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April 28, 2006

夫婦別姓について

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月29日

(前略)…

 姦通や、一般に道徳的な純潔さということも、男性と女性の双方にとって平等のことであって、したがって、夫婦のどちらにとっても、これが幸福な結婚生活の要求であり、根本条件であるということ―われわれは、もう一度このような考え方に立ち返らなくてはならない。とりわけドイツの現状を見るとき、これがふたたび一般の確信とならなくてはならない。」
(筑摩叢書・前田訳)

ヒルティの男女平等思想というのは、妻の影響だそうだ。
さぞかし、賢くて魅力的な女性だったのだろう。

略した前半には、「離婚はときとして必要なこともある」と書いている。
でも、「再婚はだめ!」ということを、ずいぶんと強い口調で書いている。
理由は、「再婚には金銭が絡むから」だそうだが、おそらく、当時のドイツの事情を反映しているのだろう。
具体的にどういうことなのかは、21世紀のニッポン人であるnikkouには、よくわからない。
だから、非常に奇異な印象を受ける。

現在、聖書の「民数記」と「コリント人への第一の手紙」を読んでいる。
そのどちらにも、「結婚」や「夫婦」に関する章がある。やはり、21世紀ニッポン人nikkouには奇異に思える箇所がところどころにある。

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「結婚」という状態には、その共同体の文化的・社会的背景が強烈に絡むんだろう。
ほかの共同体の結婚のあり方を知ることは、日本という共同体の結婚のあり方を客観的に見るよいチャンスだと思う。(左はルワンダ難民の結婚式。『漂泊のルワンダ』吉岡逸夫)

日本の結婚制度といえば、夫婦別姓法案はどうなったんだろう。
nikkouの職場は、夫婦で同じ姓の人も別の姓の人もいる。
年代はあまり関係なくて、50代で、結婚生活が長くてもパートナーと籍を入れてない女性もいるし、男性で若いころと苗字が違う人もいるらしい。
女性だと、戸籍上は夫の苗字でも職場では旧姓のまま、という人が圧倒的に多い。
だから、女性であっても男性であっても、既婚か未婚か知っているのは、総務部と親しい同僚だけ、ということもある。要は、プライベートを職場で公表するかどうかは、本人の自由である。
(ちなみに前の職場は、通称であっても夫婦別姓が認められていなかった。)

nikkou自身は、結婚したら、少なくとも職場では、今の苗字のままでいようと思っている。
実家の母は、「結婚したら、相手の籍に入れ」という。
家を残したくないんだそうだ。
nikkouの実家は、四姉妹である。娘たちが結婚して、籍を抜いて、両親が死んで、籍が消滅して、おしまい。…というのが、気持ちよくっていいんだそうだ。
「われわれは死後、形のあるものは残さない」という両親の主張は、ずーっと昔から散々言い聞かされてきた。
家も金も残さない。
でも、教育だけはみっちりする。
最終的に頼りになるのは、家と金ではなく、身についた知性と教養、…だそうだ。

ネットで夫婦別姓に反対するホームページを見つけた。
理由は「家族という形態が崩壊するから」だそうだ。
しかし、nikkouの実家のように、夫婦「同姓」を利用して家の消滅させる、という考え方は彼らにはどう映るんだろう。女の子しかいない家庭は、はなっから存在しないんだろうか。

こういう人たちに、
「ホテルのチャペルかもしれないけれど、あなただって、十字架の前で誓ったんでしょ。
国の定めた戸籍なんかなくったって、主なる神が夫婦と定めたら、死ぬまで夫婦と保障されたんだから大丈夫よ。
主なる神は、国を超えて永遠だからね」
なんて言ったって、「!?」なんだろうな。

そのホームページのトップページを見たら、
首相の靖国参拝擁護と、天皇制の維持を主張していた。
彼らにとっては、国籍が主なる神であり、永遠の保障なんだろうか。

まあ、本音を言うと、国の籍なんて、便宜上のことで、夫婦別姓だろうが同姓だろうが、どちらでもいい。
ただ、そこに主義主張を絡ませて押し付けないでほしい。
nikkouの本当の国籍は天にある。

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April 24, 2006

北野台聖書集会と、えっちゃんのこと

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月21日

だれの眼にもあきらかなことだが、なんと多くの人びとが、めいめい鎖を身につけて引きずりまわっていることであろうか。
これに気づけば、われわれはもっと同情ぶかくなるにちがいない。
人間は相互におそろしいまでに嫌悪しあっているものだが、この嫌悪も、しかし、ここから生じるのである。
それは、人びとを助けてやらなくてはならないという恐怖、
あるいは、もしいっそう親しくなれば、きっとあまり善い面を発見することはあるまいという確実な予測なのである。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

今日の礼拝は、母教会ではなく、「北野台聖書集会」という無教会の礼拝のほうに出席した。
以前から、「自宅で集会をすることにした」とおっしゃっていた無教会クリスチャンの伝道者相澤先生の、記念すべき第一回目の礼拝である。
一度このブログに相澤先生の「主にあって」に関する講演を取り上げて、それをプリントアウトしたものを郵送して以来、親しい交流が始まったのであるが、今回の集会のお話の中で、相澤先生の経歴を初めて知った。
ブログの大方の読者には、あまり関係のないことかもしれないけれど、個人的にはとても面白かったので、ちょっと書き留めておきたい。

Xd907_120代後半のころ、相澤先生は、「このままの生き方でいいのか」という思いに駆られて、浄土真宗の門を叩いたのだそうである。
キリスト教には、なにか、ピンと来ないものがあったという。
「このままの生き方でいいのか」というのは、裏返せば、「このままで死んでしまうのはいやだ」という「死」への恐れだった。
そこで暁烏 敏(あけがらす はや)の弟子にあたる前田修一という人の集会に参加し、歎異抄を学んだそうだ。
あるとき、この前田修一氏が、「真理はひとつだ」と塚本虎二訳「新約聖書」から「山上の垂訓」をプリントして配ったという。
この「山上の垂訓」の美しさに心うたれて、相澤氏は、塚本虎二の聖書講義に出席、イエスの十字架による死の克服と罪の赦しを悟った。
そして、今、無教会クリスチャンとして伝道の道を歩まれている、というわけ。

Shinran
nikkouの個人的な感覚で、日本の教会の礼拝で名前の出るお坊さんナンバーワンは、親鸞だと思う。
自分の教会でも、友人の教会や、知り合いの牧師と話していても、本当によく引き合いに出される。
あまり詳しくは知らないのだけれど、なにやら、イエスの考え方と、とても近いものを持っているらしい。
ほんのすこーしだけ親鸞について書かれたものを読んだことがあるけれど、
たしかに、タイムマシーンで彼を訪れて、新約聖書を手渡したら、きっと、だれよりも深く(そう、nikkouの浅知恵なんかよりもずっと深く)彼は、理解しそうだ、と思った。

今日の礼拝のテーマは「人は死ねば終りか」。
相澤先生が、浄土真宗の、そしてキリスト教の門を叩くきっかけとなったテーマでもあるのだけれど、nikkouは、まだ、心と体で理解しきれていないという気がする。
お話自体はとても分かりやすかったのだけれど、たぶん、頭だけの理解だ。
だから、書かない。
というか、書けない。なにを書いても、生意気になってしまいそう。

今日のテーマと深く関わっている事で、nikkouにも実感を伴って理解したことをひとつだけ書きとめておく。

神を愛するということの具体的な実践は、この世のもっとも小さなものを愛するということである。
でも、本当は自分が「小さなもの」である。
必ず人は老いるし、病むし、そうでなくったって、弱くて哀しい存在だ。
だから、「小さなものを愛する」と同時に、「小さなものとして愛されている」ことを、感謝して、受け止めることが、みこころなんじゃないか、というお話。

たしかに、「小さなものを愛する」という言い方は、一歩間違えると、傲慢になってしまう。
わたしは「小さくない」から、「小さな存在」を哀れむことができる…みたいな。

そこでわがゴスペルクワイアーのディレクター(指揮者)のえっちゃんのことを思い出した。
彼女は、最近、ストレスで難聴になってしまった。
そのとき、彼女は悟ったのだそうである。
そういう弱さを、クワイアーのみんなにさらけだして、クワイアーをみんなに、そして神様にまかせてみよう…。

彼女の統率力や歌唱力といった能力の高さは、とにかく飛びぬけていて、彼女が弱くなってしまうことは、クワイアーにはとても不安なことである。
でも、不思議な事に、えっちゃんのこの「弱さ」の告白によって、クワイアーおどろくほど、成長しているのである。
えっちゃん以外の、能力のあるメンバーがディレクターを引き受け、さまざまな係りもできた。
nikkouが、まだ何も働きに参加していないことが、心苦しいのだけれど、
「弱い」ことは「強い」ということを証しする係りとして、ここに書き付けておこうと思う。

nikkouは、なんとなく、人の好意を受けることを遠慮してしまう、というか、もっとはっきり言うとわずらわしく思ってしまうふしがあるのだけれど、
それって実は、「自分は小さくない、弱くない」という余計なプライドだったのかもな、と
えっちゃんのことと合わせて、今日はつくづく思った。

じゃあ明日から、愛を素直に受けられるようになれるか、というと、ちょっと難しいけれど、
すこしずつnikkouも変わってゆくよ。

今日、相澤先生を通して、主から教えられたメッセージに感謝。

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April 21, 2006

教科書現状

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月20日


「神は、神を愛する者たちとともに働いて、万事を益となるようにしてくださる。」(ローマ人への手紙8章28節)
これこそ、正当な、しかも長持ちする楽観主義(オプティミズム)である。
このようなことを、われわれは生涯において、それが単なる『偶然』とのみは思われないほど、たびたび経験するものである。」

(岩波文庫・草間・大和訳)


「長持ちする楽観主義」とは味な言い方。
ここに引用されている聖書のことばが好きな人は多い。
パウロのことばだが、とても苦労した人なので、たぶん実感のこもったひと言なのだろうと思う。

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さて、今週ようやく、文部科学省に教科書を提出してきた。
あまり知られていないことだけれど、教科書というのは毎年ちょこちょこと改訂されていて、そのつど検定を受ける。芥川龍之介「羅生門」や夏目漱石「こころ」など、長い間変わらない教材もあるけれど、評論などは世界の情勢や科学の発展にともなって、ころころ変わっている。
ちなみに現在の高校の国語教科書は、評論文が主流で、文学作品は敬遠される傾向にある。
テーマも思想・哲学から、経済、国際問題、環境、身体、生命倫理、科学…と幅広い。
おそらく大学入試の影響だろう。
先生たちも大変だろうけれど、作るほうもしんどい。

今回の編集過程でつくづく思ったのは、
自分にも専門分野が必要だな~ということである。
文学や現代思想についてのひととおりの知識と教養はもっていて当たり前。
加えて、何か特化したものを持っていないと、この職場では役立たずになってしまう。
いや、実際、今回「ああ、わたしってば、役立たずだわ」というプレッシャーは相当強かった。
手持ちの知識ではもう、いっぱいいっぱいです。
勉強しなくちゃ。

ところで、最近、教科書の営業活動に関して、規制緩和がなされることになった。
教科書売り込みの規制緩和 公取委、特殊指定廃止へ
先生へのプレゼントも解禁。
マスコミと資本をバックにつけた某右派教科書の謀略という噂もあるけれど、
その点は、わが編集部は楽観的。
カネとマスコミに踊らされるほど、教育者の知性と倫理は貧しくない!はず…だよねー、先生。

それよりも問題なのは、現在10社弱ある高校の国語教科書がどれも、すこぶる似てきたことである。
弊社の教科書は比較的左傾といわれてきたのだけれど、
近年、思想性のある教科書は(右・左かかわらず)敬遠されるうえに、
方向性の見えない現代の状況では、明快な結論も示しにくいのか、毒のない、あたりさわりのない文章が中心になってきている。

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ああ、そうすると、やっぱり差別化は、中身じゃなくって、営業力、となってしまうかもしれないか…。
「時代閉塞だなー、石川啄木だなー」と
昨日、上司がぼやいていました。
こんな時代に、なにを目指して勉強すればいいんだろうか。

友人に話したら、教科書において、閉塞状況が打破できるよう、またそのためにnikkouが用いられるよう、祈ってくれた。
ありがとう。
右でもなく左でもなく、時代にめげない、しなやかで強靭な知性がほしい。
こんな時代に教科書を作る役回りを与えられたのも、
いつか、「万事益とされる」んだろうか。
なんの具体的な方策もないんだけれど、とりあえずは
かくなるために、パウロの言うとおり、「神を愛する者」となろう。

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April 16, 2006

ハッピー・イースター!

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月16日

人間をすべてみな愛することは、キリストへの愛がなければできないものである。
いまさらやってみるまでもない。
そういう試みからは空しいおしゃべりよりほか何も生じない。
そして最後に、もし真実を愛する人ならば、
人間嫌いか傲慢なエリート意識におちいるだけだ。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

イエス・キリストへの愛なしに人を愛そうとしても、おしゃべりになるだけ。
そして、最終的には人間嫌いで、傲慢になるだけ、だそうだ。
「空しいおしゃべりよりほか何も生じない」とは、ちょっと耳に痛いことばですな。
こんなところで世界を憂う言葉をむなしく紡ぐよりも
ただ黙して、なさねばならぬこともあろうよ、たしかに。

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さて、本日はイースター。
←わが教会のイースター・バニーです。
(かなちゃん、5歳。ちなみに弟あゆむ君は2歳。この後、nikkouと追いかけっこで遊んでくれた。)
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礼拝で、イエスの復活のメッセージを聞きつつ、ふと、「永遠の命」の意味の一端を理解したような気がした。
「永遠の命」とは、「思い出の中に残る」とか「記録に残る」とかいう形ではなく、たしかに、現在も働き続ける「いのち」なのかもしれない。
思い出の中の人物は、往々にして都合よく美化されてしまうものだけれど、
主イエスは、むきだしの、激しい想いをもって、わたしに迫ってくる。
それは、時々耳に痛いけれど、
でも、自分の思いだけで動き、絶望し、立ち尽くすよりは、はるかに安心な生き方かもしれない。
パレスチナに、ルワンダに、イラクに、そして日本に、平安あれ。
ハッピー・イースター!

「それゆえに私たちは、失望することはない。
むしろ、たとえ私たちの外なる人は朽ち果てても、しかし私たちの内なる人は、日ごとに新たにされるのである。」

(コリント人への第二の手紙・青野太潮訳・岩波書店)


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April 10, 2006

ルワンダ・スーダン・パレスチナ

『眠られぬ夜のために』第二部

「普遍的な人間愛は、ほぼ中立と同じようなもので、
『平和の時代にはたいへん立派な、明白な事柄』(ナポレオン三世の言葉)である。
しかし、われわれは、魂の嵐のなかでも、やはりこのような愛をたもつことができなくてはならない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

「ホテル・ルワンダ」を見て以来、なんともいえないやりきれなさを覚えていたのだけれど、
(Tiさんのコメントにもあるように)やはり祈るしかないんだろう、と改めて感じている。
ここ数日、ルワンダのことを祈っている。
祈らずにはいられない、ということもあるけれど、
祈りの力を信じたい、とも思う。
無力感は絶望を、絶望は無視へとつながっていって、事態をよりわるくする。
祈りは希望だ。
主なら、きっと、彼らを救う手立てをこうじてくださる。

こうして祈りに覚えることができるようになったのは、
ルワンダは「隣人」ではないか、ということを突きつけてきたあの映画の製作者たちのおかげだ。
彼らに敬意を。
そして、「隣人」を知らせてくれた主に感謝を。
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そもそもあの映画自体、日本での上映は予定されていなかったそうだが、
ある青年がインターネットで呼びかけることで上映が実現したそうだから、
ささやかながら、ひとつの奇跡だといってもいいと思う。

その後、トラックバックをしてくださったカオリさんより、以下の記事をご紹介いただく。

ホテル・ダルフールを防ごう
ドン・チードルとポール・ルセサバギナからのメッセージ

映画を見てしまった以上、もう、無視することはできないけれど、
でも、どうしたらいいんだろう。
まずは、祈ることからはじめるしかないのだろうけれど。

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パレスチナを取材しているOさんという友人がいて、折に付け、パレスチナからメールマガジンを送ってくれる。
(左は、あるキリスト教団体が撮影した「分断の壁」)
パレスチナの問題は複雑だからなあ、わっかんないんだよな・・・と、まことに不遜ながら敬遠しがちなのだけれど、彼の筆致は臨場感があり、またクリスチャンである私には、時々「挑発的」(いい意味でよ、Oさん)に感じられる記事もあって、よく状況が飲み込めないまま、パソコンの画面の前でフリーズしてしまうこともしばしば。

たとえば最近の記事(3月30日)より
「今日は、ベツレヘムに行った。
昨年くれからの数ヶ月で、
キリスト生誕の地は、また姿を変えていた。
北側は、大きくイスラエルに切り取られ、
さらに、
コンクリートの壁が、二重に設置されようとしている。」

…先日友人が、
「イスラエルは破壊がすすんで、こういう美しい風景はもうみられないらしい」と
ずいぶん古いイスラエルの記録ビデオを見せてくれたけれど、どうやら本当のようだ。

そして、3月17日の記事
「そういえば、昨年ヨルダンから国境を超えるときに出会った若い日本人女性
(ヘブライ大学というイスラエルの大学の学生だった)は、
イスラエル兵は、銃を持っていても安全だ、と断言しました。
『だって、理由もなく撃たないですから。』
これこそ、
<宗教戦争>に近いような気がするが・・・
(イスラエルに滞在する日本人には、多くの思想的に偏ったキリスト教徒が多い。)」

…これはちょっとわかりにくいけれど、
ヘブライ大学に留学しているという日本人女性がイスラエル兵に無防備な信頼感を置いていたという話。
Oさんが取材したかぎり、イスラエル兵を「銃を持っていても安全」と断言することはできない。
こんな無防備さは、イスラエルに滞在するキリスト教徒に多いようだが、この彼女も「宗教」を盲目的に信じるゆえに、現実を見ようとしていないのではないか、
そして、こうした無知が、安易に「パレスチナ=悪、イスラエル=善」という構図を生んで、「戦争」をひき起こしているのではないか、・・・といったところだろうか。

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ルワンダの状況も、映画ではフツが襲ってくるという構図であったが、
現実にフツとツチを、善悪で色分けすることは難しいだろう。
そもそも、フツとツチは同じ宗教を信じ、民族的な差異もないそうだ。
彼らのIDカードに「フツ」「ツチ」という判を押したのは、ルワンダを植民地支配していた西欧人である。

真のキリスト者は、「蛇のようにさとく、鳩のように純真」に。
嵐の中でも愛をもて。
世界に、注意深く耳をすまし目をこらしたい。
そして、パレスチナにしても、ルワンダにしても、スーダンにしても、まずは祈ろう。
あたえられる情報に冷静に対処することは大事だけれど、
そのためには、わたしたち人間の狭い視野ではなく、世界中のすべての小さな者たちの傍らにおられる主にたずねるのが最善と思う。
なにが、起きていて、なにが、正しいのか。
わたしのような無知なものが自己中心的な思いで動くとあぶない。
自分の思いはひとまず空白にして祈っていれば、いつかきっと主から、行動に移すためのサインが出るだろう。
祈らなければ、…つまり、心の中に隣人の存在を意識していなければ、サインを見過ごす気がする。
だから、まず祈ろう。

主よ、彼らの今日の糧と平安な眠りをどうぞおあたえください。
そして、彼らのために、わたしたちが取るべき道を教えてください。

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April 08, 2006

ホテル・ルワンダ

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月7日

『今わたしの心が騒いでいる。父よ、この時からわたしをお救いください。』(ヨハネによる福音書12章27節)。
これもまた一つの『主の祈り』であって、特に『主の祈り』と呼ばれているもの(マタイによる福音書6章9節~13節)よりも、これと同じような深い悲しみにある時には、一層われわれに役立つことが多い。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

Banner_234x60_1映画「ホテル・ルワンダ」を観てきた。
しんどかったわー。

「1994年、アフリカのルワンダで長年続いていた民族間の諍いが大虐殺に発展し、100日で100万もの罪なき人々が惨殺された。アメリカ、ヨーロッパ、そして国連までもが「第三世界の出来事」としてこの悲劇を黙殺する中、ひとりの男性の良心と勇気が、殺されゆく運命にあった1200人の命を救う。

 『アフリカのシンドラー』と呼ばれたこの男性は、ルワンダの高級ホテルに勤めていたポール・ルセサバギナ。

命を狙われていたツチ族の妻をもつ彼の当初の目的は、なんとか家族だけでも救うことだった。しかし、彼を頼りに集まってきた人々、そして親を殺されて孤児になった子供たちを見ているうちにポールの中で何かが変わり、たったひとりで虐殺者たちに立ち向かうことを決意。

行き場所のない人々をホテルにかくまい、ホテルマンとして培った話術と機転だけを頼りに、虐殺者たちを懐柔し、翻弄し、そして時には脅しながら、1200人もの命を守り抜いた。

本作は、家族4人を救うことを心に決めたひとりの父親が、ヒーローへと飛翔する奇蹟の過程を描いた実話である。」(映画公式HPより)

ジェノサイドというと、第二次世界大戦時のユダヤ人虐殺や、広島長崎への原爆投下、諸説あるにしても南京大虐殺、と歴史上の話と思いがちだけれども、これは、わずか10年ほど前の話。
ルワンダから遠く離れた国の人間として、胸にこたえたのは、虐殺を撮影した米国人ジャーナリストの言葉である。

「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける。」

実は、1994年ごろ、nikkouは、ルワンダのことを知っていた。
当時は、某出版社のバイトの学生だったのだけれど、
たまたま、
国連親善大使だった黒柳徹子のルワンダ難民キャンプの報告文を、
ワープロで打っていたのである。
そのときは、原稿を読みながら、「『怖いね』と言うだけでディナーを続ける」どころか、
「黒柳徹子って偽善者だね」なんて言ってたよ。ああ。

ホテルに駆けつけた国連軍は、ルワンダにいた外国人だけバスに乗せて走り去ってしまう。
現地のシスターたちと孤児たちを引き連れて走ってきた外国人神父までもが車に乗り込んだときは、nikkouはあやうく座席から立ち上がって、「お前はなんのためにルワンダに召命されたんだぁ~っ!」と叫ぶところだったよ。ドリフターズの舞台を見に来た小学3年生か。

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しかし、たとえルワンダに残ったとて、何ができよう。
日本にいて、テレビで虐殺の映像を見て、夕食を続ける以外、何ができよう。
大体にして、今現在、イラクで、アフリカで起きているあれこれに、何ができよう。

エンドロールで流れる歌に、字幕がついていた。
どことなくゴスペルを思わせる曲調だと思ったら、はたして、続々と、聖書の引用だった。
「ルワンダを逃げ出した西欧人への皮肉じゃないか」と一緒に見に行った友人は言う。
それもあるかもしれないけれど、一クリスチャンとしては、このときの聖書の言葉は、「鞭」どころか、「剣」だったね。お前は、この聖書の言葉を、机上じゃなく、現実として受け止めたことはあるか、って言われた気分。

歌は続く。
「子供たちは、泣いている」
「ジーザスは、泣いている」
「神様、われわれの叫びは聞こえますか」

きついなあ。
ジーザスは、泣いているよ。
主よ、わたしに、何ができますか。

(歌詞の引用聖句については、上記の友人が丁寧に聖書を引いて、ブログにアップしてくれました。
ブログ「雪よりも白く」 )

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April 06, 2006

新しい歌を主に向かって歌おう

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月5日

(前略)
…キリストがたんに、いまから2000年前に生きかつ死んだひとりの高貴な人間にすぎないならば、かれはおそらく二、三の美しい主義・原則をわれわれにのこしてくれたかもしれないが、この原則を(しかも、いくらか異なった環境のもとで)守って生きる力や、それによってかれが経験したおなじような世俗との紛糾におちいったときの慰めは、のこしてくれなかったにちがいない。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作)

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4月1日(土)に、毎度のことながら今井館にて、「新しい歌を主にむかって歌おう」という講座に参加してきた。
下は1歳半のベイビーから上は定年後のおじさんに至るまで、のんびりと楽しい2時間だった。
歌ったのは、北欧で歌われている讃美の歌、そして、講師の武義和さんが作曲した水野源三の詩など。
ワークショップ形式で、5曲ほど讃美した。
合間合間に武さんの歌の解説などのお話が入るのだけれど、自然体でユーモアたっぷりで、よく笑った。

武さんご自身の、音楽大学に入って挫折を味わい「不登校」になった話、
高校で音楽の先生をしているとき、ノルウェーへの招致があって、すっぱり教職をやめてしまった話、
ノルウェーでの出会い、
帰国後はひきこもりや不登校の人たちのためのフリースクールを開いたこと…

「今でこそ笑い話」と武さんはいい、みんなもつられて笑いながら聞いたのですが、その場その時ではきっと、とても大きなチャレンジだったろうと思う。
そんな想いをもって紹介された1曲1曲は、とてもおだやかであたたかくて優しい気持ちになるものばかり。
中でもnikkouのお気に入りは、水野源三の「あなたをよんでおられるから」と、ノルウェーの歌「ジーザス・ドゥ・アール・コンゲ(=ユー・アー・キング)」。
また、成井豊・作詞、林あずさ・作曲の「ハッピーバースディ」という歌も歌った。
この歌に、「神」や聖書のことばは出てこないけれど、武さんいわく、「この歌は究極の賛美だ」。

ハッピーバースディ 生まれてきてよかったね
ハッピーバースディ 君にあえてよかったよ

大きな宇宙の小さな地球で
君は生まれた
きょう生まれた
僕のすぐそばで生まれた

君の目 君の声 君の笑い顔
みんなすてきだよ
ハッピーバースディ 生まれてきてよかったね
ハッピーバースディ 君にあえてよかったよ

なんか、親の歌う歌みたいだな~と思ったら果たして、あるダウン症障害児の会のテーマソングなんだそうだ。
そして、武さんが言うには、これは、神様がひとりひとりに対して思っておられることではないのか、と。
nikkouは韓国の有名なゴスペルソング「君は愛されるため生まれた」を思い出した。

歌っている間、それこそ「生まれてきてよかった~」といわんばっかりに、1歳児がきゃっきゃと走り回っていて、ぴったりな効果音でした。

もうひとつ、武さんのお話で印象深かったのは、
「新しい歌を主に向かって歌え」という、旧約聖書「詩篇」のことばの意味である。
これはただ単に、「新しく歌を作って歌おう」という狭い意味じゃないんじゃないか、
「新しくされた私たちが、賛美を歌おう」という意味じゃないか、とのこと。

と、いうことは、だ。
何度も歌ってきた歌であっても、そのたびに新しい感動をもって歌えば、「新しい歌を主に向かって歌う」ことになる。じゃ、毎週クワイアーでわたしたちは「新しい歌を主に向かって歌っている」わけよね。

ワークショップはあと3回。
1回300円
まだ人数は増えても大丈夫、とのことなので、
ご興味のある方はぜひ、どうぞ。
無教会研修所(新しい歌を主に向かって歌おう)

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April 04, 2006

無教会クリスチャンの結婚式

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月4日

愛なきたましいがおちいる神なき寂寥と暗闇は、その苛烈さにおいて外的刑罰とは比較にもならぬ恐ろしい運命なのである。」
(筑摩叢書・前田敬作訳)

4月2日(日)、知人の結婚式に出席した。クリスチャンの結婚式ってのは一般に質素なものだけれど、この結婚式は、nikkouがこれまで出席した結婚式のなかで、とりわけ質素で、でも、一番愛にあふれている結婚式だった。

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無教会クリスチャンの結婚式だったので、教会の礼拝堂ではなく、市民会館の会議室の一室にて、
パーテーションを集会のおじさんたちが一生懸命はずすと、新郎新婦が入場。
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司式は、集会の主催者の方で、二人のことを祈ってきた人ならではの、心のこもったお祈りと式辞だった。そしてイエス様を信頼しているふたりの固い誓いに、厳かな気持ちになった。
派手な演出や、豪華な装飾などなくとも、祝福と愛できらきらしていた。

退場のときに蒔いたフラワーシャワーも、みんなでいそいで拾い集め、
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そのまま、会議室にて祝会(披露宴)。
お料理は、集会のお母さんたち手作りのビュッフェスタイルで、ランチョンマットも手作り。
「(nikkouの結婚式のときも)おばちゃんが、おいしいものをたくさん作ってあげるからね!」といわれました。
ありがとー!
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集会のみんなで歌ったり、スピーチをしたり、
本当に愛されている新郎新婦でした。

「富んでいると見せて、無一物の者がいる。
貧乏と見せて、大きな財産を持つものがある。」

現在nikkouが読んでいる旧約聖書の箴言13章7節。
こんな結婚式が一番いいな~と思うようになるとは、nikkouも、いよいよ聖書に洗脳されてきたか(笑)。
でも、本当にね、豪華な装花や、有名ホテルのチャペルや、フルコースのお料理は、お金さえだせば簡単に用意できるけれど、手作りのお料理やランチョンマットや、心からのお祈りや祝福の歌は、愛されていなければ与えられないものばかり。いや、むしろ、得がたくって、貴重なものだと思う。
イエス様が出席した「カナの婚礼」も、こんなふうに素朴で笑いと愛が一杯だったと思うな。

お二人の幸せ一杯の笑顔と、ご家族のうれしそうな顔に、nikkouも、幸せ一杯になりました。
いつまでもお幸せに!


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