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September 28, 2006

頼りにしてます

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月27日
われわれは、だれか頼ることのできる人が必要である。
たとえ最も偉大な人であっても、つねに自分ひとりで十分だというほど強い者はだれもいない。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

Mahoro
「まほろ多田便利軒」読了。今年の直木賞ですね。
井坂幸太郎とかと読後感が似ている。なにか影のあるお兄さんたちが、コミカルでチャーミングに問題解決をする、というパターン。でもうまいです。三浦しをんさん、若いのに。
若い、といいますが、じつは、nikkou、作者の三浦しをんさんとは、大学の同級生。一年生の専門演習で一緒に「古事記」とりました。特に親しい間柄ではなかったけど。三浦さん以外にも、同級生がそれぞれの持ち場で着々と地歩を固めている様子、最近見聞きすることが多い。ああ、もう「新人」じゃないんだ、がんばらなくっちゃ、という気がする。
ちなみに、同級生のよしみでうちの版元でエッセイ集とか頼めないだろうか…とあさましーく思っていたら、さっそく、同僚に「もう会ってきたよ~」と言われてしまった。「nikkou同級生なんです~」と、まー我ながら意地汚いことを言ってみたら「そうかー、nikkouさん、若いのねー」と言われました。しょぼーん。まあ、同僚は、以前某大手出版社の文芸誌の編集長をやってて、最近ひらりと転職してきた大ベテランですが。

で、今日のヒルティであります。
nikkouは長女のせいか、なんでもかんでも自分でやれる!いや、やらねば!と信じているふしがある。クリスチャンになって、「主にすべてゆだねまーす」という性格になったかというと、全然そんなことはなくって、やっぱり、自分でなんとかしよう、という気持ちが強くありました。
それが、今回、川崎リトルライトを始めたおかげで、かなり強制的に「主にゆだねる」「友人たちに頼る」ということを学ばされているような気がします。

実は、先日のろうあ教会での手話讃美、リトルライトの練習とダブルブッキングだったのでした。手話讃美グループ「風の音」とはぎりぎりまで交渉したのだけれど、結局うまくあわず、もう、リトルライトのほうは、みんなにまかせるっきゃないか、という状況になりました。しかも、この日は、いつもギターを弾いてくれるM牧師が、都合で前半までしかいられない、って言うので、M先生に全面的に頼るわけにもいかない。
もちろん、nikkouは、別にピアノが弾けるわけでも、まともなディレクションをしているわけでもありません。でも、なんとなーく、シンガーズのいいだしっぺがぬけたんじゃ、無責任だよなー、という罪悪感がひしひしあって、その一方で、「自分を買いかぶってるんじゃないよ、メンバーのほうがよっぽどしっかりしているじゃないのさ」という思いもあって、なんともすっきりしない気持ちでした。
だから祈りましたよ。「風の音」と「リトルライト」がぶつからないように祈ったのに、そうしてくださらなかったのは、主ご自身でしょう。だから、主が両方を祝福してくださいよ、いいですね、って。
nikkouの心配をよそに、リトルライトのメンバーは、「手話讃美、いいですね~、楽しんできてね~」「だいじょうぶですよ~」と元気な反応。M牧師も、「じゃあ、前半ぼくがギター弾くから、後半までに帰ってきてバトンタッチしよう」ととっても楽天的。

結局、nikkouはM牧師去って15分後にリトルライトに到着したのですが、玄関入るなり響いてきたビューティホーな歌声に、胸がきゅん、としました。

リトルライトは、すっごくメンバーに恵まれてます。
nikkouはみんなをすっごく頼りにしてます。
このリトルライトの歌声に乗せて、この街に、福音を伝えたい、と思う。主はきっと用いてくれるはずでしょう。

ヒルティは続ける。
「ところで、あなたは、誰かがあなたのために、完全に神の助けの代わりをすることができる、と本当に信じているのか。その誰かが、いつもあなたの傍にいるとはかぎらないのに。」

「リトルライト」も「風の音」も、いつもいつも、主が傍にいてくださる。だからだいじょうぶ。

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September 25, 2006

ろうあ教会で讃美

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月24日

あなたが心軽やかな生活を望むなら、マタイによる福音書6章33節~34節に従って生活しなければならない。

マタイによる福音書6章33節~34節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

今日はろうあ教会で手話讃美の発表会。
ろうあ教会の礼拝から参加したのですが、とても興味深かった。
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讃美歌は、太鼓で礼拝堂を振動させてみんなを一致させる。
聖歌隊(聖手話隊?)もちゃんといる。
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メッセージは健聴者の牧師さんだったので、手話通訳がついていました。おかげで、手話の勉強になった。
礼拝後、「風の音」で讃美を披露したのですが、「とてもきれい」「合格」とお褒めいただきました。ほんとは緊張して、あちこちぶっとんじゃったんだけどね。また頑張って練習します。

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さて、ろうあ教会の方の中に、中国からいらいしたMさんという女性がおられました。
日本の手話もぺらぺら(?)なので、日本人ろうあ者とのコミュニケーションには不都合はないとのこと。
実はnikkou、たった今、ユン・チアン著『ワイルド・スワン』を読んでいたところ。
『ワイルド・スワン』とは、抗日戦争、共産党と国民党の内乱、そして文化大革命を経験したユン・チアンの祖母、母、自分と三世代の回顧録であります。
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ちょうど文庫の下巻が手元にあったので、取り出して見せたところ、Mさん、「はっ」と息をのみました。そして、「この著者のおかあさんと私のおかあさんは親友だった」とおっしゃるのです。
「ひぇっ」と、今度はnikkouが息をのみました。
文庫の口絵には写真が載っているのですが、その写真を指差しながら、「ユン・チアンの弟と、自分の兄は同級生だった」とも。
ということは、おそらくMさんの両親は共産党の高官だったのでしょうね。
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さらに、「ユン・チアンの両親は文化大革命の受難を生き延びたけれども、自分の両親は処刑された。親族はみんなアメリカに逃げてしまった。自分は4人兄弟だったのだけれど、全員他人に預けられて育った。文化大革命以後、兄弟とも親戚とも、会っていない」と、しゅぱしゅぱ、っと手話で語りました。そして、ばっとMさんの目に涙がにじんだので、「あ、やばい、泣かせちゃった」と思ったのですが、Mさん、ふっと横をむいて、向き直ったときにはもう、涙はありませんでした。勝気な人なんだなあ、と思いました。

『ワイルド・スワン』に描かれた戦後50年の中国は、よく言えばダイナミック、正直に言えば凶暴な印象。あまりにも話がでかいので、下巻にさしかかったときには、もはや「ジャックと豆の木」でも読んでいるみたいな非現実感を抱いておりました。そこへ現れたMさんは、まるで小説の中の登場人物が3次元になって出てきたように見えて、nikkou、思わず、ぼーっとしてしまいました。
文化大革命の時代、中国のクリスチャンの人たちはどんなだったんだろう。Mさんに重ねて聞いてみたいような気もしたけれど、なんだかためらってしまった。

「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」
帰り道、急に生ナマしく見えてきた『ワイルド・スワン』の残りを一気に読み終えて、この人たちにとって、「十分」どころか、「二十分」だったんじゃないか、こりゃ、と思った。

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September 23, 2006

ゴスペル・コンサート、やります!

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日時:10月15日(日)午後2時~3時
場所:川崎教会 (川崎市川崎区本町1‐4‐13)
入場料 無料

いろいろと不安もあるけれど、
みんな祈っててね~

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September 22, 2006

ミャンマーの源氏物語

『眠られぬ夜のために』第二部
「9月15日

真実をありのままに、また、誇張なしに語れ。
それができない場合には沈黙せよ。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

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月一回通う障害者介助のボランティアの仲間に、ミャンマーからの留学生、ユーミンさんという女性がいる。日本に来て2年。バイオテクノロジーを学んでいる。あと1年半で帰国予定とのこと。nikkouとほぼ同い年である。
こないだの日曜日、介助の合間の雑談で、彼女がこんなことをいう。
「ミャンマーでは、『ゲンジモノガタリ』はとても有名な話だ。」
えええ~なんでー!?と聞くと、
「教科書に載ってた。」
「しかし、『源氏物語』って、ロング・ロング・ストーリーよ、そのどの部分が載ってたの?」
「ゲンジがプリンセスとデートしていたら、ゴーストがやってきて、プリンセスを殺してしまうという話。」
……それってもしかして「夕顔」ですか。
「でも、ゲンジってミャンマーの人にとっても面白いの?」
「もちろん。わたし、ゲンジモノガタリが大好きで、お姉さんの子どもが赤ちゃんだったとき、読み聞かせてあげた。」

どうよ、わがジャパニーズ・リタラチャー専攻出身の友よ。ミャンマーで愛されてますよ、ゲンジモノガタリ。

ちなみに、「ゲンジはオールド・ノベルなんだが、いつくらいに書かれたか知ってる?」と聞くと、「100年?」とのお答え。「1000年前」と教えてあげると、今度は向こうが「え~っ!」とおどろいてました。

さて、ここはNikkouも国際親善をすべし、なにかミャンマーのことで知っていることはあるだろうか…と思い巡らして、脳裏に浮かんだのは、

「ビルマの竪琴」

…いかん、いかん、日本軍占領下の話ではないか。で、次に思い浮かんだのは

「アウンサンスーチー」

…って、ユーミンさんの立場が分からないので、うかつに口に出すべきではないかも…。
結局、わたしは、ミャンマーの文学も歴史も社会も、な~んにも知らんのだな~、と反省いたしました。そこで、素直に、「何も知らない」と告白して、ミャンマーの著名な作家の名前、MINTHANINKHA(メンベンカーと聞こえた)を教わり、今度一緒にミャンマー料理のレストランにいこう、という約束をしました。

ここから、ちょっとレバノンのことを書こうと思ったけど、長くなりそうなのであらためることにする。

主よ、ユーミンさんという隣人を与えてくださってありがとう。

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September 19, 2006

Oh Happy Day!

「9月17日
神の恩寵にあずかっているという意識のほかに、義務をはたしたという意識も、この上なく強い幸福感をあたえてくれる。前者は、恩寵というものはつねに受ける資格もないのにあたえられるものであるから、自分でつくりだすわけにはいかない。しかし、後者は、自分でつくりだすことができる。それは、まったくあなた次第なのである。」
(筑摩叢書:前田敬作訳)

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ごぶさたしておりました。
この連休は、ゴスペルの父、エドウィン=ホーキンズが来日、そのワークショップと月曜日のフェローシップコンサートに参加しておりました。
エドウィン=ホーキンズ氏は、かのゴスペル映画『天使にラブソングを2』に歌われた「Oh Happy Day」の作者で、日本にゴスペルをはやらせた張本人のひとり。
今年は、ゴールデンウィークにもドニー・マクラーキンが来日してたし、ゴスペルの大物来日の当たり年だね。

エドウィンの歌うゴスペルは、「Oh Happy Day」にも代表されるような、カラリとして平明な調子のものが多い。歌声も歌い口もさらっとしていて、何を歌ってもなんとな~く湿度のあったドニーと対照的。地味な色のジャケットを羽織って満面の笑みで指揮をする様子は、中学校の音楽の先生、って感じです。正直、nikkouは、エドウィンが大好きです。

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ワークショップの歌は、知っている歌も知らない歌もあったけれど、何を歌っても、なんだか胸がきゅーっとするような懐かしい感じがしました。そして、なぜか、オアシス・ゴスペル・クワイアー(わたしが初めてゴスペルを習ったクワイアー。もう今は解散しちゃって無いんだけれど。左がその最後のクリスマスコンサート。)の風景が、何度も何度も頭に浮かびました。なによりも、あの頃の気持ちが胸いっぱいによみがえってきました。
難しいこと、面倒なことをなーんにも考えないで、ただ、ただ、歌うのが楽しくてうれしくて仕方なかったころ。
ゴスペルが、わたしにとって「主からの、一方的な、無償の愛」というものを実感できる一番簡単な方法だったころ。
普段は理屈っぽい私が、「私からはなにもしてないのに、神様が一方的に私を愛してくれる」ということを、理屈抜きではっきり感じることができたあのころ。
主と自分との関係に思いっきり没頭していたころ。
……自分でもちょっと気づかなかったのですが、いつの間にか、そういう純粋な喜びから遠ざかっていたような気がします。最近は、どこで歌っていても、雑念が沸くのよね。周囲が気になったりね。なんでかね。

月曜日のコンサートはじつに2000人のゴスペル愛好者が参集。オアシス解散後、あちらこちらにちらばっていた友人たちと次々に再会して、これがまた、「初心」に帰る思いでした。

コンサートの最後は、みんなで「Oh Happy Day」を大合唱しました。「Oh Happy Day! When Jesus washed, my sins are washed away. He taught me how to watch, fight and pray」というシンプルな歌詞なのだけれど、 もう、結局、ゴスペル歌ってて幸せな理由はこれだけなのよね。

今回のコンサートのメッセージは、ドニーマクラーキンのときも大活躍だったあの波多康先生。「なんでOh Happy Dayなんか、ちゅーと、もう、自分はひとりやあらへん、イエス様、僕と一緒にいてはる、神さまが愛してくれてはる、って分かったからなんやと思います。」とおっしゃってました。アーメンです。主に命を与えられたから、わたしは、この世界に両足で立っているんでした。ゴスペルを通じて、わたしにはそれが分かったんでした。

ひさびさに本気でぴょんぴょん飛び跳ねながら、Oh Happy Dayを歌いつつ、「ああ、わたし今死んでも全然、悔いはないわ」と思いました。そう思ったのも、また久しぶりのことでした。

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September 06, 2006

Seek ye first

Seek ye first the kingdom of God
And His rightousness
And all these things shall be added unto you
Hallelu hallelujah

神の国と神の義を
まずもとめなさい
すべてのものは与えられる
ハレル ハレルヤ

川崎のゴスペルシンガーズの名前が決まりました。

川崎リトル・ライト・シンガーズ(川崎little light singers)

繰り返しますが、
毎月第二・第四日曜日 2時から3時まで
川崎教会礼拝堂にて練習中。
年齢・音楽経験・信仰の有無、問いません。
どなたでもどうぞ。

で、いま、練習しているのが、上の「神の国と神の義」。
ネットからダウンロードした音もひとつ持っているんだけれど、
どっかの黒人教会で、小学生くらいの子供のとなりにMDをおいて録音した感じの、すごーくアットホームで素朴でかわいらしい録音。
通勤車内で毎日聴いています。

初めて聴いたときは、「なんのこっちゃ」だった1曲ですが、
最近、妙にひりひりと沁みます。

じつは、最近、すごく親しかった友人が、すごくおっかない。
なぜだ。
原因は、nikkouか?…思い当たるふしがあるような気もするし、
それ以外に原因があるような気もする。

どーしたもんかなーと思っているときに、ふっとこの曲が分かった気がした。
今、この友の歓心を買おうと、あの手この手で媚びるよりは、
この場合の「神の国」でなされること、「神の(正)義」はなにかを教えてください、と
マジに祈ったほうがいいのかもしれない。
「神の(正)義」は「nikkouの(正)義」ではないんだろうな、というのも、うすうす分かっている。
あんまり直視したくないが。
まあでも、Seek ye first(まず探せ)であります、がんばります。
「すべてのものは与えられる」っていう約束はこの際、信じるしかないだろう。

初めてこの曲を川崎リトルライトでやったとき、
「なんのこっちゃ、という歌詞ですが、そのうち分かってくると思います」
と適当~な解説をして、横で牧師が吹きだしました。(でもいつも黙ってギターを弾いてくれるM先生、ありがとー!)
おかげさまで、ちょっと分かりかけてきました。
なんか、痛い分かり方ですが。

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September 05, 2006

キリスト教式結婚式

『眠られぬ夜のために』第二部

「ほんとうによい結婚とは一体いかなるものであるかは、主として、次のことで知ることができよう。すなわち、来世の新しい生活を考える場合に、先立った妻とそこでまた出会うのがただ自明のように感じられるばかりでなく、ぜひとも必要なことだと感じられる、ということである。もし妻とめぐりあいができないとすれば、自分の精神的自我の一部がかけているという苦痛を覚えるであろう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティがこの本を書いたときは、妻に先立たれているから、すごく個人的な妻への愛の告白みたいに聞こえる。
幸せな夫婦だな、と思いますね。
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結婚といえば、先日斉藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)読了。面白かった。
本書の中で、「結婚とあまり関係ない方も、一度はリクルート社の『ゼクシー』という結婚情報誌を覗いてみるといい、きっと驚く。」とあったので、買ってみました『ゼクシー』。
確かに、驚いた。厚さ1348ページ(!)、まるで電話帳の厚さでわずか500円のこの雑誌に、十字架十字架十字架礼拝堂礼拝堂礼拝堂。
めくれどめくれど、まさに教会のタウンページであります。
もちろん、最近のホテルにはチャペルが備え付けられているということぐらいはnikkouも知っていたけど、
「結婚式用の教会」つまり、日曜礼拝には使わない、ただ、結婚式のためにだけに作られた「教会」建築というものが、こんなにもあるとは知らなかった。(下はウチの教会。その下は、「結婚式用の教会」)
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nikkouが主イエスと出会ったゴスペルクワイアー「オアシス」は、8割がノンクリスチャン、というクワイアーでした。
あるときメンバーのひとりが、ある結婚式用のチャペルにて結婚式を挙げることとなり、披露宴ではわれわれ仲間が、お祝いにゴスペルを讃美しにいくこととなりました。
そこで彼女が選んだのは、「I tried Him for myself」(意訳すると「私自身のために、イエスキリストを信じてみることにした」といったところか?)という、深い信仰を歌ったゴスペル。
いよいよ式がせまってきたある日彼女がこんなことを言った。

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…「I tried Him for myself」を選んだのは、チャペルで結婚式をあげることになってあらためてこの歌の意味が胸にせまってきたから。もし、ゴスペルを知らずに、このチャペルで結婚式を挙げていたら、十字架もただの飾りにしか見えていなかっただろう。十字架を前に、結婚を誓うことの重みを、かみ締めている・・・。

nikkouは、別に、クリスチャンでもないのに十字架の前で結婚式をするなんておかしい、なんて言わない。主イエスはだれにでも愛を注ぐ方だ。
ただ、結婚式のとき、たとえ結婚式専用の十字架であってもその前に立つ予定があるのであれば、せめて、新約聖書一冊買って、福音書だけでも、めいめいが読むといいのに、と思う。もし面倒なら、阿刀田高さんの「新約聖書を知っていますか」でも、三浦綾子さんの「新約聖書入門」でもいい。結婚式場も、聖書を新郎新婦にプレゼントするとか、結婚式をしない日曜(仏滅とか)にはゴスペルコンサートをもちます、くらいのキリスト教へのリスペクトがあってもいいように思う。
「十字架は飾りじゃない」と分かるだけで、キリスト教式結婚式がより感動的になると思うのだけど、余計なお世話なのかな。

無教会クリスチャンの結婚式

神に誓う結婚式

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September 02, 2006

本棚

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月3日

福音書の真実性の問題なんかに苦労しないがよろしい。(中略)
福音書のあいだの食い違いは(といってもむろんささいなものだが)、それがかえって、福音書の著者がそれぞれほかの著書を単に模写しようとしたのではなく、めいめい自分の記述のために独自の原資料を持っていたことをあきらかにしている。このような原典が、その後、筆写者や翻訳者、その上あらゆる修正者など、いろいろな人の手をくぐったことは、疑いないことであり、また、ところどころにその明らかな痕跡さえ認められる。このことは、ただ全然機械的な霊感説に対して警告するにすぎない。こんな霊感説は、霊感とはどんなものかを、自分の経験で多少とも知っている人には、とうてい納得しがたいものであろう。あたかもダンテがあるきわめて美しい詩句で、自分について証しすることができたように。

『わたしは思いをこらして愛の息吹に耳をすまし
そのささやきをまことと知り、
それを書き写すのみ、わがうちより創るものはない。」

神の恵みをうけて、そのことのために「召された」福音記者も、ことごとくこのような仕事をするものである。しかし批判学者にはこのことがわからない。(以下略)」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティは、「聖書の真実性の問題」をこねくり回す学者に対してとても批判的。
その一方で、「霊感説」にもクールに距離を置いている。
たしかに、聖書には複数の原資料があっただろうし、
書き換えも行われただろう。
でも、機械的な霊感説がいう「霊感」じゃない、本当の「霊感」をもって書かれた書物であることはまちがいないよ、って。
「霊感説」というのは、聖書は、聖書記者が「霊感」でもって神の言葉を一字一句誤りなく書き取った書物、という説である。

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nikkouは聖書学者が緻密に歴史や写本研究をして、よりリアルなイエス像をたどる、という読み方が、けっこう好きで、荒井献とか加藤隆とか、わりと一生懸命読んでいるほうだと思う。過激な聖書学者として名を知られている田川健三の『イエスという男』は旧版新版両方持っているけど、未読。ちょっと読みかけて、著者のあまりの剣幕にへきえきしてほったらかしてしまった。そこが田川健三の味なのかもしれないけどさ、怒りすぎ。

ただ、礼拝やメッセージなんかでは、あまりに研究熱心で、あじけなーくなっている説教より、素朴な信仰告白のほうが好きです。そのバランスがむずかしいのでしょうけど。

弊社から、ある著名な聖書学者の本が出ることになった。著書を読むかぎり、信仰があるのかないのかよくわからない、乾いた筆致の人である。エレベーターの中で、担当する同僚(とっても若い男子)に会ったので、「どんな人?」と聞いてみた。「すごい素敵な老紳士ですよ」とのこと。「だけど、時々、意味不明なことを口走りますけどね」「たとえば?」「『やはり、人は、主のみこころに従って生きてゆくのが、一番幸せですね~』とか。」
・・・nikkou思わず苦笑。乾いた筆致の聖書研究は、ノンクリスチャンの男の子を面白がらせはするけれど、「主のみこころ」うんぬんは結局「意味不明」なのね。もちろん、そこんところは、言葉じゃなくて、ヒルティ言うところの「霊感」だもんね。むずかしいやね。

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September 01, 2006

結局最後は「啓示」なんだよね

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月2日

今日、キリスト教に反対するあらゆるものに直面しながら、
しかも、この信仰に到達するには、
ただ、非常な博覧多読によるか、
さもなければ、考え方や感じ方のさながら子供のような単純さによるほかない。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

nikkouが、「主イエスの十字架はまさに、我がためだ!」と気づいたのは、
やはり「啓示」としか言いようのない感覚だった。
もちろん、言葉で説明しようと思えばできなくはないけれど、
最後の最後は、自分でも「飛躍があるなあ」と感じる。

ただ、自分がそういう理性や知性で説明できないものをもっている、ということがなんだか悔しくて、
クリスチャンになった当初は、なんとか説明しようと、ずいぶん理屈をこねた。
とうとう、ノンクリスチャンの友人にまで、
「nikkouちゃん、信仰って、そうやって言葉で説明できるもんじゃないと思うよ。
もうすこし世界を見て、自分の頭じゃ捉えきれないこともあるんだ、ってことを知ったほうがいいよ」
と説教された。

以前、「小国フォルケホイスコーレ」の武さんに聞いた話。
「小国フォルケホイスコーレ」には、一泊だけして帰ってしまう若者もいるそうである。
そんな若者とも、朝を迎えれば、武さんは一緒に聖書を読み、祈るそうだ。
クリスチャンじゃない若者も多い。
だから、彼にとって生まれて初めて聞く聖書の話かもしれない。
そして、帰ってしまえば、一生聖書の話を聞く機会はないかもしれない。

相手にとって「最初で最後の聖書の話」
さあ、クリスチャンの友人たちよ、どうしますか。

nikkouは最近、しぶしぶながら認めた。
人間の言葉はすべてを表すことなどできない。
イエスとはだれか。
神はいるのか。
―それは結局、「啓示」とか「言葉にならない言葉」でもって、スコーンと突き抜けるしかない。
だから、くだくだしく説明して、一向に理解してもらえないからといって、イライラするのはもうやめなきゃ。
それが、また主への信頼であり、隣人への寛容なんだろうとも気づいた。

ちなみに、「最初で最後の聖書の話」
武さんは、「主我を愛す」を讃美する、
ただそれだけ――だそうです。

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