« February 2006 | Main | April 2006 »

March 29, 2006

最後まで試練はあるかもしれないけれど

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月28日

あなたは最後まで試練もしくは誘惑にさらされるであろう。
この試練は、ときには外部から、あなたを憎み、敵意をいだいている人びとを通して起こることもあるが、また、あなたの内部から―というのは、そこにはまだ昔の残滓が残っていて、余命をたもっているので、起こることもある。
(中略)
しかし、すべての反対物を克服し去ったあとの平和な状態、
暗黒のときにあっても光明がふたたびあらわれるまで屈することのない力、
とりわけ、
こうした暗黒のなかにあってペシミスティックな、ないしは厭世的な気分におちいったり、
それどころか、この暗黒になんらかのしかたで同調し加担することを防いでくれる力、
このようなものは、ありうるにちがいない。
(中略)
これは、求めさえすれば、かならずあたえられるものである。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

写真は、本日隅田川沿いで撮った桜200603291219000_1

いきなりデザインを変えたのは、妹の忠告によるものであります。
今日、ひさびさに実家に寄ったら、5歳下の三女(nikkouは、4人姉妹の長女)から、「おねえちゃんのブログを、見つけた!」と脅された―もとい、励まされたのであります。なんでも、次女ともども、1月から読んでいたんだそうだ。ひゃ~はずかし~
いわく、「お姉ちゃんは、やっぱり文章が上手だ」―おおー、もっと大きな声で言ってくれ~!
「でも、ヒルティのところは、難しくてわからないから、読んでいない。」―って、そこが大事なところなんだがなー。
「しかも、いきなり重たい文章の引用から始まるのに、背景まで重たいので、すごく怪しげなブログに見える」
…ありがとう、妹よ。
忠告に従って、明るくしてみたよ。
これで、いいかい?
これからも、忌憚なきご意見を期待いたします。

今日、ひさびさに三女とテレビを見ていてつくづく感心したのだが、
彼女は、「面白い!」と思ったときには、この上なく楽しげに、「ぎゃーはっはっはっはっは!」と笑う。おかげで、いつもひとりで見ていてもさほどでもないバラエティ番組を、本来の3倍くらい楽しんだような気になって帰ってきた。
…せっかく読んでくれているので、今日は、妹をネタにしてみた。
ヒルティや、聖書の話も、たまには読んでみてくれ。

さて。
本日引いたヒルティの信仰告白を、わが愛する友にささげる。
あなたのことを誤解したり、足をひっぱったり人がいるかもしれない。
あなた自身が、サタンの誘惑に負けて、こころくじけたり、怒りに身をゆだねそうになることがあるかもしれない。
でも、主の平安と力とは、求めさえすれば、きっと与えられる、ってヒルティが証言している。
だから、今は、一緒に祈ろう。
どうしていいか、わたしも分からないけれど、
主は、きっと、わたしたちの思いも寄らないような「平安」と「力」をもたらしてくれるよ。
そう信じている。
そして、主と、nikkouは、いつもいつまでも、あなたを愛している。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

March 28, 2006

なんなんだろう「永遠の命」

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月27日


最後には2,3の主要な事柄がその人の固い確信となっているのでなければならない。
すなわち、
神が存在すること、
また、「心をつくして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」こと、
あるいは、救いへの導き手はキリストであって、仏陀でも、プラトンでも、カントでもないこと、
これらの事はもはや疑ってはならない。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今朝撮ったスミレの花
200603280910000_16
先週の土曜日は今井館の「石原兵永に学ぶ会」『イエスの招き』シリーズ最終回だった。
とても勉強になりました。たとえば、こんな文章とか、面白かった。

「人間の存在というものは、ケンブリッジ大学のドッド博士も言っているように、二つのはっきりした『境界線』で区切られている。その一つは生まれるという誕生です。それからもう一つは、生命の終りを示す死です。この二つの境界線の枠の中に、地上に生きる私たちすべての人間は閉じ込められている。その『境界線の守りは固い』のであって、自分の力でこの壁を突破することはだれにもできません。」(『イエスの招き』山本書店)

なんか、ミもフタもない感じです。
でも、そんな「境界線」も、神という存在を認めると、「もはや冷たい鉄の壁ではなくて」「すばらしい生命線」になるという。

「というのは、私たちをこの世界に誕生させてくださったのは、…恵み深い天の父だからであります。
そして私たちの地上生涯が死をもって閉じるときは、すなわち永遠に生きたもう神と直接お目にかかるときであり、そこで永遠なる神の国に入ることをゆるされるからであります。」
「人間にのぞむ死はけっしてすべての終りではなく、永遠の生命の内部における一つの小さな出来事であるにすぎません。」(前掲書)

nikkouはまだ死んだ事がないので、「境界線」を先になにがあるのか、断言はできない。
でも、生死は自分の意思ではいかんともしがたい、ということは、妹や友人たちを見送って、身にしみて分かった。
だから、せめて与えられた時間くらいは、nikkouをこの世に送り出してくれた主に、お見せ甲斐のあるものにしようと思うよ。

会の最後に、講師の相澤先生が祈った。
「石原先生が、今、わたしたちと共に、聖書を学んでおられたように思います。神様、ありがとうございます。」
一応確認しておくと、石原兵永は、1987年に亡くなっている。
それが「今、共に」いた、とはどういうことか。
「我々は彼の遺稿からも、聖書を学ぶ事ができる」ということのレトリカルな言い方、と受け取れなくもないけれど、
たぶん、そういうことじゃないんだろうな、と思う。

日曜日は、母教会にて「招天者記念礼拝」だった。教会から見送った方たちを記念する礼拝である。日ごろ遠くにいたり、別の教会に通っているご家族もたくさん集った。

Yupic00
1948年、川崎の地に、高田敏子という英語の先生が、英語塾を始めた。敬虔なクリスチャンだった高田さんは、叔父の尾島真治牧師に頼んで、生徒たちとともに日曜学校を始める。これが、今の教会の前身になる。(「友情のかけ橋 高田敏子の生涯」より)
現在の教会の長老さんたちは、高田さんに直接英語を学んでいる。
日曜日の昼食時も、「高田先生は滅んでないね、生きておられるね。」と盛んに言い合っていた。
念のために言うが、高田敏子さんは、1974年に没している。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)実を言うと、nikkouは、この「永遠の命」とはなんなのか、よく分からない。実感として理解していない。
べつに「永遠の命」がほしくてクリスチャンになったんじゃないし。
仮にノンクリスチャンのときに、街角で「イエスを信じたら、永遠の命を与えられますよ」なんていわれても、「あ、間に合ってます」って答えちゃいそう。
ただ、生きている今現在、イエスを慕い、一生涯、彼に求めていきたい、と思っただけ。
そうそう、今夜のヒルティがいう3ポイントさえおさえていれば、聖書なんて全部分からなくっても、クリスチャンなんだよね。

ただ、相澤先生や、川崎教会の長老さんたちの確信に満ちた表情を見ていると、
「彼は生きている」というのは、
単に、「亡くなった人は、私たちの思い出の中に生きている」みたいな甘い感傷じゃない気がするのね。
なんだろう、「永遠の命」。
願わくは、この身の滅び去る前に、悟り得たいと思う。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

March 22, 2006

デイ・ケア・センター讃美

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月20日

愛がなければ、この世界は、どんなに多くの自然美や芸術や学問が存在していても、まことにみじめな不満足なものにすぎないだろう。
(中略)
…愚かな人は、神への愛がなくても、人間たちを、すくなくても二、三の人を「永遠に」愛し、そこに生涯の幸福を見出すことができる、と信じている。
(中略)
それがやや卑俗的な形をとる場合ですら、この方が神の赦しを受けられやすい。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ちょっと略しつつ引用したけれど、20日のヒルティの格言で言いたいことは、
神への愛が、一番、
まあ、でも人間を「永遠に」愛する、というスタンスも、享楽的に生きるよりは全然いいし、神様も赦してくれる、
…ということだと思う。

「神への愛」ってのはどういうことか、クリスチャンになるまで、さっぱり分からなかった。
「人を愛する」ってのも、恋愛とか家族とか友情なら分かるけれど、聖書のいう「愛敵」や「隣人愛」てのは、まったくの偽善だと思っていた。

最近、キング牧師の説教集や「白バラ」関連書をぼつぼつ読んでいるのだけれど、
なるほど、彼らは、「神を愛する人」たちなんだな~とつくづく思う。
「神を愛する人」にとっては、「愛敵」も「隣人愛」も偽善じゃない。
与えられる限りの理性と感性を総動員して可能にするんだと思う。
…可能に「してもらえる」、といったほうが、正確かな。
人間の力じゃ、やっぱり、不可能だ。

さて、今日は、中央線沿線にあるデイ・ケア・センターで、ゴスペルを歌ってきた。
「主われを愛す」や「君は愛されるため生まれた」、「Make us one」「大切な人」など、お年寄りの方たちにも耳になじみやすい歌を数曲、讃美した。
「主われを愛す」は、お年寄りのみなさんと一緒に歌った。
席の間に入って、顔を見合わせて一緒に歌い、握手を交わすと、
ふいにぽろぽろっと涙をこぼされる方が何人もいらして、
ついつられて、涙ぐんでしまった。

「大切な人」を讃美しているとき、ふと、こりゃー、すごいことだぞ、と思った。

彼らは、nikkouの2倍から3倍ちかくの歳月を生きてきた人たちである。
nikkouは、クリスチャンなので、神が、彼らひとりひとりと、その歳月を共に歩んでこられた、といういことを信じている。目の前の20人ほど方たちの、70年、80年、90年の歳月、ということを思ったとき、
こりゃー、すごいことだ、と思った。
天地創造の昔から主はおられる、といわれてもピンとこないけれど、
この彼ら全員と、主は共に歩んでこられた、と考えると、神とはでかい存在だーと思うね。
nikkouは、ちっぽけであります。

神を愛する、というのは、
身近な人たちを通して、神の大きさを知るということでもあるかな、と思った。

讃美のときを終えて、一緒にお茶などいただきながら、
雑談を交わした。
かつて東京外語大で英語を教えていました、という男性の方に、
「外国にはよく行かれたのですか?」と聞くと、
「戦争で、中国に」とのお答え。
ひゃーと息を呑んでいると、
「いや、敗戦前の2年間だけね。
内地に着いたとたん、中国兵は、さーっと逃げちゃったから、戦闘はなくって、ずーっと暢気だったのよ。
日本軍てのは、強かったのよ。(←これを三回ほどリピート)。
くーにゃんがね、あ、売春婦じゃなくって、普通のくーにゃんがね、
全然怖がりもしないで、駐屯地を横切ったりしてましたよ。
でも、敗戦が伝わったとたん、中国兵がだーっと攻めてきて、
初めてドンパチやりましたよ。
背中を向けるとやられちゃうから、じりじり撤退して、戦死する人もたくさんいて、
…九死に一生ってまさに、ああいうのを言うんだねー。
今ね、こうやって、窓の外を電車が走ってるのをみるでしょ。
もう、それだけで、平和っていいなーって思うよ」
ということを、トータルでも3回くらい繰り返してお話しておられた。
nikkouの祖父も、中国に戦争に行ったが、
正直言って、実の祖父からも聞いたことのない、ナマの戦争体験談だった。
不謹慎な言い方ですが、戦争って、本当にあったのね、と思った。

「人生の年月は70年ほどのものです。
健やかな人が80年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」
(詩篇90編10節)

詩篇にアーメン。だから時間と場所を超越した存在に、世代を超えて共に目を向けることって、本当に必要だと思う。今日は、本当に、感謝。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

March 19, 2006

nikkouの両親が、礼拝に来た!

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月19日


一般の人びとが目的とするのは、家庭を築くこと、適度な生活の楽しみ、たかだか例えば職業上か政治上の成功、人なみ以上の社会的地位、などである。
けれども、これらはほとんど永続的な利益を残さないものである。
(中略)
人間はそれらのものだけで十分に満足させられるようには、作られていないのである。(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今日の礼拝に、初めて、nikkouの両親が出席いたしました。
近所に住んでいながら、娘がお世話になっている教会に一度も顔を出さないのは無礼であろう、と思ったのだそうだ。nikkouの実家は、初詣も盆もクリスマスもきっちりこなす、一般的日本人家庭である。
だから、nikkouは、この家庭において、ちょっぴり異質な娘である。

本日の礼拝の聖書箇所は、「マタイによる福音書25章1節~13節」、
花婿を迎える10人の乙女の話であった。
花婿が到着したとき、賢い5人の娘はともし火を用意していたが、
愚かな5人の娘は用意しておらず、
あわてて買いに行って、戻ってきたら、扉が閉まっていて、もう中に入れなかった、
というたとえ話。
Corneli1

父は、話の間、ずーっともぞもぞと落ち着かない様子だった。
礼拝のあと、両親に聞いたところ、
どうやら、「話の意味がさっぱり分からなかった」のだそうである。

まず、うちの両親には、「終末」や「再臨」という発想がない。
むしろ、「輪廻転生」のほうが、親しみのある思想だろう。
だから、「主の再臨に備えて心を整えておけ、という戒め」といわれても、
具体的なイメージがわかなかったらしい。

もうひとつは、「たとえ話の状況がよく分からなかった」のだそうだ。
「10人の乙女のうち、5人がいなかったら、その乙女の相手の5人の花婿はどうしたのだ?」と父。
…つまり、父は、10人の乙女が待っていたのは、10人の花婿で、いままさに10組の「集団結婚式」が行われようとしている、と理解したらしい。
「花婿」=イエス・キリスト、というのは、クリスチャンの暗黙の了解だが、
こういう前提がないと、たしかに、このたとえ話はそう読めてしまう。
「いや、お父さん、乙女というのは、お嫁さんじゃなくって、たぶん、介添えの女の子たちだと思う」
と、われながら強引な解説をすると、
「じゃあ、花嫁は?」と母。
「…んーっと、この話には出てこない。」
………3人の間にとびかう「?」「?」「?」…。

「しかし、そもそも、5人の娘があわててともし火の油を買いにいく、というのも分からない」と父。
「買いに行っていたら、結婚式に間に合わないのだから
『もう、ともし火なんかいいから、あなたたち、お婿さんを待ってなさいよ』と言ってやったほうが、親切じゃないか」
…父よ。おっしゃるとおりです。
しかし、そうすると、別の話になってしまいます。

最終的に母が、
「やっぱり、『信仰』がないと、分からないのね、聖書って。
nikkkouちゃんは、エライわ。」
とまとめておりました。

おそらく両親は、ますます、なぜnikkouが礼拝に通うのか、分からなくなったのではないか、と思う。でもね、それは、逆に良かったんじゃないかな。今日のヒルティ言うところの、「この世の楽しみでは満足しきれない何か」を、長女は礼拝で得ている、と、わが両親が感じてくれたら、いいのだけれど。
フォローするわけじゃないが、我が家の両親は、けっして教養や知性のない人たちではない。むしろ、一般的には「知識人」の部類に入るほうだと思う。
それが、くしくも母が言うように、「『信仰』がないと分からない本がある」ということを知ったのは良かったのではないか、と思う。今までの価値観や常識ではない、新しい価値観が語られているのだ、ってことだけでも知ってくれれば、OKだ。
だいたい、「信仰」を持っていても、聖書って、よく分からない話が多いしね。

今日の「なんだか、わけのわからない話だったな~」という思いを、わが両親が、いつまでも持ち続けていてほしい、と祈る。ある日、ふっと、主が答えを示して、「あ、そういうことか!」と、分かる日が、わが両親にもくるはずだ。nikkou自身がそうだったように。

| | Comments (7) | TrackBack (1)

March 14, 2006

「それはそれとして」

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月14日

人間というものは、しばしばおのれの生まれながらの性質や人生における地位・身分のとおりには、
それどころか、自分の本来の意図のとおりにさえ行動しないことがある。
(中略)
このようなことを、だれの責任にしてもいけない。彼らは、しばしばほかにどうすることもできず、
より高い力の道具にすぎないのだから。
(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

今日のヒルティを読んで、
2月18日(土)の、今井館での「石原兵永に学ぶ会」第二回を思い出した。
石原兵永(1895-1984)は無教会の伝道者で、その著書を、10人くらいの有志で読む、という会である。
すごく濃密な2時間だった。
中でも、クリスチャンにとって最大の難問ともいえる主イエスのいましめ
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)についての話はよかった。
胸を突かれて、涙が出そうになった。我慢したら、鼻水が出た。

会では、石原兵永のテキストを輪読していくのだけれど、この「愛敵」にさしかかったとき、講師の相澤氏が、ふっと目をあげて、「私は、『愛敵の教え』を講義したことが、一度もない」と言った。
―そんなこと…「敵を愛する」なんてこと、自分にはできないから。人に「敵を愛せ」なんて、おこがましくて言えない。

…nikkouは、ちょっと、息をのんだ。
彼は、信仰生活で言えば、nikkouの10倍くらい(?)の年月を経てきている人だ、
そんな人でさえも、そう言うくらい、「愛敵」って難しいんだ、
っていうか、相澤先生も、正直な人だなー…って。

石原兵永は言う。
「敵を愛するというのは、いやな人間が好きになるとか、敵が可愛くなるというような、感情問題ではありません。敵は敵、いやな人間はいやな人間であり、それは事実であってどうすることもできない。しかしイエスの示す神の国の隣人愛というのは、敵であろうと、いやな人間であろうと、それはそれとして、ともかくこちらとしてはどんな人間に対しても、真実と正義の態度で対するということです。イエスがそう命じられるのですから、そう決心する。」(『イエスの招き』山本書店)

Martin_Luther_King_-_March_on_Washington
ここで、相澤氏が続けて、アメリカの黒人公民権運動に尽力したM.L.キング牧師の言葉を読んでくれた。
「『汝の敵を好きになれ』と彼(イエス)がいい給わなかったのは、われわれの幸いとするところであろう。」
「三世紀以上にわたり、アメリカの黒人たちは、圧迫という鉄のむちによってさんざんに打たれ、耐えられないほどの不正義によって昼は絶望し、夜は惑い、醜悪な差別の重みに悩まされ続けてきた。こうしたあさましい状態のもとに住むことを強要されて、われわれは恨みに満ちた思いになり、憎悪には憎悪をもって報いたい誘惑にかられる。しかし、もしそれをしてしまえば、われわれの求めている新しい秩序は、あの古い秩序とほとんど変わらないものとなるだろう。われわれは力と謙遜のうちに、愛をもって憎しみに立ち向かわねばならないのだ。」(『汝の敵を愛せよ』新教出版社)

感情面ではどうにもならなくても、とりあえず、主にしたがえ。
決心せよ。
一歩踏み出せば、あとは主が何とかしてくれる。そう―、感情だって、変えてくれるかもしれない。

nikkouは、以前、「思い悩むな!」のゴトウさんが書いていたマザーテレサの言葉も思い出したよ。

相澤氏は、生前の石原兵永に師事したらしい。
石原兵永の口癖は「それはそれとして」だったんだって。

「それはそれとして」汝の敵を愛せよ。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

March 10, 2006

しもべは聞きます。お話ください。

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月12日

キリストがニコデモとの対話(ヨハネによる福音書3章の8)の中でのべているように、霊は、思いのままのときに、思いのままのところで吹く。あなたは霊を呼び寄せることはできない。霊があなたを呼ぶのである。

あなたは、このような呼びかけを受けたならば、どんなことでも棄ておいて、すぐさまそれに従う心がまえをつねにしていなくてはならない。

というのは、霊が訪れるのは、夜の静かな時とはかぎらず、ときとして忙しい仕事の最中であることもあるからである。そのときこそ、『しもべは聞きます。お話ください。』(サムエル記上3章10)と言うべきときであり、その都度、真においても善においても大きな進歩をとげるべきときである。

これに反して、人間が自分で行う『礼拝』の効果といえば、たいていあのバアルの予言者たちのそれのようなもので(列王記上18章26・27節)それで、あんなにも騒々しく物音を立て、またそのためにおびただしい教会や神殿や寺院が建てられるのである。」
(筑摩叢書・前田敬作訳)

h-cha5
面白いので、今夜は全文掲載。

さて、ご心配おかけしました。過密労働より、ようやく抜け出しました。ばらばらだった活字の群れが、列になり隊をなし、本の形になろうとしています。
ああ、夢のようだ。

結局、今回一番たいへんだったのは、体力というより、精神力だった気がする。
いまさらだけど、教科書をつくるというのは、相当の知性と教養と、そして思想が必要なのだなあ、と思った。
そのいずれも、自分には足りない。
だから、教材の論理の矛盾も突けず、図版は埋められず、著者略歴も脚注も書けず、
何度、大型書店や図書館に通っては途方にくれ、いっそ通路にひざまずいて祈ろう、とおもったことか。
今おもえば、幸いなことですな。
これからやらねばならないことが、たくさんあるのだから。
今後の人生、けっして退屈しないだろう。

しかし、ズタボロ状態の最中は、辛かったよ。
親しいクリスチャンの友に電話して、これまた何度、電話口でさめざめ泣いたことか。
そんな状態がピークに達したころ、友人に言われた。
「nikkouさん、最近、讃美してる?」
 ――讃美ぃ~?クワイアー(ゴスペルの「聖歌隊」)の練習に行く時間なんか、ここ2ヶ月くらいないよ。歌うどころか、聞いてもいない…。

そこで翌朝、ひさしぶりにMDウォークマンを引っ張り出し、MDをひとつかみして、通勤電車の中で、聴きました。整理が悪いので、なにが入っているか分からない。聴けば、なんとなつかしい。黒人教会での録音やら、かつて在籍していて、今はもう解散してしまったクワイアーの練習やら、夏に行った豊橋の教会のワークショップやら、ICGC(池袋ゴスペルクワイアー)が、渋谷のラブホ街のど真ん中にあるライブハウスでやったコンサートやら・・・
さまざまな場所で、愛する仲間たちと、声を合わせて主を讃美する歌、歌、歌。
元気なときはさほどでもない歌詞が、胸にしみるしみる。
電車の中で、つい涙ぐんだ。

「目をあげて、山に向かう
たすけは主からくる
主の平安
嵐の日も
主は力を与えてくれる
すべての讃美を主にささげます」(「Total Praise」)

今夜ヒルティは言う。
「霊が訪れるのは、ときとして忙しい仕事の最中であることもある。
そのときこそ、『しもべは聞きます。お話ください。』(サムエル記上3章10)と言うべきだ」
アーメンですね。
そんなときこそ、主の霊を受け入れないと、人間はつぶれるね。

先週から、堰を切ったように、讃美に明け暮れる。
月曜と木曜は、クワイアーの練習に、火曜は手話讃美に。
手話讃美で、「おどろくばかりの(アメージンググレイス)」を教わった。
その、あまりのうつくしさに、胸がつーん・・・となった。

この手話讃美グループには、名前が、まだない。
「『手話を通じて神様に用いられたいと望んでいるグループ名』を、
…nikkouさん、考えてきて!」…って、言われた。
えーなんで、わたしがー?
あっ、じゃなくって、祈ります。

よい名前が与えられますように。
「しもべは聞きます。お話ください。」

| | Comments (5) | TrackBack (0)

March 09, 2006

「恋愛」という「競争」の中で

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月10日

(前略)
あなた自身のためには、ひたすら神の祝福に頼るがよい。
どんな人間によっても満たされぬほど要求の特別多い心をさえ、
神の祝福は完全に満たすことができるものだ。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

先日の「性」のシンポジウムのあとで、年配の男性の方がnikkouに言った。
「我々の若いころには考えられなかった話だ。我々が10代、20代のころは、女性とふたりきりで話すことさえタブーだった。妻とは見合い結婚だった。当時はそれが普通だった。」
…なるほど、たしかに時代は変わった。Nikkouの両親は、「結婚は自己責任!」と言い放って、逆に見合いを禁じたよ。

シンポジウムの感想を、主にある兄弟が、メールでシェアしてくださった。

…イエスに出会う前のパウロが持っていて、現代の私たちが持っていないものは何か。それは「律法」だ。私たちは、「ルカによる福音書8章29節~30節」に出てくる「レギオン」という男のように、「自己規範」がない空っぽの心に、悪の霊をたくさん住まわせているのではないか(一部を要約)。

なるほど、では昔の日本人は、周囲がよかれと薦める相手を、周囲との関係の中で大切にするという、「見合い結婚」という「律法」に従って生きていた、ともいえるかな。ちょっと曲解かな。
「見合い」という「律法」がなくなって、「恋愛」結婚が主流になった現代、nikkouをはじめとする多くの20代30代の者たちは「恋愛は競争だ」という価値観に襲われている気がする。「恋愛に『勝て』ない(=モテない)男女は価値がない」ってね。Nikkou自身、かつて、そういう思いに囚われて、自分自身に絶望的になったりしていた。主に自分の価値を認めてもらうのではなくって、不安定な世の中の価値観に、完全にかき乱されている、という感じ。

たしかに「律法」主義は窮屈で、人間味を失わせるけれど、「律法」―つまり、確固たる倫理観や価値観すらない状況は、けっこう危険なのかもしれない。

イエスが「レギオン」という空っぽ男を救ったシーンは劇的だ。
上記の兄弟のメールから引用させていただく。

―長い間、墓場を己の棲みかとする男がいた。その男の名は「レギオン」、無数の悪霊が彼のうちに同居していたからだった。彼は汚霊に乗っ取られて、自己同一性を完全に失っていた。凶悪の故に生活共同体の外に隔離され、悪霊憑きの故に宗教共同体からも捨てられて、墓場という、いっさいの救いの埒外に置かれていた。
ところがイエスは、この、悪霊に占拠された哀れな男の存在を認め、憐れみの御声をかけてくださった。
「名は何というか」

イエスは、このようにその人の名を尋ねることによって、自己を喪失したその男の中から本来の自己を呼び覚まそうとなされたのではないだろうか。私自身このイエスの語りかけに、自分等自己破綻者の真の救いを見出す。人は誰でも、イエスの呼びかけによってしか、本当の自分を取り戻すことは出来ないのではないか!―

 シンポジウムで、発題者のおひとりが、イエスは「呼びかける人格」、そして、わたしたちはそれに「応答する人格」だ、とちらっと、おっしゃっていたことを思い出す。
 Nikkouは、主イエスの「呼びかけ」に気づいた日のことを忘れない。

長くなっちゃうけれど、もう1つエピソードを。

Continue reading "「恋愛」という「競争」の中で"

| | Comments (2) | TrackBack (1)

March 05, 2006

『性』と向きあう」シンポジウム―報告

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月6日

どんな人間でも、その本質のなかの動物的な部分のために、
また、その「遺伝的負荷」のために、
官能的な、怒りやすい、虚栄的な、貪欲な自然的素質をみずからの体内にもっている。
あなたがもしこのような自然的素質を脱却し、
あなたの存在全体を根本的に善たらしめる境地にまで到達できないならば、
どのような勤勉さも、また、歯に衣着せずに付け加えると、なんらかの結構で立派な宗派に対するどんな信仰も、所詮、なんの役にもたたない。

(中略)

あなたの人生の目的は、あなた自身が、あなたの内奥の本質においてキリストに似た、善良な、この世の生活においても未来の生活においても有能な人間になることである。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

「若ものと語る信仰と現代 『性』と向きあう」シンポジウム、行ってまいりました。
パネリストの三人の方は、とても率直に、ゆえに、とても迫力のある発題をされ、胸をつかれました。
また、会場には、わたしと同世代のクリスチャンの方も、10人弱ほどいて、ほぼ全員が、コメントをしたように思います。(一番しゃべってたのは、nikkouかも。すみません…)。

しかし、その迫力や、想いの深さを、ブログの読者に、どう伝えたらいいのだろう。
また、大切なことが、あまりにたくさん示されて、まだまとまらない。
だから、今日は、話をまとめず、今日のパネリストの方のお話を一部だけ、ご報告したい。
今日のお話について、nikkou自身の考えがまとまったとき、また、書くかもしれない。

まず、発話者のひとりが、聖書を引用しながら、こんなことを教えてくれた。

「愛」には三つある。
1、「いつも、傍にいるよ」という信頼や、人格的交わりのある「愛」、
2、「大好き!」という情熱的な、「愛」、
3、セックスという、肉体的な「愛」。
この三つがそろわないと、満たされないのではないか。

それに対し、別のパネリストの方は、
セックスだけの、肉体的な快感を一度覚えてしまうと、
そのほかの2つの愛がなく、相手のことをどんなに軽蔑していても、その快感から逃れられず、満たされない思いばかりがつのる、という話を、生々しく語ってくれた。

また、別のパネリストの方は、
社会や家庭が、性をタブー視する文化の中で、
「性」の楽しさ、本当のよろこびが、逆に、罪深く、後ろめたいものにされて、それがどんなに若い男女を苦しめているか、というお話、
また、フェミニズムとからめて、自分の性が肯定できないがゆえに、人をも受け入れられなかった、という経験を語っていた。

今日、nikkouはつくづく思った。
家庭でも、地域でも、教会や集会でも、
こうした悩み苦しみを、率直に語ったり、聞いたりしてくれる兄貴、姉貴がいたら、
悩み苦しみの中にいる私たちは、どんなに救われるだろう。

そして、思った。
性の問題も、聖書が、指針を与えてくれる。
そのことは、今はまだ、上手に言葉にできないので、その確信だけ、書いておく。

今夜、ヒルティは、人間とは「官能的な、怒りやすい、虚栄的な、貪欲な自然的素質」を持っているものだ、と書いている。
それを解決するのは、「勤勉さ」でも、「結構な宗派への信仰」でもない、という。
ただ、「内奥」で「キリストに似た人間になる」ことだけ。
そんなこと、できるのだろうか。
「自分の力じゃできないよ、主がそうしてくれるんだ」ということ、多くのクリスチャンの先輩たちが力説している。
「祖父ネット」が、エペソ人への手紙と、内村鑑三の言葉を掲載しているけれど、
これも、そういうことでしょう?
148 内村鑑三「一日一生」教文館から

もうひとつ、あるパネリストの方が最後の引いていた聖書の言葉から。

マタイによる福音書第五章三節
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

| | Comments (0) | TrackBack (1)

心のこもった贈り物

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月2日
(前略)
贈り物は、半ば、あるいはすっかり不和となった人たちのあいだでも、
不思議に和解のはたらきをすることがよくあるものだ。

贈り物に一番適さないのは、花屋や温室で求めたかさばった、したがって高価な花束である。
これはすぐにしおれて、もてあましものになる。
贈り物として一番よいのは、
もし季節がゆるすなら、自分で摘んだ野の花の小さな花束か、
庭でとった一輪のばらの花か、
そのほかなにか日用の品などである。
まあ一度、そんなものでためしてみるがよい。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティのいいところは、こんな素朴さだと思う。
nikkouは、こういう考え方に、深く共感する。

付き合いの長いある友人に、ふとした頼まれ事をされ、引き受けたら、
その後なんだか高価そうなジュースのセットが送られてきた。
わたしは、ひとこと、「ありがとう、愛してるよ」って言ってくれるだけで十分だったんだけどな。

4年前にそれまで勤めていた会社をやめるとき、
親しかった先輩から、カードを手渡された。
「恥ずかしいから、家に帰って読んで」といわれた。
素直に家に帰ってから開いたら、
「nikkouの明るさに励まされてきた、あなたをとても誇りに思う」と書いてあった。
涙が出た。
このカードは、転職後の職場に持っていった。今も励まされている。

この先輩は、男勝りのかっこいい女性で、
nikkouとは、よく周囲が眉をひそめるシモネタで、げらげら笑ってはふざけまわっていた。
職場を移ったあとも、付き合いがある。
つい半年前、彼女もクリスチャンであることを知った。
びっくりした。
前の職場は辛かったけど、主は、いつでも傍にいて、こんなにもさりげなく守っていてくれたんだな、と思った。
主に感謝。
そして、K姉。ほんと、感謝してます。

わたしは、だれかに、心のこもった贈り物をしているだろうか。


水野源三に、こんな詩がある。

「葉書

あまりに達筆すぎて よく読めませんでした。
朝夕に お祈りしていますとの
最後の文字のみ よく読めました
それだけで充分です
それだけで充分です」

(「主にまかせよ 汝が身を 水野源三第二詩集」)

思わず笑って、なんだか、ちょっと胸が熱くなった。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

March 01, 2006

「若ものと語る信仰と現代 『性』と向きあう」シンポジウム

『眠られぬ夜のために』第二部

「善いことをしようという衝動がこころに起こったならば、
たとえば、なにかを整理しようというようなごく些細なことであっても、
ただちにそれにしたがい、
断乎として実行し、
先へのばしたり、中止したりしてはならない。
悪い衝動が起こった場合にも、おなじようにすぐさまこころのなかで抵抗しなくてはならない。
そうでないと、善への気乗りは、しだいに弱く、まれになり、
悪への促しばかりが、抵抗がないためにますます強く、頻繁になる。
(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

またまたごぶさたしておりました。
あいもかわらず、仕事が立て込んでいます。
しかし、あともうすこしで、本になります。
マックス・ヴェーバー読了以来、nikkouに、大きな役をお与えくださった主に感謝の思いであります。
(一方で、正直、力不足を実感しておりますが。)

さて、今度の日曜日ですが、
こんなシンポジウムがあるそうです。

「若ものと語る信仰と現代 『性』と向きあう」シンポジウム

日時:2006年3月5日(日) 14:00~17:00
場所:今井館聖書講堂
   (東急東横線 都立大学駅 下車徒歩7分)

じつは、発題者のうちおひとりは、nikkouの主にあって親愛なる姉妹で、nikkouと同い年。
この難しいテーマの発題を、よくぞ勇気をもって引き受けた、と感心いたしました。
きっと聞きに行こうと思っています。
nikkouの中で、まとまったら、当ブログにてレポートもしたいと思います。

「性」といえば、先日のLammyさんの記事に考えさせられたばかり。
ちょっとした「タイムリー」であります。

また、以前から、結婚や恋愛のこと、そして、性風俗に関わる女性たちのことなど、「性」は心にひっかかっている問題であります。
考えるよい機会になるやもしれません。
ご興味、ご関心を持たれた方は、ぜひ、ご一緒にどうぞ。
ヒルティも、ほら、「衝動が起こったら」「先へのばしたり、中止したりしてはならない」と言っているよ。

| | Comments (3) | TrackBack (2)

« February 2006 | Main | April 2006 »