だんだん分かる
ある夕べの食卓。
だれから聞いてきたのか、夫が「仏教って、地獄がいっぱいあるらしいよ」という。
nikkouも一応、文学部出身、そういえば、「仏教概論」っていう授業でそんな話を聞いたことがある。
「ええと、たしか、天人天女の世界でしょ、人間の世界、餓鬼の世界、阿修羅の世界、畜生の世界、それと地獄だったけな。
それも無間地獄とかなんとか地獄とかって、いくつかあるんだよね。
その世界を魂はぐるぐる回るんだけど、そこから抜け出すことを“解脱”っていうんじゃない?」
すると、相方、「それって本当のことなの?」と子どもみたいなことをいう。
「それを言ったら、いつか世界の『終末』がきて、イエス・キリストの『再臨(再び来るということ)』があって、『最後の審判』があって、永遠の命をあたられる者と、絶無の中に消え果てる者がいる、っていうのだって、
『本当のことなの?』ってなもんじゃないの?」
というと、
「冷めてるなあ。俺は、nikkouさんに比べたらずっと保守的なんだなあ。」と相方。
彼は「処女受胎も、復活も、終末も、再臨も、永遠の命も、全部信じて、クリスチャンになった」んだそうだ。
というより、
なにもかも信じなければクリスチャンではなく、
クリスチャンにならなければ、“地獄に堕ちる”―と10代のころ、思ったんだそうだ。
10代ならではのけなげさであります。
nikkouは、クリスチャンになったとき信じたのは、3つだけだった。
1、イエスは私のために十字架で死んだ。
2、神は、私を、愛してやまない。
3、「求めよ、そうすれば、与えられる」というイエスの言葉。
だから、処女受胎も、復活も、永遠の命も、もろもろの奇跡譚も、なーんにもわかってなかった。
というより、どうでもよかった。
十字架の意味と、神の愛と、イエスの言葉を、頭と体と心で受け入れたときの衝撃のほうが大きくて、
あとのなにやかにやは、もう本当にどうでもよかった。
ただ、ただ、私は神を信じる!と思った。
その瞬間に立ち会っていた友人はあとで、こう言った。
「よく、悟りを開いた人は第三の眼が開く、っていうじゃない?
眉間の窓が開く、とか。
nikkouちゃん、あのとき、そんな感じだったのね。
だから、そばで見てて思った。『わー怖いなー、ゴスペルずっとやってると、こんなになっちゃうんだー、気をつけよー』って。」
ちなみに、この友は、nikkouのきっちり2ヵ月後、「第三の眼が開く」―キリスト教業界用語でいうところの「聖霊のバプテスマ(洗礼)」―を受けてました。やーい(笑)。
でも、nikkouは信じられないことを、「ありえないから、うそ」とは言わない。すべて「保留」にしている。
こないだ、「聖霊」が分かった。
連動して、「神の国」を待ち望む気持ちも与えられた。
礼拝のときや、日常生活のなかで、「聖書のあのシーン、あの言葉は、こういうことだったのかっ!」と、はっとすることがある。そういうのって、すごく感動的だ。第三の眼、いくつも開いちゃう感じ?
だから「永遠の命」や「復活」や「処女受胎」や、モーセの前で海が割れちゃったこととか、主イエスが湖の上をてくてく歩いちゃったことなんかも、「そうかっ!そういうことかっ!」と、いつか、頭と体と魂で、きちんとわかるんだろう。
もちろん、人それぞれで、まず、全部まるごと信じてしまう、という相方の信仰のあり方もありだと思う。
ただ、たぶん、nikkouは段々分かっていくほうが「性に合ってる」んだと思う。


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