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July 25, 2007

川崎リトルライトのホームページ開設

川崎リトル・ライト・シンガーズのホームページが開設されました。
メンバーのS兄ががんばって作ってくれました。ありがとー。

川崎・リトル・ライト・シンガーズ
(Kawasaki Little Light Singers)

リトルライトは、音楽の専門家が指導してくれているわけではありません。川崎教会牧師(兼・ソウルシンガー)まこと先生が、歌の意味を解説してくれたり、雰囲気や歌い方や英語をチェックはしてくれるけれど、
おおかたは、素人集団のメンバーで額をよせあって、ああでもないこうでもない言いながら、ハーモニーを作り上げていっています。お稽古事や習い事というより、学生時代のバンドやサークルに近い感じね。
でも、だからこそ、一曲仕上がったときの喜びはひとしお。
歌がお好きな方、ぜひ、遊びにきてください。

ちなみに、今度の日曜は、川崎教会にて、賛美礼拝(午前10時半から11時半)です。
nikkouたち若手メンバーが司会をして、みんなでいろんな賛美をしながら礼拝をします。

リトライは、冒頭で、黒人霊歌「Steal away」を歌います。
あとは、「鹿のように」とか、新垣勉さんの歌とか、アルプスの少女ハイジで歌われている賛美歌とか、バラエティ豊かなプログラムを用意しました。
川崎界隈にお住いで日曜日の教会の礼拝というものを覗いてみたい方、リトライはどんな歌を歌っているのか見学したい、という方、ぜひお気軽にどうぞ。

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July 21, 2007

「それでも、いいよ」だなんて都合のよすぎること

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Lyre(リラ)に「眉(まゆ)」という歌がある。

まゆを 寄せて 悩む顔で 歩いてばかりいたら
 足元にひっそりと咲いている小さな花を踏みそうになる

…で始まり、かるくスキップをするような調子で、こう続く。

『私はけっこう強い』そう思っていたけど
やっぱり 弱いままの 私がここにいる
『それでもいいよ』だなんて都合のよすぎることを
ほかのだれでもない イエス様がいってくれた

さて、今年も徳島から、渡り鳥のように、北海道へ渡り、そのまま、すごい勢いで南下する無教会伝道者、吉村さんの礼拝が、本日、八王子で行われるとのことで、nikkou、行ってまいりました。

八王子の、礼拝をしたおうちの、隣家に牛がいました。昔、八王子一帯は、牧場だったんですって。知らなかった。
デジカメもカメラつき携帯電話も家においてきちゃって、残念だった。牛、撮ってブログに載せたかった。

礼拝では、吉村さんが「それでもいいよ」というイエス様のセリフをたたみかけるように、次々と教えてくれた。

イエス様のたとえ話のひとつに、こんなお話がある。
ぶどう園の主人が、労働者を集めに行く。早朝と、11時と、お昼と、3時、そして、夕方にも。夕方になっても、まだ、ぼんやり立ちつくしている労働者たちがいる。「だれも雇ってくれないんです」という。なぜ雇ってくれないんだろう。たぶん、社会的には、無能で、弱くて、役に立たないと思われている人たちだったんだろう。「それでもいいよ」と主人は、彼らをぶどう園に送り、そして、朝から働いている人たちと同じだけ、お給料をくれた。

それから、たとえば、お父さんからお金をもらって家を飛び出した息子の話。使い果たして、なんにも持たなくなって帰ってきたのに、お父さんは、息子を抱きしめて、大喜びした。なにもなくなっちゃったけれど、でも、「それでもいいよ」とお祝いしてくれた。

リラじゃないけれど、都合がよすぎる。あんまりだと思う。わたしは、一生懸命働いてがんばっているのに、なんで、イエス様はそうじゃない人にも、「それでもいいよ」って言っちゃうんだろう。
ずるいと思う。
そして、そう思う一方で、すごく張り詰めている。
いつ、わたしも、誰かに「役にたたない」「いらない」と言われるかわからない。いつ、なにもかも失ってしまうことになるか、わからない。そうなったら、みじめだ。だから、そうならないように、もっと、もっとがんばらなくっちゃ。

「がんばっている、その力さえ、神様から与えられたものだとしても?」
と吉村さんが言った。

がんばって、わたしが得たと思っているものも、じつは、神様が一方的に与えてくれているものなのかもしれない。愛する家族やら健康やら環境やら、わたしが気づいていないいろんなことを。だから、わたしの眼に、「とうとう、本当になにもなくなった」と見えることがあっても、だいじょうぶ。振り返って、「おとうさん、神様」と呼ぶだけで、たくさん愛を与えてくれる。イエス様がそう約束してくれている。

『私はけっこう強い』そう思っていたけど
やっぱり 弱いままの 私がここにいる
『それでもいいよ』だなんて都合のよすぎることを
ほかのだれでもない イエス様がいってくれた

うちに帰って、ふと、思い出して、リラのこの歌をかけた。前から聴いている歌なのに、胸をきゅーっとつかまれるような感じがした。初めて聴く歌みたいだった。
ああ、これが「福音=グット・ニュース」なんだ、と思った。

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July 14, 2007

讃美いろいろ

ハレルヤ。
わたしの魂よ、主を讃美せよ。
命のある限り、わたしは主を讃美し
長らえる限り、わたしの神にほめ歌を歌おう。(詩篇146篇)

先週土曜日の、武義和さんの「讃美とお話の会」から始まって、この一週間、讃美三昧でありました。
振り返ってみると、じつに讃美の形はさまざま。

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日曜日は、リトル・ライト・シンガーズの練習。武さんから教えてもらった「主よ、わがいのち、わがほめ歌」のほか、黒人霊歌の「Steal away(イエスのもとに逃れていこう)」と、同じくトラディッショナルの「Down in the river to pray(川辺に祈りに行こう)」を讃美。トラディッショナル系がリトライの十八番なのです。

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月曜日は、久遠Nu Praiseゴスペルクワイアーのリハーサル。久遠は今、ハングルの讃美が大ブームであります。というのも、9月に、久遠教会にて、韓国のシンガー「トリニティ」を迎えてライブをする予定なのです。申し訳ないけど、まったくのカタカナの羅列にしか見えないハングルを、噛みそうになりながら歌いつつ、神様ってすごいなあ、全世界の言葉を聞き分けるんだなあ、と感心する。

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水曜日は、手話讃美「風の音」の練習。レーナ・マリアさんのCDをバックに、「いつくしみ深き」と「明日も生きよう」を讃美。思い起こせば、手話讃美なるものを初めて見たのが、レーナ・マリアさんのコンサートだったかも。「翼をください」の手話で、本当に空を飛んでいるような手話に目を奪われたのを覚えています。主は当然、手話も聞き(見)分けているんですね。

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木曜日は、シャローム・ゴスペル・クワイアーのリハーサル。ここの讃美が、コードもリズムも一番コンテンポラリー(現代的)。「天使にラブソングを」を見て、ゴスペルが歌いたくって、見学に来ました~という方が、大喜びしていました。「Count it All Joy(喜びと見なそう)」の複雑な構成を乗り越えて、「Joy! Joy! Joy!」の繰り返しが決まったとたん「Hu~~~!!」「yeah!」と歓声を挙げてしまいました。

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そして、金曜日と本日土曜日は、川崎にある「招待キリスト教会」にて、北海道在住のKiKiさんWillieさん夫妻によるワークショップでした。明日、コンサートです。nikkou歌います。18時開演。招待キリスト教会にて。曲目は、「アメージング・グレイス(おどろくばかりの恵み)」と、「プレシャス・ロード(親愛なる主よ)」を、現代ゴスペル風にアレンジしたもの。楽しいです。nikkouの通う川崎教会とは道路一本へだてたところにある教会ですが、ゴスペルが縁で、親しく付き合うようになった。それこそトラディッショナルな雰囲気の川崎教会とは違って、どちらかというとワーシップ中心、そして韓国の方の多い教会です。讃美は個性のちがった教会の兄弟姉妹もひとつにする証しですな。

明日、ライブに出たあと、月曜日は、クリスタル・ビーズのゴスペルライブに行く予定。13時から、新宿シャローム教会にて。パワフルなママさんクワイアーです。

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うちに帰ると、nikkouの相方が、Michiru(みちる)さんの「Love Song」という讃美CDを聴いている。相方に言わせると、Michiruさんの歌い方、声、コード進行、ドラムの入り方、曲の終わり方にいたるまで、「70年代後半生まれ、80年代育ちの男子にはツボ」だそうです。80年代?ビックリマンチョコとスーパーマリオとガンダムな感じでしょうか。ちょっとアニメソングっぽい。80年代男子の方、ぜひどうぞ。

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そういえば、最近、わがゴスペル仲間、美由紀ちゃん、京子ちゃん、ギルバートの三人で、「演歌ゴスペル」のCDを出しました。nikkouも早速購入。なんかのパロディみたいなのではなく、ちゃんと演歌で、ちゃんと讃美でした。

MichiruさんのCDを聴きつつ相方がいうには、「普段の自分のままの音楽で讃美ができると、気持ちがリラックスできる」とのこと。

言うまでもなく、讃美歌は輸入ものなわけで、「めでた、めでた~や~、はぁ、よいよい」な音楽を歌っていた日本人には、ちょっとめずらしく、ともすると気取った音楽だったんでしょう。「めでた、めでた~や~、はぁ、よいよい」な讃美歌が生まれていれば、日本でのキリスト教の位置もまた変わっていたかなあ、と思ってみたりもする。黒人さんたちが、自分の音楽で、讃美を始めたようにね。

こんなにいろんな讃美を歌っていて、じゃあ、nikkouはなにが好きなんか?と言われたら…どれも好き。というか、そのときの気分による。
で、そのときの気分の一番リラックスできる音楽で讃美するのが、一番、自分にあっている信仰のありかたな気がするのです。だから、「マタイ受難曲」もすばらしいですが、たまには演歌だったり、80年代ポップス風だったり、コンテンポラリー洋楽風だったりしながら、「とこしえに喜び歌い」(詩篇5篇12節)たいと思うのであります。

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July 10, 2007

イエス様しか言っちゃいけないことば

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章2節3節(小林稔訳 岩波書店)
「ラビ(先生)、盲目で生まれたからには、だれが罪を犯したのですか。この人ですか。それともその両親ですか。」
イエスが答えた。
「この人が罪を犯したからでも、その両親でもなく、彼において神の業(わざ)が顕れるためである。」

先日の武義和さんのワークショップに、交通事故で九死に一生を得た、という若い男性が参加していた。
この彼が、「交通事故を通して、自分はイエス様に出会った。交通事故がなかったら、一生キリスト教とは縁がなかったかもしれない」と言った。
すると、それを受けて、武さん、「今の彼のことばは、本当にすばらしくって、僕は胸を打たれたけれど、でも、僕が彼に、『君は、イエス様に出会うために交通事故にあったんだね』なんて、絶対言っちゃいけないんだよね。」と言った。
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そして、続けて、こんなお話をされた。
武さんは新垣勉さんという盲目のテナー歌手と親しく、新垣さんのドキュメンタリー番組の音楽担当をなさったりしているのだけれど、この新垣さんが、あるとき、ある牧師からこういわれたのだそうだ。
「あなたは、目が見えなくなったことによって、神様の栄光を表すことができるのですね」

たしかに、主イエスは、盲目の人にこう言っている。「この人が目が見えないのは、この人の罪ではなく、両親の罪でもなく、神のわざが顕れるためである」

しかし、新垣さんは、この牧師からそういわれて、「すっごくむかついた」んだそうだ。
武さんは言う。
「その言葉が言えるのは、イエス様だけだ」

nikkouは、今から7年前、4姉妹の末の妹を亡くしているのだけれど、当時、それを知ったクリスチャンの友人が、さかんにnikkouを教会に誘った。(新大久保にある、とっても大きな教会で、今でもゴスペルのイベントでちょくちょく行く。)
そんでもって、その友人が、nikkouにこういった。
「妹さんが亡くなったのは、nikkouちゃんがクリスチャンになる、チャンスだよ」
…怒髪天をつく、なんて言葉じゃ足りなかったですね。
この人に不幸があればいいのに、と思った。
そして「よかったわねー、チャンスねー」と言ってやりたい、と思った。
そして、決めた。
わたしは、一生クリスチャンになんか、ならない。
死んでも、ならない。
……なっちゃったけど。

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先日、金沢洵『人間の叫び』(聖母の騎士社)という本を読んだ。この著者は、カトリックの方なのだけど、すんごい勢いでプロテストしている。
この方は脳性まひという障害を持っている。
あるとき、身なりのよいカトリック教会のご婦人から「おうらやましい」と言われて
「なら、変わってあげましょうか」と言い返したんだそうだ。
たしかに、主イエスは障害を「神のわざを顕れるため」と言ったけど、そのあと、その障害を取り去られた。一生その障害を背負って苦労して生きよ、とは言わなかった。主イエスのように障害を取り去ることもできない、ただの人間のくせに、障害がうらやましいなんて言うな、と。

神が、人とコミュニケーションをとるために、その人にとって不幸と感じられるようなことが与える、というのは事実だと思う。
でも、それは、本人が神様との個人的関係のなかで知るものだと思う。人ができるのは、せいぜい、聖書を見せて、こういう考え方もあるよ、と言ってあげる程度だと思う。
そして、本人が「私に神のわざが顕れている」と証言したとき、心から、その栄光をたたえればいいと思う。

ちなみに、例の、イエスから「神のわざが顕れるために」盲人である、と言われた男の話、じつは、後日談がある。
イエスによって目を開かれた男、その後、迫害にあって、社会復帰できなかったのである。「お前は全身罪にまみれて生まれたのに」なんて、当時の宗教者からひどいことを言われる。両親にさえ見捨てられる。もし弱い人だったら、絶望して死んじゃうかも。しかし、その状況を聞き知ったイエスは、彼を探しに行くのである。

「イエスは人々が彼を外へ追い出したことを聞くと、彼を見つけだして、言った。
『あなたは人の子(イエスのこと)を信じるか。』」(ヨハネ9章35節)

nikkouは、世間から見捨てられたと聞いて、必死になって彼を探し回っているイエスを想像する。彼が無事であるのを見つ出したとき、イエスは、ほっとしたかもしれない。きっとうれしかったと思う。(その辺のことは、ヨハネは書いていないから、nikkouの想像ね。)
「あなたは人の子を信じるか」というのは、「人の子(イエス)があなたの味方だってことを信じるか」という意味ではないかとnikkouは思う。
人の弱さ・罪深さと、社会的偏見などモノともしないイエスの強さ・大きさの対比が、じつに面白い一章なのであります。

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July 08, 2007

両手を挙げて歌う

わがいのち わがほめ歌(ノルウェーの讃美 武義和:日本語詞)

主よ わがいのち わがほめ歌
すべて あなたにささげます
主よ わがいのち わがほめ歌
すべてを あなたに

Jegvil prisedeg
両手をひろげて たたえます めぐみの主を
かなしみの日も なやむときにも
わたしには あなたがいる
どんなときも


7日は、今井館聖書講堂にて、武義和さんによる「讃美とお話の会」でした。
ノルウェーで歌われている讃美を武さんが日本語詞に訳したものとか、水野源三の詩に、武さんが曲をつけたものとか、すごく気持ちのよい歌をたくさん歌いました。
讃美は、本当に、心を解放するね。
歌いながら、胸がいっぱいになりました。

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nikkouは「わがいのち わがほめ歌」という歌が一番よかったな。
泣きそうになった。
その中の一節「Jegvil prisedeg(ヤイビル プリーセダイ…主をたたえます、という意味)両手をひろげて たたえます めぐみの主を」というところで、ノルウェーの人は、本当に両手を挙げて、天にひろげて歌うんですって。
アメリカの黒人教会の人たちと同じだ。
そういえば、韓国教会の人も、手を挙げるよね。

nikkouは、ゴスペルを始めたとき、あの、手を挙げて歌う、というのが、どうも恥ずかしくってできなかった。まだ、曲の振りつけとしてみんなと一緒に「手を振る」というのならできるのだけれど、歌いながらクライマックスのところで、両手なり片手なりを、天に差し伸べる、という動きが、どうしてもできなかった。これは振り付けじゃなくって、あくまでも自主的な表現、歌っている自分の心の表明なわけなのだ。

ひろこちゃんというディレクターが「わたしも、最初のころ、手を挙げると、わきのところがなんだか無防備な感じがして、すごく歌いにくかった」と言っていた。ひろこちゃんは、いつも、讃美の気持ちで胸がいっぱいー、という感じで手を挙げるから、意外な気がしたものだ。

考えてみれば、日本の音楽文化って、手を挙げて歌う、ということが、まったく、ない。
学校の音楽の時間は当然、カラオケだって、ポップスだって、両手を天にさしのべて歌う、ということはない。本当に、文化として、全然ないんだ。黒人教会では、大人が総立ちで手を挙げている間を子供たちがちょこちょと歩き回っているから、手を挙げて歌うのは、まったく自然なことなんだろう。
だから、日本人が讃美のときに、手を挙げて歌うのに、抵抗がある、というのはごくごく当たり前のことだと思う。

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nikkouは、クリスチャンになってから、だんだん、手を挙げて歌うようになった。ゴスペルの歌詞や旋律が、そういう表現によく合うようにできている、ということが、頭と体で理解できるようになってきたんだと思う。
一度友人から、「コンサートで客席から見ていると、nikkouちゃんってすぐわかるよね。手、挙げてるから」と言われた。あとで、ビデオを見たら、ほんと、一番最初に手を挙げていた。っていうか、くねくねとへんな踊りを踊っているように見えたよ。ひええ、これが、nikkouの心の表明か。

そういえば、ノンクリスチャンのゴスペル仲間から「手を挙げるのはなんで?」と聞かれたことがある。
なんでだろうね。
今日、武さんに「わがいのち わがほめ歌」を教えてもらって、一緒に讃美しながら、nikkouは、もう、立ち上がって、手を挙げて歌いたくって、仕方なかった。アメリカの歌でも、日本の讃美歌ですら、ときどきそういう気持ちになることがある。
そういう歌に共通するのは、たんに、歌詞で「I lift my hands」と言っているだけじゃなくって、歌詞や旋律が、空に、というか、天たかく存在する主に向かっている、ということだ。

手の届かない、あのかなたに、手を伸ばそうとするような、
天におられる、わたしの大好きな、あのひとに手を振るような、
天から光のようにふりそそぐ、あのひとからの愛を体いっぱいに浴びようとするような、
そんな気持ち。

あるゴスペル仲間は、歌がクライマックスになると、胸をひらいて、両手を斜め下に、まるで風を受けるような姿勢になる。この人はクリスチャンじゃないんだけれど、でも、たしかに、なにかを受けとめているんだなあ、というのがよくわかる姿勢だ。すごく気持ちよさそう。日本人のジェスチャーとしても自然だし。

歌詞や讃美歌集を両手でお行儀よく持って、きちんと立って歌う、という歌い方に慣れていると、なかなかやりにくいんだけれど、
手を挙げて歌う― 一度やってみると、気持ちよくって病みつきになるよ。

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