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June 28, 2008

だんだん分かる

ある夕べの食卓。
だれから聞いてきたのか、夫が「仏教って、地獄がいっぱいあるらしいよ」という。
nikkouも一応、文学部出身、そういえば、「仏教概論」っていう授業でそんな話を聞いたことがある。
「ええと、たしか、天人天女の世界でしょ、人間の世界、餓鬼の世界、阿修羅の世界、畜生の世界、それと地獄だったけな。
それも無間地獄とかなんとか地獄とかって、いくつかあるんだよね。
その世界を魂はぐるぐる回るんだけど、そこから抜け出すことを“解脱”っていうんじゃない?」
すると、相方、「それって本当のことなの?」と子どもみたいなことをいう。
「それを言ったら、いつか世界の『終末』がきて、イエス・キリストの『再臨(再び来るということ)』があって、『最後の審判』があって、永遠の命をあたられる者と、絶無の中に消え果てる者がいる、っていうのだって、
『本当のことなの?』ってなもんじゃないの?」
というと、
「冷めてるなあ。俺は、nikkouさんに比べたらずっと保守的なんだなあ。」と相方。
彼は「処女受胎も、復活も、終末も、再臨も、永遠の命も、全部信じて、クリスチャンになった」んだそうだ。
というより、
なにもかも信じなければクリスチャンではなく、
クリスチャンにならなければ、“地獄に堕ちる”―と10代のころ、思ったんだそうだ。
10代ならではのけなげさであります。

nikkouは、クリスチャンになったとき信じたのは、3つだけだった。

1、イエスは私のために十字架で死んだ。
2、神は、私を、愛してやまない。
3、「求めよ、そうすれば、与えられる」というイエスの言葉。

だから、処女受胎も、復活も、永遠の命も、もろもろの奇跡譚も、なーんにもわかってなかった。
というより、どうでもよかった。
十字架の意味と、神の愛と、イエスの言葉を、頭と体と心で受け入れたときの衝撃のほうが大きくて、
あとのなにやかにやは、もう本当にどうでもよかった。
ただ、ただ、私は神を信じる!と思った。

その瞬間に立ち会っていた友人はあとで、こう言った。
「よく、悟りを開いた人は第三の眼が開く、っていうじゃない?
眉間の窓が開く、とか。
nikkouちゃん、あのとき、そんな感じだったのね。
だから、そばで見てて思った。『わー怖いなー、ゴスペルずっとやってると、こんなになっちゃうんだー、気をつけよー』って。」
ちなみに、この友は、nikkouのきっちり2ヵ月後、「第三の眼が開く」―キリスト教業界用語でいうところの「聖霊のバプテスマ(洗礼)」―を受けてました。やーい(笑)。

でも、nikkouは信じられないことを、「ありえないから、うそ」とは言わない。すべて「保留」にしている。

こないだ、「聖霊」が分かった。
連動して、「神の国」を待ち望む気持ちも与えられた。
礼拝のときや、日常生活のなかで、「聖書のあのシーン、あの言葉は、こういうことだったのかっ!」と、はっとすることがある。そういうのって、すごく感動的だ。第三の眼、いくつも開いちゃう感じ?

だから「永遠の命」や「復活」や「処女受胎」や、モーセの前で海が割れちゃったこととか、主イエスが湖の上をてくてく歩いちゃったことなんかも、「そうかっ!そういうことかっ!」と、いつか、頭と体と魂で、きちんとわかるんだろう。

もちろん、人それぞれで、まず、全部まるごと信じてしまう、という相方の信仰のあり方もありだと思う。
ただ、たぶん、nikkouは段々分かっていくほうが「性に合ってる」んだと思う。

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June 22, 2008

日曜日

長らく間があいてしまいました。
教科書営業で多忙を極めておりました。
最近ようやくひと段落ついたのでありますが、疲れてしまって、ぽや~としていたのでした。
ようやくちょっと復帰しつつあります。
またぼつぼつ書いていきたいと思います。

さて、本日(6月22日)、日曜日は、クリスチャンにとって「聖日」とか「主日」とか言われる日。
nikkouは、午前、浦和キリスト集会に、午後は久遠教会の第二礼拝に出席してまいりました。

久遠教会の第二礼拝は、久遠Nu Praiseが讃美をリードします。
nikkouもクワイアーの一員として参加したのでした。
礼拝1曲目の前奏で、ディレクター(指揮者)のひとりのUさんが、
「この一週間、楽しいこと、うれしいことがたくさんあった人、いると思います。
辛いこと、苦しいことがあって、心が重い人もいるでしょう。
でも、今は、自分の思いをすべて置いて、
神様に心を向けましょう」
と語りかけ、
みんなで「御名(みな)をかかげて」という歌を歌いました。

歌いながら、ふと、nikkou、子供時代のことを思い出しました。

nikkou小学5年生、
中学受験に備え、毎週日曜日に進学塾に通うようになりました。
そのころ、末の妹が、近所のミッション系幼稚園に通っておりました。
親の教育にたいそう熱心な幼稚園で、
あるとき、著名な学者さん(数学者だったか?)を招き、
親を集めて講演会を催しました。
nikkou母も、たいそう教育熱心な人だったので、その講演会に参加、
聞いた話を、びっしりとメモにとって帰ってまいりました。
で、父とnikkouにシェアしてくれたのであります。

母「その先生がいうにはね、
 難しい問題でも、ずーっと勉強していると、
 だんだん、すごーく面白くなっちゃうんですって。」
父(間髪をいれず)「そうだ! そういうもんだ!」

当時、慣れない塾の勉強に苦しんでいた長女nikkouに対し、
これはいい話を持ってきてくれた!と
喜ぶ様子ありあり。

ところが、話はここで終わらなかったのであります。

母「でね、日曜日になっても、勉強がやめられなくなっちゃうこともあるんですって」
父「そうだ、そうだ」
母「でもね、やめるんですって。日曜日は。礼拝だから。」
父(間髪をいれず)「そりゃ、ばかだっ!」

nikkouの通う塾は、日曜日だけだったのであります。
よっぽど、長女の教育に悪い話だとあわてたらしく、
父はその後も繰り返し「そりゃぁ、ばかだ、ばかだばかだ」
と激しく繰り返しておりました。
お父さんは心配症。

あれから、20年。
はた、と気づけば、nikkouも
「日曜日は、自分の思いをすべて置いて、
神様に心を向けましょう」の側の人になってしまっておるなあ、と
歌いつつ、にやりとしてしまいました。

まじめなクリスチャンの読者のみなさま、nikkou父を責めないでくださいまし。日曜日は、とりあえず、自分の課題、生活、すべてわきに置いて、まず、神に心をむける、という価値観は、
nikkouもクリスチャンライフはじまった当初は、
じつに新鮮に感じていたのであります。

まあ、「日曜日も勉強がやめられない」みたいな勤勉な性格ではありませんが、
日常からひとたび離れてみる、ということの重要さを時々切に感じます。
レジャーに行くみたいに「日常を忘れる」んじゃなくって、
「離れる」「わきに置く」ってこと。

今日はとくに、
浦和キリスト集会の関根ご夫妻に
私たち家庭や職場で煮詰まりがちだったもろもろの重荷をともにわかちあっていただいて、
感謝でありました。

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