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July 30, 2006

ゴスペル・シンガーズ、スタートしました

旧約聖書・士師記7章2節3節

「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。
渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、
自分の手で救いを勝ち取ったというであろう。
それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。
恐れおののいているものは帰り、ギレアドの山を去れ、と。」

(新共同訳)

みんな、ほんとうにありがとう。
今日、一緒に讃美してくれたみんな、
お祈りしてくれたみんな、
アドバイスをくれたみんな、
励ましてくれたみんな、
ありがとう。

とうとう、本日、舟出いたしました。
ちいさな、ちいさなシンガーズですが、
神さまが祝福し、用いてくれる事を祈ってやみません。

思いがけず、11人もの友人たちが集合。
讃美の歌声も、初めて集った同士とは思えないほど一致していました。
「わたしたちはキリストの身体」ということばを思い出しました。
だれが手で、だれが足で、だれが目で、だれが耳で、だれが鼻かしら。
これから、ひとりひとりの賜物がきらきらと生かされることと思います。
とっても楽しみ。

nikkouは朝から緊張しっぱなし。
教会のコピー室で歌詞のプリントをコピーしながら、ドキドキわなわなしていました。

でも、みんなの前で、
「主我を愛す」や、「Go tell it on the moutain」をリードながら、
ふと、最前列で歌っている70代のわが教会の長老さんを見たとき、
はじめて、「ああ、神さま、ありがとー!始めてよかった!」と思えた。
すっごい笑顔だったんです、おじいちゃん。

アドバイスをくれた友人のTOMOちゃんも、
あまたの難関をのりこえて自分の教会でクワイアーを立ち上げた一人なのですが、こんなことを言ってました。

「もー、毎回がけっぷちョ。
でも、振り返ると、いつも思うの。
『かみさまーっ!ありがとー!』って」

いま、nikkouはその心境です。
かみさま、ありがとーっ!

上記の士師記、たまたま先日、聖書通読で行き当たった箇所です。
ギデオンという戦士に、神さまはあえて兵力を減らすよう命じます。
自分の力で勝った、と思うことのないように。

これが、
「nikkouがおごらないよう、わたしにすべて任せることができるようになるよう、
お前の乏しい能力だけで、シンガーズの舟出をさせる」
という神さまの愛の言葉に聞こえました。
OK,がんばりすぎないよ。
神さま、あなたにゆだねる。
約束します。

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July 28, 2006

リトルバーズ

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月26日

『イザヤ書』第55章(さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。…わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。…)。
ここに言われていることがもし真実であるならば、この世にはどうしてこんな多くの社会的悲惨や、それについてのこんなに多くの嘆きがあるのだろうか。しかし、嘆くよりまえに、ここに言われることは、試みにやってみるだけの甲斐があることではないだろうか。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

先週末、「東京映画平和祭」を観てきた。
ロビーに出ていたアヤシサ満載のブースや、
たった一日に複数の映画を各一回だけ上映するというやり方については、
誘ってくれた「一粒のぶどう」のブログに譲るとして、
わたしは内容についてちょろっと書きたい。

映画祭で鑑賞したのは戦時下のイラクをドキュメントした「リトルバーズ」と、アメリカ資本に蹂躙されていく小さな南の国を描いた「ジャマイカの真実」の二編。
いずれも衝撃的ながら、とくにショックだったのは「リトルバーズ」であります。
一時、連日ニュースで伝えられていたイラク戦争の戦死者の数や、デモ隊のひとりひとりが、
にわかにリアルに迫ってきました。

Image1
アメリカ軍の空爆前夜、わいわいとにぎやかにお店のシャッターを閉じるひとびと。
カメラマンを見つけて、
「日本は好きだよ。ヒロシマ・ナガサキを知ってる。でも、今度の戦争で日本はなぜアメリカの味方をするんだ?なぜなんだ?」としきりに聞いてくるおじさんたち。
こちらはイラクのことをなーんにも知らんのになあ、
このおじさんはなんで日本が好きだなんて言ってくれるんかなあ、
となにやら申し訳ないような気持ちで眺めていると、
次のシーンには、その商店街が爆弾でぼこぼこに襲われているのである。

Img_1
さらにカメラは、街中の病院に入る。
ちいさなちいさな女の子の上に覆いかぶさって泣きじゃくる若いお父さんに出会う。
アリ・サクバンさん、31歳。
アメリカ軍の空爆で3歳、5歳、7歳の子どもたちをいっぺんに失ったという。
カメラはしばらくこのお父さんを追うことになる。
「ここは宮殿でもなんでもないのに」と憤懣やるかたない表情で破壊された家を見せ、
その朝、どんなに子どもたちがかわいらしかったか、
そこへどんな様子で爆撃が襲い、
どのように子どもたちがふきとんだか、
といういうことを、繰り返し繰り返し話す。

アリさん自身、湾岸戦争でクウェートに駆り出されたことがあるという。
兄ふたりはイランイラク戦争で死んだ。
そして子どもたちは今回の戦争で死んだ。
たくさんの戦争をくぐってきてなにがあったか、なにもない。
もうこりごりだ。
「人間は戦争するために生まれたんじゃないはずだ。真理や知識や倫理を追究するために生まれたはずなんだ、そうじゃないのか」と言う彼は、おそらく相当の知性と理性を備えた人なんだろうと思う。
そんな彼が、アメリカ兵を撃ち殺したい、と銃を取り出してくる。
アメリカ軍にお百度を踏んでも、破壊された家は補償されない。

ひるがえって、アメリカ軍の若い兵士にカメラが向くと、
「多少の犠牲は仕方ない。わざとじゃないんだ、誤爆なんだ。今回の戦争で、イラクの人たちは、フセインから解放されたじゃないか、よかったじゃないか」とあっけらかんと笑顔を向ける。

フセイン大統領の横暴さについてくりかえし宣伝されていたから、世は勧善懲悪、悪人が駆逐されて、ま、よかったじゃない、という気にならんでもない。…でも、頭痛を訴える人のあたまを鉈でかちわって「頭痛はなくなった、よかったね」みたいな話の気もする。

イザヤ55章は真実か、とヒルティが書いたのは、第一次世界後であり、第二次世界大戦前夜である。
「イザヤ55章の真実」を、今もって、人間は発見できないのだろうか。
nikkouも具体的にはどうしたらいいのか分からないけれど、
今回のイラク戦争は、ベストでもベターでもなかった、とは思う。

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July 24, 2006

「だめっ!」って言われるほどやりたくなるんだよね

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月24日
(前略)
公共の学校は、いまのところ、このような任務(模範的な教育)をはたすことはできない。確固たる信念と指導力と個人的献身とを要求するその他の多くの仕事とおなじく、これも、最初はまず個人的な仕事であって、それのみか、すべての偉大な事業とおなじく、小さな規模から出発しなければなるまい。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

学校といえば、nikkouは子どもができたら、公立か、まあ私立でもミッションスクール以外の学校に入れようかなーと思っている。というのは、たぶん自分の子どもはクリスチャンホームに育つことになるので、家と学校そして教会、と毎日がキリスト教尽くしじゃあ、視野が狭まってしまうだろうと思うのだ。せっかく、なかなか特異な宗教感覚を持つ国に生まれたんだから、いろんな価値観に触れたほうが面白かろう、と思うわけである。まあ、そんなことは、子どもを授かってから考えるべきことだけどさ。

公立になると問題になるのが「君が代・日の丸」の強制である。(最近はミッションスクールでも賛美歌の前に君が代を歌うらしいが。→「キリスト者よ、なぜ君が代を歌うのか」キリスト者として今を生きる)。

「君が代・日の丸」について、nikkouは高校生のころから考えがあって、それは今も変わっていない。
日本という国に「国旗」や「国歌」があるのはかまわないと思う。
ただ、その歌やその旗について、大人はなにも隠し立てをすべきじゃない、と思うのである。

高校生時代、われわれ高校生たちが歌うべきか歌わざるべきか、という問題なのに、頭越しの議論がなされているのに、とても不愉快な感じがした。
頭ごなしに「歌え」と強要されるのもいやだが、「あれは軍国主義の歌だから絶対歌うな」と、これまた頭ごなしに禁止されるのもいやだ。あたしは馬鹿じゃないから、歌うか歌わざるべきかなんて、自分で判断できる、と思っていた。

歌や旗の意味とその経緯について知ったのは、高校を卒業した後、自分で書籍を通じて調べてからである。つまり、だれも教えてくれなかったのである。

君が代を歌うということならば、その歌詞は「天皇の代が、千年も万年も続きますように」という意味です、とちゃんと教えてほしい。
そして、その歌詞はいつの時代に詠まれた和歌であり、
どのような経緯で国歌に使われるようになり、
その歌詞のもとでかつてどのような価値観が形成され、
それが今に至るまでどういう状況のもと歌い継がれることになったのか、
ということを、純粋に知識として、つまり判断材料として、きっちり教えてほしい。
その上で、「わたしは歌おう」とか「わたしは歌わない」とかいう判断を、高校生自身がすればいいじゃないか、と思っていた。
日の丸もしかりである。
高校生は馬鹿じゃない。
判断材料もなにもないのに「歌え」だの「歌うな」だのって押し付けるのは、結局ミギもヒダリも一緒じゃないか。

「国家の品格」という新書が売れている。先日の内村鑑三読書会でも、話題になった。
「だめなものはだめ」と言う権威を持つ存在は、神のみだよねーなんてことをみんな言ってたけど、nikkouもそう思う。
知性と倫理と文化と歴史を持つ人間は、ありとあらゆる言葉や行動を通じて若い世代にその判断基準を示すべきだし、若い世代は、それを鵜呑みにせず、真剣に吟味し、冷静に判断すべきだ。
それが、人間の人間たる所以だと思うのだ。
判断材料も示さずに「だめ」っていうな。
「だめなものはだめ」で、言うことを聞いちゃうような若者なんて、ただのロボットだ。

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July 23, 2006

不安になったり、悲しんだりしないがよろしい。

『眠られぬ夜のために』第二部

「あなたが、しばらくの間、真にたのしい気分になれないことがあっても、
なおその時、神とわれらの主に対して、完全に愛と信頼の正しい間柄にあるのだったら、
不安になったり、悲しんだりしないがよろしい。
それは、精神的進歩の新しい良い段階への、生みの苦しみなのだから。」

(岩波文庫:大和・草間訳)

水曜日、会社を休んで、
八王子の無教会の礼拝に出席。
というと、すーごく熱心なクリスチャンって感じですが、
実は、かなりミーハーな理由で出席してきたのであります。

先日、徳島聖書キリスト集会の独立伝道者である吉村孝雄さんが、北海道から礼拝しながら南下中との情報をゲット。
この「吉村孝雄」というお名前は、無教会クリスチャンの友人たちの間では、ほんとによくささやかれるので、
どんな人だろう…という好奇心で出かけてみたのでした。

お話は詩篇の32編と33編。
正直ありふれた詩だと思っていたものを、生き生きと喜びに満ちた詩として解説されたことに感動を覚えつつも、
一番おどろいたのは、吉村さんの讃美のありかたでした。

無教会の方は、直立不動で歌詞を凝視しながら讃美をする傾向がある、…らしい。
でも、吉村さんは、手話を使って、全身で讃美をしていました。
もともとろうあ学校の理科の先生だったということもあって、手話が体になじんでおられるんでしょう。
讃美歌集は片手に持ちつつも、「主よ」という歌詞になると、さっと天に手を差し伸べる様子は、ゴスペル仲間の歌い方そのままで、うれしい気持ちでいっぱいでした。
みんなにも手話讃美をシェアしてくださいました。

さらに、ノートパソコンをスピーカーにつないで伴奏も自由自在。
そのノートパソコンには、「讃美歌」「聖歌」「リビングプレイズ」「こども讃美歌」などから数百曲の讃美がプログラムされているとのこと。
しかもそれは、重度の障害をもっている方が、口ひとつで8年の歳月をかけて入力したそうです。
「だから、ぼくは、どんな曲でも自在に弾けるピアニストをつれて歩いているようなものです」とにっこり。

このプログラムをされた方は、男性で、
医師の誤診のため、処置が手遅れになって、首から下は動かないという障害を負われたそうです。
障害を負った当初から7年間は、激しい怒りとうらみに燃え、ヘルパーさんもなかなか居つかないという恐ろしさだったとのこと。
しかし、病院で同室だった方、病院スタッフの方にクリスチャンがいて、
彼らに導かれて、主と出会い、怒りから解放され、
讃美をパソコンに入力する、という働きを与えられるに至ったということです。

それも、とても見事なプログラミングで、
伴奏のハーモニーもかっこよければ、音もきれい。

いやはや、不思議なものだわーというお話でした。

ちなみに今日は、やはり無教会の「北野台聖書集会」に出席。
キルケゴール『死に至る病』をサブテキストに、
絶望ということと、信仰を通じての解放、ということを学びました。

なんか無教会づいてますが、
来週は母教会にて、シンガーズ、スタートです!

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July 20, 2006

ゴスペルシンガーズをはじめます!

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月20日

自分勝手にいろんな計画をめぐらしたところで、たいていはなんの役にもたたない。
待つこと、そして、神があたえられる機会に注意をおこたらず、
それが訪れたならば、すばやく、よろこんで、十分な心がまえをもってそれをつかむこと
――こうすれば、成功が得られるのである。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)


そうなのよ、そうなのヒルティ翁、nikkouもほんとそうだと思ってたのよ~という今日のメッセージであります。

というわけで、みなさま、勇気をもって公表いたします。とうとう、nikkouもはじめることにいたしました、ゴスペルシンガーズ。つまり「聖歌隊」です。以下、詳細でございます。

教会でゴスペル・讃美歌を歌おう!
―川崎教会ゴスペルシンガーズ結成のお知らせ&メンバー募集

Hallelujah!
このたびわたしたちは、川崎教会に場所を借りてあたらしく集い、ゴスペル・シンガーズを始めることとなりました。
そこで、随時メンバーを募集します。
ギター伴奏やアカペラの歌を中心に、子供たちから若者もお年寄りも一緒に楽しめる、愛らしい讃美歌、ゴスペル、ワーシップソングなどを歌います。
歌う人も聴く人も、こころが元気になったり気持ちが慰められるような、そんなグループをめざしています。
年齢、性別、クリスチャン・ノンクリスチャン、音楽経歴などは問いません。
楽譜が読めなくてもだいじょうぶです。耳で覚えてみんなと一緒に口ずさみながら自然に歌えるようになります。
歌が大好きな方お待ちしています。

名称    :募集中(候補 川崎Little light singers,川崎One Voice,川崎All Voices)
練習日時  :第2・第4日曜日 午後2時から3時
第1回練習日は、7月30日(日)午後1時半から2時半
(この日だけ、すこし早くに始めます。ご注意ください。)
場所    :日本キリスト会川崎教会 2F礼拝堂
住所    : 川崎市 川崎区 本町1-4-13
会費    : 一回500円

◎お子さんのいらっしゃるかた:託児室はありませんが、お母さんお父さんが歌っているそばで遊んでいる分には、まったくかまいません。
◎讃美歌やゴスペルの内容をよく理解するために、川崎教会牧師の高橋誠さんより、歌詞の解説があります。信仰を強制することはいっさいありません。
◎10月15日(日)午後2時から3時にこのグループでコンサートを予定しております。みんなで口ずさめるような、簡単だけれど楽しい歌をたくさん歌います。ご家族ご友人をお誘いください。
◎ご参加ご希望のかたは、このブログのコメント欄にメッセージをお残しください。追ってご連絡いたします。直接礼拝堂においでいただいても結構です。

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July 18, 2006

我流にならないために

『眠られぬ夜のために』第二部

「このような(nikkou注:霊的な)直感的認識を受け入れるために、
また、それを害なしに自分の内部で消化するために、
ある種の予備的修業を必要とすることに留意しなければならない。
さもないと、我流の独学者が生まれる。(以下略)」

(岩波文庫:草間・大和訳)

「修行」ではなく「修業」であります。要は、「学び」ね。滝に打たれることじゃあないです。

こないだの日曜日は、無教会クリスチャンの友人「一粒のぶどう」にともなわれて、無教会の浦和キリスト集会へ。
聖書箇所はエゼキエル書の17章18章でした。
背信がすすむイスラエルの人々に対して神が「どうかみんな、道をはずれないでおくんな、踏み外した先にあるのは『死』なんだよ」と必死で呼びかけるところであります。
この17章18章を3節ずつ、30名ほどの礼拝出席者が順番に輪読してゆく、というスタイルがとっても新鮮。nikkouも一生懸命読みました。
お話は無教会の伝道者で集会の主催者である関根義夫先生。
歴史的背景を丁寧に説き起こしつつ、本当は、イスラエルの歴史上の話だけじゃない、
「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(18章31節~32節)の「イスラエルの家」に自分の名前を入れて読んでみよう、とお話しなさいました。
そんでもって、「ちょっと恥ずかしいけれど」とはにかみ笑いをしながら「イスラエルの家よ」を「関根義夫よ」と読み替えて音読しました。

つづけて関根先生いわく、
自分は根がまじめなので、「よーし、じゃあ、道を踏み誤らないようにがんばろうっ」と思った時期もあったそうであります。でも、結局ふと気づくと、罪を犯してしまう。このとき、主イエスの十字架の意味を悟った…とのこと。
nikkouも根がまじめなのですが…たぶん、そこまで切実に主イエスの十字架の意味を分かっていない気がします。いまだに、罪に気づくたび、もっとがんばれば、先日書いた「完全な人」になんとかなれるんじゃないかと思っている。だからきっといつか、nikkouにも十字架を悟るために一度、聖霊をもってコテンパンに砕かれる日がくるでしょう。

その日の備えとして、
また悟りえぬnikkouがヒルティ言うところの「我流」にならないための、
関根先生の告白なんだろうかとしみじみ思いつつ、
「わたしはまだ十字架が、実感としてよくわかりません」と思いっきり、みんなの前で激白してしまった日曜日なのでした。

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July 16, 2006

完全無欠

『眠られぬ夜のために』第2部

「7月14日

…ときおりこの地上に宗教上の事柄では完全無欠で、誤ることのない人間がいてくれるということは、なんといっても素敵なことである。
しかし、どうやらこれは、神の計画でも意思でもなさそうである。
人間めいめいが、みずから真理と真理の御霊とを求めなくてはならず、
また、それをもつことができるということ、
これが神の思し召しなのである。
(以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

今週の頭に、営業部から、nikkouが現在作っている新書のタイトルについて「ぴんとこない」と駄目だしをされました。著者自身のタイトル案なのですが、著者に「駄目」を伝えたところ、なんともご不満そうな声。そのタイトルへの熱い思いを聞かされていた分、気持ちはよくわかります。そこで、両方の意見をミックス&折衷して、著者も営業も「いいねー」というタイトル案を考えるのが、編集者の仕事になるわけです。おかげで一週間、魚の小骨が喉にささったような気持ちでした。巷の書籍のタイトルのうまさにコンプレックスが刺激され続けて、なんかつらいわ。この『眠られぬ夜のために』ってのもいいタイトルだしね。
手話サークル「風の音」は、聖書からとりました。今度の新書のタイトルも聖書にヒントがあったりして!?。

 そんな一週間ののちの土曜日、大雨あけてから今井館へ。「内村鑑三を読もう」という読書会がありました。現在月に一回、4~5人で小さく集まってディスカッションをします。読んでいるのは『求安録』という内村鑑三の古い著書。文語でとっても読みにくく、こういう機会でもないと読まない類いの本ですが、実際読むとなかなか面白くって、毎月結構楽しみにしています。
『求案録』には、明治の日本人が、初めてキリスト教に触れて受けるショックやら感動やらが劇的な口調でつづられていて、今の日本人クリスチャンが衝突する問題は、もうすでに先人たちが体験しているんだなーということがよくわかる。だから、内村鑑三の問題はいつも古くて新しい。ぜひ、もっと読まれてほしいと思うのだけれど、いかんせん、文語が読みにくいんだよねー。できるならば口語訳を出版したい、とひそかにたくらんでおります。

今日読んだ箇所に、こんなところがありました。

「わが霊の希望は、われの心の完全なる平和を得しめ、われ努めずして神と人とを愛し得べく、善行はしぜんにわれより流れ出で、われ働きて疲れず、死して死せず、失望せず、衰えず―すなわち完全なる人となるにあり。」

わたしのたましいがのぞんでいることは、わたしの心が完全に平和になり、無理しなくても神と人を愛する事ができ、よい行いは自然に流れ出し、働いても疲れず、死んでも死なず、失望せず、衰えない―という完全な人になることである。

今日のヒルティ言うところの「完全無欠で、誤ることのない人間」というのは、内村鑑三に言わせると、こういう人のことになるのでしょう。
nikkouにとって「完全無欠な人」は…、素敵な新書のタイトルが思いつく人…、あっ、えーっと、そうじゃなくって、「野の花、空の鳥をみよ」という主イエスのように、ゆったりと生き、ゆったりと隣人を受け入れる人であります。…そして、それは今のnikkouにもっとも遠い在り方であります。
まあ、「そういう人としてください」と祈り求める相手、つまり、「完全無欠の主」を知っているということは、しあわせなんだとは思うのでありますが。

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July 09, 2006

やかんはお湯を沸かすために造られた

『眠られぬ夜のために』第二部

「(パウロの手紙に現れている信仰には)『神を愛する者たちにとっては、万事が益となるにちがいない』(ローマ人への手紙8章28節)という言葉が完全な真実となっている。われわれもこのようになることができるのである。」
(筑摩叢書:前田敬作訳)

「毎日でも更新してほしい」と、先日、無教会クリスチャンの友人、高橋さん から言われました。そうしたいのは山々なんですが、最近なんなんでしょう、このブログを管理しているniftyの管理画面が開かないんですよね。10時からアクセスし続けて、もう日付変わっちゃったよ。図版も入らないし。もう別のところに引っ越そうかな。
おかげで、いろいろ書きたいなあ、と思っていたことが古くなっちゃった。

今週も、nikkou、とびまわっておりました。

火曜日は、手話讃美「風の音」の練習。Lyre(リラ)という讃美グループの歌から「わたしたちの口は」と「わたしが生まれる前から」、そして讃美歌「主我を愛す」を練習。この3曲を、9月にろうあ教会で讃美することとなりました。
わたしたちに手話をシェアしてくれるTさんという方は、ろうあ教会で手話通訳をする伝道者。こう言っちゃなんですが、ぱっと見、すごーく地味な女性です。ところが、一端手話で語りだすと、惚れちゃいそうなくらい、いや、実際これは惚れるでしょ~というくらい、美しい。とくに表情がいい。「なにも持っていないけど、わたしを用いてください、主よ」という歌詞を、彼女が手話で語った時は、あまりに彼女が美しいので泣きそうになった。実に奇妙です。摩訶不思議です。

水曜日はSさんのお見舞いに。びっくりするくらい回復しておりました。表情がはっきりしてきたし、画板をもってなにやら文字らしきものも書いてくれる。そして言葉が出た!もう、とにかく饒舌な人なので、しゃべりたくてしょうがなかったんだろうね。
きっと退屈しているだろうと短編小説やエッセー、新書など数冊持っていきました。うち「ウェブ進化論」という最近流行りの新書を「ヨンデ」というので、音読。(まだ自分では読めないらしい)。すさまじく熱心に聞き入ってくれるので、結局面会時間を多少過ぎるまで読んでいました。やがてすっと眠りに落ちたようなので、枕元でそっと祈って出てきました。彼はデータベースを作る会社に勤めていたのですが、なるほど、頭の中は全くダメージを受けなかったのだな、ということが分かりました。あとは運動能力の回復を待つのみだ。がんばれ!
(ちなみに、nikkouが自力で本を読めなくなったら、だれか聖書を音読してねん。できれば毎日4章。)

金曜日は、午前中会社を休んで、東大病院の小児科でゴスペル讃美をしてきました。院内学級の「芸術鑑賞会」だそうです。ときおり舞い込んでくる病院の小児科での讃美は、子供が好きなnikkouにはとりわけ好きな仕事。
子供、好きです。本当に大好き。そうそう、先日この東大病院用のリハーサルのためママさんクワイアーにまぜてもらったのですが、もう、とにかく小さなお友達がたっくさんいて、一緒に飛んだり跳ねたりしてたのしいひとときでした。そして筋肉痛になりました。みんな、一緒に遊んでくれてありがとね。(nikkouは子供だから子供と親しいのだ、とよく言われます。先月30歳になりました。30歳で子供って…)

先日、新約聖書のパウロの手紙に、こんな言葉を見つけました。

「…わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善いわざのために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善いわざを行って歩むのです。」(エフェソの信徒への手紙2章10節)

お前には、前もって仕事が準備されているから、それをやるだけでいい、と。この言葉の前に、「行いを誇るな」ということも書いてある。そりゃそうですな。やかんがお湯をわかしたって、だれも褒めません。やかんはお湯をわかすために造られているんですから。
この言葉に出会って以来、障害者介助や手話、そしてあちこちでゴスペルを歌うといういわゆる「ボランティア」系の仕事に気負いがなくなりました。
状況が許されるというのは、主から「俺はnikkouをこのために造ったんだ、それいけー!」といわれているということではないかと思う。そんなら、「ホイきたー!」と飛び出せばいいんだし、逆に、状況が許さないというのは、「これは別の人のために用意した仕事だから、お前はまっとれ」といわれているんだろう、と思って無理しなくなった。
…ということはそれまで無理していたんですね、ええ。体調不良を押して障害者介助に行って、先方で吐いたりしました。ああいう態度はやっぱ、どこか間違っていたんでしょう。

東大病院小児科の子供たち、タンバリンを叩いてくれる子も、ベットから動けずに、目だけがいのちの輝きを宿している子も、みんな、楽しそうにしてくれて、本当によかった。君たちと、この日一緒に讃美するために、nikkouは造られたんだ。君たちのことを今夜も祈っているよ。

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July 04, 2006

神は無しとわれは言わねど

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月4日

この世の最善の宝はなんであるか、それをあなたは知りたいとおもうだろうか。
それは、たとえば、神の近くにあること、
精神と身体の健康、よき結婚生活、よき国民性と教会、十分な収入のあるりっぱな職業、
よき友人、すぐれた教養、生涯の主要部分をよき時代にめぐまれること、
さらにできれば聖霊の賜物のひとつにでもめぐまれること(…中略)などである。
人生の幸福にぜひとも必要なのは、これらのうち、
まず第一のもの(神の近くにあること)だけである。(…以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

ごぶさたしておりました。
安息日期間と申しつつ、われながら獅子奮迅、とっても働いておりました。
会社で、思いがけず自分が提出した企画が通って、
編集者歴7年にして初めてインタビュー取材をしたり(いずれ、弊社ホームページに載ります。ご笑覧あれ。)
これまた初めて新書を作ったり(これはまだ、編集の真っ最中。9月刊行予定。テーマは「スロー・ライフ」)、と
新入社員でもないのに初めてづくしの数週間でありました。
忙しくはないのだけれど、暇でもない。
ちょうどいい感じです。

ちなみに信仰歴4年にして、初めて、
神様に自分の知恵と勇気と持ちうる能力のすべてをささげる、という経験もしているところ。
それはまたいずれ、状況が整理できたらご報告いたします。
その際にはぜひ、みなさまのアドバイスなどいただきたいと思います。

まあ、そんなこんなでぱたぱたと数週間が過ぎてしまいました。
その間、いろんな方、なかには思いがけない方からも、
「ブログ見てますよ~」とお声を掛けられました。
どうもありがとー。
アクセス数がほとんど横ばい状態だったのは、更新せずともこのページを開いてくださる方がいらしたからなんですね。
どうもお待たせいたしました。そろそろ、再開いたします。

で、今日のヒルティなのですが、
老境に達すると、
「神の近くにいるのが一番」ということがほとんど確信のようなものになるんだろうか、と思ったりする。
友人の祖父ネットは、「長い人生の経験から、もう、断固、神様の近くにいることが一番なんだ」という感じで、
お話を聞いていると、歳をとるっていいなあ~と惚れ惚れしちゃったりするのである。

昨日の朝日新聞「折々のうた」に、こんな歌が載っていた。

「神は無しとわれは言わねどもし有ると言えばもうそれでおしまいになる 安立スハル」
(nikkou注:旧かなを新かなに直しました)

この歌、じつは学生時代に読んだ。
というか、じつはnikkou、大学の短歌会の幹事長をしていました。
ぶっひょー、若気の至りかもー。
今はもう、短歌で自己主張できるほどの熱き思いは持っておりません。
つい最近も、ある出版社のパーティで短歌会のお師匠さんとばったり再会、
「また歌を作りなさいよ」とお励ましいただいたのですが
逆さにして絞っても、もう一滴も出てきません…とその後ろ姿にそっと手を合わせたのでありました。

まあ、それはともかく。
安立スハルの短歌であります。
学生時代、この人の短歌にはなぜか心ひかれるものがあって、会で出していた同人誌を、こっそり安立スハルさんにも送付、
先輩から、「この人だれ?」と聞かれて、
むぐむぐと口ごもったものです。
どんな人か、まったくわからない。
「折々の歌」の大岡信も、「私は作者のこまかい経歴を知らない」と書いている。
だから、この人は、個人的な経歴や事情ではなくその作品1本で、勝負している感じがする。
それは、文芸として、とても健全な気がする。

学生時代になぜ心惹かれたのかは、もう覚えていない。
ただ、昨日の朝、この短歌を読んで、はっとした。
そうだ。
nikkouの現在の心情は、まさに、この短歌のようなものだ。

nikkouはクリスチャンなのだから、当然「神はある」と言うべきなんだろう、と思う。
もちろん、「神は無し」とは言わない。
そんなこと全然思わない。
しかし、「ある」と言い切るとき、心の隅で、ざらっとした違和感があるのである。
もし、「神がある」ということが事実なら、「信じる」なんていわないんじゃないか、って思うのである。
「わたしは女子である」とは言うけれど、「わたしは女子だと信じる」とは言わないように。
「わたしは東京在住である」とは言うけれど、「わたしは東京に住んでいると信じる」とは言わないように。

もちろん、時々は「神はある」とまっすぐ信じてやまない、という気分にはなる。
ただ、ほとんどの場合は、「神はある」か「ない」か、本当のところはよくわからないけれど、
「あるほうに賭ける」という気持ちが正直なところで、
その気持ちを後押ししたのが、
主イエスの「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイ福音書7章7節)だった。
神を求めて、いつか答えが与えられるだろう、と思いながら、生涯を全うするのだ。
「主よ、あなたは本当にいるのね」と断言できるときは、天国にいて、まさに主と顔と顔を合わせて対面したときじゃないかな、と思っていたりする。
現在のnikkouにとって、「神の近くにいる」というのは、
主を求める思いから離れないこと、求めることをあきらめないこと、である。
それは、ヒルティの言うとおり、ちょっと「幸福」な気持ちである。
「どちらかというと、神はないほうに賭ける」と思っていたころよりも、はるかに希望があるから。

わが不信仰告白でした。

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