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November 30, 2005

「萌え」は日本を救うか!?

11月27日『眠られぬ夜のために』第一部

「何事によらず、その事をくわしく知り、それに通じることは結局よい結果を生む。
無知はその反対である。
この世界をも、そのいろいろな性質・要素をできるだけ完全に知ることによってわれわれのものとすべきである。」

(中略)

「…きわめて数多い女性が、自分が無益な生活をしているという深刻な、しかも日々つのりゆく感情に苦しめられて、本当の心身の健康に到りえず、それどころか、今持っている健康さえも、そのことを絶えず気にするあまり損なったり、ついには全く失ってしまうということは、きわめて当然である。
彼女たちに対して医師はなによりもまずこう言うべきであろう、
『働きなさい。あなた方も、他の人たちと同様に、働くのが使命であり、義務なのです。(以下略)』」

(岩波文庫・草間・大和訳)

仕事が忙しい。
年末ですな。
なので、nikkouは朝型生活にチャレンジすることにした。帰宅したら、すぐ寝る!すぐ起きる!三日坊主に終わらん事を。

さて、日付がちょっとさかのぼるけれど、ヒルティの「女性は働くべきだ」という上記の主張、100年前のスイスではどのような意味を持っていたのだろう。

日本の女性が社会で働き始めたのは、ここ数十年来のことだ、というのは、自分の母親世代を見ているとよく分かる。わたしの子ども時代は、ほとんどのお家のお母さんは専業主婦だった。
わたし自身は男女雇用機会均等法以降に就職した女子で、未婚で、平社員なので、女性の先輩たちが体験してきたような試練をまだ知らない。時代を切り開いてきた先輩たちに敬意を表し、彼女たちに学んでいきたいと思う。

moeruotoko
さて、現在『萌える男』(本田透・ちくま新書)を読んでいる。
この中に、
女性が経済的に自立した現代、家族を維持するのは経済的な依存関係ではなく、わたしたちは「より良い関係を築くことができる」という理想を共有することだ、という一節がある。

「萌える男」というのは、いわゆるアキバ系オタク青年のことなのだけれど、この本で「萌え」に対峙される思想が、「キリスト教」と「恋愛資本主義」というので、面白く読んだ。
このテの本は「説得力があるかどうか」がキモであって、「正しいか正しくないか」ということは検証のしようがない。だから、nikkouには、本当のところはよく分からないのだけれど、ものすごーーくはしょって、かつ易しく紹介してみよう。

romiotojuriet
本田いわく、
もともと、日本に「恋愛」という概念はなかった。
(nikkou注:坂口安吾も、中世の恋愛とは、「不義密通」であり、心中や刑罰の対象であった、と書いていた。)
それが、近代になって、キリスト教文化とともに「恋愛」という概念が流入。理想的な男女関係として紹介される。(ex.北村透谷)
キリスト教では、人間のアイデンティティは唯一絶対の神に保証される。そうした関係性の中で、男女関係も安定するのだ、という。
(nikkou注:要は、「この人は神様の大切な人だ」という認識があって、はじめて人は「互いに愛しあう」ことができる、というわけでしょうか。)
しかし、神への信仰なき時代に入ると、自分のアイデンティティを人間に保証してもらわなければならなくなる。
(nikkou注:つまり、彼氏や彼女に「あなたはステキだ」「あなたは大切な人」と認めてもらわなければ、人は精神的に不安定になる、というわけ。ううっ思い当たるなあ。)
しかし、人は神ではないので、そうそう無条件に他人を愛せないし、そうそう「ステキ」な人なんてのも存在しない。
そこで、日本は80年代に入って「恋愛資本主義」なるものによって「モテるものとモテないもの」に二分される。「ステキな男・女」になるための「モテ・テク」やら、それに付け入った消費活動やらが隆盛を極める。
そうした「恋愛資本主義」に背を向けた男たちが、現実に存在しない人物(アニメとかゲーム・キャラクター)に想像上の恋愛をすることで自我を安定させる「萌え」に行きついたのが現代――なんだそうだ。

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本田透は、この現代日本の「愛」なき状況を救うのは「萌え」だ!「萌え」がアニメなどの二次元から現実世界の三次元にフィードバックされれば、「愛」は復活する!と気炎をあげるのだけれど…うーん、無理じゃないでしょうか。
だって、アニメみたいな、かわいくって超癒し系の女の子を現実に求められても、困るもん。

以前、女性のための聖書セミナー「Women's conforence」で講師が「白馬に乗った王子様は現れません!あなたの伴侶となる人は、あなたと同じ、主にあって罪びとである人間です!」と言い放っていたが、あれは「萌えるな!」という警告だったのか!?

クリスチャンであるnikkouには、やっぱり「恋愛」の基本に返って、「恋愛」とともに日本に入ってきながら日本に定着しなかった「キリスト教」、いや、主イエスの愛のあり方を、日本人が自分のものとして消化していくことが、一番確実でかつ、早道なんじゃないか、という気がする。

でも、もはや日本には「恋愛資本主義」が蔓延して、
かく言うnikkouも、思いっきりその価値観に洗脳されてきて、たいそう苦しんだので、
戦いは困難?と思ったりもする。
主よ、この国の人びとを、愛したまえ。

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November 25, 2005

友人の憂い・煩いに耳を傾けるときは

11月24日『眠られぬ夜のために』

「もしあなたが心に深い傷をうけたように感じる時や、
もはや自分の神経を支配できそうもない時には、そのような状態で人に会うことは避けたほうがよい。
その痛みを人間にではなく、神に訴えなさい。

(中略)

われわれが比較的健康なものとして、そのような意思のくじけた病人や、また神経のいらだった人と交わらなければならない時には、
彼らを手厳しく非難したり、
気を落ち着けるように訓戒したり、
彼らの悩みをつまらぬものだと説きふせてそれを棄てさせようとしてはならない。
そういうことはすべて、彼らを怒らせるだけだ。
おだやかに彼らと交わり、気分を高ぶらせるものはすべてとり除き、
休息と気晴らしが欠けていればそれを与えてやり、
彼らの一時的な興奮した言葉にはあまり重きをおかないこと。
こういう態度が多くの場合、当座の最もよい策である。

(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

あまり、人間を性別で分類するのが好きではない。
だから、「女は男のどこを見ているのか」(ちくま新書)とか「話を聞かない男 地図を読めない女」(草思社)といった本を信用しておらず、そういうものは性別ではなくて個々人の資質によるものだろう、と考えている。
にもかかわらず、この歳になって、1点だけ、どーしても、「これは男女差があるな~」ということに気づいた。

愚痴の言い方である。

同性の愚痴を聞くのは、そんなにつらくない。
自分にも当てはめやすいし、ゆえに参考にもなる。
たいしてアドバイスなどしなくてもフンフンと聞いて、
「うーん、いろいろつらいだろうけど、nikkouも祈ってるよ」とかなんとか言って、ぎゅーっとハグして別れ、
その後、ふと青い空など見上げながら、「○○ちゃん、だいじょうぶかな~、神様、○○ちゃんを守って…」と祈り、
ある日、ふと「元気だよ」というメールをもらって、ほっとして、思わずちょっと涙ぐみ…
…というような付き合いも自然にできる。

これが、男の人の場合、nikkouは本当によく分からないのである。
女友達のように、おいしいケーキやラーメンを食べながら、話すだけ話し、聞くだけ聞いたら、とりあえず感謝、という感じにはどうもならない。
そんなにサンプルは多くないけれど、nikkouなんぞに憂い・煩いを洩らされた男の人は、ほぼ全員が
「――で、nikkouはどう思う?」とのたまうのである。

……ど、どう思うって…。
nikkouが
「わかんない」というと、ジレる。
      あるいは「考えたこともない?…フッ」と馬鹿にする。
「興味が無い」というと、スネる。
「こうすれば?」というと、「簡単に言うな!」とキレる。
「何でそんなことを気にするのか」というと、もっとキレる。

ヒルティ翁、「休息と気晴らしが欠けていればそれを与えてやり」とおっしゃいますが、特に殿方の場合、具体的にどうすればいいのでしょう。
以前、散々愚痴った上にグズってキレた本人に、機嫌のいいときを見計らって問いただしてみたところ、「気にしないほうがいいよ」と苦笑交じりに言った(苦笑)。

友の憂いや煩いを聞いた夜は、nikkouはいつも、小さくうずくまって、その友のことを主にゆだねて祈る。
女友達男友達かかわらず。
忘れないように手帳にメモったり電話の上に貼っておいたりしている。
絶えず絶えず祈りに覚える友がいることは、nikkouのアドバンテージ(クリスチャン的に使うと、「特権」であり「恵み」である、という意味)だと思っている。
愛する友よ。nikkouは常にあなたのことを祈っている。

あなたのことは、主がなんとかしてくれる。
主は、あなたにもわたしにも、そしてあなたの憂いの種になっているあの人やこの人に対しても、公平に裁きと恵みをお与えになるから。

nikkouがどんなに胸を痛めても、友の本当の慰めにはならない、と、最近ようやく気づくようになった。
ま、慰めの足しにはなるかもしれないけれど。
でも、なんとかしよう、とnikkouががんばると、たいがいロクなことにならない。
本当の慰め主は、主イエスキリストのみだ。

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November 21, 2005

あなたはわたしの内臓を造り

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月20日

私もまた生涯中にしばしば、憂いの霊の訪れをうけて、今にも来そうな禍いについて空想をたくましくし、それに迷わされたことがあるが、そのような禍いは実際には起こらないか、起こってもしのぎやすいものであった。
時には、このような禍いをのがれようとする試みが、禍いそのものよりも、かえって結果において悪いこともあった。これに反して、神に信頼してみると、つねに神は私を助けてくださった。およそこのような信仰がなければ、じっさいあるがままのこの世を渡ることは容易でない。しかし、信仰があれば、しかもだれでも皆、立派に世を渡ることができる。(以下略)」
(岩波文庫・草間・大和訳)

クリスチャンになってまる一年がたった夏のことである。
ひと月ほど、体調がすぐれなかった。
そのくせ、医者嫌いなものだから、
じきよくなるだろう、とほっといたのだが、さすがにひと月となると、不安がきざす。
ある晩、ネットで症状を調べて、おー、これはまさに自分の症状とぴったしかんかんだ、というものを見つけた。
入院と手術が必要、と書いてあった。
やばいやばい、やっぱり医者にいくべきか。
しかしそうなると、会社は病欠か、保険に入っておいてよかった、
いやいや、それどころじゃない、直らなかったらどうしよう、後々に響いたらどうしよう…と
パソコンの前でおろおろ、おろおろと、それこそ眠られない夜になった。

そこで、なにか、慰めになるものがあるかもしれぬ、と聖書をひらいた。
蓄積が少ないので、こういうとき、どこをひらいていいのかわからない。
とりあえず、万能薬の詩篇23編を読もう、
とぱらぱらめくったら、なぜか、詩篇139編が目に入った。

「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み、
御手をわたしの上に置いていてくださる。」(4・5節)

「あなたは、わたしの内臓を造り、
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂は知っている。
秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。」(13節~15節)

…あっ、そうなのか。
「わたしのこの内臓は、主が造った。」
当時クリスチャン1年生だったnikkouには、新鮮なことばだった。
このシンプルで直裁なことばが、nikkouのおろおろを一瞬で鎮めた。
200511180041000
何度も何度も読み返し、ついにはこの139編を、ノートに丁寧に書き取り、胸に抱いて寝た。
だいじょうぶ、わたしの内臓は、神様のものだ。
心配はいらない。

翌朝近所の医院にいくと、
はたして、「ポリープができている。」とその場で切除。
こころの準備もできていないうちに、あれよあれよと、15分ばかりで手術は終了。
その後試験管の中でぽよぽよと気持ちよさそうにうかんでいる、小指の先ほどのポリープを見せてくれながら、医者は「良性ですね。でもほっとくと、不妊症になったよ。ストレスでもありました?」となんでもなさそうに、言った。

今、あのときのノートを取り出して、しみじみ見ているが、
あらためて、いい詩だと思う。
しかし、あの夜、聖書を開いた瞬間に、主がnikkouにまっすぐ語っている、と感じた衝撃はない。
あの夜、詩篇は、たんなる古典をこえて、nikkouと主の、リアルタイムの会話になった。
主は生きておられる。

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November 20, 2005

世代超えて主をたたえる

「You are good

Lord You are good
そのめぐみ とこしえまで
すべての国々は世代超えて主をたたえる」

(Isael Houghton & New Bread
日本語訳 Michiru)

昨日、シャローム・プレイズ ゴスペルコンサートに聴きにいらしてくださったみなさま、ありがとうございました。
そして、お祈りに覚えてくださったみなさま、励ましてくださったみなさま、ありがとうございました。
昨日、みなさまとともに、主を讃美するひとときを持てたこと、本当に感謝します。
そして、なによりも、讃美を通して、今回もまたnikkouに多くを示してくださった主に、心から感謝。

写真は、まだ用意がないので、後日掲載予定、乞うご期待。
(追記:祖父ネットが写真をたくさんとってくれました。祖父上、ありがとう!nikkouがいっぱい写ってる!)

今回nikkouは、2組のご夫婦を、コンサートにご招待した。
2組とも、nikkouよりずうっと年上の友人である。
お誘いしたものの、ゴスペルコンサートは、歌い手も観客も、20~30代の若者中心で、礼拝で歌う賛美歌や聖歌よりずっと音も大きくテンポもにぎやかなので、驚かれるのではないか、…とご招待したときから、コンサート中も、終わってからも、ずっと不安に思っていた。
それでも、お誘いしたかったのは、
わたしたちゴスペルを歌う若い友人たちと、年かさの先輩たちとが、
同じ主のぶどうの木につらなる枝同士として、互いの接点を見出せたら、
そして、そこから何かが生まれるのではないかと思ったからである。
コンサート後、あたたかい言葉をかけてくれて、また新たな示唆を与えてくれた愛する友人たちに、心から感謝している。

ゴスペル音楽は、ひょっとしたら、一生聖書にも福音にもふれずに終わったかもしれない日本の若い人たちに福音を伝えるために、大きな役割を果たしてきた。
nikkouも、その恩恵にあずかった一人である。
神様がゴスペル音楽を生み出してくださったことに、深く深く感謝している。

また、ゴスペル音楽は、アメリカの黒人奴隷の人びとが、深い悲しみと苦しみの中で与えられた希望の光である。
そのような音楽に、わたしたちが強く惹かれるのは、この音楽のもつ信仰が本物だからだと思う。

しかし、クリスチャンとなった今、nikkouは、思うのである。
わたしたち、日本でゴスペルを歌う人たちは、そろそろ、もっと、広い年齢層について考えてもいいのではないか。
今、この日本でコンサートをするにあたっては、やはり「世代超えて主をたたえ」ていきたい。
そこで、「世代を超える」ゴスペルコンサートという観点からいくつか提案をしたい。

1.今の日本人にも馴染み深い賛美を歌う。

たとえばひとつのコンサートのなかに、子どもたちがくちずさめる易しい歌、年配の人たちになじみのある古い歌も1曲2曲取り入れてゆけないだろうか。そして、「新しい歌を主にむかって歌え」(詩篇149)とあるように、わたしたち日本人のスタイルに合う、新しい讃美を作り出してゆけないか。

2 英語の歌を歌うときには、英語がわからない人に配慮を

コンサートによく来てくれる私の母は、「英語の歌が多くて、何を言っているのかよく分からない」という。意味のわからない歌を2時間聞き続けるのは、けっこうストレスだと思う。
歌詞カードを配ったり、OHPに映したりするけれど、そうすると、歌っている人の表情や踊りに目が向かなくなってしまうという欠点がある。

わたしたち歌う人たちは、歌詞の訳やその背後にある聖書のメッセージについて十分話し合ったり教えてもらったりしてから歌う。このプロセスの中で、福音に深く触れ、癒されてゆくのだけれども、はじめてゴスペルに触れる人たちには、そういった時間を十分にとるのはむずかしい。
サビの歌詞だけでもひとこと歌う前に触れたらどうだろう。

3 日本語賛美がもっと増えるよう祈る

そして、日本語のあたらしい讃美がもっと歌われるようになるといいな、と思う。メグ&コージ夫妻はじめ、あたらしい讃美をつくり歌っている人々は少なくないけれど、彼らにより多くの力が与えられますように。そして、広く歌われるようになりますように。

またアメリカのゴスペルを日本語に訳す試みも進んでいる。むずかしい作業だと思うけれど、訳者のひとりひとりにさらに豊かに智恵が与えられるよう祈る。
ただ、英語のために作られた旋律を日本語にあわせると、必要な語が落ちてしまったり、譜割がおかしくなってしまうことがある。英語を母語とする人の気持ちが、的確に表現されるよう工夫された歌は、そのまま尊重したい、と思ったりもする。


コンサートの最後にメグ&コージの「大切な人」を歌った。

「あなたを愛しています
主が愛してくれたように
あなたはわたしの大切な人

あなたに出会ってよかった
愛しています」

この歌を、世代を超えた親愛なるわが友人たちにささげる。

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November 17, 2005

踊りをささげて御名を賛美し(詩篇149-3)

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月19日
神に仕えるということは、自分の生活のすべての瞬間に、持っているすべての力と手段とを、神のみ心の成就のために用いることを意味する。このような生活が、まさにこのような生活のみが、決して曇ることのない晴れやかさを与える。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ライブの練習が盛んで、昨日は通しリハーサルだった。
今回のライブの見所は「プレイズダンス」だ、と勝手に思っている。
ダンスの振り付けをしたみずえさんのことは、玉ちゃんのブログにくわしい。

Tama’sゴスペラー日記

最近手話を習い始めたnikkouにはときどき見覚えのあるしぐさもあるので、手話も参考にしているのかもしれない。ダンスがあると、歌のメッセージがより鮮明になって、いいな、と思う。ダンサーたちが美しいこともあって、ついみとれてしまう。

今回プレイズダンスがつかない歌も何曲かあるのだが、うち一曲は易しい歌詞なので、覚えたてのなんちゃって手話をひらひらとつけてみた。
そうしたら、あることに気づいた。

声だけでなく、体も賛美したがっている。
手話をつけると、そんな体も解放される気がする。

1曲手話をつけよう、と勝手にひとりぎめして、ろうあ教会の手話通訳者の方に、リハーサル中こっそりメールしてみた。「急な話で恐縮ですが、土曜日までに手話を教えてくださいませんか。」
すると、すぐに、「今度の金曜日に、ろうあ者の方のお宅で家庭集会をします。いらっしゃいますか。」と返信!
200511172342000
おおおーハレルヤ!
家庭集会というのは、おうちでやる礼拝で、nikkouは礼拝堂の礼拝より好きだったりする。
ああ、でもあつかましくて恐縮。
200511172343000
先日「積極的」というのは習ったが(左参照)、「あつかましい」ってどうやるのだろう。
通訳者のTさん、家庭集会のお宅のAさん、ありがとう。

今夜のヒルティいわく
「持っているすべての力と手段とを、神のみ心の成就のために用いる」
19日は、nikkouのもちうるすべての手段と力をもって賛美する。
当日券、出ます。
乞うご期待。

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November 16, 2005

会わずにいることは魂で愛し合うこと。

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月14日

結婚は軽く見てよいことでなくて、本当は恐ろしい事柄である。

(中略)

結婚式当日のいろいろの楽しい催しも、往々にして、結婚という事柄のあまりの厳粛さを当事者とその家族に対し、ただいくらかでも覆い隠そうというひそかな意味を持つのかもしれない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

結婚って、たいへんョ~、結婚式を華々しくやるのは、そのたいへんさをごまかすためョ~、というヒルティ。
30歳目前に独身のnikkou、眠られぬ夜になりそうなメッセージであります(笑)。

aukotoha
さて、今日もここに一冊の本。『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』(港の人)
野村一彦という18歳の青年の、1931~32年にかかれた日記である。
そこには、「美恵ちゃん」という女の子への思慕が切々とつづられている。

一彦は、無教会クリスチャンの金沢常雄が主宰する聖書集会に通う、敬虔な青年であった。
親友・前田陽一の妹、美恵子さん(愛称、美恵ちゃん、Mimi)に恋をして、目が合ってもすれ違っても心震えるような痛みを、陽一に打ち明ける。すると、美恵子も一彦に好意を持っているということを知らされるのである。
しかし、一彦は病弱であったため、美恵子のお母さんに交際を反対されてしまう。
会えない二人の思いを、一彦は主に打ち明ける。

nomurakazuhiko
「静かな祈りの時に、僕らは魂において、どんなに近くいることができるかを知った。
美恵ちゃんは僕のものではある。
しかし、それよりもまず僕らは真に神のものである。
そして僕らの愛し合うことさえもがいかに神の恵みであるかもこのごろ分かってきた。
(中略)
会うことの出来ない僕らはただ神様にすべてをおまかせするよりない。
そして僕はたとえ一生を美恵ちゃんに会わずに終わろうとも感謝して行くつもりでいる。」

「神様、Mimiは美しうございます。―それは恋愛に酔うためではなく(本当にそんな事ではなく)あなたのものであるMimiが僕の愛する人であり、また僕を愛していますから。
そして僕はそのMimiに出来ることならまたいつか、少しでも早く会いたいのでございます。
けれどもあなたの御智恵はまことに深くありまして、別れていねばならない事からよき事を多く教えくださいました。
神様、僕は会えました悦びにも、会えませんつらさにも同じようにあなたの聖名を呼ばせて頂きました。願わくはこれから先もなおかくありますように。」

これが、18歳の文章である。
昭和の青年の早熟さと清らかさを見るようである。

お母さんの悲しい予感は当たって、一彦は21歳で腎臓結核のため夭折。Mimiは、一生結婚しない、と泣いた。
そんなMimiであったが、12年後に植物学者の神谷宣郎と結婚、2児を育てつつ、ハンセン病患者のケアや、文筆業、そして精神科医として美智子皇后の相談役など、活躍する。
Mimiとは、神谷美恵子10代の姿である。

kamiya
『会うことは目で愛し合うこと、
会わずにいることは魂で愛し合うこと。』
には、そんな切ないプラトニック・ラブのみならず、昭和のクリスチャンホームらしい折り目正しくて闊達な前田家(美恵子の実家)の様子がうかがわれて興味深い。
主イエスのことばに、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マタイによる福音書22章20節)というものがある。
主のみ国では、人間世界の婚姻関係も無効だ。
今はもう、涙も拭い去られて、美恵子の魂も、一彦の魂も、自由になっていることと思う。

「けれども神はすべてをよくなし給う。この愛が神の聖意にかなうなら(願わくはいつもかくあらんことを!)神様は僕らを離し給うはずがない。それはこの世においてもゆるされることだろう。ましてかの国においてをや。」
(『会うことは目で愛し合うこと、
会わずにいることは魂で愛し合うこと。』)

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November 14, 2005

「通りかかりの者」が立ち止まるとき

11月13日『眠られぬ夜のために』第一部

「マルコによる福音書15章の29節

『通りかかった者たち』がイエスをののしった。

(中略)

実際、今日でもなお、イエスと彼につき従う者をののしるのは、
ただ通りがかりの人たち、つまり、彼らの存在も活動もほんの一時的で、
たちまち消え去る人たちに限るのである。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

002
nikkouが出演するコンサートが着々と近づいてきている。
毎日通勤車内でぶつぶつ自主錬している。
行こうかな~と思ってくださる方は、ご連絡ください。nikkouの名前で受付に前売り券(1800円)をお取り置きしておきます。

さて、人のブログを逍遥していると、時々「通りがかりの者」という署名でのコメントを目にする。
そのブログの執筆者やコミュニティにコミットメントするつもりはありませんよ、という意思表示なんだろうけれど、発言者として、無責任きわまりない。

主イエスや、彼に従う人をののしるのは「通りがかりの者」だ、という今夜のヒルティの指摘は鋭い。主イエスとそのコミュニティには、係わり合いになりませんよ、という立場から、モノを言うのはずるいんじゃないか、と思う。

nikkouももう、何度言われたことだろう。
「クリスチャンって、自分たちだけ救われればいいって思っているんだから、身勝手だよね。」
「本気で、人が死んでもまた生き返るって信じているの?おかしいんじゃない?」
「社会問題も、聖書が解決する、だなんて、おめでたい」
などなど。
いや、反発や批判はいいんだ。
ただ、一度でも聖書とガッツリ取り組んでみてから言えよ、と思う。

時々ゴスペル仲間の、ノンクリスチャンのメンバーが、聖書の中のひと言に反発し、悩み苦しみはじめる。
ぶつけてくるその思いに、クリスチャンメンバーも、うんうん悩みながら、
あとでこっそり、「よかったね」と言っていたりする。
その友人が、とうとう、神様と一対一の関係を築き始めた、ということだから。
nikkouはおせっかいだから、ついつい、そういう友人に、必要以上に言葉を重ねて説得にかかりそうになったりする。でも、精神的に成熟している先輩の兄弟姉妹たちは、黙って聞いて、見ている。
エライ。

200511080012000
先日、ある友人が主イエスを受け入れた、という話を聞いた。
nikkouはうれしいより先に、のけぞって驚いた。
だって、その子は、以前nikkouに、「私は絶対、クリスチャンにならない!」と断言したのだ。
「あー、nikkouみたいな人間が、どんなに説得してかかっても、無理、無駄なんだな~」と、悟った。
神様は、その友人と、着々と愛をはぐくまれていたんだ。

「信仰の押し付け」が、相手に嫌がられるのは当然だが、
主から見ても、余計なおせっかいなのかもしれない。
ある日、その人の心の中で、
聞いたことば、歌った歌、出会った人、目にしたふるまい…等等が一つになって、
ふと、心の眼が開かれるんだと思う。
nikkouも、かつてそうであったように。

主に信頼して、祈ろう、と思う。
神様、どうか、彼や彼女を離さないで。
どうか、そっと、答えを示して。
どうか、そっと、助けの手を差し伸べて。
たとえ彼や彼女がその手を振り切って逃げ出しても、
どうか、そっと寄り添って、けっして見捨てないで。

…そう祈っている愛する人が、今のnikkouには、数人いる。

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November 12, 2005

黙っていても伝わること

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月12日

(前略)
 神から与えられた心情、それゆえ、できるだけつねに持ちつづけねばならない心情というのは、
自分の弱さを自覚しながらも、なお、われわれをしてすべての行動と苦難に耐えさせる神の愛と力とにすっかり信頼しきった、おだやかな感情のことである。これこそ、精神的健康であって、単なる弱気や熱病的興奮とは反対のものである。
 このような精神的健康を十分に持たない時には、できるだけ行動を、たとえば手紙を書くことなども、よしなさい。
そういう時には、いつでも中途半端な結果か、全然まちがった結果しか得られないものだ。
(後略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

神の平安から離れて、精神的に不安的な時は何もするな、手紙も書くな、という忠告。
もぉ…、もっと早く言ってよ~。
nikkouは何度それで失敗してきたことか。

ずーんと落ち込んで、縷々(るる)メールに思いの丈をぶちまけたくなる衝動、
かーっとなって、「うそつき! ろくでなし! 私がどんなに傷ついたか、分かっているのか!!」と電話口でののしりたくなる誘惑。
そしてそのまま言わなくてもいいことまで言って、「あ~言い過ぎた~」と気づいたときには後の祭り。
特にメールや電話はだめだ。顔を合わせていれば飲み込めることばを、とめどなくあふれさせてしまう。

7年前、nikkouが大学四年生の時、妹が死んだ。
それを知ったクリスチャンの友人が、せっせと食事に誘ってきて、一生懸命聖書を引いて、なんとか慰めようとしてくれた。まあ、気持ちは感謝するが、正直うっとうしかった。クリスチャンってのはがさつな人種だ、と思った。
結局、一番慰めになったのは、nikkouの話を聞くなり、絶句して、黙ってほろほろと、涙をこぼしてくれた日本文学科の友人の、その思いであった。

黙っていても、――いや、黙っていたほうが伝わることがある。
電話口で無駄なことばを重ねつつ、ああ、本当は黙って手を握っているだけで、寄り添っているだけで、抱きしめるだけで、うなづくだけでいい、そうしたい、そうしてほしい、と思う。
心の中で、そっと、「神様、この人を癒して」と祈ったほうが、どんなにか、お互いに慰めになるだろう。

マザーテレサは言った。
「言葉が多すぎます。」
痛い、痛い、と思いながら、その言葉を受け止める。

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お知らせ

昨日書いた、「友人のクワイアーのピアニスト」が、明日のNHK小さな旅で取り上げられるそうです。
NHK小さな旅(13日・日曜・8時から8時25分)
偶然、彼と一緒にゴスペルを歌っていた、という方が教えてくださいました。
お時間あるかたはぜひ。


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November 11, 2005

あと~年で死ぬとしたら

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月11日

われわれは、ある人がいずれ一握りのちりに帰るであろう日をあらかじめ正確に知っていたら、彼に対してはげしく怒るようなことはおそらくしないだろう。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今夜のヒルティは上記の2行だけ。

確かに、nikkouが妹の四女の死に動揺したのも、それが13歳の突然死だったからである。ちょっとでも、あらかじめ死ぬような気配があれば、これほどの恐怖と悲しみを引き起こさなかったのではないか、と思う。

しかし、「あらかじめ」ってどのくらい前だろう。nikkouは今29歳だが、「これから何年後にあなたは死にます」と神の使いから、明確に示されたら、と想像してみる。

たとえば、50年後。nikkou79歳。――長い。わたしたちの世代は年金が出ないかもしれない、と最近脅されているので、老後の生活費を蓄えておくか、と思う。でも、あと50年間の命が保障されるなら、親不孝にもならないし、まあ、いいかな、という気がする。

30年後。nikkou59歳の場合。…出産を急ごう、と思う。成人する前に母親が死んではかわいそうなので、早いうちに産めるだけ産む。老後の心配が必要ないので、子供にお金をたっぷりかけて、もちろん、愛情も注いで、未来を託す。

10年後。39歳――。出産はあきらめるか。そのかわり仕事に集中しよう。一冊くらい、どこかのだれかに「いい本に出会った!」と思ってもらえるような本を編集して、読者に手渡してから逝きたい。

3年後。32歳――。結婚もあきらめる…、仕事もちょっと自信がない…。さすがに「怒り」がきざす。まあでも、以前から心にくすぶっている、風俗アダルト関係の女性への伝道に、文字通り命を賭ける時間は残されている、気がする。

1年後。30歳――。何もできない。出産も結婚も仕事も伝道も。…賛美ができるか。
友人のクワイアーのピアニストは、癌に侵されて余命1年を賛美にささげつくしたが、あんな感じの一年は悪くない。余命が何年であろうと、賛美は喜びだ。バナナ君も、最期の一年は歌に希望を見出していたし。一曲でも多くのゴスペルと賛美歌を携えて主のみもとにゆくか。

1日。明日。――うーん、さすがに本当に、なにもできない。賛美もできんわ。部屋の恥ずかしいものだけ、こっそり処分しておこう。

というわけで、「怒り」を覚えるのは、nikkouの場合、10年前後のようである。短くなるにつれていらだちが増す。あきらめねばならないことが増え、急いでやっておこうということが増えてくる。
…あ、これは、うちの教会の老牧師が言っていた「老いの心境」だ。なるほどねー。

こうやって余命を想定してみると、わかることがある。
まず、神がnikkouを世にあらしめた結果を、なんとかして遺そうとしている。子供とか仕事とか伝道とか。
「人は理由なく生まれ、理由なく死ぬことに耐えられない」という常套句が、nikkouにもそっくり当てはまってて可笑しい。
しかも、たとえ余命が決まっていても、自分のプラン通りになる保証など、どこにもない。
主は、50年間独身で伝道にささげよ、と言うかもしれないし、余命3年でも子どもを産め、と言うかもしれないし。
だから、結局本当に知りたいのは、余命よりも、主のプランのほうかもしれない。

いつも思うのだが、主は、nikkouへのご計画の全貌を見せてくれない。
だから結局毎回、岐路に立たされるたびに、悩んで、聖書を読んでは考え、祈っては考えして、道を選ばなければならないんだ。

人が「神様なんて、いないんじゃないか」と思うのは、ひとつには、この先行きの不透明さのせいではないかと思う。nikkouもクリスチャンになる直前、そういう深い闇のようなところに堕ちた。

「ずうっと先までは教えない。すぐそこの岐路では、相談相手にになる」というのが主のスタンスだ、ということに、段々気づいてきた。それを、「感謝する」という心境には、まだまだ至らないけれど、nikkouクリスチャン4年生、そういうものなのね、と認識するくらいには、成長(?)しました。

「こころ静めて み声聞けば 恐れは去りて ゆだぬるを得ん(ゆだねるこころを得る)
ただ 知らまほし(知りたい) 行手の道
一羽のすずめさえ 主は守りたもう」
(「いちわのすずめに」 Civilla D.Martin & Charles H.Gabriel、 いのちのことば社・訳)

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天の倉の預金通帳

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月10日

心に起る善への促しも、悪へのいざないも、たいてい刹那的な閃きである。
前者に対しては、即座にこれに応じて、われわれを助けようとさしのべられた手を、実行によってつかまねばならない。
後者に対しては、同じように、即座に、断固たる意思をもって抵抗しなければならない。
『かくて星にまで登ることができる』(ヴェルギリウス)のである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

今夜のヒルティ翁の忠告を、「サイト恩寵」さんも引用。
そして、

>「星」とは勿論キリストのことである。

とのこと。なるほどー。

本文では、「実行」と「つかま」ねばのところに傍点がしてある。ドイツ語だと、イタリック体にでもなっているのかな。いいことを思いついたら、すぐやれ、ほらやれ!というのは、ヒルティ翁の重要な主張のひとつ。10月31日もおんなじようなことを言っていた。
そしてnikkouもまた毎度毎度、同じようなことを言っているが、これがむずかしいんだ。

先日のパキスタン大地震のとき、nikkouは、「募金しよう」と思い立った。閃きである、善への促しである。
20051021_05
本書の4月10日付けでヒルティからの、「考えもなしに寄付して、いいことした気になってるんじゃない」という忠告がけっこう堪えていたので、今回は、ちゃんとネットでしらべて、何が必要なのか考える事にした。
迷いに迷ったのだけれど、「セーブ・ザ・チルドレン」と、「国境なき医師団」そして、「国連世界食料計画(WFP)」を選択。とくに、「国境なき医師団」は、パキスタン入りした、nikkouとさほど年の変わらない若いお医者さんや看護師さんが顔写真入りで掲載されていて、胸がきゅんとしてしまったので、ちょっと多めに寄付をすることにした。
ishidan
さっそく手帳に振込先を控え、通帳とにらめっこして寄付できる額を決め、翌日の昼休みに郵便局に振込みに…行くつもりでした。ところが、たいへん恥ずかしいことですが、翌日は同僚とパスタを食べに行ってしまったんですね。翌日は寿司、そしてその翌日は…。毎朝、テレビのニュースでパキスタンの惨状を目にしては、「あぁあ~、またわ~す~れ~た~」のくり返し。パキスタンの惨状より、本日の昼食になにを食べるかで頭がいっぱいになってしまう。面目ない。手帳に振り込み先を控えただけで「いいことをした」気になっているなんて、考えもなしに寄付をするよりはるかにわるい。

そんなこんなを2,3日繰り返して、ある朝、とうとう奇策を考え付いた。
「ホワイトバンド」である。
アフリカの飢餓支援ではなく啓蒙活動であった、ということで総顰蹙を買い、nikkouも、なんとなくつけなくなってしまっていたNPO支援グッズである。このバンドは「貧しい人を忘れない」という意味であるらしいので、まさに適任。そして、効果テキ面であった。お昼休みが近づいて「お腹すいたなあ、今日は何をたべようかな」と腕時計を見るなり目に入ってくるホワイトバンド。おお、そうであった、と気づいて、ようやく郵便局に足を運んだのであった。

さて、先日WFPから領収書が送られてきた。(領収書を送ってくれたのは、ここだけ)。
そこに記された額面を見て、ちょっとめげた。
あんなに意気揚々と寄付したのであるが、これじゃあ、職員のパキスタン入りする片道航空券代にもならないや。nikkouとしては、今年流行の別珍のジャケットをあきらめての寄付だったのに、本当に必要なところには、すずめの涙にも見えないんだな~、とがっかりしました。この世のお金というのは相対的なものなのね。主よ、ほんとにちょっぴりですが、nikkouの天の預金通帳にも記帳しといてください。天の預金通帳が、終りの日にはもう少し増えてますように。

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November 08, 2005

騒然となった、クリスチャン独身女性

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月8日

ジェネバのカタリナは、正当にも神にこう尋ねた。

『神への愛は他のすべての愛をしりぞけますが、それでもわたしたちは隣人を愛さなくてはならないのでしょうか」と。

これに対して彼女はつぎのような返事をうけとった、

『わたしを愛する者は、わたしが愛するすべてのものをも愛する。
あなたは、できるだけ隣人の霊と肉の幸福を増やそうと心がけねばならない。
まことの愛は隣人をその人自身において愛するのでなくて、神において愛する。』」
(岩波文庫・草間・大和訳)

katarinanokekkonn
ずいぶん持って回った言い方だが、簡単にいうと、「神様と隣人への愛とは、両立するのか?」ということだろうか。それに対する答えは、「神を愛しているからこそ、隣人を愛せるのだ」といった感じだろうか。

今夜、これを読んで、nikkouは、とっても卑近な例を思い出した。卑近すぎて恐縮だが、恋愛のことである。

わたしが主イエスに出会って半年ぐらいたったころのことである。ゴスペルの関係で、女性限定聖書セミナーに参加した。クラスは、既婚者と独身者に分かれ、連休の3日間、講義があった。nikkouは独身者クラスである。講師はアメリカの黒人女性で、DVや虐待の被害者、各種依存症の女性のための支援を行っている伝道者、とのことであった。

いろいろと強烈な話が多くあったが、中でも印象深いのが、ある日の午前の講義のことである。
独身のクリスチャン女性の恋愛として、講師が、次の二点に気をつけるように、と言ったのである。

①クリスチャン男性と結婚すること。
②結婚前に性交渉をしないこと。

…次の瞬間、30~40人のうら若き女性たちが、騒然となった。
nkkouなんて、「えーーーーーーー!そんなんなら、結婚してからクリスチャンになればよかった~!」と思ったね。
実際、ある女性が立ちあがって、特に①について、「そうしたいのは山々だが、現実的にはむずかしい」と泣きながら訴えた。その人は清純な感じのかわいい人だったので、「あんな人でもそう思うなら、もう、nikkouみたいに野暮ったいのは絶望的だ。そんなこと忠実に守っていて、50歳になっても60歳になっても処女で独身だったら、このアメリカ人は責任をとってくれるのか」と憤然とし、ちょっと涙ぐんだりまでした。

とうとう通訳者が見かねて、「クリスチャンでない男の子とデートするのはいいのよ、それで、彼がイエス様を信じてくれたら、みんな幸せじゃない」とフォローし、講師は講師で、「かわいいわね~ふぉっふぉっふぉ」と笑ったりなんかして、もーたいへんであった。

こんなにクラスが騒然となったのは、
①は、日本にはクリスチャン男性が少ない、ということ
②は、現代の日本の若者の価値観と大きく離れていたため、であろう。
アメリカのキリスト教社会と、日本の状況の乖離は意外に大きい。

その後、既婚者クラスのお姉さんたちにこの2点について話したら、「そうそう、そう思うこと、あるわね~」とうなづかれ、「自分たちは、昔は散々楽しんだくせに~、今はノン・クリスチャンのダンナともラブラブなくせに~」とうらめしさにまたもや涙ぐみ、「nikkou、泣くな~」と笑われたりした。

②の性交渉については、けっこうあけすけな質疑応答があったのだが、nikkouも嫁入り前だし、まあ、いずれ時がくれば、書く…(かもしれない)。

①の結婚について、であるが、ご主人がクリスチャンでないお姉さんたちも、幸せそうに、nikkouには見える。が、よく聞くと、みんなそれなりにご主人や家族に気を使っている。信仰にもとづく行動がご主人に分かってもらえず摩擦になることも、あるらしい。それでも彼女たちはご主人を愛しているから、あの講師の忠告は絶対ではない、と思う。
先だって書いた、ミッションバラバの奥さんは、クリスチャンどころか、ヤクザと結婚したわけだが、神様との関係をきっちり築くことで、自分も家族も守ることができたわけだし。
とはいうものの、多くの場合、忠告を聞いたほうがリスクは少ない、ということなのかもしれない。

要は、彼氏が、あなたのことを、容姿やら趣味やらなんかでなく、「主にあって」愛しているかどうか、見極めろ、
あなた自身も、神への愛を忘れたら、恋愛も結婚も身勝手な愛中心になる、という解説の結果の忠告だったのだが、当時のnikkouにはちょっと刺激が強かった。
3年たってようやく、あの時の動揺を、クスクス笑いながら思い出せる。

ヒルティは、カタリナの話に続いて、こういう。
そのような愛は、
「隣人にとっても具合がよい。
というのは、隣人を彼自身のために愛する愛は、ともするとそれに特有な動揺をともない、
いずれにしても神においてその人を愛する愛ほど、不変でも、確かでもないからである。」

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November 06, 2005

「幸福」をも、み手の中に

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月6日


いきいきとした幸福感は、つねにただ新しい仕事や労苦、新しい悲しみを迎えるための元気づけや準備となるべきものであり、(中略)
一方、つらい試煉や意気消沈はいつも新しい、より大きな浄福と神の力とが加えられるための入り口だということである。

これが分かれば、不幸に出会っても落ち着きを失わず、
幸福であってもまじめで思慮深くなる。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティの、この対句は、この半年間だけで、何回読んだだろう。
言い方を変えて、何度も出てくる。

イエスの言葉でいうと、
「今泣いている人々は、幸いである。
あなたがたは笑うようになる。」
と、
「今笑っている人々は、不幸である。
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
(ルカによる福音書6章21節、25節 新共同訳)
が対応するだろうか。

大学生時代に、このみことばを聞いたとき、「つまりは、『禍福はあざなえる縄のごとし』『人生万事塞翁が馬』っていうことでしょ?」と思った。が、ヒルティの、このものの見方考え方は、そんな単純なものじゃないようだ。
彼は、泣きたくなるようなことにも、笑いたくなるようなことにも、深い肯定の意味を見出している。

nikkouは、これまで、辛いとき苦しいときに、主イエスの「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」とか、とか、「神のなさることはみなその時にかなって美しい」(伝道の書 新改訳)ということばに勇気付けられてきたけれど、最近は、その逆のことばのほうが気になる。

幸せは、絶対手放したくない。
そういう気分のとき、主イエスの
「今笑っている人々は、不幸である。
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」とか、
ヒルティの
「いきいきとした幸福感は、つねにただ新しい仕事や労苦、新しい悲しみを迎えるための元気づけや準備となるべきものである」という言葉は、たとえ、それが、神がnikkouに用意した最上のプランであっても、脅しに聞こえる。

ある日の、ゴスペルの練習の帰り道のことである。
その日も、のんきに帰りの電車に乗っていたのだが、
ふと、「電車が脱線するんじゃないか」と思った。
ちょうど、福知山線の脱線事故があった直後だったのもあるけれど、
わたしの利用する路線も、以前、脱線事故で死傷者を出した事があるのだ。
その駅にさしかかったところで、すっと不安がよぎったのである。
練習のあとは必ず、「これからみんな帰ります。神様その足元をお守りください」と祈る。もう常套句みたいなもんだ。
でも、そう祈っておきながら、帰り道に死んだら洒落にならないよな、と思った。
今、福知山線のように脱線して、わたしが死んだら、もう、うちの両親は生きていけないだろうな、と思った。
なんだか、泣きそうになった。
結局無事に帰宅できたわけだけれど、そういうことにも感謝しなきゃいけないのかもしれない、と思った。
実家に電話して、母に、コンサートに来ないか、と誘ってみた。
帰りに、さぬきうどんをおごるよ、と。

今日の礼拝の話に、オリーブ山での主イエスの祈りが出た。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
(ルカによる福音書22章42節 新共同訳)

主イエスだって、苦しいことはいやだったろうと思う。
だけど、主導権は、父なる神に。
主イエスは、この世の命を得ていた33年間は、幸せだっただろうか。
苦しみを乗り越えられたのは、神とともにある、という幸せな確信があったからだろうけれど。

たとえ、「足元をお守りください」と祈った帰り道に、
主が、わたしや、あるいはほかのだれかの命を取り上げる、ということがあっても、
それは、主に考えがあってのことだ。
そのときはそのときで、主のみこころを探るべく、祈ればいい。
主導権は父なる神に。
現在は「不幸に出会っても落ち着きを失わず、
幸福であってもまじめで思慮深く。」
そして、未来について思い煩うな。

そう言い聞かせつつ、
いや、それだからこそ、今日一日、この世にまだ在ることをゆるされて、深く感謝する。

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November 04, 2005

「つまずきの石」になっちゃったかも!

(11月7日改訂)
『眠られぬ夜のために』第一部

「11月4日

世の中には二種類の人間がいる。
その一方の人は、われわれが幸福なときには大へん愛想よく世話をやいてくれるが、こちらが引き続いて不幸におそわれると、すぐさまそっと姿を隠す人たちである。
もう一方の人は、愛想はずっとよくないが、われわれが不幸になっても見捨てない人たちである。

親愛な読者よ、あなたはこの二つのうちのどちらの種類の人に属するか、
また、どちらが立派なに人間であるかを、自分で判断しなさい。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

20050402_2306_000
…という今夜のヒルティを読んで、nikkouは、うわー、困ったなーと思った。
そりゃあ、後者でありたいですよ、心底。
でも、今、友人で、ちょっとしんどい状況にあって、しかも、nikkouと交流がなくなってしまった、という人を数えてみたら、
……5人もいた。

中でも、まだ、なんとなく疎遠になっている、くらいなら修復可能かもしれないが、
一度でも主イエスについて話したことがあって、
でもふとした心のすれ違いのようなことがあって
連絡を絶たれてしまった人の場合、きっと、「クリスチャンってやなやつだな~」と思っているだろう。

イエス様のそばに行きたい、と思っている人の足元に転がって、その人をけつまずかせる存在のことを、「つまずきの石」というらしい。
…nikkouは、「つまづきの石」か。

200511050038000
昨夜、それで、かなりめいってしまって、クリスチャンの友人に電話した。
そうしたら、「そんなの、自分なんかしょっちゅうだ」と即答された。
そうなのか?クリスチャンの友たちよ、それってよくあることなのか?
ノンクリの友たちよ、クリスチャンの友達が「つまずきの石」になったことはあるか?

友人は言う。
「でも、nikkouさんは神様じゃないんだしさ、その人のことを完璧に世話をやくことなんか、不可能じゃない?
最終的に、その人を助けられるのは、nikkouさんじゃなくって、神様だよ。
だから神様にごめんなさいして、彼のためにお祈りしようよ」

ヒルティいう「愛想はよくない」けれど「見捨てない」というような、上手な距離感をとるのはとてもむずかしい。
わたしは逆かもしれない。
いつもあれやこれや世話をやいて、荷が重くなると逃げてしまう。

だけど、彼らを助けるのは、主だ。
おおもとは、そういう自分自身の、主への信頼感が試されているんだろう。

ここで呼びかけても届かないかもしれないが、
本当に、わたしは、あなたのことがずっと心にひっかかっているし、
あなたがいつかその状況から脱出できれば、どんなにほっとするだろう、と
時々、祈っている。
いつか主から赦されて、あなたとの交流が復活したら、こんどこそ、上手に距離感を保てるようになっていたい、と思う。

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November 03, 2005

神様と相思相愛

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月3日

人間がこの世で達成することができ、また人のために役立つものは、
神への愛、したがってあらゆる真と善に対する愛であり、
また共に生をうけているすべての者に対するまことの親切である。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

イエスのことばに、人間にとって最も大切なことは、
①神を愛すること。
②隣人を愛すること。
というのがある。(マタイによる福音書22章37節~39節)
今日のヒルティも、これをもとにしている。
ノン・クリスチャンのころ、nikkouはそのことばを聞いて、
「②の隣人を愛すること、というのは分かるが、①の神を愛する、っていうのは、具体的にどういうことだ?」と思った。
今夜、ヒルティを読んでいて、そのときの気持ちを久しぶりに思い出した。やっぱり、真剣に悩むってのはいいね。後で思い出したときに、いつの間にか、ちゃんと主は答えてくれていたんだな、って気づくから。

okasannobaka
というわけで、今日も、神と人が互いに愛し合っている瞬間を捉えた一冊を紹介したい。
『おかあさんのばか』(写真・細江英公、被写体と詩・古田幸、窓社)。
40年前のひとりの女の子の日常を写したドキュメント写真集である。
古田幸ちゃん。小学校6年生。お母さんが病死して、お父さんとおにいちゃんと3人暮らしである。
お母さんが死んで1ヵ月後、幸ちゃんはお母さんの死を詩につづり、お父さんがそれを新聞に投稿する。その詩を見た写真家が、幸ちゃんの日常を撮影したい、と訪れたそうである。

突然主婦を任ぜられて、幸ちゃんは張り詰めた表情で、洗濯をし、お買い物をし、お料理をし、仏壇の掃除をしている。40年前の日本だから家事労働も手作業だし、決して豊かではないし、失礼だけれど、彼女自身美少女でもなんでもない。すごく、地味な写真集だ。変に同情を誘う感じでもないし。でも、なんだか目が離せなくなるような、強い力がある。

この中に、幸ちゃんの、こんな詩がある。

「教会の神様

おかあさんが死んでから
さびしい日がおおい。
おとうさんやおにいさんは
神様なんていないというけれど
私はやっぱり神様をしんじる。
教会へ来てよかったな。
神様に聞いてほしいことがいっぱいある。
神様に力になってもらいたいこともある。
教会へ行くと
私はおかあさんにあえるような気がする。」

そして、お父さんの添え書き。

「妻も私も、あまり信心のいいほうではなかった。妻が意識不明で眠り続けていた時、苦しい時の神頼みから、水天宮のお守りをもらって妻の心臓にはったものだった。幸は、クラスメートから、教会にいくようすすめられ、私に相談した。私には、とめる権利などあるはずもない。日曜日の朝の幸の顔は、別人のように生き生きとしている。」

お母さんが亡くなって、お父さんもおにいちゃんも、幸ちゃんに気を使っているし、幸ちゃんも、二人を支えようと必死である。「おかあさんのばか!」と叫んでも、お母さんだって辛いだろう。お母さんも好きで死んだんじゃないし。

でも、神様は、お母さんのことも、お父さんのことも、おにいちゃんのことも、そしてもちろん、幸ちゃんのことも、よく知っているし、大切に思っていて、とっても心配しているよ――ということを、教会のだれかが、教えてくれたのかもしれない。

「私はやっぱり神様をしんじる。」
「神様に聞いてほしいことがいっぱいある。」

という幸ちゃんの言葉は、神様への、愛の告白だ。

「神を愛せ」というのは、もう、これだけで十分なんじゃないかな、とnikkouは思う。
幸ちゃんが、大人になっても、神様を愛し続けたかどうかは、分からない。
でも、幸ちゃんが苦しかったひととき、神様と相思相愛になって、幸ちゃんのささやかな生活が守られた、というだけで、nikkouは、神様に感謝の気持ちでいっぱいだ。

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「兵隊宿」

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月2日

この世でたまたま同時代に生きたすべての人たちと
(たとえ恩寵に浴した人びとの間でも)
ふたたび出会い、しかも今度は永久にともに暮らすのだという考えは、
決して特に心の励みになるものではない。
このことは、この地上での確かに理想的でない人間関係についての追憶が、
あの世でも消えないということを前提にしている。
しかし、おそらくわれわれは、むしろそのような関係はすっかり断ち切りたいし、
事実、地上の死によって断ち切ったのである。
忘れるということは、すでにこの地上での浄福の始まりである。
もの忘れのレーテの川がなく、あらゆる苦しいことをいつまでも覚えていては、浄福などはありえないのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

今夜のヒルティ翁は、「神のみ国に入ってまで、つきあいたかねぇ奴もいるやな~」という感じ。
「ま、それはお互い様なんだしさ、天国に入っちゃえば、いやなことは忘れられるってんなら、それは神の恵みだね」と。

なかなか、自分の思いが相手に伝わらず、相手の思いも理解できず、険悪になっちゃうことって、よくあるものだ。
人間関係って難しい。

heitaiyado
さて、最近、竹西寛子「兵隊宿」を読んだ。高校の国語教科書などにも採用される短編小説である。
戦時中、軍港街で出征前の兵隊を民間人の自宅に宿泊させる、という制度があったことを、初めて知った。
この小説では、「兵隊宿」になった家の少年の成長が、出征前の3人の軍人たちとの交流を通してしみじみと書かれる。

小説の中で、軍人たちが少年を連れて、地元の神社に参拝に行くシーンが描かれる。
彼らは、神殿に深く長く頭を垂れる。
少年は、神社裏にある戦死者の墓地に、彼らが気づいてしまうのではないかと気が気でない。

nikkouは、クリスチャンでなかった年月のほうが長いので、竹西寛子が描くような、自分の力では思うようにならないこと(恋愛とか受験とか)を、神社の神に託す心境は、まだ心が覚えている。
だから、この小説のこのシーンを、悲しいなあ…と切なく読んだ。

ああ、戦争でなくなった人々、心傷ついた人々を悼みたい。
シベリアの抑留や戦闘中の死はもちろん、空襲や原爆や栄養失調で死んだ民間の人も、日本の人も中国の人も韓国の人もアメリカの人もドイツの人も、…みんなみんな、その苦しみが慰められ、罪が清められるよう、祈りたい…
…と、思っていた矢先の今朝、首相の靖国参拝擁護のブログ記事を見つけてしまった。
んー、その主旨のものは、つらいからなるべく見ないようにしているんだけどな~。
それは、nikkouたちの作っている国語の教科書が売れないことで有名な、さる保守的な土地柄の地方の、高校の先生のブログであった。
教科は国語…やれやれ。

いわく、
「首相が戦没者を悼むのは当然」
「中国韓国は内政干渉するな」
…先生!nikkouもそう思います!
戦争のことを国の代表者が振り返るのは大切だし、それは、中国や韓国でなく、この国自身の問題だと思います!

日本人は、戦争で苦しんだ人を悼むと同時に、その罪を心にとどめる、という難しい課題をずっと負って来た。
といっても、それは日本に限らない、世界中の多くの国々がそうなんだけれど。
その先生の記事を何度も何度も読んだけれど、先生は、「罪」のほうには触れておられない。
かの神社には、その悲しみと罪とを同時に清める力はない。
「人間」を、――それも、とても限られた「人間」を、拝んでいるから。

かの神社に集うお年寄りにnikkouは、心を寄せたいと思い、そう書いてきた
けれど、現在や未来のこの国の代表者や、この国の人たちが拝すべきは、そういう人為的にくくられた「人間たち」ではなくて、その「人間たち」をも含む、すべての、戦争に傷ついた人びとの、悲しみ苦しみ罪をともに負い、悼み、赦す、もっと大きな「思い」というか、「視点」というか、「存在」なんじゃないか――
…と、書きつつ、ああ、でも、この先生は、そういう考え方は分かってくれないんだろうな、と思ったりする。
んでもって、そういう考えを生み出すようなキリスト教をはじめとする一神教が戦争の元凶になるんだ、とか言ったりするんだろうな。

nikkouは臆病者なので、そのブログにトラックバックしない。
それに、最近、言葉を重ねるよりも、祈りで自分の心を健やかに保ちつつ、自然な行いや、黙って相手にそっと寄り添っているほうが、はるかに大切だ、ということに気づいてきたから。

だから、祈った。切に、そして、強く。
人間の言葉ではなく、神様が直接、この高校の先生の心に触れて、彼の心が変えられるように。
彼のブログに出会えたことに、感謝しつつ。
時々思い出したら、また祈ろうっと。

ks兄、今日は爽やかな話題じゃなくってごめんね。

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November 02, 2005

おとうさんとぼく

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月1日

われわれがこの人生に召されたのは、それに興味がなくなったら、勝手にこの人生から出て行ってよいためではなく、むしろ、神が適当なときにわれわれを呼びもどすまで、自分や他人にとって有益な生活を営むためである。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

daisukihigetousann
ドイツには「おとうさんとぼく」という有名なマンガがある。
作者はe.o.プラウエン。
ドイツに旅行するとき買ったガイドブックにも紹介されていた、ドイツの国民的マンガである。
日本では、青萌堂から「ヒゲ父さん」シリーズとして刊行されている。

せりふのないシンプルなタッチの4こまから8こまくらいのマンガで、
「ぼく」の遊びや本に「ぼく」より夢中になっちゃったり、
宿題を手伝ったら間違いだらけで先生にしかられたり、
「ぼく」のおしりをぺんぺんしようとしたらズボンのほつれに気づいて、そっちのけで繕い物をしちゃったり…と、とかく、「ぼく」を愛してやまない、愛すべき「おとうさん」が、ユーモラスに、そしてポエジーに描かれている。

gomennne_higetousan
だから、作者のe.o.プラウエンは、ナチスに捕らえられて、自殺した、ということを知ったときは、本当に驚いた。
最近の人だと思っていたのに。

当初、ナチスの風刺画を描いていた彼は、当局にねらわれるようになり、
それを逃れて、変名で「おとうさんとぼく」を描く。
その後、反ユダヤ的なマンガを描くよう圧力を掛けられても屈せず、とうとうナチスに捕らえられて自殺した、というのである。

saikoudanehigetousan
これを知ったときのnikkouの気持ちを、言葉にあらわすのは難しい。
んー、なんと言ったらいいんだろう。
つらいなあ…、と、思い、そして、語弊を恐れずに言えば…きっと彼には祝福がある、というか、なんか、そんな思い、がした。

nikkouは、同世代のご多分にもれず、戦後教育の中で、戦時中に圧力を掛けられて殺された人の話を、ずいぶんと聞かされてきた。
幼いころのnikkkouは、そういう話に触れるたびに、
「死んでしまったら、元も子もない、苦しい死に方をするよりは、主義をまげてでも生き延びるべきだ」と思ったり、
「いや、命より大切なものがある、やはり正義を貫くべきだ。」と思ったり、
両極の「べき」論にあちこち揺れてきた。

でも、e.o.プラウエンの話を知ったときは、なんだか、そういう「べき」論ではない、複雑な思いがした。

こんなにも、愛に満ちたマンガを描く人だ、もし節をまげて、えげつないユダヤ人蔑視のマンガを描いていたら、戦後、どんなに良心の呵責に苦しめられたか分からない。
でも、自殺するとき、彼は、「ああ、これでいいんだ、自分は正しかったんだ!」と、胸を張って死に飛び込んだだろうか。「自殺」ということの暗さを思うと、やはり、苦しかっただろうな、と思う。そんな時代に生きたことに、そして、そんな時代にどうしても時局におもねるマンガを描くことのできなかった「不器用」な自分に、深く絶望したかもしれない。

正義を曲げて生き延びても、正義を貫いても、苦しい。
そんな状況におかれた彼の「自殺」は、今夜のヒルティが言う、「人生に興味がなくなった」ゆえの自殺ではなく、「処刑」に近い気がする。

でも、nikkouは思うのだ。
極限状態を生き延びて、その後良心の呵責に苦しまれる人生であっても、主は、赦してくれるのではないか。
また、正義を貫いて、命を失う人生であっても、主は、それをいとおしんでくれるのではないか。

いま、プラウエンからわたしたちの手元へ遺された、愛らしいマンガ集に、感謝する。
プラウエンの最期を、主が赦し、その戦いの傷を癒してくださいますように。

nikkouはいつか、主のみ国でプラウエンに会えたら、伝えたい。
あなたの苦しみを、わたしは理解できないかもしれないけれど、
でも、あなたのユーモアには、いっぱい笑ったよ。
とっても楽しかった。
すてきなマンガをありがとう、って。

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November 01, 2005

豊橋・ホザナ・ゴスペル・クワイアーに行ってきた!

『眠られぬ夜のために』第一部10月30日

「ルカによる福音書11章36節について。
われわれに起こる最もよい かつ 最も決定的な事柄は、
つねに雷光のような性質を帯びるものである。
それは、恩寵の光線であり、別世界から来る光の輝きであって、
たいてい、真理の洞察を与えるばかりでなく、
同時に積極的な行為への励ましでもある。
その時、すばやく決意して、すぐさま実行するのが、
人間のなすべき努めである。
そうでないと、恩寵の閃光はすぐ消え去ってしまう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

nikkouの親しい友人がスタッフをしている豊橋ホザナ教会で、ゴスペル・クワイアーを立ち上げるというので、オープニング・ワークショップに行ってまいりました。

豊橋ホザナゴスペルクワイアー、ホームページ

praisethelord
ディレクター(指揮者)は兼松弘子さん。
失礼ながら、nikkouはこれまで知らなかった方なのだけれど、今回ワークショップに参加して、一緒に歌ってみた感じ、相当の歌唱力と指導力のある人とお見受けいたしました。
「ゴスペルは初めて!」という人たち大勢を、見事にひとつにまとめておりました。

豊橋方面で、ゴスペルをやってみたい、と思っている方は、このクワイアーにはかなり期待してだいじょうぶ。

練習日は、毎月第1・第3金曜 19時~21時
月会費は、3,000円
営利は目的とせず、市民サークルのような感じで、今後、コンスタンスに練習を続けて、いずれコンサートなどもしたい、とのことです。

今夜、ヒルティは言う。
「最もよい、最も決定的な事柄」は、きらりん!とひらめきのように訪れる。
そうしたら、もう、すぐに行動に移せ!積極的に、そのひらめきを実行に移せ!
さあ、勇気を出して!

nikkouも、4年前にゴスペルをやろっかな~と思ったのは、ふとした思い付きのようなものだったけれど、そんな「思いつき」をひらりん、きらりん!と与えてくれた神様に、いま、すっごく感謝している。
…  当時はクリスチャンじゃなかったから、神様が与えてくれた思いだとは想像もつかなかったけどね。

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