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October 29, 2005

Lord I Thank you for the morning

『眠られぬ夜のために』第一部

「朝、目がさめてすぐ、今日もまた自分が負わねばならぬ十字架のことを思うと、それが自分にはあまりにも重いように思われることがしばしばあろう。
また、その日に、さらに将来に、どんなことが一体起こるかを想像すると、すべての感情のうちで最も不愉快な恐怖感に容易におそわれることがあろう。

しかし、今日もわれわれを目覚めさせてくださった神の恩寵を思い、
また神の国のために果たすべき奉仕について考えるならば、
活動的な人間は、そのために自分がなすことができ
かつ許されている事柄を心に描いて、
喜びの感情がわき起こり、
それが一日中持続することであろう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

「REJOYS」なんて、できない!
という朝がある。

だから、ヒルティのように、「いやなことがあっても、とりあえず、目覚めた事に、そして、今日一日、神様の国のためにがんばれることを、喜ぼうじゃないか」というメッセージはもっともだけれど、nikkouは、まだ、それを説得力のある言葉で語れない。

ただ、「この朝をありがとう(Lord I Thank you for the morning)」という歌を知っている。
初めて聞いたのは、アメリカのオークランド、ラブ・センター・チャーチにて。
その朝の話を書きたい。
一緒にオークランドに行ったみんなには、ネタの使いまわしでごめんよ。

2003年。nikkouが、クリスチャンになって、一年にも満たないころ。
ゴスペルのワークショップのため、ゴスペル仲間と、アメリカのオークランドに渡った。
ワークショップが行われたのは、「OH Happy day」で有名な、ホーキンズファミリーのいるラブ・センター・チャーチである。日夜、感動的な出会いや、すばらしい音楽に、新鮮な思いをしていたけれど、
それにも増して、nikkouにはけっこうしんどいツアーであった。
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わずか一週間の滞在であったが、慣れない食事やホテル生活、おぼつかない語学力に、カルチャーショックを上回るショッキングな黒人さんたちのトランス状態、深夜まで続く賛美礼拝…と、最終日を迎えるころには、へとへとになっていた。
そんな嵐のような一週間の、最終日は日曜日で、朝の礼拝に出席したら、すぐにわたしたちは空港へと向かわなければならなかった。

教会へと向かうバスの中から、オークランドの町のブロックごとの教会で礼拝が行われているのを見た。
カトリックの大きな教会、ヒスパニックのためのバラックのような教会、そして、体育館のような、わたしたちの向かう黒人教会…。
人種ごとに、そして、階級ごとに、通う教会が違う、この国。

オークランドの街並みはとてもまずしい。なのに、教会だけがとても盛んだ。
そういえば、ワークショップの合間を縫って観光に行ったサンフランシスコでは、ナンパしてきた白人の男の子に「オークランドに泊まっている」と告げると、目を丸くして、銃を構えるしぐさをし「こういうところだろう!?」と言った。
そして、「教会でゴスペルを歌うためにきた」というと、胸に手をあてて、取り澄ました顔で賛美歌を歌い、からかうように笑った。
美しいサンフランシスコと黒人街オークランドのえらい違い。
この国では、キング牧師が没して30年以上たった今でもなお、人種差別が色濃く残り、白人の住む町と黒人の住む町に、明確な線が引かれている。


主日礼拝が始まって最初の歌が、
200510290101001
「Lord I  thank you for the morning」であった。
疲労困憊しながら、nikkouは、それをとても憮然とした思いで聴いていた。

「なにが、『主よ、この朝を感謝します』だ。

もし彼らが、アフリカからつれてこられなければ、
きっとこんなに苦労することもなかっただろうに。
神はなぜ、そのような歴史を人類に許したのだ。

そして今なお、差別が残り、
今なお、貧しいこの人たちは、なぜ、こんなに熱狂的に主を礼拝し、賛美するのだ。

黒い人も、白い人も、黄色い人も、
ともに席を並べて、主を賛美する日がくるのか。

…来ないのではないか。
もう、絶望的なのではないか。
主は、なにをしているのだ。
なにも、していないのではないか。」

歌が明るければ明るいほど、nikkouは、空しくて、悔しくて、ぽろぽろと涙を流した。

そして、日本からの客人たちの、最後の歌、ということで、
わたしたちは壇上に上り、
「make us one」を歌ったのである。

涙を拭いつつ、歌っているとき、なぜかふと、あることを思い出した。
「→Sanctuary」というプレートである。
この教会の駐車場から、礼拝堂に向かう階段には、このプレートがところどころに貼りつけられていて、この矢印をたどって、わたしたちは礼拝堂へ入る。
この朝も見た。

200510290101002
「Sanctuary サンクチュアリー」
それは、単に、「礼拝堂」という意味の、道順を示すプレートにすぎなかったのかもしれない。
でも、nikkouは、そのとき、はっとしたのである。

本当に、ここは、サンクチュアリー、聖域だ。
教会を一歩出れば、
スーパーで、100ドル紙幣を出してはいけない、
街中にたむろっているティーンエイジャーたちと目を合わせてはいけない、
…といわれたこの街で、
教会の中だけでは、100ドル札を両替できるし、
子供たちは転がりまわって遊んでいるし、
大人たちは熱い抱擁を交わしている。

この危険で貧しい街の中に、
神様は、サンクチュアリーを築いている。
神様は、なにも、していなくなんか、ないじゃないか。

「神の国はあなたがたの間にある。」(ルカ福音書17章21節)というのは、本当だ。
そして、イエス様が
「アーメン、わたしはすぐに来る」(ヨハネ黙示録22章22節)
と言ったのは、
「絶望しないで、あきらめないで、すべての人種がひとしく生きる神の国は絶対来るんだよ」という希望の宣言だったのだ。

「Lord Thnak you for the morning」を歌うとき、この朝のことを思い出す。

サンクチュアリーが広がりますように。
Rejoys!毎日がどんなにささやかであっても。
アーメン、主イエスよ、来てください。

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October 24, 2005

最高の話相手

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月22日

多くの不幸な人びとは、
彼らが『救われ』ているかどうかについて、
いろいろと無益な考えにふけるが、こういう考えは、自信過剰の場合と同じように、有害なものである。

(中略)

この点について聖書の記されている最も確かな言葉は、すでにたびたび述べたように、
ヨハネによる福音書6章37節
(「父がわたしに与えてくださった者は皆、わたしに来るであろう。そしてわたしに来る者を決して拒みはしない。」)
および、マタイによる福音書11章28節
(「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」)
にふくまれている。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

先日出席した、無教会の全国集会で忘れがたい話を聞いた。
某大学の専任講師であるという、若い男性のスピーチである。

彼は、学生時代、不透明な将来や生ぬるい現状の中で、精神的にとても苦しい思いをしたという。
そんなさなか、それを、大学の先生に話したところ、その先生は、同僚のある先生を紹介してくれた。その同僚の先生というのが、無教会のクリスチャンだっった。
紹介された、とはいうものの、もし、その先生が、聖書を片手に信仰を迫ってくるようであったら、どうしよう、と彼は幾分身構えて、先生の研究室の戸を叩く。
しかし、先生は、何も言わずに、ただ、彼の話に耳を傾け、
そして、ただ、一冊、内村鑑三の「求安録」という書物を示した、という。
この本の中の一節に、彼は驚く。

uchimura

「恵まれても祈るべし、呪われても祈るべし。
陰府(よみ)の低きに下げられても、私は祈ろう。
力なき私、私に出来ることは祈ることだけ。
…………………

さらばわれは何なるか
夜暗くして泣く赤子
光ほしさに泣く赤子
泣くよりほかに言葉なし。」

「クリスチャンになれば、こんなに楽しく、こんなに明るい人生が待っている!」という軽薄な宗教の宣伝などではない、内村のこの正直な告白に、彼は、
「―― ああ、これは本物だ」と思ったという。

nikkouがクリスチャンになった経緯と、少し、似ている。
人生の理不尽さに、すっかり意気消沈していたnikkouに、
主イエスは言われた。
「求めなさい。そうすれば、与えられます。」

今、生きてあることの、苦しみを、まるごと認めてしまう。
そんなイエスの生涯に、そして、それでもなお、神を求めるその言葉に、
なんの具体的な解答が示されていなかったのにもかかわらず、
nikkouは、なぜだか、ほっとしたのであった。

耳を傾けてほしい、
共感してほしい、
…という隣人の求めに、人間は、応えることができない。本当に難しい、とnikkouは、わが身を振り返っても、痛いほどに思う。

でも、
主にはできる。
主だけができる。
主なるわが神は、わたしの心の中を隈なく、知っている存在だから。
「祈り」とは、わたしの心をすべて知るその存在に、「聴いてもらう」、そういう時でもある、と思う。

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October 23, 2005

お願いじゃないよ、普通のお祈り。

10月15日『眠られぬ夜のために』第一部

「祈ろうとする時は、まずわたしたちが持っているものに対する感謝をもって始めねばならない。
そうすると心が祈りにふさわしい気分に導かれる。
つぎに自分の意志を神にゆだね、最後にその日一日のために信仰と愛をお願いする。
それから初めて、目前の必要事を祈らなければならない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

okusamahafiripi-na
『奥さまはフィリピーナ』(今藤元・彩図社)。なんともセクシーな表紙だけれど、タイトルどおり、フィリピン人の奥さんをもつ日本人男性の体験記である。
フィリピンの人はほとんどがカトリックのクリスチャンとのこと。
それに関して、とても印象的な一節がある。

「まだ妻と付き合いだしたばかりの頃、不謹慎な話であるが、彼女と教会へ出かけるのも私には全くのデート感覚であった。ある日の教会からの帰り道、
『いつも神様に何をお願いしてるの?』
と何の気なしに聞いた事がある。今考えれば、その質問自体が既に不謹慎であるが、
『お願いじゃないよ。普通のお祈り』という妻の答えが当時の私にはよく理解できなかった。

私たちは、お祈りというと神社でお賽銭を投げてご利益をお願いするという感覚から抜けきらない。もちろん、フィリピン人だって、困ったときの神頼みは大いにあり得る。しかし、ただ祈るために祈ると言えようか、妻のいう『普通のお祈り』という感覚が私にはとても清潔に感じられるのである。」

「普通のお祈り」という奥さんの無邪気な答えがすごくいい。
自分も振り返ると、今朝の祈り、教会での祈り、歩きながらふと、祈ったこと…たしかに「お願い」じゃないよなぁと思う。
しかし、ご主人の「祈るために祈る」という表現もとてもすてきだ。

もう一冊、nikkouの大好きな本から。

kamisamahenotegami2
「Dear God. It is great the way you always get the stars in the right place. Jeff」
(かみさま いつも まちがえないで そらに ほしを おくのは すごい。 ジェフ)
「Dear God. If you watch in church on Sunday, I will show you my new shoes Mickey.D」
(かみさま もし にちようびに きょうかいに きてるんなら ぼくの あたらしい くつ みせてあげるね。 ミッキーD)
「I SORRY DID NOT WRITE BEFORE BUT I ONLY LEARNED HOW THIS WEEK MARTHA AGE 5」
(もっと まえに てがみ かかなくて ごめんなさい でも じを かくのを こんしゅう ならった ばかりなの マーさ 5さい)
「Dear God I don't ever feel alone since I found out about You Nora」
kamisamahenoata
(かみさま わたしは ちっとも さびしくありません あなたのことを しってから。ノーラ)

(『かみさまへのてがみ もっと』『かみさまへのあたらしいてがみ』谷川俊太郎訳・葉祥明絵 サンリオ)

 

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October 20, 2005

nikkou歌います! コンサートのお知らせ

nikkouが所属しているクワイアー(聖歌隊)で、コンサートを行います。

chior

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SHALOM PRAISE!
日時:11月19日(土)
   16:30開場、17:00開演(19時終演予定)
場所:ペアレ新宿ホール(300席+立見)
   http://www.peare.or.jp/peare/f/sinjuku/01.html
   JR新大久保駅 徒歩10分
入場料:前売り 1800円/当日 2000円 全席自由
問い合わせ:SHALOM PRAISE事務局
メール連絡先:shalomsanbi@yahoo.co.jp(山本 )
電話:03-3363-6493

■ 出 演 者 ■
Crystal Beads
Shalom Gospel Choir(←これが、nikkouが所属しているクワイアー)
Seeds Of God'S Love Choir
しーらぶダンス部(Praiseダンス)
Double Grace(Signダンス)
Trinity(シャズダンス)

■■■■■■■■■

特に、先日の無教会全国集会にいらした、クリスチャンの先輩方も、ぜひ見にいらしてください。
このようにして、主を礼拝する若いクリスチャンもおります。

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October 19, 2005

「Make us one」は、祈りの歌(Make us one3)

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月14日

実際に敵を愛するということは、
われわれが神と結ばれることによって
人間を恐れる習慣を捨てた時にのみ、起こるのである。」

「10月7日

ひとたび完全に愛の国に入ってしまったら、この世はどんなに不完全であっても、美しくかつ豊かなものとなる。
なぜなら、この世はいたるところ愛の機会にみちているからだ。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

「Make us one」という歌から、「主にあって」という言い回しの意味について、考えてきた。
ここで、もう一度、Make us oneの歌詞を見てみたい。

「Make us one Lord (主よ、わたしたちを一つにしてください)
Make us one(わたしたちを一つにしてください)
Holy Spirit(聖霊よ)
Make us one(わたしたちを一つにしてください)
Let Your love flow(あなたの愛が流れたなら)
So the world will know(そうすれば、世界は知るでしょう)
We are one in You」(わたしたちは、主にあって、一つだということを)

見てのとおり、これは祈りの歌であることがわかる。
懇願している、といってもいい。

ヒルティの言うとおり、人は、人を恐れる。
何を考えているか、分からないから。
ひょっとして、わたしを傷つけるかもしれないから。
だから、なかなか心を開けない。

Make us oneを
ちょっとクドク解釈すると、こんな感じだろうか。

「神様、わたしたちは、なかなか互いの垣根を取り払うことができないから、
あなたの力で、わたしたちの心の垣根を取り払ってください。
あなたの愛を、わたしたちが感じ取ることができるようにしてください。
そうすれば、わたしたちは、本当は、お互いに恐れることはない、
あなたとの関係の中では、
わたしたちは、お互いにただの、神様の被造物にすぎないんだ、
ってことが分かるんです。」

くり返しになるけれど、
神様からは、すべての人の心はお見通しである。わたしの心も、相手の心も。
世界中の男性も女性も、大統領もホームレスも、日本人もアメリカ人もドイツ人も韓国人も北朝鮮人も。
クリスチャンであるnikkouは、そういう存在を、信じている。
そんな存在は、どこの神社にも、いない。

だから、
「神様…。
あなたから、わたしたちの心は、どう見えていますか。」
そう、問いかけたとき、そのとき、初めて、わたしも、あなたも、対等になれる。

そのとき、戦争はやむ。
韓国と日本とどっちが悪い、どっちが正しい、なんていうくだらない水掛け論も終わる。
きっと、どっちも、同じように、自分は傷つきたくなくって、
どっちも、同じように、相手を愛したいのに、相手を信じられないんだ、ということが、分かる、
…んじゃないか。
nikkouは、神様じゃないから、分からないけど。
ね、そうでしょう?神様。
そう、思うよ。
ううん、祈りたい、と思う。そう、歌いたいと思う。

ちなみに、日本語訳は、ちょっと言葉足らずだなあ、とnikkouは思ってます。
「主にあって、ひとつ」では、
「クリスチャンであるわたしたちは、一致団結してまーす」という宣言のような、
みょーにおめでたい歌になってしまわないか。

これは、「一致団結」を宣言する歌ではない。
私たちの弱さを認め、神に懇願する歌である。
譜割の限界もあるんだろうけれど、
「主にあって、ひとつにしてください」のニュアンスが、どこかで入れられないかなあ、と思っている。
じゃあ、nikkouちゃんやってよ、と言われると、…ちょっと困るんだけどね。
いつも言いっぱなしでごめんよ。

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October 18, 2005

「主にあって」の意味について(Make us one 2)

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月14日

実際に敵を愛するということは、
われわれが神と結ばれることによって
人間を恐れる習慣を捨てた時にのみ、起こるのである。

そうなった時はじめて、私たちの生涯において敵が実に大きな役割をはたしてくれたことを悟り、
相手がこちらの気持ちを誤解しなければ、
それに感謝して敵を抱くこともできるような気持ちになれるのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

「主にあって」の意味を教えてくれたのは、相澤忠一氏である。
相澤氏は、無教会の独立伝道者で、
去る10月8日、青山学院大学で行われた無教会全国集会で講演に立たれた。
そのときのお話に、まさしく「主にあって」の解説があったのである。
nikkouにとっては、「ビンゴ!」な話。
やっぱり、なにごとも「待って」みるもんだ。

相澤氏も、
「主にあって」
(英語で「in Crist」、ギリシャ語の「ευ Χρισπω」)
が気になって、辞書で調べたそうである。結果、やはり、この言い回しは辞書のどの用例にもはあてはまらない、と感じたのだそうである。

そうなると、聖書の用例、もっと具体的にいうと、パウロの手紙の用例が特殊だ、ということになる。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(第二コリント 5章17節)
「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちである。」(ローマ6章23節)
などなど、たしかに、パウロは「キリストにある」という言い回しをよく使う。
じゃ、パウロは、どういう意図でこの言い回しを使っていたのか。

相澤氏の講演をnikkouなりにまとめてみると、こういうことになる。

「in Crist」の逆、「out Crist」について、考えてみよう。

辞書で「キリスト」を引くと、「救い主という意味」とある。

これをもし、「out」の人が書いたんだとしたら、
「キリストってのは、ある種の人々にとっては『救い主』という意味らしいよ、わたしには関係ないけどさ」となる。
しかし、もしこれが、「in」の人の言葉だとすると、
「キリストとは、わたしにとって、『救い主』という意味だ。」となる。

つまり、inの人は、イエスと、個人的な関わりを持っている。
イエス・キリストは、「わたしの主」と、語りかける相手になる。
だから「in Crist」「主にあって」とは、
「主イエス(=神)と親しい関係の中で」という意味
になるのだそうだ。
そうすると、パウロの手紙も、するっと意味が通じる。

その「神」なる存在は、すべての人の心はお見通しである。わたしの心も、相手の心も。
「神」とは、そういう存在なのである。
「主にあって」って何?って聞いてくれた、わが友よ、こんな「主(神)」ってイメージできる?

ここで、「Make us one」の話に戻りたいけれど、
長くなったので、また明日書く。

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October 17, 2005

「主にあって」って、変な日本語じゃない?(Make us one1)

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月14日

『敵を愛する』というのは、キリスト教の教義が大いに自慢のたねにする美しい言葉である。
しかし、キリスト教徒の実践を見ると、彼らが敵を愛するのを、必ずしもあまり多くは見かけない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

…というヒルティの言葉に、にやっとする人は少なくないだろう。
あ、nikkouは、にやっとしちゃいけないのか。
一応、「キリスト教徒」だし。

ところで、「キリスト教徒が自慢のたねにする美しい言葉」のひとつ、というか、
nikkouが以前から気になっている言い回しに、
「主にあって」というのがあった。
一年ほどまえ、ゴスペルの練習の帰り道、ノンクリスチャンの友人から、ふと聞かれたのがきっかけである。
「ねー、nikkouちゃん、『主にあって』って、どーゆー意味~?」
「えっ…?主にあって、ってのは、…、う……うぇっ?」
nikkouは、絶句した。

彼女はべつに、神学的な問題を投げかけてきたのではない。
ごく単純に、クリスチャン特有の言い回しを日常語に直してくれ、と言ってきたのである。
たとえば、「クリスチャンが言う『つまずく』ってのは、『あることがきっかけで神様を信じられなくなる』っていうことだよ」とか、
「『ハレルヤ』ってのは『神様を賛美します』って意味よ」とか、
そういうレベルのことである。
ちなみに、彼女がそう聞いてきたのは、ある歌の歌詞に、『主にあって』という言葉があったからである。

B00004TRY9
主にあって ひとつ
清いみ霊で ひとつ
主の愛が 今 流れ
主とひとつ」

原曲は英語で、こういう歌詞である。

「Make us one Lord
Make us one
Holy Spirit
Make us one
Let Your love flow
So the world will know
We are one in You

作詞作曲は、先日来日したブルックリンタバナクルズのキャロル・シンバラさん。
その名も「Make us one」(わたしたちをひとつにしてください)という歌である。
英語の場合は、「In You」が、「主にあって」にあたる。

さあ、ここで、クリスチャンのわが友たちよ、
「主にあって」(in You)を日常語で説明してみよう。

…できなくないか?
普通、「にあって」とは、
「自動販売機が、タバコ屋のかどにあって
というふうに使う。
「主にあって」というのは、かなり特殊な用例なのである。

先日、この「主にあって」という言い回しの語源と意味が、判明した。

結論から先に言うと、聖書の登場人物の一人、パウロの造語だそうだ。

くわしくは、長くなるので、また明日。

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October 16, 2005

半年読んできた。

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月4日

現代人が、キリスト教という永続的な心の平安にいたる道に背を向けるのは、キリスト教本来の証しが原因ではない。

(中略)

彼らが反感をもつのは、この宗教の人間的な担い手に対してである。

(中略)

まず、それら『周りにからみついている』一切のことをすてなさい。
さらに、それでもなおいくらか懸念を感じるならば、
今日の教会に頼らなくてもよい。
しかし、心からの願いをこめて、
『主よ、私をお助けください』といいなさい。
この祈りはすでに多くの人々を救ってきた。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

200510171508000
このブログを立ち上げて、ようよう半年きた。
毎日、ヒルティ『眠られぬ夜のために』をちょっとずつ読んで、
心に触れたことがあったら、
時間があるときにだけ、
書く、という実に気まぐれなブログではあるけれど、
累計アクセス数も半年で6000を超えました。
記事に関して助言や感想をくださった方々には、ずいぶん学ばされました。
みなさま、本当にありがとうございます。

今日は、半年読んできて、『眠られぬ夜のために』の全体的な感想を述べたい。

『眠られる夜のために』はロングベストセラーである。
わたしの手元の本で、49刷。
第一刷は今から32年前だ。
岩波文庫が一回で何部刷るのか分からないけれど、
わたしの勤務先だと、文庫は一回につき、最低1000部くらい。
初版が1万とすると、累計でおおよそ6万部程度だろうか。

タイトルに惹かれて本屋で手にした人も多いかもしれない。
魅力的なタイトルである。
宗教を問わず、ヒルティには励まされたり慰められたり人も数知れず。
それは彼の知性の高さ、信仰の深さによるものだ。

岩波文庫の訳者の一人、大和邦太郎氏によると、
ヒルティは若かりしころ、たくさんの書物を読みふけったものの、魂の乾きを癒すものはなかった、という。
どんな哲学や理論、神学さえも、生死の大問題を解くことはできない。
そうして行き着いたのが、
「イエスの福音に信頼して生きるよろこび」であった、というのである。

そこで、ヒルティは、
後輩たちが行き詰まったり寄り道をしないよう、助言を書こうと思い立つ。
教会でさえも、理性に解しがたい古くからの教理を丸呑みさせようとして、多くのまじめな求道者をつまづかせている。

「これに対してヒルティは、福音書のイエスの教えを素直に受け入れて、実行してみよ、
そしてその真実をためし、それによって心によろこびが与えられることを経験できたら、その教えを信じたらよい、と薦める。」(岩波文庫解説)

そしてそのことばは、
「すべてがきわめて実際的であり、簡明で的確なものである。
教えられる者の精神を力づけ、その生活と実践に有益なものばかりである。」(同)

200510171511000
まあ、まずはやってみな、それでよかったら信じてみな、というヒルティの助言はなかなか現実的。
ゆえに、キリスト教徒の少ないこの日本においても、多くの人をひきつけてやまないのだと思う。

翻訳者の大和氏は、
「この書を読む方は、たえず聖書をかたわらに置いて、著者の引用箇所を参照する労を惜しまないでほしい」とも言う。
これが、聖書通読がなかなかできない怠け者クリスチャンのnikkouにもポイント高し、でありました。
ヒルティ爺さん、本当にありがとう。

ただ、一点だけ、半年間気になっていることがある。
ヒルティがよく参照として揚げている「同胞賛美歌」である。
いつも賛美歌番号がぽつんと示されているだけで、
歌詞がわからない。
当然ながら、nikkou手持ちの日本基督教団編の讃美歌集とは違うみたい。
このヒルティの讃美歌集がほしい、とひそかに願っている。

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October 15, 2005

ドイツ報告その5 原書は買えなかった

『眠られぬ夜のために』第一部

「8月17日

およそ安息は神から贈られたものでなくてはならない。
あなたが勝手に安息を取ってはならない。
老年においても、さらに病気のときもそうである。
しかし、一般に命じられており、たいてい今日ではだれにでも許されている休息、
すなわち、夜半前からの眠りと日曜日とを、一貫して利用しなさい。
これは十分な休息感を得るのにたいへん役立ち、また、そのうえ神の祝福が与えられる。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

ヒルティの原書がほしい、と意気込んで出かけたのだが、
買えなかった。

理由はふたつある。
まず、書店がなかなか見つからなかった。
書店に限らず、わたしたちが訪れた街は、全体的に、とても娯楽的な場所が少なかった。

ドイツも、かつて、戦争で多くの街が破壊された。
日本は東京の焼け野原に、巨大なビル群を建設した。
FH000008
しかし、ドイツ人は、崩された瓦礫を拾い集め、そっくりそのまま、建て直したという。
文字通りの「復興」、「復建」だったわけである。
だから、ドイツには、いまだに14世紀、15世紀の街並みがそっくり残っている。
石造りと、木の家との違いかもしれないけれど、
結果的に、そんな街のなかに、
パチンコ屋も映画館もコンビニも入る隙がなくなった。
マクドナルドさえ、ひっそり、白い文字を掲げている。
東京によくあるような大型書店もCDショップもレンタルビデオ屋もなかなか目にしないのである。
もちろん、フランクフルトなどの大都会にゆけばまた違う、とのことであるが、
それでも、東京には遠く及ばない、大方のドイツの町はこんなもんだ、という。
FH000014

第二に、週末にあたってしまった、ということがある。
ドイツでは、安息日をきっちり守る、ということが、法律に明記されているそうである。
日曜日は、礼拝を守る日(実際に守っている人は、もう少ないそうであるが)。
だから、お店は開けない。
マインツでようやく見つけた書店も、日曜日だったので、しっかりシャッターが降りていた。

ツアーのガイドさんに言わせると、
休日祝日関わりなく、複数の映画館で複数の映画がかかり、コンサートが開かれ、演劇が見られ、書店とCD店とレンタルビデオ屋とコンビニが深夜まで開いている、という街は、
世界でもまれだそうだ。
日本でも、東京と大阪くらい。
ましてや、世界のほとんどの街は、キリスト教だろうがユダヤ教だろうがイスラム教だろうが、
夜の休む時間と、週の休む日は、きっちり守るんだそうだ。
FH000009
だから、ドイツでは娯楽が少ない。
子供たちは時おり回ってくる移動動物園やサーカスを心待ちにしているし、
大人たちは、年に一度のビール祭りで、
芸能人が来るでもない、豪華な景品が出るでもない、ただ「飲む」という一日を、心から楽しむという。

おお、that'sスローライフ!
そんなにはたらいて、どうすんのさ、ってか。


と、感心したのも、ドイツにいる間だけ。
日本に帰るやいなや、
祝日の夜更け、コンビニで調達した食品で夕食を済ましてしまって、あわれnikkouは軟弱なトーキョーっ子なのでありました。

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October 14, 2005

ドイツ報告その4 グーテンベルク博物館にて

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月11日
どんな大きな成功にも、神は必ず一滴の苦味を添えずにはおかない。
それがあなたを損なうことのないために。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

さて、そんなこんなでとうとうグーテンベルク博物館到着である。ishinoseisyo
hirasawa

これが、平澤さんの本の表紙になっていた、石の聖書。
どうやら、たんなるベンチに利用されているらしく、
写真をとる我々を、周囲のドイツ人が笑ってみておりました。


博物館内には、ボランティアのおじいさんが、
「a little」(ちょっとだけ)しゃべれるという英語で、ルターの聖書に案内してくれました。
カラフルで、そして、とっても大きい。
14世紀の聖書が、よくまあ、残っていたものである。
42行聖書も実物を目にする事ができた。
これも、でかかった。

平澤さんが寄付した活字であるが、
…無かった。
学芸員さんに尋ねてみたところ、
にっこり笑って案内されたのは…「大日本印刷 寄贈」の立派な活字。
あ、いや、そうじゃなくって、あの、日本のクリスチャンで、ヒラサワって人の、えーっと、えーっと、なんていえばいいんだ…。
結局、ふたりで隈なく博物館のケースを探し、
「展示換えがあったんだ」ということで、断念いたしました。

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これは、みやげ物の、世界一小さい聖書。「主の祈り」が、英語ドイツ語イタリア語フランス語などで書かれています。ちゃんと活字で組まれているのよ。
ルターのでっかい聖書から、技術はここまで進んだ、という証明であります。
200510101230001

ところで以前、niikkouは、「ルターが翻訳した聖書を、グーテンベルクが印刷した」と書いたが、
グーテンベルクは、ルターの宗教改革の半世紀前に、すでに印刷業を開始している。
つまり、グーテンベルクはカトリックのクリスチャンだったのだ。
グーテンベルク博物館には、日本語版パンフレットもあって、
それによると、ルター以前に、すでに聖書はドイツ語に翻訳されていた、とのことである。

もちろん、グーテンベルクの技術が、宗教改革に果たした役割は大きい。
しかし、nikkouの、キリスト教史の理解には偏見が入り込んでいるかもしれない。

団体との待ち合わせ場所に向かう帰り道、
ふたたび切符の自販機の前でおろおろしている我々ほ背後からそっと手をのばし、
黙って切符を買ってくれた、お腹がDの字の形のおじさん、ありがとう。
無事、ツアー団体と合流できました。
添乗員さんの顔を見たとたん、ふらっと貧血を起こしてしまった軟弱なnikkouでありました。

歴史と、そして語学を学ぼう、と思った一日でありました。

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October 13, 2005

ドイツ報告 その3 グーテンベルク博物館

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月11日

実際の苦悩と苦痛に対しては、いつでも神の助けを得ることができる。
しかし、ただ自分で想像しただけの、
あるいは大げさに考えられた苦しみに対しては、
助けがえられない。
自分でできるだけのことは耐えなければならない。」

(岩波文庫:草間・大和訳)


nikkouは、今回、女友達とふたりで旅行会社の団体ツアーに申し込んで旅をしたのだが、
最終日だけ、団体を離れて、単独行動をさせてもらった。
行き先は、マインツのグーテンベルク博物館である。

ハイデルベルクでバスから降り、街中にふたり立ったときの心細さといったらなかった。
まずは、駅に向かわなければ。
ドイツは英語が通じる、と聞いていたものの、
行き交う人を呼び止めて、道を聞いても、なんにも通じない!
ようやくある中年女性がわたしたちの手にするガイドブックなどを見て、行き先を察し、
タクシー乗り場を示してくれた。

たどりついた駅で、今度は、切符の買い方がわからない。
むやみやたらと自販機の画面を押していたら、何かが買えた(笑)。
それを手に、時刻表好きの友人の解読に従って、乗るべき電車をつきとめ、
はらはらしながら、マインツに到着した。
怖くなって、駅のホームで二人で手を取り合って、声に出して祈った。
神様、わたしたちをお守りください。
まるで子どもの「はじめてのおつかい」である。
gutenberuku

マインツでは、屋台でホットドックとプレッツェルを購入。
ほおばりながら、博物館をめざす。
こうした昼食も、ツアーでは体験できないことだ。
歩きなれない石畳をふみつつ、グーテンベルクおじさんの銅像を発見したときは、
「きたーーーーー!」とふたりで絶叫してしまいました。

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October 12, 2005

ドイツ報告その2 魔女狩り

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月6日

キリスト教がすべて不健康なもの、病的なものに打ち勝つためには、
それ自身があくまで健全でなくてはならない。
(中略)
このことこそ、あれほどしばしばキリストが弟子たちから離れて、
ひとり山上で新しい力を祈り求めなければならなかった理由でもある。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

goumonn
ローテンハイムには、カトリックのヨハニス教会に付属して、中世犯罪博物館がありました。
時間がなくて中まで見られなかったのですが、
主に、魔女裁判の際に用いられた拷問具が展示されているとのこと。

魔女狩り、魔女裁判とは、
ルターの宗教改革をきっかけにローマカトリックによる異端審問が激しくなり、
さらには、時代の社会的不安が加わって
集団ヒステリーが起こった・・・というのが、nikkouの理解です。

しかし、案内してくれたガイドさんの説明は違った。
「魔女狩りは、段々宗教的意味を離れ、単なるイジメとなっていったようです。
すこしでも、外見や発想が、村の多数とちがうと、
あげつらわれて、
魔女の烙印をおされました。」

200510112300000
(写真は、博物館のパンフレットより。礼拝中居眠りしたものの首に下げられた、とっても重いロザリオ。
…nikkouは、もうすでに何回か、かけられちゃってるかも。)

しかし「単なるイジメ」とは、単なる外国の話ではない。
nikkouの通った小学校でもありましたね。
ちなみに自慢じゃないけど、nikkouはクラスで一人だけ、いじめられっこをかばい、
いじめっこに報復の喧嘩を売って、泣かせました。
(しかし、ちくられて、先生にしかられました。
…いや、昔は、ツオイ子でした。)

しかし、「イジメ」を、キリスト教が防いだのではなく、後押しした、という事実には、戦慄を覚える。
それは、イエスの弟子のなすことではない。
イエスのみことばが、すぐ傍らにあっても、
人はたやすく、イエスから離れてしまう、という証拠のようなものだ。

だから、ヒルティは、イエスに学べ、という。
不健康なものに打ち勝つために、ひとり、喧騒から身を置いて、静かに祈る。
これは、ひとつ、肝に銘じておいたほうがいい方法かもしれない。

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October 10, 2005

ドイツ報告その1 豪華な教会

『眠られぬ夜のために』第一部

「10月4日

現代人が、キリスト教という永続的な心の平安にいたる道に背を向けるのは、キリスト教本来の証しが原因ではない。

(中略)

彼らが反感をもつのは、この宗教の人間的な担い手に対してである。

(中略)

まず、それら『周りにからみついている』一切のことをすてなさい。
さらに、それでもなおいくらか懸念を感じるならば、
今日の教会に頼らなくてもよい。
しかし、心からの願いをこめて、
『主よ、私をお助けください』といいなさい。
この祈りはすでに多くの人々を救ってきた。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

観光地とはすなわち、旧所名跡であります。
日本に来た外国人観光客が京都の寺社を見物するように、
日本人観光客は、ドイツの有名な教会をめぐることになります。

と、いうわけで、nikkouも、
毎日、ひとつふたつ、古く由緒正しい教会を見て回ることになりました。
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ドイツの教会を一言で言うなら、
「派手だなー」
って感じです。

カトリックはもとより、プロテスタントもルーテル派を多く訪れたせいか、
日本のシンプルな長いすと、シンプルな十字架に慣れた目には、くらくらしました。

人の持ちうる最上のものを主に捧げる、という考えは、nikkouも嫌いではありません。
むしろ、それが芸術の可能性を開いてきた、という一面もあるのかもしれません。

実際、はっと胸をつかれることもありました。
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ヴュルツブルクのノイミュンスター教会にあった荒々しい木彫りのキリスト像は、
てのひらに、ふとい釘をぶっさしたまま、
胸の前で、何か(誰か?)をかき抱くように、両腕を交差させていました。
この像から、無名の彫刻家の真剣な信仰告白を聞く思いでした。

その一方で、この教会では中世まで、身分によって座る席が決められており、
身分が高い人が座る前の席に行くに従って、装飾も手が込んだ、華やかなものになってゆく、
とのこと。
ちょっと興ざめいたしました。
たしか、栃木の日光東照宮でも、納めた石高によって大名の座る畳が違う、という説明があったような…。
古今東西、宗教と権力の繋がる方向は同じということか。

さらに、
中世に造られた司教の宮殿(レジデンツ)には、
ドイツの手工芸の技の限りを尽くした聖人像や、
世界最大級のフレスコ画、金箔を貼りこめた調度品、鏡の部屋、ベネチアングラスのシャンデリアに、ステンドグラス…。
200510011654000
バカ殿で知られたルートビッヒ2世の、国庫を喰いつぶしそうになったという豪華な城にも、
金ぴかで、目にも彩な礼拝堂が完備。
イエス様は調度品か~!

プロテスタントが生まれた背景には、こうした文化的社会的土壌があったのだろうか。
イエス様は、物質的にはとても貧しい方だったのにね。

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October 04, 2005

ただいま戻りました

200510011852000

9月30日『眠られぬ夜のために』第一部

「高き山よりの別れ

さらば、みどりの山地よ、
赤い花さく荒野よ、
自由のたのしい夢は消え、
はや秋が別れをうながす。

みじかい夏はすぎ去った。
牧者たちは谷へ降った。
すべての高い峰々はふたたび
白い雪におおわれている。

みどりの森よ、ありがとう。
聖なる処にいることができた。
私は森のきよらかな泉を汲んで、
新しいいのちにみたされた。

心もすこやかに空しい瑣事から解かれ、
意志も自由になった。
私の前途には約束の地と、
神の賜わる平安がある。

たのしい休らいのときは終り、
私は別人となって山をくだる。
別れはつらい―しかし私は
求めていたものをすでに見出した。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ドイツより戻りました。
日本は暑かったとのことですが、
ドイツはもう、寒いくらいでありました。
みなさま、お祈りありがとうございました。

くわしくは、また。

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