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May 28, 2006

戦場のアリア

『眠られぬ夜のために』第二部

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「5月28日

神は、ときによって、自然の出来事や事物を通してわれわれに話しかけることもある。
これは、神の言葉を理解しない現代人にも、まだしも一番わかりの早い言葉である。
ときには、花を通して語られることもある、花の語る言葉は、とくに愛らしい話し方となる。
しかし、つねにたましいを失っている切花や、温室育ちの花を通して語られることはない。…(以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

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切花に向かない野花。どくだみとシロツメクサ。どっちも好きです。
上は、教会の庭に咲いていたミニバラ。蜘蛛の巣が架かっていて、
雨粒が乗っているの。
こういうのも、切花にはない美しさですね。
たしかに、「愛らしい話し方」で何か、神の言葉を話しているような気がします。

200605271702000さて、本日は、たまちゃんのブログあやぽさんの記事を読んで、かねてより観たいと思っていた「戦場のアリア」を観てまいりました。
最近、重いものばかり観ているし、ちったぁハートウォーミングなもんでも観るかね、ってな気持ちで行ってきたのですが、どうしてなかなか、これは見ごたえ十分の名画でありました。

「1914年、第一次大戦下。フランス・スコットランド連合軍と、ドイツ軍が連日砲弾を鳴り響かせているフランス北部の村。クリスマスだけは家族のもとへ帰りたいと兵士の誰もが願っていたが、戦況はますます熾烈さを極めていた。 やがて訪れたクリスマスの夜。ドイツ軍には10万本のクリスマス・ツリーが届けられ、スコットランド軍の塹壕からはバグパイプの音色が聞こえてくる。そして、奇跡は起こった--。

これは、大戦下のクリスマス・イブに、互いに敵対する者たちが、クリスマス・キャロルの歌声をきっかけに、戦闘の最前線で歩み寄り、挨拶をし、フランスのシャンパンで乾杯したという信じられない本当の物語。
これが長編2作目となるクリスチャン・カリオン監督は、軍の正式記録には残されていないが、ヨーロッパ各地に今も語り継がれる戦場の奇跡を忠実に映画化した。」(映画公式HPより)

Hp
…されど、安直なヒューマンドラマにあらず。
国家を超えて隣人―文字通り「の塹壕の」―を愛することへの障害、残酷な戦いに傷つき、心を開けない若い兵士、そして、正しく平和を語れない教会…

映画の中で、マタイ10章を引いて戦争を正当化する神父が登場する。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく剣をもたらすために来たのだ」
(マタイによる福音書10章34節)
イエスの言葉である。
この言葉に続く「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。自分の十字架を担って私にしたがわない人は、わたしにふさわしくない」というくだりはなんとなく分からなくはない…というか、まあ、不肖nikkouもその覚悟でクリスチャンをやっておりますですが、しかし、「平和でなく剣を」という言葉はたしかに、過激でありますな。のみならず、こんなふうに、都合よく利用される言葉でありますな。別のところで、イエスは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」 (同・5章9節)とも言うのに。

Intro001
しかし、敵味方なく兵士たちと共に十字架のもとに集い、礼拝をささげた神父は、この戦いを正当化する神父(こっちのほうが偉いらしい)に問う。「それは、神の道か」―いや、画面の向こうから、私たちに問いかけているのだ。…もちろん、こんなふうに、時代を隔て、画面の外から客観的に見ることが出来たら、そりゃあ、答えはわかっているけどさ。nikkouはひそかに、心開けぬ若き兵士にも胸えぐられる思いでした。

映画の主人公である兵士たちと、そして、陰の主人公、主イエス・キリストの想いが、現代の世界中の戦場の人々に届くよう、祈ります―最近、映画を観るたびに、なにかしら祈らされますが。

いい映画でした。
まだ上映しております。
ぜひご鑑賞あれ。

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May 25, 2006

藤田嗣治展

『眠られぬ夜のために』第二部

「5月25日

(前略)
…個人的な神の信仰がなくても、
たんに一元論や、その他の中途半端な、もしくは完全な無神論的哲学や、
あるいはヒューマニズムや社会主義や芸術や知識欲、
さらには個々の人間にたいする崇拝や愛情、
そういったものだけで、内面的に傷つくことなしに、喜びをもって、
労苦と困難とに満ちた地上の生活を渡りきることができるとも考えてはいけない。
…」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

更新が滞っているのは、現在、教科書営業中だからです。教科書は一般書籍と違って直販みたいなもので、シーズンになると版元の人間が、行商のおばちゃんよろしく商品背負って学校ごとに売り歩くのであります。心身ともにへとへとの毎日。
そんなわけで、ずーっと書きたいと思っていた藤田嗣治展の感想が書けないままでした。
藤田展、こないだの日曜日に観に行ってきたのであります。
Fujita

藤田嗣治の名前を知ったのは、新入社員時代、著作権の研修のとき。
出版や掲載の許諾が降りない画家、降りても突然中止になるなどトラブルが絶えない画家として紹介されてた。
なんでも、第二次世界大戦中に戦意昂揚画を描いたかどで戦後責任を問われ、日本に嫌気がさしてパリに移住、現在の著作権者の夫人はそのことで日本を快からず思っているらしい、というのがトラブルの原因とされていた。
だから、この春、「藤田嗣治」展のポスターを見たときは驚いた。
「許諾降りたんだ!奥さん死んだのかな」と思いましたよ。
―あとで知ったところによると、夫人はご健在だそうだ。許諾しないことで、逆に藤田像がゆがめられて日本に伝わることのほうを憂えたとか。

そんなこんなを、先日のゴトウさんの記事で思い出し、最終日にあわてて行ってきた、というわけ。
案の定すごく混んでいたのだけれど、この混みように恐れをなした見ず知らずの白人女性に突然声を掛けられ、チケットを譲ってもらっちゃいました。

「すばらしき乳白色」と呼ばれる女性像の、お乳やお腹の薄墨色の陰は、聞きしに勝る美しさでありました。
フランスで「猫と女の画家」と呼ばれて一世を風靡したり、日本に帰国後は商業施設の壁画を積極的に描いたりと、藤田嗣治という画家は、よくも悪くも「流行画家」だったんだ、と思う。
彼の絵は孤高じゃなく、鑑る人と密接に関わっている。

話題の戦争画は、たしかにおどろおどろしかった。
白い女性を描いていた人が、一面の黒である。
でも、「昂揚」するより、厭戦感をかもしてるなあ、というのが正直な感想で、まあ特にそういうものを選んで展示したのかもしれないけれど、こういう絵に「昂揚」するほうも問題だろうが、と思った。
だから、戦後一身に戦争責任を負わされて、藤田が日本に苛立ちというか憤りを感じるのも、分からないでもない気がする。

パリに移住後は、カトリックで受洗、一転、「戦争」ではなく「天国」を賛美する絵を描くようになる。
空に天使、地の下に魚、地に子供たち、そして子供たちに取り囲まれて聖母子を仰ぐ藤田と妻…というような絵は、とてもにぎやかで、あざやかで、そして底抜けに明るかった。

ヒルティの格言じゃないけれど、
「ヒューマニズムや社会主義や芸術や知識欲、
さらには個々の人間にたいする崇拝や愛情」などで逆に傷ついた内面が、
信仰によって癒されたことを祈る。

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May 10, 2006

教育はスローで

『眠られぬ夜のために』第二部

5月10日

おんみの言葉は力づよく、精神とたましいをつらぬく。
おんみのくびきは甘美で、おんみの精神は確かである。
そして楽園の門はひらいている。(同胞教会賛美歌973番)

実際、まことの善にいたる正しい指導者になろうとおもったら、ひとびとをこのように導かなくてはならない。
嵐や燃えさかる火をあまりに早く消そうとしてはならない。
かたい殻を溶かすに必要な時間をあたえてやらなくてはならない。
それから、適当な時期に、しずかな声で正しい言葉を語ること、
これが教育のこつである。
(以下略)

(筑摩叢書:草間・大和訳)


ヒルティが引いている賛美歌の「おんみ」とはイエス・キリストのことだ。真の教育者はイエスのようであれ、忍耐強く受け入れ、時が来たら、静かに語れ。

そこで思い出したのが「小国フォルケホイスコーレ」の武義和さん。武さんがご自身のブログにリンクしてくださったおかげで、小国フォルケホイスコーレの様子を知ることができたのだけれど、とにかく美しい。
生徒さんたちと、土を耕し、野花を愛し、賛美歌を歌い…本当のスロー、スロー、スローライフです。

スローライフといえば、先日マックスウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を読んで、妙な気持ちになった。
救いを教会に求めていたカトリックに対して、
日々の生活の中で自分の勤めを果たすことで、神に応答しようとしたプロテスタントのクリスチャンたち。
この勤勉さが「時は金なり」という思想を生み、資本主義を形成してゆく。
Franklin
ウェーバーは最初の章で、プロテスタント精神の代表としてベンジャミン・フランクリンの言葉を引用する。

「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けていて半日を過ごすとすれば、娯楽や懶惰のためにはたとえ6ペンスしか支払っていないとしても、それを勘定に入れるだけではいけない。本当は、そのほかに5シリングの貨幣を支払っているか、むしろ捨てているのだ。」

どこかで聞いた言葉だと思ったら、ミヒャエル・エンデ『モモ』に出てくる「時間どろぼう=灰色の男たち」とそっくり。400110687609_1
プロテスタンティズムは世界を幸せにしたのだろうか…。

そんな思いに囚われていたある日、K女学園の国語の先生から「お話がある」と電話があった。学校に伺うと、「nikkouたちの教科書が以前に比べて浅薄になっている」というお叱りだった。
K女学園は、進学校ながら、精神的・倫理的な教育にも力を入れているプロテスタント校で、個人的には非常に敬意を持っている。
先生いわく、「あなたたちの仕事は10代の生徒たちの心に大きな影響を与えます。今の教科書は、流行を追うばかりで、精神性も思想も感じられません」
…おっしゃるとおり、流行を追っています。そのほうが儲かりますから。

だいたい、昔のうちの教科書は、柳田國男に丸山真男に坂口安吾に小林秀雄に谷崎潤一郎…と、ひとつひとつ理解するのに相当時間がかかるものばかりだった。「ゆとり教育」の現代、とにかく2~3時間の授業で出来て受験にも役立つ簡便な教材を、と多くの学校からせきたてられて作ったのが、今の教科書なのであります。
でも、それは言い訳なんだろうなー、この先生は、じっくり時間をとって、生徒たちに思想や倫理を教えてきたのだろう。生徒たちを愛し、生徒たちの未来を案じ、全力を投入してきたのだろう。たいへんな労力である。
礼拝堂の横で叱られながら、初期プロテスタントのクリスチャンたちの思いを、ふと、理解した。
日々の仕事の中で、主に仕えてゆくというのは、こういうことか。

ひょっとして、この「主」に仕えるが、「金」に仕えるになったとき、味気ないTime is moneyの世界になったのだろうか。

動き出してしまった教科書業界の現状を変えるのは難しい。
でも、本当は、K女学園の先生に共感する。nikkouもがんばるよ。本当の教科書を作ることのできる知性と教養を。ゆっくりでもいい、大もうけすることが目的でなくてもいい、「天職」に応えてゆこうと思う。

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疾風怒濤を乗り越えて

『眠られぬ夜のために』第二部

5月9日
「神の探求」については、『列王記上』第19章にみごとに描かれているとおりである。
人生の目的にたいする絶望や、火や風が、入れかわり立ちかわり降りかかってくるかもしれない。
しかし、正しきものは、静かな説得の声とともにおとずれてくる。
(以下略)

(筑摩叢書:前田敬作訳)

『列王記上』19章を開いてみた。
面白いね、この話。
エリヤという預言者が主人公である。
死にたいと思うほど絶望している男のようである。
この男に向けて強風が吹き、大地震が来、大火事が襲う。そんな大騒動のあとに、「静かな細い声が聞こえた。」というのだ。それが、神の語りかけだった、というわけ。

ヒルティいわく、そういうことは、本当にあるのだそうだ。
神を求めることは、火や風の中をくぐりぬけるようなものだ、
しかし、そういう経験をしたあとで、静かな説得の声が心にしみてくるんだ。
上記の省略した部分には、「そういう『疾風怒濤』のおかげで心を開けるようになるのだから、じっとこらえなさい」ということと、「そんな『疾風怒涛』を経験しないと浅はかな人間になっちゃうよ」ということを書いている。

大学生のころ、クリスチャンの人の話を聞くと、だいだい、

(クリスチャンbefore)つらかった、生きていて苦しかった、哀しい思いをした。
(クリスチャンafter)幸せである。

というストーリーなのに、なんともいえない反発を覚えたものだ。
そんなにも不幸な思いをしなければクリスチャンになれないのなら、
わたしはクリスチャンにはなりたくない、
クリスチャンにならなくっていいから、一生そこそこ幸せでいたい、と思っていた。

しかし、30歳目前にして、「甘かったな~」とつくづく思う。(甘い↓)Food_bf_img01
そりゃあ、世の中には、ひどく気の毒な方たちが大勢いて、
nikkouが感じるような「不幸」など、本当に吹けば飛ぶようなものかもしれないが、
本人はしごく真面目に「辛い」と思うことが、生きているとわんさかあるものなんだね。
多少辛い思いをすると、多少謙虚になる。
そんなときは、聖書のことばも、反発を抱くどころか、泣きそうになりながら読むことになる。

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ゴールデンウィーク中にゴスペルを教わったドニーマクラーキンの自伝を読み終わった。
ドニーの母親は、身内によるレイプによって生まれた子供であったこと、
ドニー本人も8歳のときに、同性愛者の叔父にレイプされたこと、
少年ドニーにとって唯一の逃げ場であった教会でさえも同性愛者が少年を漁りに来る場所と化し、行き場をなくしたことなどが、赤裸々に書いている。

しかし、ドニーは、この罪の連鎖を自分の代で断ち切る決意をする。
それは、「神は自分をそんな人生を送るために生まれさせたんじゃない!」と信じたから。
そして、「イエスも苦しんだ」ということが、彼の心を癒したから。

そういう経験をしたからこそ、今、彼は力のない教会を遠慮なく叱り飛ばし、
自分のもとに集まってくる性的虐待の被害者を、深い同情と、冷静な判断をもって受け入れることができているのだと思う。

もちろん、「疾風怒濤の過去があってよかったね」なんてことを言う資格は、nikkouには全然、ない。
そんな過去など無いに越したことはない、と心底思う。
でも、
「疾風怒濤のあとに、神の声を聞く」ということは本当にあるんだ、
というヒルティの言葉や、ドニーの経歴は、
この先、「疾風怒涛」を避けられなくなった際に、きっと力になるんじゃないか、という気はする。

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May 07, 2006

まさにゴールデン・ウィークwithドニー・マクラーキン

『眠られぬ夜のために』第二部

「5月4日

(前略)
『マタイによる福音書』第5章から第7章までを読んで、
『そうだ、これこそ宗教の永遠に妥当する真髄(しんずい)だ。
わたしは、これを実行しているという勇気はないが、これを実行することを願い、
また努めよう』
とみずからに正直にいえる人は、たとえ現存のいかなる教会に属していなくても、
これこそ真のキリスト者なのである。
(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

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ゴールデンウィークの間、ドニー・マクラーキンのゴスペルのワークショップ(期間限定のレッスン)に参加していた。(写真は休憩時間中)。目の前で、ドニー・マクラーキンのナマ美声が聴ける日々。クワイアー(聖歌隊)の歌いだしもわすれて、惚れ惚れと聴きほれることもしばしばでありました。
400名強のクワイアーを一気にひっぱりこむエネルギーもまた圧倒的で、つい心が沸きたって、練習中、nikkouは、とりわけ飛び跳ねていたかもしれない。

忘れがたいのは、「Holy」という1曲である。
初めてドニーがこの歌を歌ったとき、メロディも歌詞も知らなかったnikkouは、ただ、目を閉じて聴いていた。
ドニーがアメリカから率いてきたシンガーたちがドニーに和して、
まるで風のようなハーモニーが、天から降りそそいでいるように感じた。
やがて、会場から、歌える人たちが声を合わせてゆき、
目を閉じていると、なんだか歌声の中に浮かんでいるみたいだった。
ドニーの声が、深い実感を持って神を讃えていた。

「最後の審判のラッパが鳴って天国が来る」なんてことが本当にあるのかどうか、わからないけれど、
このとき、すでに天国にいるような気がした。
音楽は―とくに、最上の存在を讃える音楽は―天の音楽のようだ、と思う。
とても幸せな一瞬だった。

今日は、ドニー・マクラーキンの説教で、礼拝。
ドニーがこぶしを握り締めて、なんともいえないうれしそうな顔で言った。
「ジーザスは、教会の四つの柱の中にこもっている方じゃなかった。
彼は、道を歩いているんだ。
歩きながら、悲しみ、苦しんでいる人を救うんだ。」

歩いているジーザス。
人びとと共に歩いている。

今日のヒルティも言う。
教会に属しているかどうかがクリスチャンの資格じゃない。
「『マタイによる福音書』第5章から第7章まで」というのは、イエスのメッセージのエッセンスが書かれているところであり、今回のワークショップで歌ったことでもある。
歌いながら、不肖nikkouも「ああ、本当にそのとおり」(=アーメン)と思わされたから、
さまざまに迷い、疑いながらも、やっぱりわたしはクリスチャンなんだと思う。

以下は、個人的な謝辞。

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May 02, 2006

ドニー・マクラーキン コンサート

『眠られぬ夜のために』第二部

「5月2日

(前略)
…いまあるこの世界を真に救い得るものは、
いかなる科学的な啓蒙や教養でもなく、
分別ある愛が大いに増加することである。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

本日より、5月5日までの4日間、アメリカのグラミー賞シンガー、ドニーマクラーキンのゴスペルワークショップが行われる。nikkouも参加する予定。

ドニー・マクラーキン ワークショップ&コンサートin東京
Photo
ドニー・マクラーキンとは、ディズニー映画「Prince of Egypt」のサントラで「I am」を歌った人。
nikkouの個人的な印象では、甘くて耳なじみのいい美声の持ち主である。
作詞作曲もするのだけれど、難しい単語が無くて、素直な、美しい歌が多い。
ニューヨークの教会の牧師でもあり、近々ゴスペルシンガーの活動を停止して、牧師業に専念するらしい。
したがって、ニューヨークの教会に直接おもむかない限り、彼の美声をナマで聴けるチャンスは今回が最後かもしれない。

彼の歌で特に好きなのは、
「We Fall Down」というシンプルな1曲。今回のワークショップの曲目にも入っていてうれしい。

「倒れることもあるが また起き上がる

クリスチャンというのはひとりの罪人にすぎない。
倒れて また 起き上がる」

という歌詞のくり返しである。
かざりっけがないわりに、聴いているとなにかドラマチックな感じがする不思議な1曲である。

わがクワイアーでもよく讃美する「Just For Me」も彼の曲である。

「ただわたしのために、
ただ わたしのために、
イエス様は、ただわたしのために来て、十字架に架かられた」

というサビの部分のハーモニーがパートごとに複雑に重なって本当に美しい。加えてなんとも切ない歌詞で、いつも歌いながら涙が出そうになる。

明日の午前中はセミナーなのだが、
ヴォーカルレッスン、ピアノ、指揮者、歌詞の解説などあるなかで、
わたしは「ゴスペルの歴史」という講座を取ることにした。
午後はたっぷり2時間半、ドニー・マクラーキンを講師にゴスペルの練習である。
そして、今週土曜日の5月6日は、ドニー・マクラーキンとともに舞台に上って、コンサートをする。

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日時 5月6日(土)
   17時 開場
   18時~20時 コンサート

場所 調布グリーンホール
   (調布市小島町2-47-1)
   京王線調布駅南出口より右手へ徒歩1分
   京王線新宿駅より特急で15分(交通費230円)

チケット 前売り 3500円
      当日  4000円
(ローソンチケットで購入可・前売りは、nikkouも多少持っています。ご希望の方はご連絡ください。)

nikkouも舞台に立ちます。
お時間とご興味のある方は、コンサートにぜひおいでください。

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