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February 16, 2006

仕事観

『眠られぬ夜のために』第二部

「つねに、われわれの思想を活発にはたらかせ、
生活のさまざまの瑣事(さじ)からのがれされ、
わけても、ほとんどこの世の一番大きな不快ともいってよい退屈をとりのぞいてくれるような、
比較的大きな仕事に従っていること、
これこそ幸福な生活を送るのに必要なものである。
だから、せひともあなたはそういった仕事を持たなくてはなるまい。
もし持っていなければ、探さねばなるまい。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

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正月から読んでいた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー)をようやく読了。難しかった。こりゃー、nikkouの力不足かなー、と思っていたら、訳者の大塚久雄氏の解説に、「ヴェーバーのこの論文はきわめて難解といわれる」とあったので、ちょっとほっとした。やっぱり難しいんじゃん。

でも、それなりに理解したのは、ヒルティの職業倫理というのは、きわめて「プロテスタント」的だ、ということだ。
今夜のエッセイなど、まさに、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だね。
仕事をするのは、「マモン」(マネー、つまり金)のためではなく、自分の精神的修養のため、というわけだ。

さて。
ここ一月、断続的に過密労働になる。
昼食は午後3時過ぎにマクドナルドのハンバーガーをぱくつき、夕食は夜8時過ぎにコンビニのおにぎりをほおばりながら、目はパソコンの画面を追っていたりする。
帰宅は11時、12時に及び、編集部は、ちょっとしたナチュラル・ハイ状態である。

そんなふうな状況で働いていると、内心、面白い感情が生まれる。
なんていうか…「誇り」みたいなものだ。
こうまでして頑張った仕事を、そうやすやすと手放せない、という感じ。
こうなると、「社畜」まで、あと一歩なんだろうな。

ある同僚が、「もうっ!私が居なかったら、この会社どうなっちゃうのよ!」と、言い放ったことがある。
過密労働の中で生まれてしまう、ナルシシズムだ。
するとすかさず、別の同僚が、「どうとでもなるよ。あんた一人が辞めたくらいでどうにかなっちゃうような会社だったら、逆にやばいんじゃない」とつっこんだ。
つっこんだ同僚は、それこそ難解な哲学書から社会学関係や経済ものまでばりばりこなす、超優秀な編集者だ。そのタイトルが流行語になるような本も編集したりしていて、nikkouからしてみると、「えー、あなたが辞めたら、会社は困るでしょうよ」といいたくなるような人なので、「ああ、この人は、そんな醒めた気持ちでやってんだなー」と、逆に、ぎょっとするような気持ちだった。

そういえば、2年ほど前に会社をやめた同僚がいた。
彼女は、大きなシリーズ物を企画していたのだけれど、会社の方針とうまくかみ合わなくて、上層部と大喧嘩して、飛び出した。それからまもなく、別の版元から、そのシリーズ物が刊行された。彼女は別の版元に移って、企画を通したのである。誤解を恐れずにいうと、nikkouは、「ああ、辞めてよかったなー」と思った。すごく、いいシリーズになっていたのである。あのまま、会社に残っていたら、きっとこのシリーズは出なかった。そうしたら、読者に伝えるべき言葉、伝えるべき思想は、きっと、死に果ててしまっていた。

なんていうか・・・そういう、仕事の「大筋」みたいなものをつかんでいると、いい仕事ができるんだろうな、と思う。

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…ちなみに、会社を飛び出した同僚を、なんとか励ましたくて、
辞めた直後に「アートバイブル」を郵送した。すっげーでっかい泰西名画入りの聖書だ。
なんの返事もないから、きっと気味悪がられたんだろう。
ごめんよ。でも、いてもたってもいられなくなっちゃったんだもん。

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February 15, 2006

ヨブの子供たち

『眠られぬ夜のために』第二部

「信仰のあつい人びとは、当然最も勇気ある人でなくてはなるまい。
なぜなら、彼らは神から不断の援助の数知れぬ約束を与えられているからだ。

(中略)

ところが、いかんながら、キリスト教は、涙もろい、無気力な、まさに(パウロの言うように)「土の器」(コリント人への第二の手紙4章7節)に入ることがあまりに多い。
(中略)
かようなキリスト者は、さらに経験を重ね、他人への同情を養うために、ぜひとも苦難をなめなければならない。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ごぶさたしておりました。
最後に更新して以来、すさまじく多忙でありました。
そんなさなかではありながら、通勤車内の「聖書愛読」(「サイト恩寵」さんの言葉から拝借)は続いていて、けっこう楽しい。
現在は「ヨブ記」なのだけれど、やはり、これは、名著中の名著だと思うね。
ヨブという人物には、人間の歴史上、ありとあらゆる苦しみ悲しみ集約されている気がする。
そのくらい、ヨブが吐露するせりふは、迫力がある。

ヨブは、10人の子どもを失うけれど、たったひとりの子どもを失っても、人はこのような思いを持つだろう。

現在、14章まで読んできたが、
ここまでの正直な感想を言うと、「ヨブを励まし、慰める友人たちは、けっして悪いやつらじゃない」。
というか、たぶん、ふつう、こういう状況の友人を見たら、こう言うだろうな、ということを言うのである。

「苦しいのは今だけだ、そのうちいいことがあるよ、苦しみは君を強くするよ、今までだって、神様を信じてやってきたじゃないか、だから神様を信じてがんばれ、これは自分の今までの事を見つめなおすよいチャンスだ…」うんぬん。nikkouも、何度か、このテのせりふを吐いて、人を励ましたり慰めたりした気になっていた。

それに対するヨブの答えが、すごく、リアルである。
まさに、人は、苦しいときにこういうだろうな、ということを言う。

「そんなことは、言われなくたって、分かってる。だから、悪いけど、黙ってて。」
「結局、人生、自分のなりたいようにはならないんだ、人生すべて、神の思うままなんだ。」
・・・

ヨブ記には、ちょっと嫌な思い出がある。
妹が死んだ直後、友人につれていかれた教会で、牧師が「ヨブ記」について語っていたのである。
その結末が、ひどかった。

「ヨブが信仰を失わなかった報酬に、神は家畜と財産を二倍にしました。しかし、子供たちは10人しか与えられませんでした。二倍の20人にしませんでした。なぜでしょう。天国に、もう、10人も子供たちがいるので、新たに与えられた10人で、結果的に20人、つまり、2倍になるのです。」

・・・なんだそれ。
妹を失った直後のnikkouに、こんなに腹立たしい話はなかった。
もし、死んだ妹のかわりに、あと2人、いや、3人、別の妹をあげるから、と言われたら、nikkouは、神を赦さない。死んだ妹のかわりは、だれにもできない。彼女は、文字通り「かけがえのない存在」である。子どもは、人数じゃない。

あらたに与えられた10人は、別人ではないか、なんの「報酬」にもなりゃしない。
「報酬」ならば、死んだ子どもたちを、生き返らせろ。さもなくんば、はやく、ヨブを天国につれていって、死んだ子どもたちと会わせろ

しかも、nikkouをこの教会に誘った友人は、まさに、ヨブの友人たちと同じことを言った。
「これは、nikkouちゃんにとって、クリスチャンになるチャンスだよ。苦しみは、きっと喜びに変わるよ。」…なんだと!それじゃあ、なにか、nikkouがクリスチャンになるために、妹は死んだのか。
それなら、nikkouがクリスチャンにならないまま、妹が生きていたほうが、ずーっとずーっとよかった。

妹が死んだ直後、キリスト教に反感をもったのは、この教会と、この友人のせいである。もちろん、彼らに悪気はない。でも、つらかった。
(「赦し」ができないnikkouの罪の告白であります…)

今、ヨブ記を読んでいて、つくづく思うのは、ヨブの叫びというのは、「本音だ」ということである。
これが、彼の深い信仰の表れとか、正しさ、とかじゃなくって、本当に、ただの「本音」だ。「真情」だ。
だから、胸を打つ。

ヨブ記については、芝伸太郎「うつを生きる」(ちくま新書)に面白い解釈があった。
正しく読解しているかどうか分からないけれど、nkkouなりに噛み砕くと、こういうことである。
神がヨブに、苦難のあと、子どもを10人あらたに授けるのは、
別に「報酬」でもなんでもない。
ヨブが主張しているように、神の思うままなのだ。
神と人の関係は、資本主義じゃない。100円分働いたら、100円分賃金がもらえるのではない。
神が、ヨブに子どもを10人与えたかったから、与えただけ。
そして、ヨブも、与えられるままに、受け取った、それだけ。

・・・その解釈が正しいのかどうか、nikkouには、判断がつかないけれど、でも、そのほうが、今は納得する。
天国の10人の子どもたちも、新たに与えられた10人の子どもたちも、それぞれに、かけがえがない。
神にとっても、ヨブにとっても。そう思う。

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February 07, 2006

赦す、ということ

『眠られぬ夜のために』第二部

「神はわれわれ人間よりはるかに心の広いかたであって、
われわれならばもうとっくに仲間だと考えないような多くの人たちをも
なお失われぬ者として神のしもべに数えたまうことは、
歴史を知る人のだれもが疑わないところであろう。

(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

「白バラの祈り」で、ゾフィーたちを法廷で散々ののしった挙句に死刑にした裁判官は、連合軍の爆撃で崩れた裁判所の壁の下敷きになって潰れて死んだそうだ。
それを知った時、すっごく正直に言って
「なーんだ」と思った。
もー、そんな裁判官は、敗戦後に、おもいっきり戦犯として裁かれて、不名誉の窮みをなめた挙句に、自分の不明を嘆いて死にゃーいいんだ、って思った。(ええ、nikkouは、性悪ですとも。)

でも、きっと、今頃彼は、神様の前に、自分の良心だけを弁護士に、裁かれていることでしょう。

そんなことを考えていた、つい最近。
ジャック・デリダという哲学者の著作の、「解説書」を読んだ。
(デリダそのものは、とてもとても読めません。まったく歯が立たない。)
その中に、んーーーーーっとうめいてしまうような考え方が紹介されていた。

「赦し」ということについて、である。

普通、とんでもない凶悪犯が逮捕されたとき、人は、犯人をみんなの前に引きずりだして、悔恨の言葉を吐かせたい、と思う。激しく悔い改めさせたい、と思う。そうすれば、「赦して」やろう、と思う。
しかし、それは、「赦し」ではない。
それはただ単に、「かつての罪人は、いまはもう、反省して、別の人になりました」ということを、確認、認証したにすぎない、…のだそうだ。
本当の「赦し」とは、罪人が、罪人のままで、「受け入れる」「その人の価値を認める」ということなんだそうだ。

んーーーー。
なんだか、これに、イエスの十字架による「あがない」が加われば、
そのまま、クリスチャンの発想だけど、
デリダの背景には、やはり聖書があるんだろうか。
(半可通で、申し訳ない…勉強します。)

以前、わたしは、教会の少女たちに強姦やセクハラを働いてわいせつ罪で捕まった牧師について
「悔い改めてほしい」と書いた。
でも、それは、「ゆるす」ということではないのね。
「ゆるす」のであれば、エロ牧師を、エロ牧師のままで、受け入れろ、と…。
え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そんなことできなーい。

ヒルティいわく、神は、心のひろい方だ、と。
たしかにイエスが、しょっちゅう、そんな話をしている。
たとえば、「神は、莫大な借金を棒引きする方だ」なんていうたとえ話をする。
「でも、そのしもべは、友人のささやかな借金の腹をたてて、友人を牢屋にぶちこんだ、・・・」とたとえ話は続く。
――うーん、わが身のことのようだ。
でも神様、やっぱりnikkouは、あなたのように心が広くないので、ゆるせないことがたくさんあります。
それが、平安を遠ざけること、だれかを傷つけることだ、と頭の片隅では分かっていても。

ああ、そうか、だから、主イエスは、こう祈れといったのかもしれない。
「わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
(マタイによる福音書12節)

「主の祈り」って、かなりシリアスなことを祈っていたのね。
ぼーっと暗誦してないで、ちゃんとこころをこめて祈ろう、と思うよ。

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February 04, 2006

大切

『眠られぬ夜のために』第二部

「2がつ3日

愛の最もありがたい点は、たんに愛し返されることだけでなく
(これは、その愛がある程度の持続と強さをもっておれば、ほとんどつねに可能なことである)、
愛によって自分自身がただちに強められ、鼓舞されることである。

愛がなければ寒々としたこの世のなかに、
愛はあたたかさを生み出す。
そこからさらに生まれてくるさまざまなものを全部度外視しても、
愛だけでもすでにひとつの幸福なのである。

愛は、たましいの生命である。
愛をすっかり棄てた者は、たましいをも失ってしまう。
これは、永久につぐないがたい損失だといわねばならぬ。

たましいを失った人間は、もはや行き続けることはできない。
現世の生活はもとより、未来の生活も失っているのである。」
(筑摩叢書・前田敬作訳)

           ★

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ヒルティ、愛の賛歌(笑)。
ただ、日本人のイメージする「愛」という言葉と、欧米の人の「愛」という言葉がもつ意味とは、いくぶんか違うんだろうな、と思う。
イラク戦争の報道で、若い兵士がテレビカメラにむかって、
「I Love You! Mammy~」と手を振っている映像を見たけれど、
あれを「おかあさん、愛してます!」と訳すと、ちょっとちぐはぐな感じがする。
クリスチャンであるnikkouであっても、「愛」という言葉には「恋愛」のイメージが強い。
いまだに、恋愛以外の場で「愛してます」というのは、おもはゆい。
ましてや、多くの日本人においてをや。

キリスト教の「愛」は、仏教の「慈悲」と、ニュアンスが近い、ということもよく聞くけれど、
「慈悲」も、定着しているとは思えない。
「あなたを慈悲ってる」なんて、「あなたを愛してる」より言わんだろう。

中世に、日本にきたカトリックの宣教師たちは、「愛」を「お大切」と訳したそうだ。
けだし、名訳だと思うね。
今でも、そっちのほうが、すんなりくるんじゃないのかな。

「あなたを愛している。」というより、
「あなたを、大切に思っている。」
「あなたの存在はとっても大切だ。」
と言うほうが、キリスト教の伝えんとしているものの見方考え方が、はっきりする気がするが、どうだろう。

「愛する」を「大切」と言い換えると、
主イエスのことばも、「敵をも、その存在を大切に思え。」となる。
うう。あらためて、エライこっちゃ。
              ★

200602050025001
ヒルティいわく、愛する、ということは、自分自身を強くする、のだそうだ。

究極の選択。
「だれにも大切にされない(愛されない)」のと、
「だれも大切にできない(愛さない)」のと、どちらを選ぶか。
どちらもつらいけど、あえて選ぶなら、「だれにも大切にされない」のほうかな。
「だれも大切にできない」ということは、そのかわりに心の中が憎しみか、無気力か、軽蔑かでいっぱい、ということでしょう。まだ、だれにも愛されなくっても、自分の心の中は、愛でいっぱい、のほうがいくぶんましだ。
それに、すくなくとも、主だけは、なにがどうあっても、わたしを愛してくれるし。

              ★

今日は、まさに、とても大切な女友達と、表参道でランチ。
彼女が現在おかれている状況をきいて、驚いた。
信仰をしっかり持っているひとだから、彼女自身がつぶれてしまうことはないだろうと、信じているけれど、
たいへんなことには変わりない。
帰ってきて、彼女の家族のこと、彼女のことを、祈った。
名前をあげて祈る、愛する友がいる、ということだけで、わたしは幸せだと思うよ。

              ★

最近はまっている沢知恵さんの「わたしが一番きれいだったとき」の第1曲目「人生の贈り物―他に望むものはない―」(ヤン・ヒウン詞・さだまさし訳)より。

季節の花がこれほど美しいことに

歳をとるまで少しも気づかなかった

美しく老いてゆくことがどれほどに

難しいかということさえ気づかなかった

もしも もう一度だけ若さをくれると言われても

おそらく私はそっと断るだろう

若き日のときめきや迷いをもう一度

繰り返すなんてそれはもう望むものではない


季節の花や人の生命の短さに
歳を取るまで少しも気づかなかった
人は憎みいさかいそして傷ついて
いつか許し愛し合う日がくるのだろう
そして言葉も要らない友になってゆくのだろう
迷った分だけ深くいつくしみ

並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友が居れば他に望むものはない
他に望むものはない

それが人生の秘密
それが人生の贈り物

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