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September 01, 2006

結局最後は「啓示」なんだよね

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月2日

今日、キリスト教に反対するあらゆるものに直面しながら、
しかも、この信仰に到達するには、
ただ、非常な博覧多読によるか、
さもなければ、考え方や感じ方のさながら子供のような単純さによるほかない。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

nikkouが、「主イエスの十字架はまさに、我がためだ!」と気づいたのは、
やはり「啓示」としか言いようのない感覚だった。
もちろん、言葉で説明しようと思えばできなくはないけれど、
最後の最後は、自分でも「飛躍があるなあ」と感じる。

ただ、自分がそういう理性や知性で説明できないものをもっている、ということがなんだか悔しくて、
クリスチャンになった当初は、なんとか説明しようと、ずいぶん理屈をこねた。
とうとう、ノンクリスチャンの友人にまで、
「nikkouちゃん、信仰って、そうやって言葉で説明できるもんじゃないと思うよ。
もうすこし世界を見て、自分の頭じゃ捉えきれないこともあるんだ、ってことを知ったほうがいいよ」
と説教された。

以前、「小国フォルケホイスコーレ」の武さんに聞いた話。
「小国フォルケホイスコーレ」には、一泊だけして帰ってしまう若者もいるそうである。
そんな若者とも、朝を迎えれば、武さんは一緒に聖書を読み、祈るそうだ。
クリスチャンじゃない若者も多い。
だから、彼にとって生まれて初めて聞く聖書の話かもしれない。
そして、帰ってしまえば、一生聖書の話を聞く機会はないかもしれない。

相手にとって「最初で最後の聖書の話」
さあ、クリスチャンの友人たちよ、どうしますか。

nikkouは最近、しぶしぶながら認めた。
人間の言葉はすべてを表すことなどできない。
イエスとはだれか。
神はいるのか。
―それは結局、「啓示」とか「言葉にならない言葉」でもって、スコーンと突き抜けるしかない。
だから、くだくだしく説明して、一向に理解してもらえないからといって、イライラするのはもうやめなきゃ。
それが、また主への信頼であり、隣人への寛容なんだろうとも気づいた。

ちなみに、「最初で最後の聖書の話」
武さんは、「主我を愛す」を讃美する、
ただそれだけ――だそうです。

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