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December 31, 2005

手製分冊聖書

12月31日『眠られぬ夜のために』第一部

「これからはひたすら正義と善とに仕えよう、
しかもそうする機会が求めずして現れるに従ってそれをしよう、と
一旦固い決意を抱いたならば――これはたしかに、あらゆる「よい計画」のなかで最も理にかなったものである――、
そうなれば、日も月も季節も年も、いや、生涯の終りの大多数の出来事さえも、気にかからなくなり、
暦もほとんど無用な道具になってしまう。

(中略)

さあ、安心しなさい。
あなたがこれまでと違った者になろうと真面目に思うなら、人間の智恵や教えなどなくてすませる時期が訪れるであろう。

(中略)
そうなったら、神があなたのためになされたご苦労に対し、また、ようやく目標に達したあなたの生涯について、神に感謝をささげなさい。

では、御機嫌よう。また、そうなるために勇気をもちなさい。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

たいへんごぶさたしておりました。
えらく忙しい年末でありました。
で、ありながら、クリスマスには、我が家のような久遠ゴスペルクワイアーと、川崎教会にて、たいへんおちついたひと時を過ごすことができました。
主イエスの誕生に感謝。

また、今年も健康に過ごせましたこと、感謝。
一年かけて読んだ『眠られぬ夜のために』(第一部)で得た、クリスチャンとしての思索の時に感謝。
ヒルティの言うように、主がわたしのこころに、主にとっての、正義と善とをお与えくださいますように。
その時が来るを心待ちにしつつ、より一層の決意を。
そして、今年は特に、ブログを通して多くの兄弟姉妹たちに出会えましたこと、心から感謝します。

来年は、『眠られぬ夜のために』の第二部に突入したく思います。
愛する兄弟姉妹のみなさま、来年もどうぞよろしくお願いします。

そしてまた、来年の抱負は――

聖書通読です!

通読表も手に入れたことですし、これから一年これに従って読もうと思います。
だいたいnikkouの読書タイムは、通勤電車内なのだけれど、聖書は電車の中で立ったまま読むには重すぎる!
…ということで、
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聖書をばらばらに分解してしまいました。
これは、『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと』の野村一彦のアイディアを拝借したものです。野村一彦は、病が重くなって聖書をもてなくなってきたとき、分解したとのことです。

ちなみに、本というのは、だいたい16ページで一束になっていて、その束を背で糊付けしたり糸でかがったりしてできているので、背表紙をはずしたあと、16の倍数のページでぐうぅぅぅっとひらくと、ぱりっとはがれるんです。
こうして束(専門用語で、「折」といいます)に分けてから、
きりのいいところをカッターで切り離し、
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ホッチキスで綴じ、
画用紙で表紙をつけ、
題箋も貼った、手製分冊聖書を作りました。
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これで通読できなかったら、聖書がもったいないね。
がんばろーっと。

これから横浜の実家に戻ります。
3日には戻ります。
ではでは、みなさまよいお年を。

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December 16, 2005

なつかしくて耐えられぬように

「祈       八木重吉

ゆきなれた路(みち)の
なつかしくて 耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい」

「無題     八木重吉

神様 あなたに あひたくなった」


毎晩毎晩、残業で遅いので、
今日は、えいっと決意して、仕事をはやめに切り上げ、残った分は明日に先送りすることにして、
シャロームゴスペルクワイアーに歌いに行った。
久しぶりにみんなと歌う賛美である。

行ってよかった。
八木重吉の詩に節をつけて歌った。
こんなにも簡単なことばに、胸うたれて、声がつまった。

「ゆきなれた路(みち)」とは、きっと、家路、ふるさとへの道、そしてそれは天国への道、祈りの道。
あまりのなつかしさに、胸がつまって、泣きながら、ゆくのだ。

もうひとつ、八木重吉の詩を。

「こども

きりすとを おもひたい
いっぽんの木のように おもひたい
ながれのように おもひたい」

(『八木重吉全集』筑摩書房)

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December 11, 2005

神が世は、千代に八千代に

『眠られぬ夜のために』第一部

「神の本当のしもべに対する神みずからの信実は、まことに大きなものであって、このような人間がただ一人でもいれば一国の不幸を防ぐことができる。不幸が避けられない時には、その前に、このようなしもべは神のもとに引きとられる。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

神との関係をしっかり結んだ人は、国を救う。
しかし、その人の命は、神のものだ…。
ヒルティはさらっといっているけれど、これはけっこうダイナミックな歴史観ではあるまいか。

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仕事で文部科学省にゆくと、玄関に「さざれ石」がドカンと鎮座ましましている。
人の世が、千代に八千代にさざれ石の巌となしてコケのむすまで、続くはずがない。
そのことは、古典の時代からさまざまに言い習わされてきた。
国が敗れて残るのは山河だし、諸行は無常である。
「草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は、
とこしえに変わることはない。」(イザヤ書40章8節)
だから、
「かみ が よは ちよ に やちよ に」と歌ったほうが、正確。
たった一字で、えらい違いである。 

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先日、「日露戦争」を調べる必要があって、「詳説日本史」(山川出版社)の最新版を開いた。(本書は、日本史の教科書のなかで一番売れているもので、国語の教科書も自然とそれを頼らざるをえなかったりする。)
そこには、「日露戦争に反対した」3名の知識人が太字で記されている。
「『君死に給ふことなかれ』の与謝野晶子
「社会主義者の幸徳秋水
そして、「キリスト教徒の内村鑑三」である。
わたしも子どもの頃、この文脈で内村鑑三の名前を覚えた。
(余談であるが、一年前の夏、初めて「無教会」の人に出会ったとき、時代劇の登場人物の末裔にあったような気がしたのは、この「歴史教科書」のせいだ、と思う。)

ちなみに某社の国語の教科書には、内村の「非戦論」が近代日本の代表的な文章として掲載されていたりする。

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「キリスト教徒ゆえに、日露戦争に反対した内村鑑三」というフレーズは、内村をあまりに「型」にはめすぎている、という文章をどこかで目にしたことがあるが、
それでもやはり、「キリスト教徒」ゆえの行動が、歴史に記される、というのはなかなか名誉なことではないか、と思ったりする。

しかし、内村鑑三は、はたして、ヒルティの言うように「一国の不幸」を防いだのだろうか。

そもそも、キリスト教のルーツ、主イエスの出自は、「国なき民」であるユダヤ人だった。
のみならず、彼はユダヤ人のナショナリズムを逆なでするようなことを平気で言い放っていたし、
「国」のために命を捨てよ、などとは言わず、「友」のために命を捨てることは大いなる愛だ、なんて言う。
ということは、「友」が韓国人やアメリカ人ということもありうるわけだ。
そういう価値観の中で、「一国の不幸」とは、なんぞや。

たしかに、内村鑑三は、日露戦争を止められなかった、かもしれない。
日露戦争から、日中戦争、そして第二次世界大戦へと続く、国の苦難への道のりをとどめることはできなかった、かもしれない。
でも、そんな時代をいくつも乗り越えてきて、
今なお、読みかえす価値のある言葉を残した、ということが、
ひょっとしたら、これからの「一国の不幸」を避ける力、になる、のかもしれない。
今後の「一国の不幸」とは、なにか、今はまだ分からなくても。

だって、ほら、神の世は千代に八千代に、である、
神様にとっては日露戦争から2005年の間なんて一瞬だ、
さらに今から100年後くらいに、主は、
「昨日、日本でわたしと仲が良かった内村って男の信仰は、一国の不幸を避けえたでしょ。」なんて、言うかもしれないよ。

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December 06, 2005

小さくなって待ちましょう

12月7日『眠られぬ夜のために』第一部

「事の大小にかかわらず、われわれは倹約でなければならない。しかし、これは贅沢をすることが、必要なものさえ持たぬ多くの人たちに対して一つの不正であるという理由からだが、また、倹約によって十分なほどこしができるようにするためである。

ルカ福音書12章20節
『すると神が彼に言われた。「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意したものは、だれのものになるのか」』

(中略)
だから、あなたがそれでもなにか贅沢というものをしてみたければ、『力以上の施しをする』のが、最も立派な、しかも最も無害な贅沢である。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

必要以上のものを持っていても死んだら意味がないから、人にあげちゃったほうがいい、という考え方は、クリスチャンでなくっても常識的なものなんじゃないか、と思う。
しかしヒルティは、さらに「贅沢は必要なものさえ持っていない人への不正だ」という。先日読んだ『ドイツ体験レポート』(島崎てる久)に同じような考えの倹約家のドイツ人の例が出ていた。そのドイツ人は自分の貯蓄をふやしてゆくことは、飢餓地域の人への間接的な殺人だ、とまで言うらしい。

先日あった証券マンは、「趣味はボランティア。自分も楽しみつつ、人のためにもなる」とのたまわっていた。いいひとなんですよね、基本的には。でも、そんなの、そう得意げに言うことじゃないんじゃないのか、とつっこみそうになった。なんでも、経済的にゆたかじゃない国の孤児院を訪問する団体に関わっているそうである。しかし、あなたが今、箸でつまんでいるそのエビチリのえびがどこの国から来たのか、知ってる?本は読まない、って言ってたから、考えたこともないのかもしれないけれど。

nikkouも、10年来、月に1日、障害者介助のボランティアをしている。その相手方の女性もこのブログを読んでいてくださるので、このことを書くのはいささか面映いのであるが、今、言わずにはいられないので、勇気を出して書く。

介助にゆくのは、正直辛い朝もある。
仕事が忙しくて疲れていたり、体調がすぐれなかったり、天気が悪かったりすると、行きたくね~、と思う。
そんな時には、介助も粗雑になってしまって、申し訳ないと思う。
それでも、
わたしのようなものでも、
いないよりはマシか、――そう思って、次の日曜も彼女の家に向かう。

わたしが介助に関わる事で、障害者福祉は変わったか。
変わらない。きっと、関係ない。
わたしにできるのは、彼女の生活が「普通に」営まれるよう、月に一日だけ、手伝う、それだけである。


経済的に貧しい国の子供たちに一生懸命援助し、時に現地を訪れ、ともに歌ったり遊んだりする…それ自体は、すばらしい。なにも批判はない。

しかし、どんなに援助をしても、そのうち何人かは、売春婦や麻薬の密売人になるだろう。生きること自体が苦しい、そういう国だ。
子供たちの苦難は、本当は、政治や経済や社会の問題だ。
そして、直接・間接的に、先進国の消費者であるわたしが、彼らを苦しめる一端を担っているかもしれない。

でも。でも、なにもしないよりは、せめて、なにか、せめて、なんぼかでも――
その含羞と、罪悪感を、
このひととは、共有できない…

別に、泣け、というのではない。暗い顔をせよ、というのでもない。
nikkouだって、介助をしているとき、泣いたり同情しているひまがあったら、動け、ということを身をもって学んだ。

ただ、君には、恥ってものがないのか?と、それだけが言いたかった。「明るさ」ばかりが正しいのではない。

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Kikiさんというゴスペルシンガーがいる。
彼女の率いるゴスペルクワイアーも、フィリピンのストリートチルドレンの支援に関わっているのだが、
いつも、コンサートのたびに、マザーテレサからの手紙を読む。
彼女がマザーに宛てた手紙の返信だという。
彼女が、マザーになんと訴えたのかは、本人が明かさないので分からない。
ただ、ネガティブな内容であることはたしかだ。
それに対するマザーの返信は(正確にはわからないのだが、覚えている限りでは)、こういう内容だったと思う。

――ただ、小さくなって、主を、待ちましょう。

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主を待ちましょう。
いつか、主が、平和な神の国を作ってくださる日を。
いつか、主が、再び来て、すべての涙を拭い去ってくださる日を。

それまで、わたしたちは小さく、謙虚であらねばならない。
わたしたちにはなにもできない。
なにか、偉大なことがなされるとしたら、それはわたしたちではなく、神のみわざだ。

「ボランティア」なる活動をするとき、わたしたちは神ではない、ということを肝に銘じなければならない。
そして、だれかのこと…障害をもつ人のこと、病をもつ人のこと、家を失い、親を失ったこどもたちのこと…を、その本当の辛さ、悲しさ、苦しさを、わたしは本当に理解することはできない、わたしのことを、他人が正確に理解してくれることのないように―ということを、きちんとわきまえた上で、
せめて、なにか…という思いを、を形にする。
自分にできるのはそれくらいのことだ、ということを、わきまえて、
含羞をわすれないことだ、と、そう思っている。

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December 04, 2005

ホリエモンなんて、うらやましくないし~

『眠られぬ夜のために』第一部

「…有名な詩篇90篇は、おそらく最も古い祈りであろうが、今日もなお当時と同じように新鮮で美しい。

(中略)

…内容の豊かさと魂を揺り動かす力とにおいて、聖書にくらべうる書物は昔も今も存在しない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

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昨夜、学生のための就職セミナーに招かれた。
出版社に勤める社会人として、学生にアドヴァイスをしてくれ、とのことだった。依頼をくれた友人には、再三「わたしは、なんの役にもたたないと思うよ」と言っておいたのだが、実際、役に立たなかったようだ。

というのも、招かれた社会人のうちわけは、不動産(2名)、金融(4名)、商社(2名)、メーカ(2名)、マスコミ(nikkouと、某テレビ局スタッフ)といったところ。区分けに従ってテーブルに座ったわれわれ社会人のところに、学生が質問にくる、という仕組みである。
不動産や金融、商社は大盛況で、
nikkouに聞くことといったら、
「ぼく(わたし)は、あまり本って読まないんですけど、出版社ってどんな仕事をしているんですか」
「ぼく(わたし)は、本は好きなんですけど、趣味と仕事って別じゃないですか」
…もう、帰ろっかな~(笑)。

その後の懇親会で相席したのは某証券会社の営業マンで、nikkouと同い年くらい。
いわく、「成功した人から話を聞かないと、意味がない。ホリエモンの本は参考になる。役に立たない人は友人とは言えない。人生は一回しかないので、夢をかなえないと意味がない、自分の夢は、1億円を稼いで、退職して世界一周をすること、そして、子どもと孫に経済的な負担をかけさせないこと…うんぬん」
それに、「そうですよね~」「あ~わかります~」とかあいづちを打つ学生諸君。

んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
なにかなー、この恥ずかすぃ~感じは。
いや、お金を稼ぐこと自体は、けっして悪い事ではない。
nikkouが最近愛読している「クリスチャン女性中間管理職のLOHASライフ」のLammyさんや、「思い悩むな! 」のゴトウさんは、一生懸命働いて、それなりの利益を得ていて、すがすがしく、かっこいい。
彼女たちと、このお兄さんたちとの違いはなにか。
知性?教養?品位?哲学?目的?理想?

nikkouの勤めている会社はよく、「採算度外視した良書を作っている」といわれたりするが、とんでもない。
ちゃんと原価計算をし、定価部数を決定し、在庫管理をしている。印税も社員の給料も出てます。
とはいえ、出版界全体の一年分の売り上げ額は、某自動車メーカー1社の一年分のそれにも及ばない。本のベストセラーをテレビの視聴率に換算すると、番組は打ち切りになる。だいたい、ベストセラーになっても有名になるのは著者であって、編集者ではない。
出版とは、経済的な成功からも、社会的な名声からも遠い商売である。

会社で、同僚(nikkouの1コ下)が、頬を紅潮させて帰社する。
「○○先生に会ってきた。やっぱ、頭のいい人だった。ほんとうにすごかった!」ときらきらと輝いて言う。
ホリエモンには嫉妬しないけれど、そんな彼女に、嫉妬する。
また、彼女の編集した本が仕上がって、ぱらぱらと開くと、「うわっ、センスいいなあ~こんなところに、こんなに綺麗な図版をいれやがって~」と息をのむ。
三木谷さんには嫉妬しないけれど、そういう本を見ると、嫉妬する。

「社会的に成功した人」ではないけれど、日のあたらないところで、こつこつと研究や創作活動を続けてきた人の、
その仕事に胸を打たれて、
「本」という形あるものに残すことをお願いし、
それを手にしてくれたどこかの誰かの心に、なにかの影響を与える…
という仕事も価値がある、と思うけれど、
ま、「社会的に成功した人」以外の人の話は聞いても意味がないし、
だいたい、ホリエモンの本以外の本なんて読まないよね、めんどくさいし。
お呼びじゃなかった、ということで。

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おりしも、徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄さんから「いのちの水」という小冊子が届いていた。
「神の言葉に従ったら明白なよいこと、例えば人びとからの称賛や豊かさ、健康、家族の平和、よい職業などが与えられるという保証はない。」
「キリストの言葉、神の言葉に従うことは、何かこの世的によいことを期待することでなく、未知の世界に飛び込む決断なのである。それは、神の言葉が何ものよりも強く魂を導き、やむにやまれぬものが内からうながすのである。」
「キリストに従って、その言葉を聞き取り歩んでいくときには、どこまでも続く恵みの深みの世界へと導かれ、想像することもできない霊的な世界へと導かれる。」

帰って、ヒルティを開けば、詩篇90篇はすばらしい、という。
「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
人生はため息のように消えうせます。」(9節)
「わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。
わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし
わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。」(17節)

nikkouが、金銭的な見返りの少ないこの仕事においても、主に感謝し、主の栄光を現すことができるよう、祈ることができるのは、こうしたクリスチャンの先輩たちの励ましがあってのことだ。

就職セミナーで「nikkouさんのおすすめの本はなんですか?」と聞かれた時、「好きな本って、聞くとその人の知性のほどがばれるよね」なんていやみをいわずに、「聖書。」とひと言、言えばよかった。

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December 03, 2005

キリスト教をためしてみる

12月2日『眠られぬ夜のために』第一部

「われわれは、すべての疑い惑える人や、不幸な人、もしくは孤独な人たちにこう呼びかけたい。

『ぜひ一度キリスト教をためしてみなさい。
なるほどあなたは、これまで有りとあらゆることを試みたでしょう。こんどは一度キリスト教をためしてみなさい。この教えのほうでも、あなたがそうすることを歓迎するでしょう。』

マタイによる福音書11章28節
『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

「キリスト教をためす」というのは、なんだか楽しい言い方だ。
試着してみる、試食してみるって感じ。
以前クリスチャンの友人を自宅に招いたら、母が友人に、
「あなたは、ご両親もキリスト教をやってるの?おじいちゃんやおばあちゃんもやってるの?」と聞いたので、「やってる、ってなんだよ」とあとで友人とふたりで笑ったものだ。
でも、学ぶ、とか、信じる、とかいうより、
「キリスト教をやる」、「キリスト教をためす」という言い方のほうが、イエスキリストが生活そのもの、という感じでいいのかもしれない。

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クリスマスが近づいてきている。
町はクリスマスのデコレーション一色だ。
nikkouの職場は、おもちゃ問屋街のはしっこにあって(以前は老舗出版社らしく本の町神田にあったのだけど、25年前に倒産して、都落ちしたのだ。)、この時期、この町はもう、まぶしいくらいになる。
去年、クリスマスの飾りつけがほしくなって、昼休みに散策したのだけれど、ほしいものがなかった。
nikkouは、天使とか、聖家族とか、三賢者とか、そういう感じのものがほしかったのだけれど、
お店に並んでいるのは、サンタとツリーと雪だるまと、熊、のオーナメントばかり。
なんで熊!?

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そんななかで、天使がいっぱい遊んでいる木製のツリーを見つけた。
今年も取り出して飾ってみた。
ちいさな王冠がぽろっと出てきた。お人形のどれかから落ちたんだろうけれど、…どれだぁ?
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今年はフェアトレードのお店でみつけたフィリピン製のリースも飾る。
真ん中に、御茶ノ水のクリスチャンセンターで買ったクリスマスカードを貼ってみた。
フェアトレードというのは、経済的に豊かではない国には、「援助」ではなく、「フェアな貿易」をしましょう、という取り組みである。フェアトレードの商品にはちょっとしたアジア雑貨が多く、悪くない。
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4年前の、クリスチャンになって初めてのクリスマスの日、教会のクリスマス会で、子供たちや年配の兄弟姉妹たちとキャンドルサービスをし、お祈りをし、聖書を読み、歌を歌い、牧師夫人の手作りのケーキを食べながら、胸がかぁっと熱くなった。
「ああ、そうだ、子どもの頃のクリスマスって、こういう日だったなあ」って。

nikkouはクリスチャンホームではなかったけれど、子どもの頃、クリスマスには家族みんなでケーキを食べた。
おとぼけの母がろうそくをともすなり「ハッピバースディツーユー」と歌いだし、
幼い4人姉妹もなんとなくそれに和し、
「ハッピーバースディ、ディア・・・」のところで、一瞬、つまったが、
「イエスさまぁ」と、みんなしてちゃんと続け、
「ハッピバースディ、ツーユー!」と歌い終えたのだった。
夜8時くらいになると、近所の教会付属の幼稚園の先生たちがキャンドルサービスに回ってきて、
団地のベランダから、まさに雁首そろえて家族みんなで一緒に歌った。
1曲終わるたびに、拍手をした。
うちの家族だけじゃなく、団地中のあちこちから拍手がたくさん降ってきて、
楽しかった。

nikkouは、たぶん、とても愛されて育ったのだと思う。
そのことに、普段はまったく気づかないけれど、
クリスマスソングを聴くこの季節になると、ふっと、思う。
両親に感謝しよう、と思う。

やはり、4年前、クリスチャンになって最初のクリスマスの日、
ラジオでは、「恋人とどんなクリスマスを過ごすか」なる特集と、ラブソングがガンガンかかっていた。
クリスチャンになりたてのほやほやで、去年まではそういうクリスマスにどっぷりつかっていたのだから、
急に賢しらに批判的なことを言うまい、とは思いながら聞いていたら、
番組の最後に、DJが言った。
「クリスマスというのは、本当は、イエスキリストの誕生をお祝いする日ですからね。
近所の教会に、お出かけになってみてください。
どこの教会でも、今日は、キャンドルサービスをやっていて、
だれでも入れるはずです。
では、メリークリスマス!」

jon_kabira
ちょっとほっとした。
このDJとは、「家が買えるぞ~」のCMでおなじみの、ジョン・カビラさんである。

ことし、nikkouの教会でもクリスマス会をする。
24日土曜日。
4歳のかなちゃんが、おもちゃのピアノで弾き語りをするそうだ。

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