« December 2005 | Main | February 2006 »

January 29, 2006

「白バラの祈り」―ゾフィーの勇気はどこから

『眠られぬ夜のために』第二部

「1月31日

あなたは、この人生において、よき人間にならなくてはならない。
つねに善き霊の励ましにしたがい、
それ以外のすべてのものをこばむ人間にならなくてはならない。
それ以外のことは、たとえしばしば世の耳目をそばだてようとも、
大事な事ではない。
現在にとっても、未来にとっても、そういうことはほとんど問題にはならない。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

200601292255000
「白バラの祈り」を観てきた。
圧倒された。
映画の筋や、俳優たちの熱演については、nikkouが書くよりも、すでに的確に表現している人たちがおられるので、関心のある方はご参照のほどを。


~Aufzeichnungen aus dem Reich~ 帝国見聞録

我想一個人映画美的女人blog

それにしても、反ナチスのビラを配っただけで、逮捕され、尋問され、名ばかりの弁護人がついた裁判で裁判官にののしられ、死刑にされる、という一連の動きに、慄然とする。
「白バラ」がしたことは、ビラを配っただけ、それだけである。だれも殺していない、だれも傷つけていない。

この映画に関して、監督がインタビューの中で
「ゾフィーのようなポジティブな女性がなぜ死に向き合うことができたのか。堂々と死に向かって歩んだ強さはどこからきたのか。神を信じる者は死と向き合いやすくなるのか」(『AERA』)と語っていたことは、先だって書いた。
また、各ブログでも、彼女の信仰と行動の関係について、「なぜそこまで?」と問いかける発言を目にした。

nikkouは、主人公ゾフィと同じプロテスタントのキリスト者であるのだけれど、
なぜ彼女はかくも強いのか、信仰がそうしたのか、と問われると、
はっきりと答えられない、というのが正直なところである。
nikkou自身は、そのような状況に接した事がないからである。
信仰とは、死を克服できるのか、良心にかくまで忠実でいることを促すのか。
…nikkouも試してみたい、なーんてことも思わないけどね。怖いよ、正直。

ただ、彼女の言動の背景にあるものは、知っている。
(分かっている、ではなくて。)

zophy
息詰まる審問のなかで、
審問官はゾフィに、
「国はお前の学生という身分を保証している。なにが不満で、反ナチ運動を行うのだ」という問いかける。
ゾフィは「ナチスの行いは自分の良心に反する」と答える。「ユダヤ人や精神障害者の虐殺が正しいとは思わない。」と。
審問官は「人間がそれぞれ良心を主張し始めたら、秩序がなくなる。」「精神障害者は、価値のない命だ」と主張するが、ゾフィは、きっぱりと言うのだ。「命は尊い。」「裁くのは、神だ。」
神だ―、とのせりふと同時に、審問官は、椅子を蹴って立ち上がり、「神などいない!」と怒鳴りつける。

…神などいない。
本当にいなかったら?nikkouの心に、ざわっと恐怖がゆらめいた。
神がいなかったら、ゾフィの存在など、嵐のなかの、木の葉だ。
ちぎれて、飛んで、くだけて、なにも残らない。

しかし、ゾフィは、微動だにせず、きっと審問官をにらみつけるのである。
ああ、信じているのだ、とnikkouは、ぐっとした。
ゾフィは信じているのだ。
主なる神が、すべての命をつかさどっていることを。
そして、現在も未来も、神が見通していることを。

審問を終えて、
審問官が手を洗うシーンが映し出された。
キリストの裁判のとき、裁判の責任を放棄したポンテオ・ピラトが手を洗ったことを彷彿とさせる。

ゾフィが牢獄で祈る、ひとつひとつの祈りもまた、
イエスの、逮捕から処刑の祈りを思い起こさせた。

200601292256000
逮捕された夜、彼女は
「神様、わたしの心をあなたに捧げます。平安を与えてください。」と祈り、
審問のさなかには
「神様、あなたはわたしの救い主です。どうか見捨てないでください。」と祈る。

主イエスは逮捕前に、
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)
と祈った。
死刑を目前に動揺し、しかし決意を固める様子は、主イエスに通じる。

圧巻は、断頭台に向かう直前の、ゾフィの祈りである。

「栄光に輝く神よ、
この地上に種をまいて実り多い土地に変えてください。
神様に目を向けない人々にも願いが届きますように。」

アーメン(そうでありますように)。
映画館の中で、nikkouは、小さく、彼女に和した。

アメリカのブッシュ大統領のイラク戦争以来、
キリスト者への風当たりが強い。
しかし、キリストを、「この人をみよ。」(ヨハネ福音書19章5節)
主は、暴力を持たない。

昨日の、石原兵永の文章から。
「(イエスの戦いは)
暴力 対 暴力の戦いではなく、
暴力 対 神の真理の戦いでありました。
イエスは神の国と神の義をつらぬいて、みずからは暴力をつかわずに、神のみこころに従って、
わが身を暴力のなすがままに全部ゆだねてしまった。
そして、そのことによって、悪の力を無効にし、無力化してしまった。」

| | Comments (12) | TrackBack (9)

プチうつ克服

1月26日『眠られぬ夜のために』第二部

「…キリスト教は幸福をもたらすということになると、
だれでも自分で味わってみることができるのだし、
生涯にただ一度だけでもそういう幸福の思い出があれば、
それひとつだけでも、あらゆる教理にはるかにまさる、ゆるぎない証明となるのである。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

imaikan
今日の午後、無教会の講堂「今井館」で、「石原兵永に学ぶ会」という勉強会があった。
相澤氏(以前、nikkouに「主にあって」の意味を教えてくれた老紳士)に誘われたので、石原兵永という人が何者かも知らないまま、ほいほい行ってみた。石原氏は、ずいぶん前に亡くなったらしい。その著書「イエスの招き」(山本書店)をテキストに、輪読する、という会だった。

よかった。
ことばは易しいのに、核心をついたことを言う。

(神の国とは)アメリカとかソ連とか日本とかいう国ではないのです。しかしイエスという人物の中に神の霊が宿り、その霊の力が人間世界の中で、彼に接する人間のたましいに作用をおよぼし、悲しむ者を慰め、苦しむものに力を与え、悩むものに救いを与える事ができる。そこに神の国が現実的に経験できるのです。それならば私たちにもよく理解できるでしょう。(中略) しかしそのことを経験しても、それを神の働きとみとめないものは、イエスに宿る神の国を受けることができません。だからイエスは言った、「わたしにつまずかないものは幸いである」と。

神の国とは、イエスに出会って幸いを与えられた、その場その時のことなんだ。でも、それを感じていながら、こんなの「神」の力なんかじゃない、とおもっちゃう人は、神の国にいられないんだよ、ってことでしょう。

加えて、相澤氏のお話も、よかった。
人間はみんな「霊的存在」なんだ。神の霊にも感応するし、悪の霊の影響も受ける。どちらかというと悪の霊のほうの影響を受けやすいけど、神の霊だって、だれにでも、ひとしく触れているんだよ、ということをおっしゃっていた。
上記のヒルティとも通じる気がする。

じつは、今朝、すさまじく調子が悪かった。
体調、というより、精神的な不調。
布団を離れても、気力がわかずに、床にへたりこんでいた。
部屋がきたな~く感じられて、ここにいるのがいや。
でも、外出するのも、だるくていや。居場所がない感じ。
やばいな~プチうつかな~、と、居心地のわるい気持ちで横になっていた。

ぼーっとしたまま3,4時間たって、「あ、今井館いかなきゃ」と頭痛薬を口にほおりこんで、家を出た。
nikkouの家は、今井館のすぐ近くである。
これが幸いしたんだと思う。遠かったら、結局、家を出られなかったと思う。

勉強会が始まっても、しばらくぼけーっとしていたんだけれど、
石原兵永の文章に引用される聖書のことばが、どれともなく、なんだか、ぴしりぴしりと身を打つ感じ。
詩篇23編で「あなたの鞭とあなたの杖。それがわたしの慰めです。」という一節があるけれど、
まさに「鞭」状態。
おかげでだんだん目が覚めてきて、そして、上記の相澤氏のことばに、はっと胸をつかれたわけ。
悪の霊―nikkouの場合、一週間分の仕事の疲れとか、茨木のり子風にいえば「水遣り」を怠って、ぱさぱさになってしまった感受性とか、そういうネガティブなもろもろに、やられかけていたんだ。
主の霊がほしいな~と思い始めたら、心が浮上してきた。

prd95e4ldgxodh_236
会が終わって、
電車に乗らず、家まで歩いた。
なんでだろう、元気になってきた。
エマオの旅人の気分。
心が燃えてくる。
主イエスがともにいる。
悪の霊なんか怖くない。

200601290129000
なんだかどんどん元気になってきて、雑貨屋さんでブックカバーを買った。
読書欲がわいてきた。
バーゲンでセーターを買った。
あかるい服を着て、また来週も仕事に挑もう、と思った。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

January 25, 2006

「白バラの祈り」を観にいこうと思う

1月23日『眠られぬ夜のために』第二部

「2千年前のパレスティナの文化よりもずっと高度な文化にキリスト教を適合させることができるということ――これを世間に証明してみせることが、われわれの使命である。(以下略)」

(筑摩叢書版・前田敬作訳)

200601250001000
1972年刊行の筑摩叢書版『眠られぬ夜のために』(前田敬作訳)を手に入れた。
もう、古書店でしか買うことができないものだけど、文章は、こっちのほうが平易。
今後は岩波版と併用していこうと思います。

さて、以前、ネットを逍遥していたら、「キリスト教が嫌いだ」という文章に行き当たった。
まあ、実にいろいろと書いてあったけれど、その中に、ちょっと印象深い一節があった。

その人は、どこぞで、あるキリスト教徒が「聖書は、年金問題も解決する」という意味のことを言っているのを耳にしたらしい。
…キリスト教徒というのは、2000年以上も昔に書かれた本で、現代の問題が解決すると本気で思っているのか、つくづく「おめでたい人たちだ」。…うんぬん。

なるほど。

しかし、今のnikkouに言わせると、
キリスト教に限らず、宗教の内包する倫理や思想や哲学や悟性や歴史を何も知らずに、年金問題をはじめとする経済や政治や社会の問題に取り組んで、解決できる、と考えているほうが、よっぽど、「おめでたい」と思うが、いかが。

そりゃ、聖書は魔法の本ではないので、ページを開くと「年金問題についてはこうしなさい」と具体的な指針が書いているわけではない。でも、聖書の伝える、ものの見方考え方を自分で咀嚼していて、信仰でどしっと腹がすわっていて、自分の生きる方向性についても、びしーっと背骨が通っている人と、何の哲学もなく時代に翻弄される人とでは、仕事の仕方が違うと思うが、いかが。

jugoxwtzwd
1月28日から、映画『白バラの祈り―ゾフィー・シェル、最期の日々』が公開される。
「1943年、ヒトラー打倒を呼びかけた地下組織「白バラ」の一員であり、信念を曲げずに自ら死を受け入れたゾフィーの最期の6日間を描いた人間ドラマ」。(『AERA』・1月30日号)
公開されたら、絶対観にいこうと思っている。

先日、書店で彼女の書簡集「白バラの声」(新曜社)を見つけて、ぱらっとめくったら
はっと息を呑む一文が目に入ってきた。

4-7885-0219-4
「祈っていてさえ、神を感じることもできない。…(中略)…でも、これに対抗する手立ては祈りしかないのよ。…(中略)…私は神がイエス・キリストを通して投げ与えてくださった綱にしがみついているしかないわ。私の手は痺れて、もう自分が綱を握っているのかどうかもわからなくなってしまっているけれど。」
(1942年11月18日)
処刑される3ヶ月前に書かれた手紙である。
わたしは、こんな絶望と希望のせめぎあい、ねがわくは、ごめんこうむりたいものだけれど。
でも、人生なにが起るかわからないからね。先輩には学んでおこうと思うよ。

映画の監督は無神論者だそうで、だから、ゾフィーの信仰を描くことに一番苦労したという。
「ゾフィーのようなポジティブな女性がなぜ死に向き合うことができたのか。堂々と死に向かって歩んだ強さはどこからきたのか。神を信じる者は死と向き合いやすくなるのか」(『AERA』・同)

…さあ…。nikkouも、まだ「求める」途上にある人なので、この監督と共に問いかけたい気分だ。

1月24日『眠られぬ夜のために』第二部
「ただしく送られた生涯の最後のモットーは、平和と慈愛というのでなくてはならない。
(中略)
短命におわった非常にすぐれた人たちを例外として、
たいていは、これが成就されるのは、かなり晩年になってからである。」
(筑摩叢書・前田敬作訳)

| | Comments (3) | TrackBack (4)

January 22, 2006

主婦ってなに?

1月21日『眠られぬ夜のために』第二部

「良い結婚は、おそらくこの世のあらゆる宝のなかで最上のものであり、しかしなんといっても一番独特なものである。(中略)
しかし、そういう良い結婚のためには、相互のまことの愛情のほかに、せひとも次の二つのことが必要である。
第一には、双方がひとしく純潔で結婚生活に入らねばならないこと。
第二には、夫が家計の維持者で稼ぎ手でなければならないことである。
(中略)
彼女たちはもう一度家庭の主婦らしくならねばならない、決して単なる美的生活の享楽者になってはいけない。(以下略)」
(岩波文庫・草間・大和訳)

今夜ヒルティが戒めているのは、お金持ちのお嬢さんが新婚の夫の安月給に耐えられないでいることと、
逆玉の輿にのってぶらぶらしている夫、のことらしい。そんなんがいたんだ、100年前のスイスには。

残業で遅くなった帰り道、同僚と、「あ~あ、帰ったらおいしいご飯と、あったかいお風呂が用意できていて、おかえりなさ~い、おつかれさま~って抱きしめてくれるヒトがいたらいいな…」なんて話したりする。
男の人の場合、「そんなオヨメさんがほしいな~」ってなるところなんだろうけど、私たちは誰にそれをもとめたらいいんだろう。そんなことをしてくれる「オムコさん」はいるかしら。

先日ゴスペル仲間との食事で、同じテーブルに夫婦ものがいた。夫のほうが「自分は家事を手伝っているほうだと思う」と言ったら、友人(女性、30代)が、「家事を手伝う、っていう言い方自体がそもそも間違ってる。家の仕事も自分の仕事だと思ってやれ!」と一喝した。お~。

昨年、ニューヨーク在住の友人が一時帰国した。ニューヨークでは、「バイトをしたり、専門学校に行ってみたり、通訳のボランティアをしたりしながら、ぶらぶら生きている」んだそうだ。
好奇心が旺盛なひとで、新聞や広報を見ては、あちこちの講演会やらワークショップやらに出席していた。
そこで困った事がひとつあった、という。
自己紹介を求められた時、日本の流儀では、「○○大学のなにがしです。」「○○社で建築の仕事をしていますなにがしです。」といわねばならない。たしかに、nikkouも社名を言うなあ。
「あたし、どこにも所属してないからさぁ、なんていっていいか分からなくって。今度聞かれたら、ニートです、って言おうかな」と、友人は笑っていた。
ちなみにNYでは、「建築に興味があります」とか「美術を学んでいます」って言えばいいらしい。本当?

そういえば、時々そういうところで「主婦です。」って言ってる人を見る。
将来、nikkouも、結婚したあとに失職したら、「主婦です。」って自己紹介するのかな。
しかし、「主婦」ってのは所属を表すんだろうか。
NY流に「聖書を学んでおります」とかって言ってみようか。

また、昨年の話だが、クリスチャンの集まりで自己紹介をしていたとき、
「○○集会のなにがしです。」「××教会のなにがしです。」とみんなが言う中で、
「なにがしです。えーと・・・、愛妻家です。」と自己紹介した兄貴がいた。
そうしたら、離れて座っていた奥さんが、「あ、わたしも、夫が大好きです。」と自己紹介した。
場がわーっと沸いたのだが、
あれは、よかったな。
いつか、わたしも、
「nikkouです。国語教科書の編集をしています。聖書について学んでいます。あと、夫が大好きです。」なんて自己紹介してみたいもんです。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

January 21, 2006

十字架を負え

1月21日『眠られぬ夜のために』第二部

「人がみなそれぞれに持っている十字架を、われわれもまた受け取り、背負うべきである。
それをふり捨てようとしてもなんの益もない。
むしろそのために一層重くなるだけである。
しまいには、十字架がなくなると、物足りなく感じるほど、それに慣れてしまうことさえまれではない。
ところがわれわれは、たいていの場合、もう十字架の必要が全くなくなったとき初めて、その意味を悟るのだ。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

「十字架を背負え」というのは、イエス自身の言葉である。

161168
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
(マタイによる福音書16章24節)

しかし、「十字架を背負う」って具体的にどういうことなんだろう。
ヒルティは、「ひとそれぞれに持っている十字架」と言い、
イエスだって、「自分の十字架」って言うくらいだから、
人によって違うものなんだろうな、と思ったりする。

さらにほかのところで、イエスは、

semiradsky2
「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28節・29節・30節)

と言っているから、
同じ背負うものでも、「十字架」と「重荷」とは区別されているものなんだろう、とは予想がつくけれど。

また、今夜のヒルティが言う「十字架の必要が全くなくなったとき」っていつだろう?
死ぬ時ってことだろうか。

となると、ここでいう「十字架」ってのは、クリスチャンとして生きている限り、ひとりひとりが負わねばならない役割、とか、使命、とか、そういったもの、ということだろうか。

さて、今週も、しんどかった。毎日、帰りが10時11時になった。
身体に痛かゆいぼつぼつができて、精神的にもむやみに落ち込んだ。
毎年、この時期が忙しいのは、珍しいことではない、いや、もっとすさまじい年だってあった。
今はかえって慣れてきたくらいだと思っていたのに、なんなんだろうな~。

振り返って思うに、ちょっとしたミスでも「ああ、もうっ、いい歳して何やってんだ!」って感じるんだよね。
転職以前も含めて編集部も7年目となると、失敗が許されなくなってくる気がするのだ。
職場には、とても恵まれていると思う。だからかえって、自分がふがいないというか、チャンスや環境を生かしきれないことが悔しい、と思う。

論語で「三十にして立つ」「三十而立」ってのがあるじゃないですか。ほんと、「30歳だ、しっかりしなければ」ってのはあるね。
よく、四十歳のひとが、「不惑なんていいますが、いやあ、惑ってばかりですよ~」なんてことを言うけれど、「而立」ってのも、いやはや、難儀なことです。

無理やり今日のヒルティにつなげるならば、出版の仕事を通じて自分に課された使命を果たすことが、nikkouの「十字架」なのかもしれない。良い本を作ること、売ること。
途中で投げ出しても重くなるだけ。やがて物足りなくなるほど慣れてしまう…。
そんなものかな。
もうひとがんばりしよう。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

January 19, 2006

自分の感受性くらい

『眠られぬ夜のために』1月19日

「正しい、誠実な、かつ率直な親愛は、兄弟姉妹や親戚の間では、およそこの上なくよいものである。
けれどもそれは義務でなく、自由意志に基づくべきものであり、
ただ感情だけではく、理性をもって扱わねばならない事柄である。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

兄弟姉妹や、親戚との親愛について(…この場合、両親は入らないのかな。)
義務でなく、自由意志にあって愛する、
感情だけでなく、理性ももって付き合う…。
とはいうものの。

nikkouは、親兄弟を愛しているか、と問われれば、愛している、と答えるけれど、
もし、彼らが親兄弟じゃなくって、職場の同僚上司や、学校の同級生として出会っていたら、好きになっただろうか。ちょっと、わからない。確実に、「好き!」と言える「親友」とか「恋人」とかと違って、なんだか、もう、彼らは好きか嫌いかなんて、超えた存在になっているような気がする。

4480705627
茨木のり子さんに、「じぶんの感受性くらい」という詩がある。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」

(茨木のり子集「言の葉」2 筑摩書房)

この詩を、歌手の沢知恵さんが中川五郎作曲の節で歌っている。
歌のなかでは、「近親のせいにはするな」を「親のせいにはするな」としている。

watashigaichibankireidattatoki
(余談だが、この歌を含むアルバム「わたしが一番きれいだったとき」は、絶品です。
カバー中心なのだけど、
松田聖子「スウィートメモリーズ」を大人なjazzyな感じに歌い上げていたり、
ユーミンの「ひこうき雲」を、友人の故・鷺澤萌にささげていたり、
さだまさしの「人生の贈り物」をハングルまじりで、しみじみと語っていたり、
もー、本当に、「いい歌いろいろ」であります。)

さて、親のせいにするな、である。

nikkouは、5年前に、ためていた夏冬のボーナスを胸に、突然、家を出た。
母親に言わせると、「飼い犬が綱を噛み切って飛び出したみたいだった」らしい。
とにかく、このままじゃ、わたしはだめになる、と思ったのだ。
両親の甘く暖かい監視と保護の中で、いつの間にか、20代も半ばをすぎていた。

安アパートの生活は刺激的だった。
薄い壁をとおして、隣の生活が筒抜けだった。
右隣はヒゲをはやした29歳くらいの男の人で、時々彼女さんが来て、家庭的な香りをはなち、楽しそうなおしゃべりや笑い声が高く聞こえた・・・かと思うと、突然ふっと静かになったりした(笑)。

親と同居中は買わなかった下着とミニスカートを買い、
友人と深夜まで長電話をした。
親がいやがる障害者介助のボランティアにも復帰した。
…根が真面目だったので、まあ、その程度だ。

親に合鍵を渡していたので、母親が、始終様子を見に来た。
nikkouが会社に行っている間にアパートに入り込み、ふとんを干し、空気清浄機を持ち込んで空気を浄化し、食料を補充して帰り、夜遅くなっても電話に出ない、といって押しかけてきたりした。
数年前に「このまま狼藉が続くようなら、合鍵を取り上げる!」と宣告したら、
すさまじく落ち込み(←妹の報告)、
しかし、意外とあっさりと慣れたらしく、
去年は、年末年始と、あと3回くらいしか、会わなかった。

親離れ子離れに、3年くらいかかった。
で、急にヒルティに戻るけれど、
「義務でなく、自由意志にあって愛する、
感情だけでなく、理性ももって付き合う」というのは、けっこう格闘が必要なのだ。
実は今も、親との関係はよく分からないでいる。

苛立つくらいなら、親なんか捨てろ、
アダムとイブだって、「父と母を離れて、…一体となる」っていうじゃないか、
と、以前偉そうに、友人にぶちかましたら、
「それは、nikkouに、家を出る金があったからできたことだ」といわれた。
まあね。でも、びんぼーだったよ。今もだけど。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

January 14, 2006

ライフスタイルフォーラム

1月15日『眠られぬ夜のために』第二部

「われわれが毎日、まのあたりに見ている現在の世界秩序には、多くの欠陥があると思わずにいられない。
このことは、とりわけ、無数の人たちの物質的および道徳的悲惨を見たり、
また人間以外の被造物に対して、ほとんど処罰も受けずに加えられている虐待ぶりを見る時、
疑う余地がない。
本当に善良な素質を備えた多くの人びとが、このために無神論者になってゆく。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今日は、「ライフスタイルフォーラム」で「わたしにできる食べること」を聞いてきた。(今はやりの、「スローライフ」提唱者のひとりである文化人類学者の辻信一さんと、無農薬野菜を宅配する「大地を守る会」会長・藤田和芳さん、そして、岩手のおしょうゆやさん・河野和義さんの鼎談。)

200601141157000
辻さんの講演会というのは、いつも20~30代とおぼしき聴衆が多い。
「スローライフ」というキーワードは、環境問題や社会運動などを、なにやら楽しげでおしゃれなイメージにすることに成功しているのかもしれない。
…のだけれど、巷ではイメージが一人歩きしてしまって、辻さんは不本意かもしれないけれど、「時間とお金とセンスのある主婦がやること」というイメージにもなっている気がする。ある男性雑誌では、「モテる男」の条件のひとつに「スローライフについて語れる(ただし実践してはならない)」と書いてあって、ちょっと笑った。

nikkouの仕事である国語教科書では、「環境問題」は必須のテーマである。
どの学年でも、必ず、「自然を大切にしましょう」という話が出てくる。
高校の場合は、たいがい、文明批判から始まって、結論は次のうちのどれかになる。

1.現代人は、利便さを追求するあまり、なにか大切な何かを見失ってしまったのではないだろうかー。
2.いまや、環境問題は、一国を超えて、世界規模で考えなければならなくなっているのであるー。
3.環境問題は、ひとりひとりが考えていかなければならないことであるー。

教科書は、このなかのどれかを言えば「環境問題」は正解・・・というマニュアルをつくり上げてきてしまった。

しかし、教科書を作っていてこんなことを言うのもなんだが、どれももっともであって、うそくさい。
だって、教科書を読んでいるのは、現代人が「大切な何かを見失ってしまった」後に生まれた子どもたちだし、
「世界規模」の問題解決を、10代の子どもに迫っても、無力感をあおるだけだし、
「ひとりひとりが考えていかなければ」をパラフレーズすると、「わたし以外のひとりひとりが、考えてくれると助かります」になる気がする。

結果、「自然は大切です」という建前と、「でも、わたしとは関係ないです」という本音の生徒が、国語教育を受けた学校ではぞろぞろ生まれる、というしくみになっているんです。すみません。

辻さんたちの運動というのは、
要するに、そういう「建前」を、「建前」にせず、ちゃんと、生活の中で実践していきたい、ということなんだろう。

しかし、すでに「大切なものを見失ってしまった」現代、「世界規模」の問題を、「ひとりひとりが考えていく」って、具体的になんなんだ。
無農薬・国産の野菜や調味料を使い、エアコンは低めに設定し、時々キャンドルナイトを実践し、自動車ではなくなるべく歩くことが、はたして解決になるんだろうか。
・・・ということを、考えている人(nikkouも含めて)のために、
辻さんは講演会でよく、「ハチドリのひとしずく」という話を語る。南米の民話だそうだ。
4334974910

「森が燃えていました。森のいきものたちは、われ先にと逃げていきました。でもクリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたり、くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは、火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て『そんなことをしていったい何になるんだ』と言って笑います。クリキンディはこう答えました。『私は、私にできることをしてくるだけ。』」(「ハチドリのひとしずく」監修・辻信一、光文社)

ちなみに本日のヒルティの、結論を簡潔にまとめると、こういうことになる。

1.過去や現在がひどくっても、将来のことはだれもわからない。
2.どんな事情の中にあっても、「愛」があれば、絶対不幸にはならない。

家族や、この国や、地球上の隣人と被造物を愛していて、将来について悲観的にならず、できることをすこしずつ実践していけば、環境問題も、解決する日がくる、かも、しれない。というと、まさに「教科書的」ですが。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

聖書通読は、単純にけっこう楽しい

『眠られぬ夜のために』第二部

「1月13日

人間の生活は、神の恵みによって、
また恵みの中にあって、
堅固になっていないかぎり、
えてして傲慢になりやすく、
また意気沮喪(そそう)しやすいものであって、
しばしばこの一方の極端からただちに他の極端へ移りさえするということは、まぎれもない事実である。
だから、つねに祈りにたよって、自分の力を頼まぬことが、すべての地上の道のうちで、最も確実な道である。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

なんだかんだ言って、一週間、駆け抜けた。
忙しかったよ。
でも、最終的に、いい本ができあがればいいんだ。どんなに段取りが悪くったって。

ヒルティは鋭い。
毎日、一瞬で、極端から極端へなりがちであります。
仕事の能力も、人間関係も、ささいなことで、落ち込んだり自意識過剰になったりする。

そんな毎日だけれど、
朝ごとに通勤電車の中で聖書を読む時間は、単純にけっこう楽しかった。
とくに旧約聖書は、読み慣れない文体、読み慣れない展開、読み慣れない価値観に、驚きの連続である。

「創世記」は、映画化されるだけあって、大スペクタクルだ。
ノアの箱舟も、バベルの塔も、ストーリーとして面白いだけじゃなく、なにやら、意味深長というか、深遠な思想の気配を感じさせる。

並読している「エズラ記」は終わって、今「ネヘミヤ記」なのだけれど、このあたりは、nikkouにとっては、どうしても「外国の古代史」である。いまいちピンとこない。

だから、「使途言行録」6章14節で、ステファノへの中傷として取り上げられている、

「彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」

というのは、中傷ではなく、一面の事実だったのではないか、という気がしてくる。
「エズラ記」の時代であれば、ユダヤ民族ではないnikkouなど、離縁されたり、呪われたりする立場なわけだから。
そして逆に、ユダヤ人たちが、イエスとその仲間たちにいらいらしたのも、納得がいく気がする。何千年も苦しみながら守り抜いてきた民族の慣習をやぶって、どうして、異邦人たちと神の恵みを分かちあってしまうのか・・・ってね。

nikkouはやっぱり、キリスト教徒だ。
わたしの信仰に、主イエスは、はずせないな、と思う。

毎朝、電車の中で、そんなことなどあれこれ思い巡らしているから、
以前よりは、朝の頭が活性化しているかも?
これも、「恵み」の中にある生活、って言っていいかな。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

January 10, 2006

過ぎ去ったことは済んだこと

『眠られぬ夜のために』第二部 1月10日

「いつまでも同じ考えに、そればかりか同じ思い出にこだわっていてはならない。
過ぎ去ったことは済んだこととして、現在なすべきことを行わなければいけない。
『処世の知恵とは、ある一事を行い、それをなしとげることだ。
あなたがなしうる最も良い、最も正しい事をしようと努めなさい。
――しかし、そうしたあとは、それをすて措く(おく)がよい。』」
(岩波文庫・草間・大和訳)

さて、あらためて、本日のヒルティを読む。
先へ先へ、前進せよ、というヒルティ翁の仕事術は、一年間読んできて、よく分かっているつもり、だった。

…のだけれど、
最近、忙しいわりに、妙に仕事に充足感がない。
残業で遅いくせに、焦燥感と徒労感ばかりが残るというか、「良い働きをした」という気がしないというか、
もっとはっきり言うと、
「ああ、わたしって要領が悪ぃなぁ」
「すっげー無能かも」という自己否定感に苛まれるのである。

今日は、とうとう、残業で疲れたからだを引きずって書店に入り、
「デキる人の時間管理術」みたいな、ちゃちな実用書を買ってしまいましたよ、ええ、気休めです。
でも、ここに書いてあるようなことは、みんな、やっているはずなんだ。
月ごと週ごとの目標をたてる、出社したらまず今日やるべきことを書き出す、優先順位をつける、優先順位の高いものからやる、90分ごとに休憩をとる、…うんぬん。
…なのに、この不全感はなんだ。

帰宅後、
メールボックスを開いたら、最近、正直いうと惰性で取っている「みことばメールマガジン」に目が釘付けになった。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:23) この例え話では、多く儲けた者も少ない者も同じ言葉で主人から褒められています。神様はどれだけ上手くできたかという結果ではなく、私たちの過程を見てくださるお方です。他人の才能や賜物と比べて、すでに自信をなくしていませんか?(以下略)

(携Devo_LIC)

はい。自信をなくしています。

不全感の原因は、じつは、最初からよく分かっていた。
同僚や上司の眼が気になって気になって仕方がないのである。
どうも、nikkouは、スマートかつエレガントに仕事ができない。
どたばたどたばた、がさがさ、じたばた、おろおろ、ガチャガチャ・・・。

同僚の手際が、とても見事に思える。
そして、上司は、そんな同僚のほうを、評価しているような、気がする。

お前の主人は、会社の上司か?
主人は、まさに「主」イエスだろうが、「主」に恥じない、正直な仕事をしろ、
と一喝された気分でありました。

ちなみに、nikkouが思うに、主は、「過程」も見ているけれど、「結果」まで、見通す方なんじゃないか。この例え話で、主人はちゃんと「結果」も聞いているしね。
わたしたちの仕事の結果がでるのは、まだまだずっと先だ。
今から、くよくよしてどうするよ。
主が、よい結果へと、日々の過程を導いてくださいますように。

気分もあらたに、明日に備えることにします。
おやすみなさい。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

January 09, 2006

聖書通読グッズ

『眠られぬ夜のために』第二部 1月10日

「いつまでも同じ考えに、そればかりか同じ思い出にこだわっていてはならない。
過ぎ去ったことは済んだこととして、現在なすべきことを行わなければいけない。
『処世の知恵とは、ある一事を行い、それをなしとげることだ。
あなたがなしうる最も良い、最も正しい事をしようと努めなさい。
――しかし、そうしたあとは、それをすて措く(おく)がよい。』」
(岩波文庫・草間・大和訳)

nikkouの、現在なすべきこと、それは、聖書通読であります。
今のところ、順調。
plan_b
一日4章がノルマで、
聖書同盟」の「聖書通読の計画表」を活用しています。
1月に読むのは「創世記」「エズラ記」「詩篇」「使徒行伝」の4つ。
「エズラ記」など、初めて読んだ。
当初はなにがなにやらさっぱりわからず、岩波書店の分冊版聖書や「文明のあけぼの 古代オリエントの世界」(集英社 三笠宮祟仁)などを参考に、おぼろげに時代背景を理解しました。

おりしも、パレスチナを取材中の友人から、イスラエルが建築しつつある分断の壁の写真が送られてきました。
エズラ記のころ、ユダヤ人たちの帰還と、神殿建築は、平和的になされたんだろうか。

さて、もうひとつ、聖書通読グッズを作りました。
分冊聖書を持ち歩くためのバインダーです。
200601082014000
200601082016000

ボール紙に化粧紙を張って、
ゴムを通しただけの簡単なものだけれど、
これで、分冊をかばんに放り込んでもばらばらにならない!

200601082017000
200601082018000

意外に、こういうこまかーいグッズが
やる気に繋がったりするのよ。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

January 08, 2006

不思議な出来事

『眠られぬ夜のために』第二部 1月7日

「(「超感覚的な出来事」=奇跡のことか?について)

…それを見るのは、聞くよりもずっとまれであって、
それだけ一層驚くべきことであり、
たいていはただ重大な危険の際にある助けとして現れるにすぎない、
したがって、いつでも励ましや慰めのためという親しみのある感銘を一様に残すとは限らない。
しかし、もし親しみのある種類のものであれば、
それは類なく美しい出来事である。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

年賀状に、このブログのことを書いたので、
ノンクリスチャンの友人たちもこのブログを見ているかもしれない。
うわー、こいつ、いっちゃったな~、
とかなんとか、思っているでしょうか。
そうなのよ、私、クリスチャンになっちゃったのよ。
長い付き合いの友人たちにしてみれば、「クリスチャンnikkou」ってのは思いもよらない一面だったりするかも。
興味がわいたなら、今後も時々ブログ、見に来てください。

さて、今夜、ヒルティは「超感覚的な出来事」について書いている。

すごーく正直に言うと、
nikkouは、あんまり、非現実的なことを信じない。
黒人さんたちの礼拝にはびっくりしたし、
これもまた、すごーく正直に告白すると、「異言」とよばれる、あの現象も苦手です。

で、ありながら、
これもまた、すごーく正直に告白すると、
人の意思を超えた、なにかの働きを、感じずにはいられなかった、経験を持っている。

あまりべらべらしゃべると、人が引くだろうな、と思って
親しい人にしか話した事がないんだが、
今日は、ヒルティに促されて、打ち明けてみようと思う。

7年前のことである。社会人になってすぐの春の話である。
nikkouがクリスチャンになるのは4年前なので、まだ、ぜんぜん神様を信じていなかったころ。


最初に入社した会社は、役所の書類を作るような会社で、
当時の未熟なnikkouには、創造性もなければ、感動もない、非常につまらない会社に思えた。
大手だったので、分業もこまかくて、nikkouは一応編集部だったけれど、著者に会うことも企画を出すこともできず、ただ、厳しい締め切りのもと、誰かがもらってきた原稿にひたすら組み指定をするだけ。
nikkouは、人文系の出版社での「創作の現場に立ち会う」みたいなことにあこがれて、この職業についた。
しかし、思い描いていた「編集者ライフ」と、その職場はあまりに遠くかけ離れていた。

「こんな仕事で、わたしは一生を終えるのか!?わたしは歯車か?」と、仕事が始まるなりショックで原稿の上に涙を落とした。
こうして一と月たち二た月たち、先行きは一向に変わる気配もない、と気づいたある日、
とうとう、職場を走り出て、
…たいへん恥ずかしいことですが、
会社のビルの陰で、…泣きました。
若かったなあ……

しばらく、涙にかきくれていた、その時。
…なんていうのか、
すっと、さしこむように、声が聞こえた、というか、ある感覚、みたいなのを感じた。
それを、あえて言葉にするなら、こんなことを言ったような、気がした。

「だいじょうぶだから。」

その時のnikkouは、ぜんぜん、「だいじょうぶ」な状況じゃなかった。
不満と不安でいっぱいだった。
なにが、だいじょうぶなんだ。

…しかし、不思議と、その瞬間、すっと気が休まって、そのまま何事もなかったように、職場にもどって、
黙々と仕事をした。
のみならず、ぐっと仕事に怒りや不満がこみ上げてきた時、
あの「だいじょうぶだから。」という感覚がよみがえってきて、ほんのすこしだけ安らぎをもたらしてくれた。

それから2年後、希望していた人文系の出版社に転職、
自分で時間管理ができる状況になったので、
趣味として、ゴスペルを始めた。

そのゴスペルスタジオで、nikkouは、主イエスに出会うのである。

別にダイナミックな奇跡でも派手な超常現象でも感動的な話でもなんでもないんだが、
この、笑っちゃうくらいささやかで、ちょっと不思議な感じ、よくない?

ヒルティは今夜、最後にこういう。
「こういう顕現は、全くひとりでに、そのしかるべき時に、通常、全く思いがけなく、突然に、しばしば実際の仕事の最中にやってきて、
そして同じように不意に消え去るものである。」

| | Comments (4) | TrackBack (0)

January 06, 2006

「祝福の泉」になりたいものだ

1月6日『眠られぬ夜のために』(第二部)

「人それぞれが一つの祝福の泉とならねばならない。
その泉には、一方から神の祝福が、その人の我意にすこしも妨げられずに、自由に流れ込むことができ、
次にはそれが、その人に接するすべての人たちの方へ流れ出て行く、
というのでなければならない。
このことが起らないかぎり、
その人の生涯の営みは大部分失敗したのだ、といってよい。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

神様からの祝福がわたしの上に、
そして、わたしから、周囲の人びとに、流れていく…

いいですね。
それがなければ、生涯の営みは失敗だ!というヒルティ。今日の「勝ち組」「負け組」とはまるで基準が違う。

さて、つい先日、nikkouは、ある女性のことをふとしたところで知って、
そして祈った。彼女と彼女の家族に祝福がたくさん注がれますように。
今日はその人のことをシェアしたい。

vingtaine1
その人のことを知ったのは、アシェット婦人画報社という出版社が出している「vingtaine(ヴァンテーヌ)」一月号のコラム「連載 おしゃれの自覚」(光野桃)の中である。
(…nikkouだって、ときどき、女性ファッション誌くらい読むぞ。)

その女性とは、コラムニスト光野桃さんの、夫の、弟の、奥さんである。
光野さんがひとり実家に戻ってお母さんの介護をしていたときのこと。
その彼女が、突然花束を持って訪れてきて、家のことを手伝ってくれるようになった、という。
実は光野さん、彼女とは、夫の弟と結婚した時に、顔を見ただけ。
当然、光野さんやお母さんと血縁関係はない。

この時も、最初はもじもじ、おどおどしていた彼女だが、
手伝いに来るようになって以来、家が明るくなった。
お料理がおいしくなった。
薬がかわいいマルシェ籠にしまわれ、アロマオイルの香りが漂い、部屋には聖歌や二胡の音楽が流れるようになった。食卓には小さな花束。おかあさんとはリハビリの粘土細工を作る。
彼女は胸元に小さなクロス(十字架のペンダント)をつけ、亜麻色のギャルソンエプロンでくるくる働く。まるでパリの女の子みたい。
彼女を見ているだけで、とても心愉しい。

光野さんいわく、
「彼女は長い間、人と話すことが苦手だったという。
人が怖く、すぐに萎縮してしまうから、思ったことが言えない。」
「しかし、今はとても生き生きとしてみえる。」
「人が人を幸せにする、というのは、こういうことなのかもしれないな、と私は思う。
必要とする人がいて、必要とされる喜びがあり、その喜びのやり取りの中に、いのちの力が宿っていく。」

nikkouは、ふと、この女性は、ファッションで十字架のペンダントをつけていたのでも、趣味で聖歌を流していたのでもないのではないか、という気がした。彼女がクリスチャンだとは、どこにも書いていないけれど。
と、いうのは、彼女が家を初めて訪れた時、言ったという言葉である。

「あなたがひとりでお母さんを介護しているって、お義母さんたちから前に聞いていたの。
いつも祈っていたけど、なにかできることはないかと思って。」

これはnikkouの想像であるが、
内気で、優しい彼女は、話を聞いて以来、ずっと、本当に「祈っていた」んじゃないか。
そこへ、彼女の神様が「GO」サインを出した。
どんなサインだったのか、nikkouには想像もできないけれど、
それは、内気な彼女を促すに十分だった。
彼女は、それを適当にごまかす事ができずに、訪れた理由をまっすぐに告げたんだろう、「あなたのことを祈っていた」って。

nikkouはいつも、自分の過剰な言葉や行動が引き起こすとんでもない結果に頭を抱える。
たぶん、本当の「祝福の泉」とは、こんなにもささやかで、優しくて、言葉少なく、でも確実に誰かの心にうるおいを与えるものなんだと思う。

「祝福の泉」になりたい。
…ていうか、神様、私を「祝福の泉」にして!

| | Comments (3) | TrackBack (1)

January 05, 2006

真の楽しみ

1月5日『眠られぬ夜のために』(第二部)

「人間はだれでも生活の楽しみを得たいという自然の欲求を持っている。
彼らからそれをしいて奪い取るならば、きっと彼らは―特に若い時代には―精神的にそこなわれてしまう。
だから適当な時期に彼らを正しい人生の楽しみに導いてやることが大切である。
正しい楽しみとは、
神との互いに愛にみちた交わり、また、すべての被造物への友愛である。
(中略)

真の楽しみを持たないなら、俗に退屈といっている不快感が入りこんでくる。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今年の元日はnikkouも主日礼拝に出席した。
大晦日の夜、家族で年越しソバをすすりながら、「明日は礼拝だから、朝早く出かけるね」と言うと、
「えっ!正月に教会!?」と家族全員から目をむいて驚かれた。
…まー、これが日本人一般の反応でしょう。
(写真は、家族と行った近所の神社)
200601031345000
川崎駅は川崎大師に向かう人の群れでごった返していて、その流れに逆らって教会へ。
私も数年前まではこの流れの中の一員だったんだなあ…と思うと、
なにやら妙なこわばりというか、緊張を感じた。

とはいえ、教会に入れば、そこは懐かしき我が家。
こわばりもほぐれて、
礼拝後には、小さな輪になり、新年の抱負を語り合った。
「聖書通読です!」と宣言すると、「なに!?聖書中毒!?」と、老牧師は正月番組のようにボケてくれた。

教会としては…、
…みんな!聞いて!!
「コンサートをしたいね」という話になりました!
我々若い教会員や、若牧師夫妻の、ゴスペルの知識や歌唱などのタラント(才能)を用いないのはもったいない!というわけだ。
そう、われらが教会の若牧師夫妻のデュエットは絶品なのだ。
最近は4歳のかなちゃんも、みごとなソロを聞かせてくれる。
古くて小さい教会なので、大きな教会のように、プロの黒人さんを呼んで、ドラムやキーボードを華やかに演奏するコンサートは似合わない。
むしろ、そんな教会の器を生かして、アットホームなコンサートを開きたい。
年配の方から、小さな子どもたち、そうだ、最近nikkouがお世話になっているろうあ教会のみなさんもお招きできるよう、手話讃美も取り入れて。

ここは、忙しい牧師夫妻に代わって、nikkouが一肌ぬごうじゃないか!
…と、宣言します!

具体的には…思案中、いや、祈り中です。
なぁんにもないところから、ただ主だけに依り頼んで、身近な場所でクワイアーを立ち上げたり、コンサートを開いたりした、わが姉妹たちにも教えてほしいことがたくさんある。

時が来たら、
みなさま、われらがアットホームコンサート@川崎教会にぜひ!

| | Comments (1) | TrackBack (0)

January 03, 2006

大切なのは考え続けること

1月2日『眠られぬ夜のために』(第2部)

「われわれはこれまでつねに神のみ手のなかにあったし、
これからも永遠にそうである。
この考えを抱くかぎり、死と呼ばれる滞在地の変更は、
その重大さと恐ろしさを失ってしまう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

あけましておめでとうございます!
第二部に入ったこともあって、デザインを変更してみました。

さて、ヒルティは、昨夜のものだけれど、半分分かるような、分からないようなメッセージなので取り上げてみた。

先日、nikkouの信頼するクリスチャンの先輩(「主にあって」の語源について教えてくれた方)から、
今年、ご自宅を開放して、聖書集会をひらく、とのお話を伺った。
「よくご決意しましたね~」と驚くと、
「そう、決意したの! もう、先が長くないから」ときっぱり。かっくい~。

その第一回は、「死」について、お話なさるとのこと。
「うーん、『死』ですか。nikkouは、『死』がなんなのか、さっぱり分かりません」と言うと、
「私も分かりません。…いや、棺おけに入っても分からないかもしれない。」と、さらっと言われた。
続けて、
「でも、考え、求め続けることは、大切だと思うの。
だって、あのパウロだって、『なんとかして捕らえようと努めている』(フィリピ人への手紙3章12節)って言ってるじゃないですか。ましてや私たち凡人になにが分かるでしょうか。
でも、その心を、主は見ておられると思うの。」

nikkouの心も主からまる見え。
なので、主の前には正直にいようと思う。
主よ!
nikkouには、世界はわけのわからないことばかり!でも、あなたに信頼して、求めていこうと思います!

| | Comments (4) | TrackBack (0)

« December 2005 | Main | February 2006 »