「兵隊宿」
『眠られぬ夜のために』第一部
「11月2日
この世でたまたま同時代に生きたすべての人たちと
(たとえ恩寵に浴した人びとの間でも)
ふたたび出会い、しかも今度は永久にともに暮らすのだという考えは、
決して特に心の励みになるものではない。
このことは、この地上での確かに理想的でない人間関係についての追憶が、
あの世でも消えないということを前提にしている。
しかし、おそらくわれわれは、むしろそのような関係はすっかり断ち切りたいし、
事実、地上の死によって断ち切ったのである。
忘れるということは、すでにこの地上での浄福の始まりである。
もの忘れのレーテの川がなく、あらゆる苦しいことをいつまでも覚えていては、浄福などはありえないのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)
今夜のヒルティ翁は、「神のみ国に入ってまで、つきあいたかねぇ奴もいるやな~」という感じ。
「ま、それはお互い様なんだしさ、天国に入っちゃえば、いやなことは忘れられるってんなら、それは神の恵みだね」と。
なかなか、自分の思いが相手に伝わらず、相手の思いも理解できず、険悪になっちゃうことって、よくあるものだ。
人間関係って難しい。
さて、最近、竹西寛子「兵隊宿」を読んだ。高校の国語教科書などにも採用される短編小説である。
戦時中、軍港街で出征前の兵隊を民間人の自宅に宿泊させる、という制度があったことを、初めて知った。
この小説では、「兵隊宿」になった家の少年の成長が、出征前の3人の軍人たちとの交流を通してしみじみと書かれる。
小説の中で、軍人たちが少年を連れて、地元の神社に参拝に行くシーンが描かれる。
彼らは、神殿に深く長く頭を垂れる。
少年は、神社裏にある戦死者の墓地に、彼らが気づいてしまうのではないかと気が気でない。
nikkouは、クリスチャンでなかった年月のほうが長いので、竹西寛子が描くような、自分の力では思うようにならないこと(恋愛とか受験とか)を、神社の神に託す心境は、まだ心が覚えている。
だから、この小説のこのシーンを、悲しいなあ…と切なく読んだ。
ああ、戦争でなくなった人々、心傷ついた人々を悼みたい。
シベリアの抑留や戦闘中の死はもちろん、空襲や原爆や栄養失調で死んだ民間の人も、日本の人も中国の人も韓国の人もアメリカの人もドイツの人も、…みんなみんな、その苦しみが慰められ、罪が清められるよう、祈りたい…
…と、思っていた矢先の今朝、首相の靖国参拝擁護のブログ記事を見つけてしまった。
んー、その主旨のものは、つらいからなるべく見ないようにしているんだけどな~。
それは、nikkouたちの作っている国語の教科書が売れないことで有名な、さる保守的な土地柄の地方の、高校の先生のブログであった。
教科は国語…やれやれ。
いわく、
「首相が戦没者を悼むのは当然」
「中国韓国は内政干渉するな」
…先生!nikkouもそう思います!
戦争のことを国の代表者が振り返るのは大切だし、それは、中国や韓国でなく、この国自身の問題だと思います!
日本人は、戦争で苦しんだ人を悼むと同時に、その罪を心にとどめる、という難しい課題をずっと負って来た。
といっても、それは日本に限らない、世界中の多くの国々がそうなんだけれど。
その先生の記事を何度も何度も読んだけれど、先生は、「罪」のほうには触れておられない。
かの神社には、その悲しみと罪とを同時に清める力はない。
「人間」を、――それも、とても限られた「人間」を、拝んでいるから。
かの神社に集うお年寄りにnikkouは、心を寄せたいと思い、そう書いてきた。
けれど、現在や未来のこの国の代表者や、この国の人たちが拝すべきは、そういう人為的にくくられた「人間たち」ではなくて、その「人間たち」をも含む、すべての、戦争に傷ついた人びとの、悲しみ苦しみ罪をともに負い、悼み、赦す、もっと大きな「思い」というか、「視点」というか、「存在」なんじゃないか――
…と、書きつつ、ああ、でも、この先生は、そういう考え方は分かってくれないんだろうな、と思ったりする。
んでもって、そういう考えを生み出すようなキリスト教をはじめとする一神教が戦争の元凶になるんだ、とか言ったりするんだろうな。
nikkouは臆病者なので、そのブログにトラックバックしない。
それに、最近、言葉を重ねるよりも、祈りで自分の心を健やかに保ちつつ、自然な行いや、黙って相手にそっと寄り添っているほうが、はるかに大切だ、ということに気づいてきたから。
だから、祈った。切に、そして、強く。
人間の言葉ではなく、神様が直接、この高校の先生の心に触れて、彼の心が変えられるように。
彼のブログに出会えたことに、感謝しつつ。
時々思い出したら、また祈ろうっと。
ks兄、今日は爽やかな話題じゃなくってごめんね。
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Comments
いやいや、とんでもない。
確かに、ソーー常識論なるものが、あるね。
その人は、ほんとうに、いい人なのですよ。ただ、世界が、せまい、といえますが、どうすれば広くなるかは、わかりません、ね。
いつか、広くなる、ことも、あるでしょう。その人の、人生ですね。きっと、きっと、きっと、きっと。
Posted by: kkss | November 03, 2005 at 04:45 PM
きっと、きっと、きっと!
そうですね。神様も、その先生のことを愛しているんだしね。
Posted by: nikkou | November 03, 2005 at 11:28 PM