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November 06, 2005

「幸福」をも、み手の中に

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月6日


いきいきとした幸福感は、つねにただ新しい仕事や労苦、新しい悲しみを迎えるための元気づけや準備となるべきものであり、(中略)
一方、つらい試煉や意気消沈はいつも新しい、より大きな浄福と神の力とが加えられるための入り口だということである。

これが分かれば、不幸に出会っても落ち着きを失わず、
幸福であってもまじめで思慮深くなる。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティの、この対句は、この半年間だけで、何回読んだだろう。
言い方を変えて、何度も出てくる。

イエスの言葉でいうと、
「今泣いている人々は、幸いである。
あなたがたは笑うようになる。」
と、
「今笑っている人々は、不幸である。
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
(ルカによる福音書6章21節、25節 新共同訳)
が対応するだろうか。

大学生時代に、このみことばを聞いたとき、「つまりは、『禍福はあざなえる縄のごとし』『人生万事塞翁が馬』っていうことでしょ?」と思った。が、ヒルティの、このものの見方考え方は、そんな単純なものじゃないようだ。
彼は、泣きたくなるようなことにも、笑いたくなるようなことにも、深い肯定の意味を見出している。

nikkouは、これまで、辛いとき苦しいときに、主イエスの「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」とか、とか、「神のなさることはみなその時にかなって美しい」(伝道の書 新改訳)ということばに勇気付けられてきたけれど、最近は、その逆のことばのほうが気になる。

幸せは、絶対手放したくない。
そういう気分のとき、主イエスの
「今笑っている人々は、不幸である。
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」とか、
ヒルティの
「いきいきとした幸福感は、つねにただ新しい仕事や労苦、新しい悲しみを迎えるための元気づけや準備となるべきものである」という言葉は、たとえ、それが、神がnikkouに用意した最上のプランであっても、脅しに聞こえる。

ある日の、ゴスペルの練習の帰り道のことである。
その日も、のんきに帰りの電車に乗っていたのだが、
ふと、「電車が脱線するんじゃないか」と思った。
ちょうど、福知山線の脱線事故があった直後だったのもあるけれど、
わたしの利用する路線も、以前、脱線事故で死傷者を出した事があるのだ。
その駅にさしかかったところで、すっと不安がよぎったのである。
練習のあとは必ず、「これからみんな帰ります。神様その足元をお守りください」と祈る。もう常套句みたいなもんだ。
でも、そう祈っておきながら、帰り道に死んだら洒落にならないよな、と思った。
今、福知山線のように脱線して、わたしが死んだら、もう、うちの両親は生きていけないだろうな、と思った。
なんだか、泣きそうになった。
結局無事に帰宅できたわけだけれど、そういうことにも感謝しなきゃいけないのかもしれない、と思った。
実家に電話して、母に、コンサートに来ないか、と誘ってみた。
帰りに、さぬきうどんをおごるよ、と。

今日の礼拝の話に、オリーブ山での主イエスの祈りが出た。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
(ルカによる福音書22章42節 新共同訳)

主イエスだって、苦しいことはいやだったろうと思う。
だけど、主導権は、父なる神に。
主イエスは、この世の命を得ていた33年間は、幸せだっただろうか。
苦しみを乗り越えられたのは、神とともにある、という幸せな確信があったからだろうけれど。

たとえ、「足元をお守りください」と祈った帰り道に、
主が、わたしや、あるいはほかのだれかの命を取り上げる、ということがあっても、
それは、主に考えがあってのことだ。
そのときはそのときで、主のみこころを探るべく、祈ればいい。
主導権は父なる神に。
現在は「不幸に出会っても落ち着きを失わず、
幸福であってもまじめで思慮深く。」
そして、未来について思い煩うな。

そう言い聞かせつつ、
いや、それだからこそ、今日一日、この世にまだ在ることをゆるされて、深く感謝する。

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Comments

nikkouさん、こんばんは。
私の躓きの石は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でした。「御心のままに」という言葉は、後で付け加えられたという説もあるそうです。鯨に飲み込まれたヨナのように「ちょっと違うんじゃないの!」と神様に怒っても、それはそれで許されることだと私は思っています。あんまり善いクリスチャンじゃないかもしれませんね!

Posted by: ゴトウ | November 07, 2005 at 10:06 PM

あはは。
わたし、ゴトウさん、好きかも。

「御心のままに…アーメン…」なんて、口先で言って、
心の中で、「くっそー、何でこんな目にあうんや~」って思っていても、神様からは心の中までまるっとお見通しですもんね。そんなら最初っから正直にしてたほうが、楽かも。


Posted by: nikkou | November 07, 2005 at 11:25 PM

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