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July 04, 2006

神は無しとわれは言わねど

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月4日

この世の最善の宝はなんであるか、それをあなたは知りたいとおもうだろうか。
それは、たとえば、神の近くにあること、
精神と身体の健康、よき結婚生活、よき国民性と教会、十分な収入のあるりっぱな職業、
よき友人、すぐれた教養、生涯の主要部分をよき時代にめぐまれること、
さらにできれば聖霊の賜物のひとつにでもめぐまれること(…中略)などである。
人生の幸福にぜひとも必要なのは、これらのうち、
まず第一のもの(神の近くにあること)だけである。(…以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

ごぶさたしておりました。
安息日期間と申しつつ、われながら獅子奮迅、とっても働いておりました。
会社で、思いがけず自分が提出した企画が通って、
編集者歴7年にして初めてインタビュー取材をしたり(いずれ、弊社ホームページに載ります。ご笑覧あれ。)
これまた初めて新書を作ったり(これはまだ、編集の真っ最中。9月刊行予定。テーマは「スロー・ライフ」)、と
新入社員でもないのに初めてづくしの数週間でありました。
忙しくはないのだけれど、暇でもない。
ちょうどいい感じです。

ちなみに信仰歴4年にして、初めて、
神様に自分の知恵と勇気と持ちうる能力のすべてをささげる、という経験もしているところ。
それはまたいずれ、状況が整理できたらご報告いたします。
その際にはぜひ、みなさまのアドバイスなどいただきたいと思います。

まあ、そんなこんなでぱたぱたと数週間が過ぎてしまいました。
その間、いろんな方、なかには思いがけない方からも、
「ブログ見てますよ~」とお声を掛けられました。
どうもありがとー。
アクセス数がほとんど横ばい状態だったのは、更新せずともこのページを開いてくださる方がいらしたからなんですね。
どうもお待たせいたしました。そろそろ、再開いたします。

で、今日のヒルティなのですが、
老境に達すると、
「神の近くにいるのが一番」ということがほとんど確信のようなものになるんだろうか、と思ったりする。
友人の祖父ネットは、「長い人生の経験から、もう、断固、神様の近くにいることが一番なんだ」という感じで、
お話を聞いていると、歳をとるっていいなあ~と惚れ惚れしちゃったりするのである。

昨日の朝日新聞「折々のうた」に、こんな歌が載っていた。

「神は無しとわれは言わねどもし有ると言えばもうそれでおしまいになる 安立スハル」
(nikkou注:旧かなを新かなに直しました)

この歌、じつは学生時代に読んだ。
というか、じつはnikkou、大学の短歌会の幹事長をしていました。
ぶっひょー、若気の至りかもー。
今はもう、短歌で自己主張できるほどの熱き思いは持っておりません。
つい最近も、ある出版社のパーティで短歌会のお師匠さんとばったり再会、
「また歌を作りなさいよ」とお励ましいただいたのですが
逆さにして絞っても、もう一滴も出てきません…とその後ろ姿にそっと手を合わせたのでありました。

まあ、それはともかく。
安立スハルの短歌であります。
学生時代、この人の短歌にはなぜか心ひかれるものがあって、会で出していた同人誌を、こっそり安立スハルさんにも送付、
先輩から、「この人だれ?」と聞かれて、
むぐむぐと口ごもったものです。
どんな人か、まったくわからない。
「折々の歌」の大岡信も、「私は作者のこまかい経歴を知らない」と書いている。
だから、この人は、個人的な経歴や事情ではなくその作品1本で、勝負している感じがする。
それは、文芸として、とても健全な気がする。

学生時代になぜ心惹かれたのかは、もう覚えていない。
ただ、昨日の朝、この短歌を読んで、はっとした。
そうだ。
nikkouの現在の心情は、まさに、この短歌のようなものだ。

nikkouはクリスチャンなのだから、当然「神はある」と言うべきなんだろう、と思う。
もちろん、「神は無し」とは言わない。
そんなこと全然思わない。
しかし、「ある」と言い切るとき、心の隅で、ざらっとした違和感があるのである。
もし、「神がある」ということが事実なら、「信じる」なんていわないんじゃないか、って思うのである。
「わたしは女子である」とは言うけれど、「わたしは女子だと信じる」とは言わないように。
「わたしは東京在住である」とは言うけれど、「わたしは東京に住んでいると信じる」とは言わないように。

もちろん、時々は「神はある」とまっすぐ信じてやまない、という気分にはなる。
ただ、ほとんどの場合は、「神はある」か「ない」か、本当のところはよくわからないけれど、
「あるほうに賭ける」という気持ちが正直なところで、
その気持ちを後押ししたのが、
主イエスの「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイ福音書7章7節)だった。
神を求めて、いつか答えが与えられるだろう、と思いながら、生涯を全うするのだ。
「主よ、あなたは本当にいるのね」と断言できるときは、天国にいて、まさに主と顔と顔を合わせて対面したときじゃないかな、と思っていたりする。
現在のnikkouにとって、「神の近くにいる」というのは、
主を求める思いから離れないこと、求めることをあきらめないこと、である。
それは、ヒルティの言うとおり、ちょっと「幸福」な気持ちである。
「どちらかというと、神はないほうに賭ける」と思っていたころよりも、はるかに希望があるから。

わが不信仰告白でした。

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Comments

nikkouさん、カムバックおめでとー!
忙しかったんですねー。お仕事の成果を楽しみにしてますよ。
「神があるほうに賭ける」私も思いました。
と過去形で言うのですが、賭けてるうちに、賭けてる自分なんかどうでもよくなってきました。自我って何でしょう? たかが人生数十年。やっぱり「信仰と希望と愛」かな。

Posted by: ゴトウ | July 05, 2006 at 12:22 AM

>賭けてるうちに、賭けてる自分なんかどうでもよくなってきました。自我って何でしょう? たかが人生数十年。やっぱり「信仰と希望と愛」かな。

うう、姉上、おっしゃるとおりです。
観念というか、頭では、よく分かるんですけれど、やはりnikkouは未熟者。もうしばし、「神はある、と賭けて」考えたり行動したり祈ったりしながら生きていくことになりそう…それがやがて、身にしみて「信仰と希望と愛」の人生になるやもしれません。

Posted by: nikkou | July 05, 2006 at 12:27 PM

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