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February 15, 2006

ヨブの子供たち

『眠られぬ夜のために』第二部

「信仰のあつい人びとは、当然最も勇気ある人でなくてはなるまい。
なぜなら、彼らは神から不断の援助の数知れぬ約束を与えられているからだ。

(中略)

ところが、いかんながら、キリスト教は、涙もろい、無気力な、まさに(パウロの言うように)「土の器」(コリント人への第二の手紙4章7節)に入ることがあまりに多い。
(中略)
かようなキリスト者は、さらに経験を重ね、他人への同情を養うために、ぜひとも苦難をなめなければならない。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ごぶさたしておりました。
最後に更新して以来、すさまじく多忙でありました。
そんなさなかではありながら、通勤車内の「聖書愛読」(「サイト恩寵」さんの言葉から拝借)は続いていて、けっこう楽しい。
現在は「ヨブ記」なのだけれど、やはり、これは、名著中の名著だと思うね。
ヨブという人物には、人間の歴史上、ありとあらゆる苦しみ悲しみ集約されている気がする。
そのくらい、ヨブが吐露するせりふは、迫力がある。

ヨブは、10人の子どもを失うけれど、たったひとりの子どもを失っても、人はこのような思いを持つだろう。

現在、14章まで読んできたが、
ここまでの正直な感想を言うと、「ヨブを励まし、慰める友人たちは、けっして悪いやつらじゃない」。
というか、たぶん、ふつう、こういう状況の友人を見たら、こう言うだろうな、ということを言うのである。

「苦しいのは今だけだ、そのうちいいことがあるよ、苦しみは君を強くするよ、今までだって、神様を信じてやってきたじゃないか、だから神様を信じてがんばれ、これは自分の今までの事を見つめなおすよいチャンスだ…」うんぬん。nikkouも、何度か、このテのせりふを吐いて、人を励ましたり慰めたりした気になっていた。

それに対するヨブの答えが、すごく、リアルである。
まさに、人は、苦しいときにこういうだろうな、ということを言う。

「そんなことは、言われなくたって、分かってる。だから、悪いけど、黙ってて。」
「結局、人生、自分のなりたいようにはならないんだ、人生すべて、神の思うままなんだ。」
・・・

ヨブ記には、ちょっと嫌な思い出がある。
妹が死んだ直後、友人につれていかれた教会で、牧師が「ヨブ記」について語っていたのである。
その結末が、ひどかった。

「ヨブが信仰を失わなかった報酬に、神は家畜と財産を二倍にしました。しかし、子供たちは10人しか与えられませんでした。二倍の20人にしませんでした。なぜでしょう。天国に、もう、10人も子供たちがいるので、新たに与えられた10人で、結果的に20人、つまり、2倍になるのです。」

・・・なんだそれ。
妹を失った直後のnikkouに、こんなに腹立たしい話はなかった。
もし、死んだ妹のかわりに、あと2人、いや、3人、別の妹をあげるから、と言われたら、nikkouは、神を赦さない。死んだ妹のかわりは、だれにもできない。彼女は、文字通り「かけがえのない存在」である。子どもは、人数じゃない。

あらたに与えられた10人は、別人ではないか、なんの「報酬」にもなりゃしない。
「報酬」ならば、死んだ子どもたちを、生き返らせろ。さもなくんば、はやく、ヨブを天国につれていって、死んだ子どもたちと会わせろ

しかも、nikkouをこの教会に誘った友人は、まさに、ヨブの友人たちと同じことを言った。
「これは、nikkouちゃんにとって、クリスチャンになるチャンスだよ。苦しみは、きっと喜びに変わるよ。」…なんだと!それじゃあ、なにか、nikkouがクリスチャンになるために、妹は死んだのか。
それなら、nikkouがクリスチャンにならないまま、妹が生きていたほうが、ずーっとずーっとよかった。

妹が死んだ直後、キリスト教に反感をもったのは、この教会と、この友人のせいである。もちろん、彼らに悪気はない。でも、つらかった。
(「赦し」ができないnikkouの罪の告白であります…)

今、ヨブ記を読んでいて、つくづく思うのは、ヨブの叫びというのは、「本音だ」ということである。
これが、彼の深い信仰の表れとか、正しさ、とかじゃなくって、本当に、ただの「本音」だ。「真情」だ。
だから、胸を打つ。

ヨブ記については、芝伸太郎「うつを生きる」(ちくま新書)に面白い解釈があった。
正しく読解しているかどうか分からないけれど、nkkouなりに噛み砕くと、こういうことである。
神がヨブに、苦難のあと、子どもを10人あらたに授けるのは、
別に「報酬」でもなんでもない。
ヨブが主張しているように、神の思うままなのだ。
神と人の関係は、資本主義じゃない。100円分働いたら、100円分賃金がもらえるのではない。
神が、ヨブに子どもを10人与えたかったから、与えただけ。
そして、ヨブも、与えられるままに、受け取った、それだけ。

・・・その解釈が正しいのかどうか、nikkouには、判断がつかないけれど、でも、そのほうが、今は納得する。
天国の10人の子どもたちも、新たに与えられた10人の子どもたちも、それぞれに、かけがえがない。
神にとっても、ヨブにとっても。そう思う。

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Comments

nikkouさんが書かれていること、納得です。
ヨブ記が胸を打つのは真情だからでしょうね。
すべて神の思うまま・・・。

(・・・彼らは神から不断の援助の数知れぬ約束を与えられているからだ)
約束を信じ抜けるかどうか・・イエスさまに守ってもらいたいです。

Posted by: jojo | February 19, 2006 at 10:20 PM

こんにちわ

ヨブ記は名著ですね。僕も大好きです。

nikkouさんの記事を読んで思ったのですが、たしかに他の人を『慰める』とき思慮のない『慰め』をしてしまいかえって相手を傷つけてしまうことがありますね。僕も良くやってしまうのですが。

自分をヨブを『慰めている』方の立場に当てはめて考え、そしてそれがヨブ(受け入れる側)にとって本当に思慮のあるものか、本人が望んでいる事かどうか思い、過去の自分を当てはめ、戒めてみることも必要ですね。考えさせられる記事、感謝します。

Posted by: Ti | February 20, 2006 at 03:47 PM

私の愛する母教会の牧師が2年半にわたって続けたヨブ記の解説です。

1度言われたことが消えてしまうことはナイト思いますが、是非、最終回を読んでみてください。

http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job58.htm

Posted by: Lammy | March 26, 2006 at 09:40 PM

Lammyさん、ありがとう!!
さっそく読みました。

> しかし、ヨブは別のことを喜んでいたと思います。それは42章5節に言われています。

> 「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」

ってところで、ぐっときた。
深い。
深いね、ヨブ記。
生涯かけて、くり返し読みたい、とあらためて思います。
牧師先生によろしくお伝えください。

Posted by: nikkou | March 27, 2006 at 12:25 AM

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