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June 20, 2006

熟考、沈思、そして祈り

『眠られぬ夜のために』第二部


「5月11日

あなたはおそらく、事柄がまだ熟さないうちに、あまりにも多く書きすぎたのである。
(中略)
あなたは、あなたの内面的形成に、まず成熟するだけの時間をあたえてやらねばならない。
現代の学校を出たばかりの人たちがだれでもやりたがることだが、
内面の成熟も待たないで、世間にむかって語りかけるようなことをしてはならない。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

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ここ一週間ばかり、
やりたいこと、無理そうなこと、実現しそうなこと、やるべきこと、どうしたらいいのか分からないこと、思いもかけないことが続々と起きる。
今日、クワイアーの練習が始まる前と、帰り道に、友人たちにそのことを話そうとしたのだけれど、
話せば話すほど、言葉がうわっすべりしていることに気づいて嫌になった。
言葉にできるほど、胸のうちがまとまっていないんだな。
どうも私はおしゃべりがすぎる。

よく考えて、深く思いをめぐらして、そして祈るべきときなのかな、と思う。

おりしも、キャンドルナイト
夏至前後の一週間は、夜8時から10時まで電気を消して、キャンドルで過ごしましょう、というエコロジーキャンペーンである。
発起人のひとりである辻信一さんの今年の呼びかけ文には聖書の言葉が。

キャンドルナイトで時間のくにへ 100万人のキャンドルナイト 2006年夏至呼びかけ文


聖書の創世記に「神は第七日目を祝福し、それを聖なる日とした」とある。『休息日』(未邦訳)という本を書いたユダヤ学者A. J. へシェルによれば、週に一度の安息日の意義は、空間的なモノに支配された日常から解放されて、時間の聖域に憩うことにこそある。 …(以下、本文はこちら

nikkouはしばらく、安息日期間に入ります。
最近、ちょっと突っ走りすぎた。
イエス様としずかにお話することにする。

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June 16, 2006

リハビリテーション医療打ち切りに反対

『眠られぬ夜のために』第二部

「6月17日
(前略)
…いわゆる強力な政治というものは、キリスト教の精神とはあきらかに相容れない。
そういう政治家たちは、おそらくふたつのたましいをもっているにちがいない―私用のためのたましいと、公用のためのたましいとを。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

Photo_3
今日、ゴスペル仲間のSさんを見舞ってきた。
Sさんは、数ヶ月前、脳内出血で突然倒れた。
いつも饒舌な面倒見のいい兄貴で、働き盛りの遊び盛り、元気一杯だったから、みんなとても驚いた。
しばらく意識不明の状態が続き、仲間内で彼のことを祈るメーリングリストが立ち上がった。
nikkouも祈った。
でも、時々、祈れなくなった。
―だって、バナナくんのときも、妹が倒れたときも、nikkouは必死で祈ったのである。けれども、主は、彼らをみもとに召された。そのことを、ふと思い出してしまったのである。

「祈り」って、なんだろう。
nikkouの願いにかかわらず、主はご自身の計画を進めてしまうのではないか。
ならば、なぜ「祈り」のなかで「願う」のか。「感謝」とごくたまに「恨み言」を言うくらいしか、もうわたしには祈れないのではないか…という思いに、ときおり、「願い」の言葉が中断された。

ところが、Sさんは、意識を取り戻したのである。
今日、見舞ってみると、車椅子に乗っていたSさんは、ぎょろっと目をむいて、nikkouを見た。
表情を作るのはまだ難しいらしく、時おり目をしばたたかせて、nikkouを真剣に凝視した。
ときおり、のどの奥で声を出した。
Sさんの顔を見たら泣いてしまうのではないかと恐れていたけれど、実際にSさんの顔を見たとたん、nikkouは思わず笑った。うれしかった。

ご両親のお話では、Sさんは、ハードなリハビリを毎日こなしつつ、薄紙をはぐように、良くなっているそうだ。
長い時間がかかるかもしれないけれど、ゆっくり、ゆっくり、マイペースでがんばれ、とみんなで励ましている。

帰り道、歩きながらふと、「神様、どうか、Sさんを―」と祈りが漏れ、そのまま、ひざまずきたくなる衝動にかられた。

   神様、どうか、Sさんをお守りください。

「祈り」ってなんだろう。
やっぱり、主は、ご自身のご計画を粛々と進められる気がする。
けれども、祈らずにいられない。
そして、わたしが祈りのなかで願った事と、主の計画が違っていても、きっと、きっと、主はわたしの願いに、答えをくださる。
経験上、そう思う。

先日、会社で署名が廻ってきた。
診療報酬改定により、4月から、リハビリテーションの日数に上限がきめられたそうである。
簡単に言うと、まだまだ回復途中でも、決められた日数を過ぎたらリハビリを打ち切られちゃう、ということらしい。びっくりである。Sさんはだいじょうぶなのか。「ゆっくり、ゆっくりマイペースで」なんて言ってきたけれど、期限がきたら、病院をおんだされちゃうんか。あわてて、反対署名いたしました。

「リハビリはお金がかかるからね~」と、友人は言う。
なるほどね。高齢社会だから、リハビリをうけるお年寄りが増えちゃって、お金がかかって困るってことなんでしょう。
一方で、防衛庁は防衛省に格上げするらしい。
少子化はどんどん進み、お年寄りは見捨て、
国防をする前に、国民がいなくなっちゃうじゃないのね。
どうも、お金の使い方を間違っている気がするんだけれど。

再出発日記」のKUMAさんのトラックバックで、おなじ署名をネットでできることを知った。


リハビリテーション医療の打ち切りに反対する署名活動

ネット署名

もちろん、住所・名前は非公開にできる。
それでも不安であれば、プリントアウトして、郵送することもできる。

一応、相手がネットなので、今日お見舞いに行った初台リハビリテーション病院のスタッフの方にこの署名用紙のプリントアウトを見せて、怪しいものでないかどうか確認しました。「全然怪しいものじゃない。だいじょうぶ」とのことでした。発起人に名を連ねている大田仁史さん(前茨城県立医療大学附属病院院長)は、リハビリ医療の世界では大変信頼のおける人だから、とのことです。
また、nikkouの勤務先である出版社は、発起人のひとり多田富雄さん(東大名誉教授)と浅からぬ縁があるので、それも信頼できる根拠かと思います。
次回のゴスペルのリハーサルには、署名用紙をプリントアウトして持って行きます。
どうぞ、署名のご協力のほどを。

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June 12, 2006

筆子・その愛

『眠られぬ夜のために』第二部

「6月11日

『マタイによる福音書』8章22節
「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」

それ自身は良い事でも、はかなくすぎ去ってしまうことがすくなくない。
しかし、それを過ぎ去るままにしておかなくてはならない。
それらはいつも取り戻そうなどとしてはならない。
人生は、たえざる前進であらねばならず、すでにすぎ去ったことの単なる反復であってはならない。
最後の日まで、一日一日がひとつの仕事でなくてはならない。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

11月公開予定の「筆子・その愛」が楽しみである。
石井筆子、明治時代に生き、自分の娘が知的障害者であったことから、日本で最初の知的障害者福祉施設を作ったクリスチャン女性の一代記。
主演は常盤貴子だそうだ。彼女は、どうも、昔の日本女性を演じることが多い気がする。
キャストにアーサーホーランドが名を連ねているのが気になる。何の役なんだろうね。

以前、てじょんさんの教会の映画鑑賞会で知った「斉藤百合」という女性も似たような経歴だった。
斉藤百合も明治の女性。彼女の場合は、自分自身が盲人だったけれど、結婚して子供を育て、かつ社会(隣人)に尽くし、神様に尽くした。
与えられた生の中で、主のみこころを探りつつ歩みつづけた足跡は、
時代は違えども同じように、手本になるように思えた。

ただ、斉藤百合の作った女子盲学校は、あまり成功したとは言えなかったようだ。
筆子の創立した「滝乃川学園」は今も命脈を保っているらしい。

今日のヒルティに言わせれば、
善行だって、はかなく過ぎ去るものだ。
だから、斉藤百合が石井筆子に劣るなどといえようはずもなく。
過ぎ去ったものにすがりつくこと、反復することが大事なのではなくて、
一日一日のあらたな積み重ねが大切、と。

そういえば、nikkouのずうっと年上の先輩に、社内恋愛結婚をして、生まれた子供が自閉症だったというおふたりがいる。
奥さんのほうは、とても優秀な編集者だったのだそうだけど、こどものために会社をやめてしまった。
しかし、その才能を生かして、自閉症者の親の会の中心メンバーになり、会報を作ったり記事を書いたりしているらしい。
ご主人のほうは、定年まで勤め上げたけれど、「最近はかみさんのほうが忙しくて、オレはずうっとお留守番」なんだそうだ。

nikkouも、今の勤務先は、読者としてずっとあこがれていた出版社で、
入社したときは、定年まで勤め上げて、きっと歴史に残るロングセラーを作るんだ!と鼻息を荒くした。
ところが最近になって、先のことは分からない、と思うようになった。
たとえどの場にあっても、なんの仕事であっても、主に、そして社会(隣人)に尽くしぬきたい、とそれだけは意を強くする。

まずは今日の仕事で、精一杯の貢献を。
夜が明けたら、20Kgほどのキャリーバックをひいて、高校へ営業まわりにゆく。
目当ての都立高校に飛び込んで、休憩時間中の先生においすがり、とりすがり、キャリーバックから、7つ道具を取り出して、どんなにわが社の教科書が、この国の行方を憂い、この国の若者を愛し、期待しているかを売り込まねばならない(なーんちゃって)。

自分の仕事に重ねてみると、「一校くらい、営業がうまくいったからって、つけあがるなよ」と言ってるようにも思えるな、今日のヒルティ。

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June 11, 2006

最近の若者は

『眠られぬ夜のために』第二部

「6月10日

 善への進歩・向上には、いろんな段階があって、すべての段階がおなじようなものだとはかぎらない。
だから、キリスト教団、さらには教会全体を、ひとりの牧者を先頭に立てた、どれもが一様な羊のむれのように想像するのは非常なまちがいである。
(中略)
すべての個々のたましいは、それぞれまったく独自な精神存在であり、
また、そのようなものとして取り扱われることを喜びとするものである。
画一主義からは、えてして精神の欠如と、偽善さえもが生じる。
(以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

最近になって気づいたのだけれど、イエスは、結構ケース・バイ・ケースである。
相手の顔をみて、言う事を考えている。
だから、時々矛盾する。
ある時は、ある男の人に、「全財産を売り払って、貧しい人にほどこせ」と言う。
それを弟子たちが覚えていて、別の女の人に「あなたはその財産を売り払って、貧しい人にほどこさなきゃいけない」といったりする。
でもイエス様は「この人は、そんなことをしなくてもいい。この人はもっと大切なことをしている」なんて言う。
たぶん、イエスは血の通わないルールを作ることを避けようとしているんだと思う。
イエスに学んだパウロも同じようなところがある。
一貫しているのは、「あなたを愛している」ということだ。

ヒルティのいうとおり、「クリスチャンはかくあるべし」と画一化すると、偽善くさくなる。
個々人が、神様との間で、どうあるべきか考えて生きてゆくのがベストというわけだ。

nikkouは、わりと昔から、ひとからげにしたりされたりするのは嫌いなほうだったと思う。
子供のころ、同年輩の子が「大人って汚い」なんぞと臭い言葉を吐こうものなら、
「『大人』じゃなくって、『何年何組の担任の誰先生が汚い』だろう?お前は20歳以上の人間全員を知ってるのかよ」なんて絡んでいやがられた。

Socrates
この年齢になって時々聞くのが「最近の若者は」である。
そう言われたときは、「ソクラテスの時代から、そういいますよね」と答えよ、というのがお約束だけど。
先日ある飲み会で、非常にお上品なご年配の男性が
「最近の若者は、葛藤というものがないんじゃないでしょうかね~」とおっしゃるので、
「っか!んなこたぁねえだろ!」(←原文ママ)と突っ込んで、
周りからたしなめられた。(酔ってても、記憶は絶対飛ばないnikkou。)

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「最近の若者は」って言い過ぎると、管理社会のわなにひっかかるよ、ということを指摘したのが、この本。
『「ニート」って言うな!』(光文社新書/本田由紀・内藤朝雄・後藤和智)

「右派の論壇は、自分らしさ重視の教育が何をしたいのかわからない甘ったれ若者を生んだのだから、教育基本法と憲法を変え、若者に適切な職業観や社会観を教え、徴兵制でも敷けばフリーターもニートも解決するという、わかりやすい言い方をする。
一方、左派も現代の家庭や教育批判として、子供に適切な愛を注がないから少年犯罪が起こると言う。しかし「完全な家族」論などというものは個人的な感情によるところが大きいし、そもそも少年による凶悪犯罪はピーク時の60年代と比べて大幅に減少しています。」(後藤和智「THE BIG ISSU」より)

要は、「ニート」とは誰を指しているのか、いわゆる家事手伝いのお嬢さんや、過密労働で心身不調になって退職した人もカウントしているんではないか。
また「ニート」が存在する原因は、不景気のせいもあるし、大学4年生しか就職活動をできないうえにそこで失敗したらリベンジできないという企業の雇用形態のせいもあるし、若者が企業で終身雇用を勤め上げることに意味を見出さなくなってきたのかもしれない。
それを、「最近の若者」がすべて悪い、ことにしてしまっても、何の解決にもならないでしょ、マスコミが流している「キレル若者」像は虚像かもしれないでしょ、という本でした。

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「最近の若者より、今の60代が若かったころのほうが危険」ということを、コミカルにシニカルに書いているのが、『反社会学講座』(イーストプレス/パオロ・マッツァリーノ)。これも面白かった。

同じひとからげにされるんでも、「最近の若者には、希望が持てるね。」とたまには言われてみたいものです。

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June 08, 2006

行動という任務

『眠られぬ夜のために』第二部

「6月8日


いまこそ、あなたは、神学や哲学の本を読みふけることを、すっかりやめてしまってもかまわない。
あなたは、すでに行動できるほど十分強くなっているのだ。
行動―それは、いつか未来の国におけるわれわれの唯一の任務となるであろうものだ。
そこでは、もはや教会もなければ、書物も説教もなく、あるのはただ、
生きることと行動することだけであろう。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

ああ、こんなに夜更かししちゃって、お肌に悪い・・・。

本を読みふけるより実行に移せ、と
これは、この1年あまり散々ヒルティから言い聞かされてきたことだ。
神様が評価してくれるのは、どれだけ本を読んでお勉強したか、ではなく、どれだけ行動したか、だ。
おっしゃるとおりです。

しかし、ずーっと祈りつつ、本を読んだり人の話を聞いて勉強してきたことでも、
いざ、行動すべき状況が整うと
ひるむものですね。

最近、nikkouの教会で、ちゃくちゃくと主の計画が実行中の気配。
「うちの教会でもコンサートをさせてください、多くの地域の人々を教会に集めてください」という祈り、
どうやら、実現しそうです。
nikkouが個人的にずっと祈ってきたことですが、
この後に及んで、ひるんでいます。
喜んでいいようなものなのに、急に不安になっている。
どうなるんだろうなー。
自分の教会でコンサートやワークショップを実現してきた友たちよ、どうか祈りの援護をお願いします。
そんでもって、アドバイスもちょうだい。

もうひとつ、最近、祈りに主が答えられたことがありました。
一年ほど前から通っている「手話の会」の名前が決まりました。

「風の音」(かぜのおと)

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書3章8節)というイエス様の言葉から。
提案をしたのはnikkouですが、
手話の会のメンバーが「そういえば、風の音は、耳が聞こえなくても伝わるものね」と言ってくれて決定となりました。
「風の音」命名記念として、
9月にはろうあ教会での賛美も決定。
手話の日常会話もおぼつかないのになー、わたしなんかろうあ教会に賛美に行ってだいじょうぶかなー、とやはり一抹の不安。

ま、がんばるべ。
じゃなくって、祈るべ。

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June 03, 2006

神の郵便配達人

『眠られぬ夜のために』第二部

「5月29日

・・・われわれが出会う人たちは、しばしばわれわれのもとにつかわされた使いであり、
神の郵便配達人なのである。
神は、通例こういう人たちを利用されるのがつねである。
しかし、むろん、反対の霊の使者であることもある。

しかしあなたは、かれらにたいして、
どちらの霊の使者であり、郵便配達人であるだろうか。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

200606031428000
今日は、今井館にて、月一回の「さんびとお話の会」(講師:武義和)。
前回もとても楽しかったけれど、今日はまたさらに楽しいひとときでありました。
今日はノルウェーのマグネさんという男性(写真)と、オーストラリアのレベッカさんという女性が参加。
ふたりとも、nikkouの出身大学・出身学部・出身学科の大学院生ということで、
先生の噂話などちょっぴり花がさきました。
マグネさんは大江健三郎を、レベッカさんは源氏物語を、研究中とのこと。
このブログを見てくれているわが日本文学科の友人たちには、おふたりを知っている人もいるかも。

今回賛美したのは、武さんが日本語に翻訳したノルウェーの賛美と、武さんの作曲した詩篇。
よく、こころが疲れているときなどにゴスペルを歌うと、ふっと泣けたりするものですが、
今回は結構元気な時だったにもかかわらず、うるっときてしまった。
nikkouのツボを押す曲だったようです。

Map
ノルウェーの歌は、マグネさんが原語でも歌ってくれました。
じつは、nikkou、ノルウェーの方には初めてお目にかかりました。ノルウェー語も新鮮。微妙な巻き舌とか、子音の感じとか、耳慣れない感じで面白かった。

ノルウェーのことに関して、今日武さんがひとつ、
とても印象深いお話をしてくださいました。

武さんが初めて家族でノルウェーに渡ったときのこと、
ある田舎町の教会を訪れると、
一人のおばあさんが、ぽろぽろと涙を流して歓迎してくださったのだそうです。
そのおばあさんは、ノルウェーの伝道者が日本に伝道に行くと聞くと、必ず献金をしてきた。
日本のためにも祈ってきた。
でも、日本人に会ったのは、今日が初めてだ。
とてもうれしい、とおっしゃったのだそうです。

Hyouhakunoruwanda_1
…このお話は、今、ルワンダのために祈っている自分にとってはひとつの「啓示」でありました。
ノルウェーと日本は遠い。でもそのノルウェーのおばあさんは、神様を通じて日本とつながっていたんだ。
nikkouも、ルワンダに行く医師団のために献金をしたり、祈ったりしている。でも、ルワンダの人に会ったことはない。
『漂泊のルワンダ』(吉岡逸夫)や、『哀歌』(曽野綾子)などを読んだけれど、
Aika_1
そこに書かれているのは、日本で産まれ育った自分には、にわかに信じがたく、また理解もしがたい混沌である。
というか、この私が、ルワンダの貧困や不安が「分かる」なんて、どこか傲慢な気がする。
「哀歌」の中でも、日本の修道女が現地の修道女に「先進国の人間になにが分かる?」と罵倒されるシーンがあるのだ。
しかし、「哀歌」では、修道女たちがくり返しくり返し、こうも言う。
「神様はぜんぶ分かっている」

一応クリスチャンのnikkouでありますが、
ときに、「『神様』って本当にいるんだろうか」という思いに襲われます。
それでも、時々自分に理解しがたい、と思うことを見聞きすると、
「すべてを分かっている」という存在に思いを馳せて、その壮大さにぞわっとする。
最も小さな者…ルワンダの赤ちゃんや、ノルウェーのおばあさんや、nikkouなど、…を「すべてわかっておられる」からこそ、主は、最も大きい。そう思うと、はるけきルワンダを祈る無力感が、すーーーっと遠のく。

さて、今日紹介したヒルティの、あなたが出会う人は「神の郵便配達人」だし、あなたも「神の郵便配達人」だ、という発想は、新約聖書に出てくるパウロという人の言葉に似ている。

「あなたがたは、キリストからわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。
墨ではなく生ける神の霊によって、
石の板ではなく人の心の板に、
書き付けられた手紙です。」(
コリント信徒への第二の手紙2章3節)

武さんファミリーは、ノルウェーのおばあさんにとって、神様からの手紙、神様の郵便配達人だったし、
ノルウェーのおばあさんは、nikkouにとって、神様からの手紙だった。
網の目のように、いろんな出会いが、いろんな心に届く。

200606031618000
先日、友人のたまちゃんが、ゴスペルを通じて思いがけない出会いがあり、思いがけないことが実現したりする、ということを書いてた。(出会い…神様の意図
それは、nikkouもよく経験するんだ。今日の出会いも、主がなんか仕組んでいる気がしたよ。

次回は、7月1日が、今年の「さんびとお話の会」最終回です。
1時半から今井館にて。参加費300円。
ぜひどうぞ。

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