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November 19, 2007

小説について

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『サフラン・キッチン』『カブールの燕』に触発されて、『テヘランでロリータを読む』を読んだ。
今度は、ノンフィクション。
イランではホメイニーによるイスラーム革命以後、人々の生活が大きく抑圧されるようになるのだけれど、そのあおりで大学の職を追われた英文学の先生が、自宅でこっそり女学生たちとともに英文学を読んだ記録である。

なかほどまで読んだところで、あれ、どこかで読んだ状況と似ているぞ、と思う。
…あ、あれだ、『ワイルド・スワン』。中国の文化大革命を描いたノンフィクション。
ホメイニーのイスラーム革命は1970年代、中国の文化大革命は1960年代で、ちょっと遅れるけれど、まねしたのか?

しかし、イランにせよ中国にせよ、かつて世界的な文明を誇った国が独裁化するにあたって、そうした過去を否定するかのように、暴力的に文学や芸術を抹消しようとするのはなぜなんだろう。

イランはイスラーム国家だけど、
不肖キリスト教徒のnikkouだって、「聖書以外の書物、特に文学を読むことを禁ず」なんて法律の国なんかにいたら、速攻、亡命する。
…と、言ったら、相方が、自分は文学を読まなくてもなんの痛痒も感じない、てなことをほざいた(←nikkouまだちょっと怒っている)。
そういえば婚約中にも、
某作家について「同時代人であることを幸せに思う」とnikkouが熱く語ったら、「小説など読むなんて、時間の浪費だ」というようなことを相方が言い放って、大喧嘩になった。
あの喧嘩をもう一度かと身構えたところ、
「まあ、nikkouさんの文学観と、俺の文学観はどうも違うようだから、話し合いにならないよ」と逃げられた。

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今、nikkouは教科書編集部にいて、教科書編集の時期になると、高校生に読んでほしい小説とはなにか、ということを会議で議論し、たくさんの小説を読む。
そんなこんなで発掘した小説の新教材を携え、学校に営業に回ると、
面白いことに男子校の100%で言われる。「うちは男の子だから、小説がわかんないんだよね」。
で、女子校の100%で言われる。「うちは女の子だから、小説ばかり読むんですよ。」
…小説の好き嫌いに男女差があるものなのか?
イスラーム社会では男性に圧倒的な支配権があるらしいけど、女性を抑圧するのと同じ理屈で小説を排斥するのか?

あるベテランの国語の先生がnikkouに言うには、文学の好き嫌いなんてのは、後天的なものだそうだ。
文学を楽しむ家庭環境にいなかったか、最低最悪の国語教師に文学の世界の喜びを奪われたか、どっちか。
たしかに、小説家も詩人も文芸書編集者も男女とも同率くらい(?)いるように思える。
身近なところでは、nikkouの父は文学が好きで、どっさり積もった本で家はいつも薄暗く、床はぬけそうだった。
そんな環境で育った娘たちは、外出時、化粧ポーチは忘れても文庫本は忘れない人間に育ったので、やはり後天的なものかもしれない。
(相方のほうは図鑑や科学読み物ばかり与えられて育ったんだそうだ。)

男は生まれつき文学がわからない、というものではないのだ。
当然イランにだって、文学好きの男もいる。
そして、文学を好きになると、他者を抑圧することは不可能になる。
なぜなら、よい文学は、いやおうなしに、自分とは全く違う他者の痛み、他者の悲しみ、他者の喜びを、まるで自分のもののように体験させる力を持つものだから。
だから、文学に惹かれた男たちが、葛藤し、反発し、あるいは現実との戦いに敗れ虚しく引きこもっていく様子も、確かにこの本には描かれている。

そして、女たちは、
学ぶこと、働くこと、人を愛すること、人前で笑うさえことも禁じられた女たちは、それこそ必死に、命がけで文学を読む。
その喜びは、あまりにも鋭く、あまりにも深く、
わが身に引き比べて、なんだか恥ずかしくなる。
岡真理さんのいう、イスラームの女性は哀れで愚かな存在なんかじゃない、というのは本当だ、ということがよく分かる。
彼女たちは、いつか、内側から、社会を変えるかもしれない。
だから、今わたしにできることは、彼女らに同情すること、優越感にひたることじゃないんだな。
どうすりゃいいのかわからないけど、たとえばただ、じっとその彼女たちの状況を心におぼえておくことも大事かなと思う。

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November 12, 2007

イエズス会でゴスペルを歌う

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11日、日曜日、カトリックのイエズス会修道院のなかにある、退職した神父さんたちのお住まいで、ゴスペルを讃美してきました。

まあ、ノンクリスチャンの仲間たちや、わたしのようにあまり教派に興味のないクリスチャンからいうとどうでもいいことではありますが、
一応解説しますと、ゴスペルとは、アメリカ南部の黒人教会発祥のプロテスタント音楽なのであります。
だから、修道院のなかでゴスペルを歌うというのは、ちょっとめずらしいことのようです。
たしかに、ゴスペルを歌うのは、プロテスタント教会がほとんどです。
でも、日本でゴスペルが流行り出したのは、カトリック教会を舞台にした「天使にラブソングを」でありました。
また、nikkouのゴスペル仲間にはカトリックの友人たちも何人かいるし
三軒茶屋教会のようにゴスペルの練習会場になっているカトリック教会もあって
要は、主を讃美するのに、教派は関係ないのだと思っています。

さて、nikkouが到着したとき、すでにコンサートは始まっていて、中盤から参加することになりました。
かなりのご高齢の方が多いと聞いていましたが
たしかに、最前前列の方は車椅子でした。
そして、ほとんどが、外国から日本に伝道にいらした方たち。
長年、日本での伝道に尽くし、今、日本でその余生を送っておられるということです。
何十年ものお仕事を終えて深いしわの刻まれたお顔を、
天に向け、眼をつぶり、仰ぐようにして聴いておられる神父さん、
腕組みをして、うんうんうなずいておられる神父さん、
終始にこにことわたしたちの顔を見回しておられる神父さん、
ピアノ演奏を熱心にみつめておられる神父さん、
ふらりと入ってきては、ふらりと出て行かれる神父さん(認知症で、徘徊中だとか)、
みな、それぞれの想いのなかで、聴いておられる様子で、
思わず胸があつくなりました。

「Psalm89」「Total Praise」「目をあげて」「Until we meet again」「Joy」と、アンコールで「大切な人」を讃美。

一曲終わるたびに立ち上がって、「ブラボー!」とすばらしい巻き舌で歓声を送ってくださった神父さんは、スペイン出身。
200人の聖歌隊を指揮していたこともあるのだ、
とコンサートのあと、わたしたちに「アーメン・ハレルヤ」という歌をシェアしてくださって、
見事に指揮をしてくださいました。
そして絶えずジョークを言い続けてみんなをおおいに笑わせてくれました。
「みなさん、がんばってくださいね!」
「神父さまも。」
「あたしは、これ以上がんばったら、死んじゃうから、がんばらない」
だそうです。
最後にひとりひとりを暖かくハグして、見送ってくれました。(写真はそのとき撮ったもの。ちょっとわかりにくいけど)

あとで聞いたところでは、この神父様、わたしたちの顔を見るなり、
信徒を牧会していた日々を思い出したのか、急にかくしゃくとなり、
ユーモアたっぷりにもてなしてくださったのだそうで、
普段は、すっかり霞の中に沈んだようになっておられるとか。
あの陽気なご様子からはちょっと信じがたい気がします。
この日が、お互いよいひとときとなってとてもうれしく思います。

「また来てください」と何人もの神父さんたちから握手を求められました。
また行きたい、と心から思います。

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November 05, 2007

イスラーム世界の恋

彼らがしつこくたずね続けていると、彼(イエス)は身を起こして、彼らに言った。
「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネによる福音書8章7節)

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アラブ文学の研究者で、第三世界フェミニズムの論者でもある、岡真理さんという学者さんが、『彼女の「正しい」名前とはなにか』(青土社)という本のなかで、
イスラームの女性に対して、
「あなたたちは古い因習に抑圧された気の毒な方たちだ」
という言い方をしたり、
彼女たちをその抑圧から解放するように求めるキャンペーンを叫んだりすることは、
誇り高き彼女らを、傷つけることなのだ、という意味のことを書いている。
もしその世界の価値観が打ち破られるとするなら、
彼女たちの意思で、また彼女たちの力でなされるべきであって、
「第三世界」からの搾取から成り立っている「先進国」の人間たちが、自省することなく強制的に変化を要求するなんてのは、
逆に彼女たちを貶めることだ、と。

それを読んだときは、なるほどなあ、気をつけなければなあ、と
素直に思ったのに、
ここんところ、立て続けにイスラーム圏の作家の小説を読んで、
激しく揺さぶられている。

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ヤスミン・クラウザー『サフラン・キッチン』(新潮社クレストブックス)。
綺麗な表紙に惹かれて買ったのに、
なかなかショッキングな内容だった。
作家は、母親がイラン出身のイギリス人である。

ヤスミナ・カドラ『カブールの燕たち』も読んだ。
タリバン政権のもと、混乱のカブールでの、二組の夫婦の衝撃的な生き方が描かれる。
この作者はアルジュリアの軍人だった人で、現在フランスに亡命。

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いずれも、人々―とくに女性に
対して、あまりにも苛酷な状況に思えてならない。
前近代的、非人道的、抑圧的、理不尽で、野蛮で、暴力と差別に支配された、暗く貧しい世界…
そうとしか言いあらわしようがないのではないか、と
思わずこぶしを握りしめてしまうような、そんな世界。
日本も「格差社会」になりつつある、なんていうけれど、
ここに描かれているのは、本当の「格差社会」、
生まれた家や性別や環境によって、与えられるチャンスも、生きていく道のりも、あらかじめ厳然と定められている社会。
裁くな、という言葉を反芻して、
岡真理さんの忠告に従おう、と思いつつ、ただ、胸はちくちくと痛む。
もう、ほんと正直言って、「イスラームに生まれなくってよかったなあ」と思っちゃうもんね。

で、ありながら、
『サフラン・キッチン』の主人公、マリアムは、ロンドンでは見つけられなかった深い愛を、イランの大地で取り戻し、
『カブールの燕』では、ひとつの恋に激しい祝福が、命がけの祝福が、与えられる。
自由に恋をし、自由におしゃれをし、教育でも職業でも、チャンスは与えられるべきものとしてある社会では、きっと得られない、激しい恋と激しい祝福。そして、抑圧を跳ね返す、愛への渇望。
激しすぎて、呆然とする。

『サフラン・キッチン』なんて、会社の昼休みに読み終えちゃったもんだから、午後はしばらく仕事にもならずに、ぼーっとしてしまった。

『カブールの燕』では、石打ちの刑のシーンがある。
聖書にも出てくるんだよね、石打ち。まさに姦淫の現場を押さえつけられた女に対して行われようとする。現代でも、親の決めた結婚相手以外の男に恋をしてしまったイスラームの女性は、姦淫の罪を犯したとして、殺されてしまうらしい。
ああ、そうだとすると、この聖書の「姦淫」の女というのは、
たとえば30歳くらい年上の夫に、強制的に嫁がされて暴力と差別を受けていた中で、本当の恋を見つけてしまった人だったりして。―小説の読みすぎかな?
イエスはこの時、「罪のないものから石を投げよ」と言い放って、人々をたじろがせてしまうのだけど。

聖書の中の、古代の言い回しでさっくり書かれている石打ちの刑とちがって、
現代小説において、現代を舞台に描かれる石打ちの刑というのは、けっこう壮絶で、
nikkouの想像の棒高跳びバーなんか、楽々はるか天空へ飛び越えちゃう感じだった。

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