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January 14, 2007

前方を見続けるための歌

『眠られぬ夜のために』第一部

「1月14日
後方を見ないで、つねに前方を見つづけること、
それどころか、結局はこの生をも超えてかなたをみやること。
後方をふりかえるのは、なんの役にもたたないことである。
ただし、まだ改められることをつぐなうためと、いままでに犯した過誤をこれからはくりかえさないよう気をつけるためと、受けた好意に感謝してむくいるためにそうする場合はべつである。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

今日の礼拝は、使徒パウロの話。
厳格なユダヤ教徒だったパウロが、キリスト教徒迫害にむかう途上で劇的な回心体験をして、一転、熱心なキリスト教伝道者になるくだりを読んだ。
つくづく真面目なひとだったんだろうなあという気がする。
地図を見ながら、彼の伝道旅行の足跡をたどったのだけれど、これがまたすさまじい距離なんである。地中海の沿岸をぐるっと一周してしまっている。

今日のヒルティのメッセージは、パウロの生涯を言い表している感じです。
過去に拘って罪の意識に一歩も動けないというのではなく、前方を見続けるため、
全生涯を伝道にかけた。
前を向いたほうが、過去をつぐなえる、ということもあるのかもしれない。

今ちょうど、仕事が忙しい。
でも、ストレスが高い時期のほうが、ゴスペルの練習が楽しいのが、また不思議であります。現実逃避ですかね。いや、ふたたび現実の戦いに出て行くため、「前方を見続けるため」の休息の地だ。

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月曜は久遠ゴスペルクワイアーでは、主要メンバーのひとりだったタックが転勤ということで、追い出しコンパならぬ追い出しリハ。やはりさびしいですよ。リトルライト結成のときも楽譜をたくさんくれたり、アイディアをくれたりして、ほんと、助けてもらったタック。でも、どこへ行っても讃美の心でつながっているもんね。
長いこと休んでいたメンバーもたくさん来て、久々に大合唱となりました。

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木曜はシャロームゴスペルクワイアー。ミュージカル映画「レント」から「Season of Love」を歌った。HPの予告編で聴けるので、ぜひ聴いてみてください。

「525,600分 あなたは一年をどうやって数えますか? 朝の数? 夜の数? コーヒー何杯? 笑った数? 喧嘩した数? 愛はどうだろう? 愛で数えてみようよ」

直接「神の愛」という言葉は出てこないけれど、ディレクターのまりりんが、この映画を見て、この愛は「聖書の愛に基づいている!」と判断したらしい。実際、いい歌です。
Nikkouは昨年、たくさん「愛」を受け取ったなあ。あらためていうと照れるけど。愛の数で数えるなら、出色の一年でありました。もちろん、クリスチャン的に言えば、毎年たくさん愛されているんだろうけれど、昨年は特に感じた。

そんなふうに、直接的には「神」とか「イエス」とか言わないけれど、そこはかとなく「匂う」歌ってあるよね。nikkouが個人的に好きな「匂う」歌で、「Lean on me」ってのがあるの。nikkouはクラブ・ヌーボーが歌っているのとドロシー・ノーウッドが歌っているのを持ってる。(ビルウィザーズが歌っているものはこちらで視聴できる)

「If there is a load you have to bear that you can’t carry. I’m right up the road I’ll be your friend if you just call me」 (負わなくてはいけない重荷があって、自分ひとりじゃ運べないなら、私がきみのいく道へ行って、君の友となろう 君がわたしを呼ぶならね)

今日、リトルライトのリハで、たまたま、メンバーがこの歌のパート譜をくれた。
いつか、リトルライトでも歌ってみたいと思います、「Lean on me」。
ちなみに今日は、リトルライトの今年初の練習日。
アメージンググレイスのアカペラに挑戦しました。
昨夜、ひとりでキーボードに向かって、ソプラノ、テナー、アルトの各パートを20~30回ずつ歌ってみて、「あ゛―――、だめだあー、むずかしーい」とへこんだのですが、実際みんなと歌ってみると、みんなと一緒にあっさりマスター。キーボードとハモるよりも、人の声とハモったほうが何十倍も楽だということを発見しました。すばらしいね、人の歌声ってのはね。最高の楽器だと思うよ。

今年のリトライの目標は、「人に聴かせられるようになる」であります。
…ちょっとかっこつけると、「ゴスペルのメッセージを伝えられるシンガーズになる」であります。メンバーは随時募集中なので、参加ご希望の方は、ぜひどうぞー。

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January 11, 2007

楽しいもんだよ、クリスチャンってのも

『眠られぬ夜のために』第一部

「1月9日
・・・
慰めは苦しみのすぐかたわらにある。これは、神が、ほかのだれよりも、このようなみずから進んで苦しみを堪え忍ぶ人びとのそば近くにいられるということである。そこで、彼らには苦難そのものが実に甘美な、堪えやすいものとなるばかりでなく、すべてのことがよい結果を得るのである。
このような慰めがなければ、だれもあの『狭い道』を歩み得ないであろう。すでに多くの人が大きな苦しみのなかにありながら、この慰めを得て幸福であった。」

(岩波文庫・草間・大和訳)


近所のおいなりさんのきつねさん。なぜか、檻に入れられちゃってる。夜、逃げ出しちゃうのかな。

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                 先日、ゴスペル仲間たちと夕飯を食べていて、ふと言われた。
「日本って、多神教文化じゃない? それでキリスト教徒になると、こーなるっていうか(と、彼女、両手を顔の横に立てて、いわゆる「視野が狭い」というジェスチャー)…、
クリスチャンだからって、日本人なのに、初詣にいかないって人までいるじゃない?そういうのって、どうかなーって思うんだけど…。」
ゴスペル歌ってる君までがそういうか。(追記:ゴスペル仲間の半分くらいはノンクリスチャンで、この友人もその一人)
以前、クリスチャンやってると1年に3回くらい、「日本人なのに」と言われるって書いたけれど、最近、3回どころじゃないね。平均すると1ヶ月に1回くらい?

先日、たまたま初詣のことをブログに書いたこともあって、nikkou、思わず意気込んで「そういう、『日本人ならばかくあるべし』教のほうが、視野が狭いっていうか、閉鎖的で原理主義的だと思う。」と反撃に出て、はっとした。
座がしらけた?
これでは、まったく伝道になっとらんではないか。
そこであわてて、方向転換。
「でもさあ、お稲荷さんにむかって『お稲荷さま。この一年も、つらいとき悲しいとき、常にともにいてくださいまして、ありがとうございます』って言うわけにもいかないじゃない?」と言ってみた。
すると、「あ、お祈りっていうと、そういうのになっちゃうんだ」と言われた。
nikkou、再び、言葉に詰まる。
え。ほかに、どんな祈りがあったっけ。
あ、そうか。「今年もいい年になりますように。ぱんぱん」だった。

―しかし、「いい年」ってなんだ。
今日のヒルティが言うように、わたしにとっては辛く、悲しいことでも、
神の視点から見れば、行く先、わたしが深みのある大きな人間になるために与えられた計画、ということもあるだろう。
だから、「いい年になりますように。――といっても、無病息災でお金が儲かってラッキーな一年、ということではなく、あなたから見て、わたしに有益な年としてください。そして、どのような苦しさ悲しさを与えられても、あなたを信じることをあきらめずに、そのことを受け入れられますように」と祈りたい。

…と、ここまで考えて、ああ、なんて理屈っぼいんだろう、と思う。
この先、また何べんも何べんも押されるんだろうな、「ニッポンジン失格の烙印」
その都度、くどくど理屈を述べるのもあまり有意義じゃない気がする。

nikkouだって日本人だ。
「日本文学」を学び、「日本国語」の教科書を作っている。
好きな仏像、というものもあるし、好きな名僧というのもいるし、好きな神社仏閣、というものもある。
日本という国が、世界に誇る「美しい国」になってほしいと心から思っている。ルワンダやイラクなど苦しみの中にいる人びとに、「どうぞ、日本にきて一休みしてください、そして日本に学んであなたたちの国を良くしてください」といえる国にしたいと心から祈っている。

でもそれにもまして、いや、それゆえに、
明らかにnikkouにまっすぐ向き合ってくれる主イエスが好きなのだ。
そして、クリスチャンであるほうが、「多神教の正統派日本人」であるよりも、カムフォタブルな生き方なのである。
だから、今度は、ひとこと、こう言おうと思うの。

「まあ、そういうなよ。楽しいもんだよ、イエスキリストだけ信じるってのも。」

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January 09, 2007

知識と愛

『眠られぬ夜のために』第一部

「1月8日

あなたの身の上に最善のことが
定められてあると固く信じなさい。
あなたの心がいと安らかであれば、
すべての悩みを免れよう。

その時がやって来るならば、
力強い助けが突然現れて、
あなたの愚かな悲しみを
思いがけなく恥じ入らせよう。
(同胞教会讃美歌636番)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

いい詩ですねー。「讃美歌」とあるからには歌なのね。
どんな曲かわかるのなら、歌ってみたい。

おとといは、今年最初の礼拝。
クリスチャンの友人たちのブログをのぞくと、どこでも素晴しい礼拝がもたれた様子。うれしいことです。

おとといのnikkkouが通う教会の礼拝は、「愛」の話。
イエスの弟子パウロがその手紙のなかで、「愛」と比較しているのが「知識」であります。

「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(第一コリント8章1節)

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このことば、nikkouにはちょっとこたえるんだな。nikkouは知識を集積することが好きであります。もう、快感であります。知らないことを得るということが楽しくて仕方がない。
しかし、これは罪と紙一重であります。
知れば知るほど、無知に気づいて謙虚になる、ということと表裏一体で、
知れば知るほど、傲慢になる。
nikkouの場合、自分より知識の量が多少違う、という人に対して、「この人、よく分からないのに、よくもまあ知ったようなことを言えるなあ」と、つい冷たくなってしまうというか、いらっとしてしまうというか…ええ、悪いくせです。それで、友を失ったこともあります。胸が痛い。

「知識」を越えるものは「愛」だ。
礼拝のメッセージはそこで、医療と福音の話へ。
…イエスは福音伝道と医療行為をセットで行った。彼にとってはどちらも愛の行為であった。
現代、病気は病院で治療を受ける。
「でも、病院での医療行為が『癒し』の全てではない。わたしは」、とここで老牧師、胸を張る。「わたしは、がん患者です。病院で治療を受けている。しかし、みなさんの祈りと聖書のみことばで、さらなる力を得ている。」

「癒し」には、Cure(治療する)とCare(気に掛ける)の二つの面があるそうです。
「Cure」の知識がなくっても、愛をもって「Care」することは、わたしたちにもできる、いや、しなければならない。…というお話でした。

…nikkouたちの教会の礼拝出席者は毎回多くても10人くらい。よく、大きな教会の友人に驚かれるのだけれど、礼拝メッセージのあとのお祈りは、その場で指名される。
「賛美歌124番を歌いましょう。賛美歌のあとのお祈りは……」と礼拝説教のあと牧師が10人ほどの礼拝出席者の顔をみわたして「じゃあ、nikkouさん」てなぐあい。今年最初の礼拝でのお祈りは、nikkouでした。知識に惹かれて、愛をおろそかにしがちな自分を顧み、知識を主の栄光のためにお用いください、と祈りました。
聖餐式のあと、ふたたび、その場で指名のお祈り。こんどはnikkouがひそかに敬愛しているM姉でした。M姉、「nikkouさんが祈りましたとおり、やはりわたしも知識に惹かれる思いがあり、…知にまさる愛をお与えください」と祈り始めた。祈りをひきついで、祈っていく。ゴスペルのアドリブみたいだよね。祈りあうっていいなあ、と思った。

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January 06, 2007

クリスチャンをやめるには!?

『眠られぬ夜のために』第一部

「1月6日

キリスト教が真に命ずるところに従って生きることは、あまりにも困難であり、むしろ全く不可能だという見解が、かなり一般にひろまっている。もしそれが真実ならば、教会の目的、または政治上の目的のためにただ「形式的」に、そんな宗教を守りつづけるよりも、むしろ捨ててしまったほうがよいであろう。(以下略)」

(岩波文庫・大和・草間訳)

ヒルティの面白いところは、こういうぶっちゃけトークだ。
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おととし、ドイツ旅行で、すさまじい傾斜面にぶどうをびーっしり栽培している光景をよくみかけた。足を踏み外したらざざーっと滑り降りて、そのまま川に飛び込んじゃいそうなくらいすごい傾斜なのだ。見上げながら、えらい苦労して作っているんだろうなあ、と思った。
夜、ホテルでその土地のぶどうで作ったワインが出た。「もしこれがまずかったら、町内放送をかけようね」と、相席した日本人の女の子が言う。「なんて?」と聞くと、
「ぶどう作りなんて、やめちまえぇぇぇー!」

主イエスはまことのぶどうの木であります。
おいしいワインができるはず。
ワインがまずかったら、やめちまえぇぇぇー。
…って話でしょ、今日のヒルティ。

洗礼を受けたとき、ある友人から聞かれた。
「クリスチャンになるには洗礼を受ける、として、クリスチャンをやめるには、どうしたらいいの。」
…さあ。
「やめた」と思ったらやめたことになるんじゃない? と言ってみた。

だいたいにして、クリスチャンに「なる」には洗礼をうければいいというものでもないと思う。わがゴスペル仲間には、洗礼をうけていないけれどわたしはクリスチャン、という友人がわんさかいるし、無教会クリスチャンの友人たちにはすばらしい信仰をもった人がたくさんいるし。

このあいだ、クリスチャンの友人たちと新年会をしていて、「クリスチャンとはなにか」という話になった。
友人のひとりが「ぼくが、『お前はクリスチャンじゃない!』って人に言う自由はあると思う。『そんなことをして、それでもクリスチャンなのか!』とかね。でも、その人が『自分には信仰がある。自分はクリスチャンだ』と考えているものを覆す権利はないと思う。その人がクリスチャンかそうでないのか、ということを判断するのは、やっぱり神お一人だけなんじゃないですかね」と言った。
アーメンだな。
「神さま、あなたを信じます」とか、
「神も仏もありゃしねー」とか、
心に浮かぶものを、主はつぶさに見て、判断するんだろう、と思う。

ヒルティ翁、「やめちまえー」といいつつも、最後はちょっと明るい。
「(マタイ福音書5~7章の「山上の垂訓」をまず読んでみろ、という薦めのあとに)幸い、これはだれもがためしてみることができる。しかも、いきなり信じるにもおよばない。いずれ近いうちに、すでに唯物論から離れている多くの人びとが身をもって試してくれるにちがいない。」(前田敬作訳)

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写真は、今日自由が丘のお菓子屋さんで見た「ガレット デ ロワ」。
「キリストが神の子として公に現れたことを記念する日」に食べるお祝いのお菓子だそうです。パイの中に小さい人形を入れて、切り分けたとき人形が入っていた人が、その日、王様としてみんなに命令することができるというお祭りだとか。Nikkou、キリスト教徒だけど、そんな日知らなーい。 でもお菓子はとってもおいしそうでした。

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January 04, 2007

初詣

『眠られぬ夜のために』第一部

「1月1日
…最も偉大な、同時に一般に最もわかりやすい思想というと、現代では、キリスト教という形式での神への信仰である。
しかしまた、古来、萎縮した、あまりに偏狭なキリスト教というものがある。このようなものはキリストの本質と教えに一致しない、といって悪ければ、完全には一致しない。いままでに、こころばえのりっぱな、教養の高い人たちをキリストの教えから遠ざけてきたのは、じつにこのようなキリスト教なのである。
…キリスト教をその源泉において、すなわち、福音書のなかに、とくにキリスト自身の言葉のなかに、もとめるようにしなくてはならない。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

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ことしも、ヒルティ翁の薦めにしたがって、福音書からイエスの言葉を学んでいきたいと思う。偏狭なキリスト教徒にならないようにね。昨年は、初めて聖書通読を終えました。途中からは斎藤孝の三色ボールペンなんぞも使いつつ結構楽しかった。今年は通読表を変えて、また最初から読んでみようと思います。今年使うのは、これ→「聖書通読のすすめ」

200701011539000
さて元旦は家族と近所の神社数箇所に初詣に行きました。運動不足解消もかねて、神社から神社までぞろぞろ歩くのであります。nikkouが子どもの頃から続いている年中行事であります。
とはいえ、nikkouはキリスト教徒になった我が家の突然変異種。神殿を拝むために長く伸びた行列にも、途中までは家族とゲラゲラ笑ってふざけながら並んでおりますが、いざ、拝む番がまわっていると、列を離れて写真などを撮っておりました。
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なにやら念入りに念入りに拝んでいたわが母(←昨年このブログでたいへんな人気を博しました)、nikkouがいないのにハッと気づき、「nikkouちゃん、どうしたの!? お参りしないの!? こっからでもいいから、拝みなさい。ほら、こうして」と、実演までしながら初詣のすすめ。「あ、いや、あたしはいいの。おいなりさんは信仰していないから」と言うと、「えーーーー! しんじられなーい! あんた、そんなにキリスト教にはまっちゃったの?病膏肓に入るってこういうのをいうのねー」と激しく反応。妹たちに「お母さんあんまり言うと、またブログのネタにされるよ」とたしなめられて、「え…? ぷ、ぷろぐ?」「母よ、ぷ、ではなく、ぶ、ブロ…」「日本人なのに、おっかしいわよねー(聞いちゃいない)おかあさんは鎮守の森でいいわー、…あ、でもあんた、キリスト教で、まだよかったわねー、イスラム教だったら、こっちはもっとわかんないものねー」としばらくぶーぶー言っておりました。…というわけで、妹たちの期待にこたえて、ブログのネタにしてみました。

まあ、nikkouなんぞは、まだそんな笑い話程度ですが、ゴスペル仲間からは、「家族の反対にあって教会に行けない」「イエス様を信じていることなんか、家族にいえない」という話をよく聞きます。受洗したことを家族に告げると父は激怒、母は号泣、以来実家に帰れないという友、「私は長女だから檀家を守らなきゃいけなくて…」という友もおります。だからといって「あなた、檀家ってキリスト教徒を締め出すために江戸幕府が考えた制度でしょうに、江戸幕府なんてとっくに滅亡してるわよー」なんて言いたくても言えない。それは、キリスト教がガイジンの宗教であり、檀家制度が人為的に作られた制度だろうがなんだろうが「ニッポン人の正しきあり方である」と信じている人には、何を言っても届かないような気がする、ということを身にしみて分かっているからであります。巌のようにおのが「常識」の上に堂々とそびえたつわが母…ではなく、正しきニッポン人。「ニッポン人の正しい常識」教から、はずれる人にはめっぽう厳しいか、まったく理解しようとしない人びと。クリスチャンはクリスチャン同士結婚したほうがいいよ、というアドバイスは、一理あるよなあ、とふと思った正月でありました。
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nikkou手作り、お正月飾りクリスチャン・バージョン→

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January 01, 2007

よい一年となるよう祈ります

『眠られぬ夜のために』第二部

「12月31日

いままでこうしてわたしとともに歩んでくださった主よ、
おんみはおんみの偉大なわざを最後までなしとげてくださるでしょうか。

愛はすべてにうち勝つ。
(Amor omnia vincit)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

ヒルティの『眠られぬ夜のために』第二部の最後は、
太字で「愛はすべてにうち勝つ」。
この第二部は遺稿なので、彼が死の直前に到達した真理なんでしょう。
でも、「愛」っていう言葉にしてしまうと、彼が伝えたいことの一部分しか表せない気がする。
ヒルティ爺、この一年も、たくさんのことを教えてくれてありがとう。

このブログは、2年前、『眠られぬ夜のために』第一部の3月から始めたので、
完結するために、1月から3月まで『眠られぬ夜のために』第一部に戻ります。
そのあとは、どうしようっかなー。
同じヒルティの『幸福論』に行くか。
内村鑑三の『一日一生』ってのもテだけど。
でも、共有してくださる友人たちのために、文庫になっている本がいいな。
ま、これから考えます。

なんだか色々とやらねばならぬことがあって、
今年はとうとう、自分のアパートで年越ししてしまいました。
これから、実家に戻ります。

2006年を年明けてから振り返りますが、
まあ、次から次へと新しい事が押し寄せてきた一年でありました。
初めて教科書以外の本の編集、韓国旅行、
神さまからリトルライトシンガーズをプレゼントされたこと。
「あの時まで時間をさかのぼって、やりなおしたいなあ」と思うような失敗もありました。
愛(アガペー)はすべてにうち勝つ。
nikkouの醜いところ弱いところ貧しいところを、アガペーが覆ってくださいますように。

ブログを読んでくださったみなさま、思いがけないところで「読んでますよ~」とお声を掛けてくださった思いがけない方、更新が滞るとご心配くださってメールをくださる方、
ブログをきっかけに出会った兄姉、みなさま感謝です。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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