あ゙~、そうじゃないって! おまえ、ぜんっぜん分かってない!」とドラマにやきもきするような思いで、
すべてを見通す主は、
わたしたちのもつれてゆく人間関係をみているのだろうか。

「積み木くずし」に描かれた両親のように、
物事の根っこに気づかない限り、くり返し、哀しみの芽は萌えいで、蔓は伸びゆき、痛みは絶たれない。
「ああ、これが根っこであったのか!」と気づくことが、
イエスが言う「罪への悔い改め」なのだろう。

そういう意味で、昨日書いたクリスチャンの友人の言う、
「救われると、自分の罪がよく見えるようになって、あまり罪を犯さなくなる」
という言葉は正しい。

しかし、nikkouは思う。
「罪」の正体を、本当に悟るのは、とてもとても難しい。
わたしたち人間は「全知」じゃない。
だから、クリスチャンであっても、人は一生、罪を犯し続ける。

けれど、
「全知なる主よ、
わたしの『真相』を、わたしの『罪』を教えてください」
…と祈ることができるのは、
「わたしの罪のために、主イエスは十字架に架かった」と知っている者への恵みであると思う。


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September 04, 2005

Calling My Name

9月1日「眠られぬ夜のために」第一部

「神はどんな後悔でも聞きいれてくださる。
ずっと後になってからでも、
また何度も悪へ逆戻りしてからでも、
赦してくださる。
われわれの主は、助力と平和を求めてくるどんな人間をも、突き放しはされない。
もう一度はっきり言うが、
どんな人間をも、
例外なくどんな人間をも。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

ヒルティ、めずらしく、激しい口調である。
ここには引かないけれど、聖書の参考箇所も、今日は旧約から新約にわたって幅広く、複数個所にわたる。
さすが、裁判官であり弁護士であった人である。
こんなふうに、被告を諭したこともあったのだろうか。

Nikkouは、学生時代、このことが、どーしても分からなくって、クリスチャンの友人を見つけては執拗にたずねた。

「ねねね、キリスト教の神様ってさ、どんな罪も赦すんでしょ。
じゃあさ、クリスチャンになったら、窃盗でも殺人でも売買春でも強姦でも、なんでもやりほうだい、ってことなの?」

クリスチャンの友人たちのうち、
二人は「救われると、自分の罪がよく見えるようになって、あまり罪を犯さなくなる」と答えた。
一人が「そうそう、オレもノン・クリのとき、そう思ってた!」と、妙に喜んでいた。けど、彼自身から答えは得られなかった。
一人は「あなたは、『罪』というものが分かっていない!」と机を叩いて怒った。
一人は絶句した。
…ごめんよ、みんな。へんなこと聞いて。

gelmanium
当時、花村萬月の「ゲルマニウムの夜」が芥川賞を受賞した。
カトリックの修道院で孤児として育った主人公が、告解のあとに修道女を犯す、という物語だ。
罪を犯す前に告解しておいた、というわけ。
Nikkouは、そんな小説の前に、うーむと頭を抱えていたのである。
クリスチャンになったら罪を犯すな、というなら分かる。
しかし、際限なく赦してしまう神など、信じていいものか。
理不尽ではないか、不条理ではないか、そんなの、世界が規律を失う。

199910
そういえば、ヤクザに伝道しているアーサー・ホーランド牧師も、
どえりゃ~悪いことをあれこれやってきた男たちが
「オレの罪は赦された~」とか言って喜んでいるのをみると、
ちょっと複雑な気持ちになる、という意味のことを書いていた。正直な人である。

最近練習しているゴスペルソングに、「Calling my name」という曲がある。
ヘゼカイア・ウォーカー率いるザ・ラブ・フェローシップ・クルセード・クワイアーの名曲である。
“救われたったら救われた、神様ってばすばらしい!”という賛美に満ちたゴスペルソングの多いなかで、
この曲はちょっと異質で、
「わたしは、クリスチャンなのに、神様に恵みを受けているはずなのに、ああ、それなのにそれなのに、どうしてこんなに罪ばっかり犯しちゃうんでしょう」と泣きが入るのである。
Nikkouはとくに、「Knowing this」(わかっちゃいるんだけど)っていう歌詞が大好きで、ここにくると、思いっきり力がはいる。
「にも関わらず、主よ、あなたはわたしの名を呼ぶのか。わたしなど、あなたの子にふさわしくない、ひどい人間なのに。」
と歌は続く。

10年前のnikkouの問いに対する答えのヒントがここにある気がする。

神はどんな罪でも、赦すのか。
そうだ。どんな罪でも赦される。
君の罪深い心が、窃盗やら、殺人やら、売春やら、強姦(は、いくらなんぼでもないか)なんぞを引き起こしたとしても、きっと神は赦すだろう。
歴代のクリスチャンたちや、聖書の登場人物は、みんなそうやって赦されてきたことを証言している。

ただし、だ。
『ああ、わたしの罪は赦されているのだ』と気づいたときの痛みたるや、
きっと、『もう、こんなわたし赦さないでほっといてくれたほうがましだ、罰っしてくれたほうが楽だ』といいたいくらいの苦しみにちがいないよ。
…この歌は、そういって泣いているよって。

クリスチャンになって3年目のnikkouであるが、正直に告白して、この3年間にもうすでに何度か罪の味をなめております。
幸いにして(?)、「赦さないでください!」というほどの激しい悔恨はまだ与えられていないものの
さすがに泣いちゃうくらいの自己嫌悪には浸かるし、
そこから踏み出すには、必死に赦しを乞うこともあったりはする。
これ以上の罪との対面は、願わくは避けたいものである。

ただし、わが身を振り返って思うのだが、
人はクリスチャンになろうがなるまいが、死ぬまで罪を犯し続けるだろうと思う。
でも「これは、『罪』だ」と気づくのと気づかないとの差は大きいんじゃないかと思う。
その話は、また後日。

最後に、ヒルティはもうひとこと。

「このような経験をしたことのある人たちが、後になるとかえって、最も信頼できるひとになることがよくある。
というのは、彼らは一方で享楽生活のみじめさを、
他方で平和の幸福を、身をもって深く学び知り、
そのどちらがまさるかを悟っているからである。」

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