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April 20, 2008

ゴスペルが広まるまで

一年前、nikkouが今井館聖書講堂という無教会の施設で証し(イエス・キリストについてのスピーチ)をした「若者と語る信仰と現代」の記録が届きました。下記の形で購入できます。nikkouの証しも掲載されています。ご興味のあるかたは、ぜひどうぞ。

「女の視点で語る」

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Dscn0717 一冊700円(送料込み)

購入希望の方は、郵便局の払い込み用紙で下記にお願いします。

口座番号 00110-4- 141098

加入者名 今井館ウィークデイの集い

ご依頼人 住所 氏名 電話番号

      

通信欄には冊数をお書きください。

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証しの前に、リトルライトのメンバーで「This little light of mine」(わたしのこのちいさな光を)を讃美したのですが、
まあ、わりに好評を得、「無教会の人たちはゴスペルを聴いたことがない、って聞いていたけど、わりと柔軟なのね」と驚いたものでした。
ところが、今回、この冊子を見ると、シンポジウムの聴衆からの感想がいくつか載っていて、
そのなかに、ちゃんと(?)「違和感を感じた」という感想がありました。
まあ、そうだろう。
だいたい、ご高齢の方はそうおっしゃる。だから、それには驚かない。
ただ、ちょっとびっくりしたのは、
「かつて無教会から派生したあるカルト団体を思い出した、nikkouが、今後そのようなカルトの道に進まないよう祈る」という趣旨の一文があったこと。

8412902742qz7_2 今、少なくとも関東地方では、日本キリスト教団でも、アッセンブリー教団でも、バプテスト派でも、なかにはカトリック教会でもゴスペル・コンサートを行ったり、教会にクワイアー(ゴスペルの合唱団)を持っていたりしている。
ゴスペルがカルトなら、日本のキリスト教はすっかりカルト化していることになる。
ゴスペル発祥の黒人教会や、お隣の韓国の教会だって、讃美は熱情的だ。それをカルト的だと言ったら人種差別になりかねない。
もちろん、音楽的には好きじゃない、という人もたくさんいる。
でもそれは、「賛美歌って文語で意味わからないし、旋律も辛気臭い」という人がいるのと同じレベルで、単なる好みの問題だ。
信仰とはまったく別問題だと思う。

聖書でいえば、マリアムやダビデは踊り、イエスは、エルサレム入城の際、叫び喜んで迎えた人たちに、「彼らを黙らせれば石が叫びだす」とジョークを言った。
なぜこの方は、ゴスペルを聴いて、カルトと結びつけてしまったのだろう。

しかし、あとでふと、思い出した。
じつは、教会だって、つい5~6年くらい前までは、ゴスペルに対する風当たりは相当強かった。

001 nikkouが初めてゴスペルを歌ったオアシス・ゴスペル・クワイアーのオーナーだった羽田さんは、
ゴスペルスタジオを始めるというので、教会の人たちから激しく非難され、一時教会に通うこともできないほどだった、と聞いている。
そういえば、nikkouがゴスペルを始めたころ、スタジオの入り口に「飲酒は罪です」と書いたプリントが大量に積まれていて、
歌ったあと、仲間たちと飲み屋でごはんを食べるのを楽しみにしていたnikkouはいや~な気持ちになったものでした。
あれは、羽田さんの教会のひとたちのさしがねだったのではないかと思う。
しかし、やがてオアシスで主イエスに出会う若者が増え、羽田さんも教会にみんなを誘ったり、教会でのコンサートを企画したりするうちにわだかまりも解け、
オアシス解散後は、羽田さん、その教会でのゴスペル・クワイアーの立ち上げに尽力したそうである。

nikkouと同じ時期にクリスチャンになったTちゃんは、最初カルチャーセンターでゴスペルを知り、地元の教会に「おたく、教会でしょ? ゴスペルやってないの?」と乗り込んでいったというツワモノ。
やがてその教会で受洗、教会付属の幼稚園のお母さんたち中心のゴスペル・クワイアー設立にたずさわることになる。
ところが、牧師を筆頭に激しい抵抗にあい、まあ、Tちゃん、しょっちゅう疲れたり怒ったりしておりました。
ところが、いまやその教会は地元一のゴスペルの拠点となり、礼拝での讃美はもちろん、アメリカや韓国からゴスペルのスターたちを招聘、
その際の牧師のメッセージは聖霊に満ちたすばらしいものとなった、とTちゃんは断言する。

071014_14460001 nikkou自身は、というと、
まあ、あまりそういう苦労はしてないのね。
川崎教会は、牧師のティーチャー(←愛称)がゴスペルを歌う人だったから。
でも、ティーチャーがアメリカ留学からゴスペルをたずさえて帰国したときは、両親や、教会の人たちはだいぶ戸惑ったらしい。
しかしそれも、nikkouたちがゴスペルを通じてイエスに出会い教会に通い始めることで、すっかり見直して、
いま、みなさんリトルライトを熱心に支えてくださっている。

羽田さんも、Tちゃんも、ティーチャーも、よく戦ったなあ、と思う。
それはたぶん、彼らがゴスペルがカルト的なものじゃない、本物の福音だ、と魂で分かっていたから、
そして、自分たちの居場所、ホームである教会を愛していたから、できた戦いなんだと思う。
彼らは一様に、精神的にとても成熟していて、揺るがない固い信仰をもち、よく聖書を読み、とても祈る人たちだ。
「ゴスペルで得た信仰は一時的な感情におぼれた怪しいものだ」という周囲の思い込みを砕いたのは、
彼らの熱心な祈りと、真摯に聖書を学ぶ姿勢によるものだと思う。

さて、無教会の人たちに、今nikkouはそのような戦いをすべきか。
しばらく考えたのですが、まあ、ありえないだろうな、と思った。
まずはマイ・ホーム、川崎リトル・ライト・シンガーズを成熟させていかなきゃ。

でも、もし、20代、30代の無教会の人が、「自分の集会の礼拝でゴスペルを歌いたい!」「無教会クリスチャンの仲間を募ってゴスペル・クワイアーを作りたい!」と思い立ち、
また、よく祈ってそのように示されたなら、nikkou、協力を惜しみません。いつでもご連絡ください。
そのときには、一緒に祈り、聖書に学び、心のままに讃美することで、どんなに壁が厚かろうが、抵抗の風が激しかろうが、ともに乗り越えていくよ。
でも、nikkou自身が先陣を切ることはないので、君ががんばってください(って、誰に言ってるんだ、あたし?)。

(2008.4.20)

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「4 ゴスペル」カテゴリの記事

Comments

俺もコード表なんか勉強したらハモれるようになるのかな?
ハモっているときの人の声はとても美しい。
これぞ神様からの贈り物という気がするね。
ゴスペルは聴きなれないとどうしても違和感を感じるのだろうなあ。
俺自身、中学生だった頃、お金もなくて、レコードもなかなか買えないので、ただラジオから流れてくる洋楽を、意味なんか解らないのに熱心に聴いていたよ。
しかし讃美は言葉を通して意味がわからないと神様への讃美にならないからなあ。
日本語のゴスペルでもゆっくりギターあるいはピアノを弾きながら主に語りかけるゴスペルはいいよね。(俺自身の感想)
逆に日本語でもドラムや電子音でビートが激しいものは言葉が聴き取れなくて気持ちが悪い。
人それぞれ違うリズム感みたいなものをもっているのだから、ゴスペルに限ってカルト的というのは違うと思うなあ。

Posted by: Graham | April 20, 2008 at 11:40 PM

音楽的好みは人それぞれだからな~
でも自分の好みじゃない賛美を「カルト的」って決め付けちゃうクリスチャンは逆に問題っていうか病んでるような気がする。
牧師が、ぶれない芯を持ちつつも心の幅が広いと、教会の賛美の幅も広がる。
ウチの教会は幸いなことに、クラシカルな聖歌・賛美歌とガンガンのゴスペル、ワーシップソングが共存しているから幸せだよ。
神様は「あらゆる方法で賛美せよ!」っておっしゃってるからね。賛美する曲のジャンルは、人間の好みで良し悪しを決めることじゃないんだよね。本来は。

Posted by: たま | April 21, 2008 at 10:27 AM

Graham兄
>ハモっているときの人の声はとても美しい。
>これぞ神様からの贈り物という気がするね。

アーメン。
そう言われてふと思ったのだけど、そのときのリトライの歌があまり上手ではなかったのではなかろうか。ハーモニーもいまいちで、リズムもばらばらで、歌詞の説明も不十分だったか、あるいは発音が明瞭でなくて、伝わらなかった。だから神様に最上のものを捧げている様子も、讃美を心から喜んでいる様子も伝わらず、ただわいわい騒いでいるだけのカルトに見えたのかもしれない。だれが聴いても、「これは、神にむけての喜びの讃美だ!」と納得させられる讃美でなければならないのでは、と反省しました。

あとで無教会の人に聞いた話では、無教会からカルトが派生したとき、刑事事件にまで発展してしまって、そのことが、無教会の人たちは激しいトラウマになっているんですって。だから、矢内原忠雄とか塚本虎二がやっていたような「正統」な礼拝以外の礼拝をみると、拒否反応を起こしてしまう。そのトラウマに配慮してあげたほうがいいよ、といわれました。
なるほど。

Posted by: nikkou | April 21, 2008 at 10:29 AM

>たまちゃん

そう、讃美はいろいろ。
アフリカで太鼓をたたいて讃美している人に、チェロでバッハを演奏しなきゃ、讃美じゃない、と言ったら、ナンセンスだよね。
「わたしはこのような讃美はあまり好きじゃありませんでした」というのは、OKだと思うの。
そういわれることは少なくないし、
nikkouも苦手なジャンルってあるし。

ただ、今回に関しては、
ゴスペルを初めて聴いて、
カルチャーショックを受けた、ということも
その方にとって良かったことなのかな、とも思っていたりする。

池袋は本当に恵まれているよ。
nikkouの教会も、ゴスペルと讃美歌が共存していて、幅広い世代が、ありのままの自分で讃美を捧げられる。
人間って、こんなにいろいろなんだけど、それは主が創られたからなんだな、と思わされるよ。

Posted by: nikkou | April 21, 2008 at 10:38 AM

nikkouちゃん
とても考えさせられながら読みました。

>ただ、今回に関しては、
>ゴスペルを初めて聴いて、
>カルチャーショックを受けた、ということも
>その方にとって良かったことなのかな、とも思って>いたりする。

それこそ、主が出会いをコーデイネイトしてくださったってことだとおもうよ。

先週のTVOPのリハで、「みことばに生きる」の賛美のあとで、一人の姉妹が証してくれたの。
教会を替わらなくちゃいけなくて悩んでいたとき、みことばに後押しされて教会を移った結果、ゴスペルに出会ったという証だったよ。「前の教会にとどまっていたらきっとゴスペルを歌うことはなかった」って。

すべての人が主の前に心を解放されて自由になれますように。
そのときできる最高の賛美をささげることができますように。

nikkouちゃんの働きに感謝です。

Posted by: けくちゃん | April 22, 2008 at 10:35 AM

 音楽は音が楽しい、幼児も喜ぶものだけど
、原始の初期教会は今のように荘厳に楽器を
つかったりしていなかった。もっと、まずし
い、虐げられた人から取り上げられて、社会
的に高い立場に立つ人に荘厳な部分が強調さ
れて価値あるものにされたように思う。

 音楽を用いることを示された人の働きを強
調して用いるのは本当に良い働きか疑問を感
じる。もっと、地道な必要を満たす働きにも
目を向けないと、なにかの歪みを実感として
覚える。ほんとうにを望む人が適切な時と場
所で用いるのは良いと思うけれど、必ず教会
が用いないといけないというのは些かバラン
スに欠けているように感じます。そのひとの
必要が音楽で無い場合には、ただの苦痛でし
かないのではないでしょうか。

Posted by: ごんた | April 23, 2008 at 02:58 AM

賛美歌は説教の延長で、説教そのものです。
重要なのはリズムではなくその内容で、その意味では楽譜なしでも賛美歌です。作者がどんな思いでその叫びを書いたか、よく噛み締めて神に感謝します。
表現方法はいろいろあります。単なる詩の朗読からクラシカルな旋律、そしてロックまで。
最も危険なのは曲に飲み込まれ、本来の意味での賛美を失うことです。雰囲気に飲まれることです。歌って気分そう快とは炭酸飲料を飲んでいるのと同じで、その場限りの自己満足です。曲がモダーンになればなるほどその傾向にあります。
ゴスペルというものをTVかあるいは映画の中でしか見たことがありませんが、バッハがいかに罪と格闘して曲を作り出したかを思うと、ゴスペルはいかにも表層的な感じを受けます。実際にはそうではなく、罪の苦しみの中から生み出された曲であり、詩であるとは思いますが、私は現行賛美歌で神を賛美するのに足りています。
ゴスペルは消えうせても、ルターやバッハ、ウェスレーの賛美歌は永遠です。
批判、非難しているのではなく、単なる平信徒の感想です。
ところでゴスペルには定義があるのでしょうか。アメージング・ラブは賛美歌に載っていますが、ゴスペルなのでしょうか。その辺からして素人の感想です。

Posted by: 朗読 | April 23, 2008 at 05:18 AM

人の日記ですみません!
いろいろな視点で考えたり感じたりされる方がいるのだと、学ばせていただきました。

それぞれの人のケースがあって、お互い認め合えたらよいですね。
どのような状況に、どのような音楽に神の愛を感じるのかは百人百様。自分とちがうからといって相手を裁くことはないですよね。
私のように、唯物論がちがちの人間が、ゴスペルを通して主の愛にふれ、信仰に招かれたものもおります。
ちなみに私は、ゴスペルの賛美でも、賛美歌でもバッハでも主を感じ、たたえることが可能です。
そもそも、久遠教会のトリニテイとのジョイントコンサートのときに、聖霊様が触れてくださり、涙どしゃぶり状態になった経験が、入信の大きなきっかけになったので。ゴスペルを通して主が栄光をあらわされていることを体感しちゃったわけです。


Posted by: け | April 23, 2008 at 07:40 AM

>けくちゃん

ありがとう。
>それこそ、主が出会いをコーデイネイトしてくださったってことだとおもうよ。

アーメン。
みことば(聖書のことば)が背中を押す、ということが、思いもよらない方向へ、私たちを導く、というのは、まさに、主の計画のダイナミズムだよね。

このブログの一日のアクセス数は100前後なのだけど、開設した当初は30くらい、ゴスペル仲間がほとんどでした。
会う人ごとに宣伝したかいあってか、
徐々に、クリスチャンではない友人、職場の同僚、
お目にかかったことのないクリスチャンの方や、無教会の方も読んでいてくださることが分かりました。
(みなさん、ありがとうございます)
そのため、ゴスペルについてはもちろん、キリスト教そのものについても、「業界用語」を使わない、という必要に迫られています。もちろんまだまだ不十分ではあるけれども、
「主のコーディネイト」のおかげで、私自身、とても言葉の訓練をさせられているという気がする。
まさに、みなさんを通しての、主からnikkouへの働きかけですね。

>すべての人が主の前に心を解放されて自由になれますように。
>そのときできる最高の賛美をささげることができますように。

心からアーメン。
なぜ讃美を捧げるか、というと、やはり、私自身の心が自由になるから、
そう、与えられる一方なのね、どうしても。
主なる神には、どうしても、かなわないのだ、と思います。

Posted by: nikkou | April 23, 2008 at 10:12 PM

>ごんたさん

初コメント、ありがとうございます。

>ほんとうにを望む人が適切な時と場
所で用いるのは良いと思うけれど、必ず教会
が用いないといけないというのは些かバラン
スに欠けているように感じます。そのひとの
必要が音楽で無い場合には、ただの苦痛でし
かないのではないでしょうか。

まさに、適切なご指摘ですね。
どのような讃美の音楽であっても、それは主のことばや、主イエスを伝えたり、讃えたりする道具にすぎず、音楽そのものが目的化してしまったら、バッハであろうがゴスペルであろうが、意味を失いますね。
まず私たちは、クリスチャンとして聖書と信仰に立つ。そして、音楽が「道具」として必要であれば、それを用い、沈黙が必要であればじっと沈黙して主に向かう。
大切にしたいことだと思います。

Posted by: nikkou | April 23, 2008 at 10:15 PM

>朗読さん

初コメント、ありがとうございます。

>賛美歌は説教の延長で、説教そのものです。
>重要なのはリズムではなくその内容で、その意味では楽譜なしでも賛美歌です。作者がどんな思いでその叫びを書いたか、よく噛み締めて神に感謝します。

まさにそのとおり。というよりも、
「賛美歌」を「ゴスペル」に置き換えれば、
ゴスペルのセミナーで語られるお話そのもの、
まるでゴスペルの教科書のような文章ですね。

>最も危険なのは曲に飲み込まれ、本来の意味での賛美を失うことです。雰囲気に飲まれることです。歌って気分そう快とは炭酸飲料を飲んでいるのと同じで、その場限りの自己満足です。曲がモダーンになればなるほどその傾向にあります。

(ルターやバッハ、ウェスレーも、発表された当時はモダーンだったにちがいなく、すくなくとも、21世紀の日本人のわれわれが感じるような「クラッシック」という印象とはちがったものであったとは思いますが、それはともかく)
「本来の意味での讃美を失っていないか」「自己満足ではないか」ということは、ゴスペルを歌う者たちの中で、たえず確認され、共有されたことのように思います(最近、nikkouもようやく、その検討と課題に真剣に取り組むようになって、その議論の輪の中に加われるようになってきました)。

>アメージング・ラブ

アメージング・グレイスのことかな?
白人の奴隷船船長、ジョン・ニュートンが、
黒人奴隷を積んだ船ごと遭難しそうになり、命の危機の中で、神に向き合い、回心して作った讃美です。
nikkouは、この歌を、
酸鼻を極めた奴隷貿易という人間の罪の中に、
主なる神が戦いを挑み、勝利した、記念碑的讃美であると理解しています。
ゴスペルに含められることもありますね。
個人的には、ゴスペルとは、その音楽構成、コード、リズムで分類されている音楽ジャンルと理解しています。歌詞は、賛美歌や聖歌とまったく(ここは強調したい)変わりません。

Posted by: nikkou | April 23, 2008 at 10:27 PM

>け さん

ありがとう。

>私のように、唯物論がちがちの人間が、ゴスペルを通して主の愛にふれ、信仰に招かれたものもおります。

本当に、端的で説得力あふれる証しもありがとう。
nikkouも同じです。
本を読んでも、ひとの話を聞いても、もちろん聖書を読んでも、まったくぴんとこなかった主イエスの愛が、たった1曲の歌を通じて、まっすぐ理解できた。世界がすべて変わった。すごいことだ、と思います。

>どのような状況に、どのような音楽に神の愛を感じるのかは百人百様。自分とちがうからといって相手を裁くことはないですよね。

まったく、そのとおり、今回nikkouが一番言いたかったのは、そのことなのよ。
大きいことは戦争や差別、小さなことでは隣人を傷つけること、そうしたさまざまな人間の痛みの一つの理由は「無知」なのかもね。
知らないことには慎重にする、というのは、大事なことでもあるけれど、さらに一歩出る、知ろうとする、ということが、ひとを裁かないための、大事な要素ではないかと思うのだ。もちろん、自戒をこめて。
「君は、核家族に育ったせいか、年配の人がどういうふうに感じるかを知らない」と言われば、まったくそのとおりだから。

Posted by: nikkou | April 23, 2008 at 10:39 PM

>個人的には、ゴスペルとは、その音楽構成、
>コード、リズムで分類されている音楽ジャン
>ルと理解しています。歌詞は、賛美歌や聖歌
>とまったく(ここは強調したい)変わりません。

うん、まさにそのとおり。

私は普段はオーソドックスな声楽の発生とリズム取りでバッハを歌ってます。でも、教会学校や若者向けの伝道集会は、讃美歌や聖歌を編曲してゴスペルにして
歌います。

反対に、ゴスペルバリバリで歌うつもりだったけど、バラード調の方が受けがよいことに気がついて、コード進行を変えたりもするし・・・・

ゴスペルって、あくまでもリズム進行の分類ですよね。

ただ、黒人霊歌といったとたんに、使う英単語がちょっと違いますが・・・

Posted by: Lammy | April 24, 2008 at 01:02 PM

おお、そうか、やっぱり、コードとリズムの問題なのか。どの音楽がぴったりくるかというのは、結構、各人の生育環境とか、嗜好とかに左右されるなあ、と最近気づいたところ。

そういえば、ゴスペルシンガーが、聖歌や賛美歌を歌っているCDというのも、何枚か持っていますが、あきらかにゴスペルですね。その日の気分で、さわやかできれい系の聖歌・讃美歌を聞き流したいときと、ゴスペルシンガーの熱い聖歌・讃美歌をどっしり聴きこみたいときとがあって、
どの音楽がいいかというのは、個人でも時によって違いますね。

しかし、Lammy姉、すごいなあ。
音楽も相当しっかりやってらっしゃいますな。
nikkouも、賛美歌をゴスペルにして歌いたい。

Posted by: nikko | April 25, 2008 at 12:33 AM

 失礼します。
       Google にて拝見

 「ビジネスを活かす・私の聖書体験」のご案内  
          ご笑覧ください。 
      http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/

Posted by: あだち | July 01, 2008 at 02:09 PM

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