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March 28, 2006

なんなんだろう「永遠の命」

『眠られぬ夜のために』第二部

「3月27日


最後には2,3の主要な事柄がその人の固い確信となっているのでなければならない。
すなわち、
神が存在すること、
また、「心をつくして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」こと、
あるいは、救いへの導き手はキリストであって、仏陀でも、プラトンでも、カントでもないこと、
これらの事はもはや疑ってはならない。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

今朝撮ったスミレの花
200603280910000_16
先週の土曜日は今井館の「石原兵永に学ぶ会」『イエスの招き』シリーズ最終回だった。
とても勉強になりました。たとえば、こんな文章とか、面白かった。

「人間の存在というものは、ケンブリッジ大学のドッド博士も言っているように、二つのはっきりした『境界線』で区切られている。その一つは生まれるという誕生です。それからもう一つは、生命の終りを示す死です。この二つの境界線の枠の中に、地上に生きる私たちすべての人間は閉じ込められている。その『境界線の守りは固い』のであって、自分の力でこの壁を突破することはだれにもできません。」(『イエスの招き』山本書店)

なんか、ミもフタもない感じです。
でも、そんな「境界線」も、神という存在を認めると、「もはや冷たい鉄の壁ではなくて」「すばらしい生命線」になるという。

「というのは、私たちをこの世界に誕生させてくださったのは、…恵み深い天の父だからであります。
そして私たちの地上生涯が死をもって閉じるときは、すなわち永遠に生きたもう神と直接お目にかかるときであり、そこで永遠なる神の国に入ることをゆるされるからであります。」
「人間にのぞむ死はけっしてすべての終りではなく、永遠の生命の内部における一つの小さな出来事であるにすぎません。」(前掲書)

nikkouはまだ死んだ事がないので、「境界線」を先になにがあるのか、断言はできない。
でも、生死は自分の意思ではいかんともしがたい、ということは、妹や友人たちを見送って、身にしみて分かった。
だから、せめて与えられた時間くらいは、nikkouをこの世に送り出してくれた主に、お見せ甲斐のあるものにしようと思うよ。

会の最後に、講師の相澤先生が祈った。
「石原先生が、今、わたしたちと共に、聖書を学んでおられたように思います。神様、ありがとうございます。」
一応確認しておくと、石原兵永は、1987年に亡くなっている。
それが「今、共に」いた、とはどういうことか。
「我々は彼の遺稿からも、聖書を学ぶ事ができる」ということのレトリカルな言い方、と受け取れなくもないけれど、
たぶん、そういうことじゃないんだろうな、と思う。

日曜日は、母教会にて「招天者記念礼拝」だった。教会から見送った方たちを記念する礼拝である。日ごろ遠くにいたり、別の教会に通っているご家族もたくさん集った。

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1948年、川崎の地に、高田敏子という英語の先生が、英語塾を始めた。敬虔なクリスチャンだった高田さんは、叔父の尾島真治牧師に頼んで、生徒たちとともに日曜学校を始める。これが、今の教会の前身になる。(「友情のかけ橋 高田敏子の生涯」より)
現在の教会の長老さんたちは、高田さんに直接英語を学んでいる。
日曜日の昼食時も、「高田先生は滅んでないね、生きておられるね。」と盛んに言い合っていた。
念のために言うが、高田敏子さんは、1974年に没している。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)実を言うと、nikkouは、この「永遠の命」とはなんなのか、よく分からない。実感として理解していない。
べつに「永遠の命」がほしくてクリスチャンになったんじゃないし。
仮にノンクリスチャンのときに、街角で「イエスを信じたら、永遠の命を与えられますよ」なんていわれても、「あ、間に合ってます」って答えちゃいそう。
ただ、生きている今現在、イエスを慕い、一生涯、彼に求めていきたい、と思っただけ。
そうそう、今夜のヒルティがいう3ポイントさえおさえていれば、聖書なんて全部分からなくっても、クリスチャンなんだよね。

ただ、相澤先生や、川崎教会の長老さんたちの確信に満ちた表情を見ていると、
「彼は生きている」というのは、
単に、「亡くなった人は、私たちの思い出の中に生きている」みたいな甘い感傷じゃない気がするのね。
なんだろう、「永遠の命」。
願わくは、この身の滅び去る前に、悟り得たいと思う。

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Comments

なんだろう、「永遠の命」。
本当に命って何なんでしょうね。
僕の親父は数年前に病気で他界しました。
数ヶ月間の入院生活の後です。
母は病院に泊まりこんで、付き添い、実家を離れていた僕は、週末だけ母と交代で父に付き添いました。
あのときは、命について、本当に色々と考えましたね。
とりあえず、たとえ病床に伏して呆然と天井を眺めているだけでも「生きている父」と、「死んでしまった父」とでは存在感が全く違って感じました。人の「生」のエネルギーはとてつもなくデカイです。親父が去ってなお、それを強く思うようになりました。
ある意味、人は死なないのかもしれません。
肉体は消えても、生きている誰かがその人を必ず敬慕してるはずだから。

Posted by: ahilland | April 01, 2006 at 12:38 AM

ahilandさん

人の死を身近で体験すると、なんていうか、人生観が変わるような感じがしますよね。
愛する人ならなおのことですね。

そうか、「生」はエネルギーなんですね。

>ある意味、人は死なないのかもしれません。
>肉体は消えても、生きている誰かがその人を必ず敬慕してるはずだから。

なるほどー。

Posted by: nikkou | April 04, 2006 at 07:40 AM

ヨハネによる福音書17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とありますね。この箇所を単純に素直に読むと、「永遠の命」イコール「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」ということになりますよね。

以前、このことばの意味を牧師に質問したことがありましたが、そのとき、ここでいう「永遠」がそもそも過去から未来へ向かう時間の流れに支配されない (いわゆるクロノスに支配されない、ということですね) からの解放であることに気付きました。だから、「永遠の命」とは「不老不死」とは全然違うものなのですね。

それから、このときの「知る」ということは、「アダムは妻エバを知った」というときの「知った」と同義で、人格的な交流が存在することを意味するのだそうです (余談ですが、アダムは妻エバと単に寝たのではないわけです)。人を知り、人に知られることで、人は生きていることがわかる。神を知り、神に知られるということは、その人が生きているということがこのうえなくわかることなのでしょう。そして、想像することしかできないはずの誰かの心の中にその人がいる限り、死んだ人は生き続ける…というのなら、全知全能の神の心の中でその人は生きていないはずがない。そう思いました (まとまってないなぁ…)。

Posted by: ほそのひでとも | November 06, 2006 at 10:40 PM

ほそのひでともさん

>神を知り、神に知られるということは、その人が生きているということがこのうえなくわかることなのでしょう。

なるほどねー、なんか、元気になる話ですねー。
「神さまは君のことをよーく知ってるよ」って言われると、ちょっとうれしいかも。

Posted by: nikkou | November 07, 2006 at 01:12 AM

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