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September 29, 2008

三味線やお琴で讃美していたら

200809281646000 日曜日の午後、久遠教会の第二礼拝に出席。
久遠NU Praiseとして、讃美しました。

この日は、久遠教会の姉妹教会、韓国の新一教会から20人ほどのお客さんを迎えて、ハングルでの讃美となりました。

新一教会のみなさんが、
民族舞踊による讃美をみせてくれました。

200809281613000 日本の女の人も、着物になるとだれもが美しく見えますが、
韓国のチマ・チョゴリもそうなのかも。
みんな、すごい美人にみえました。
民族舞踊は、優雅で、華やかで、力強く、
思わず身を乗り出してみとれました。

礼拝の中で、
韓国から来た牧師さんが熱心に、
「日本民族(イルボン・ミンジョク)と、韓国民族(ハングク・ミンジョク)のために祈りましょう!」と韓国語でいい、
通訳の方も「民族」と直訳しておりました。

200809281535000 でも、なんとなく、この「ミンジョク」ってののニュアンスは、日本語の「民族」と違う気がするんだなあ。
「日本民族」ってぴんとこない単語だ。

ところで韓国では、民族舞踊で神を讃美する、というのはポピュラーなんでしょうか。
考えてみれば、
ヨーロッパのクリスチャンも、アメリカ黒人のクリスチャンも、南米のクリスチャンも、
それぞれの地域の音楽で神を讃美しますが
日本のクリスチャンは、なぜ、三味線やお琴や謡曲や日舞で、神を讃美しなかったんだろうね。

Jacket_saiwai nikkouの友人たちが「演歌ゴスペル」を始めたとき、
「ふざけたマネをするな!」と怒った人もいる、と小耳にはさみました。
厳密にいうと演歌も西洋音楽の一種ではあるんだけれど、
ただ、なんとなく、その話を聞いた時、
nikkouも、「ゴスペルはカルトを思い起こす」と言われたことを思い出しました。
なぜ、日本では、ヨーロッパの(しかも白人の)音楽だけが、「まじめで正しいキリスト教音楽」になってしまったんだろう。

『ドレミを選んだ日本人』(千葉優子:音楽之友社)という本に、
明治時代、音楽といえば三味線や琴、尺八、長唄小唄だったところへ西洋音楽が入ったときの、日本人の驚きや、当惑、好奇心が描かれておりました。
『讃美歌・聖歌と日本の近代』(手代木俊一:音楽之友社)でも、明治時代の日本人が、讃美歌を西洋音楽の音(とくに、ファとシ)とリズムで歌うことができず、日本人にアメリカ白人の讃美歌を歌わせることをあきらめた初期の伝道者の話などが載っていて、おもしろかった。
この時代、もし、「讃美ってのは、音楽ではなく、言葉と心だ」と気づいた伝道者がいて、
「日本人は、邦楽で讃美しよう」と思いたっていれば、日本のキリスト教の浸透度も邦楽の発展も違った道をたどっていたかもしれない。
…と相方に言ったら、
「でも、クリスチャンじゃない日本人も、もう、邦楽はやらなくなってんじゃん」とつっこまれた。
ほんとだ。
あんまり関係ないかも。

ちなみに、日本人が邦楽を捨てて、西洋音楽一辺倒になったのは、身分ごとに違う音楽を奏でていた当時の状況の中で、「西洋音楽を、この国の統一音楽にしよう!」と思いついた明治政府の必死の教育の成果だ、…というのは、複数の本に共通する見解のようです。

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September 27, 2008

世界は大きくて小さい(Music & Arts 2008 Japan)

Topim_2 先週の金曜日19日から、23日(祝)まで、
Music & Arts Japan 2008というワークショップ(体験学習?)と、ワークショップ受講者によるコンサートに参加してまいりました。

講師は、アメリカから、
Oh happy dayの作者、エドウィン・ホーキンズと、
Total praiseの作者、リチャード・スモールウッド。
それから、エドウィンの妹のリネッタ・ホーキンズや、
エドウィンの教会でゴスペルの指揮をしているジョナサン・クリアー(←nikkou、大ファンです!)、
そのほか、一流のゴスペル歌手、ピアニスト、ゴスペルクワイアー、さらには牧師にいたるまで、
まるで黒人教会ごとごっそり来日、
彼ら流の神の讃美の仕方を、こってりと教えていただいたのでした。

ワークショップには、北は北海道から南は福岡にいたるまで、全国のゴスペル・ファンが集いました。
ワークショップのリハーサル(練習)は東京聖書教会という、江古田の大きな教会、
コンサートは新宿の厚生年金会館という、これまた大きなホールで行われたのですが、
どちらもぎゅうぎゅう詰めの大入り満員。
参加者だけでも、400人、
募集を締め切ったあとも、キャンセル待ちが出たそうです。

参加者のうち、どのくらいの割合でクリスチャンがいたのかは、わかりません。
しかし、毎日、すべてのリハーサルの始まりと終わりにお祈りがあり、
この音楽は、神にささげられるものである、ということを、つねに意識させられました。

200809221536000 リハーサルでは、なるべく前のほうに座るようにしていたのですが、
毎回かならず、アメリカから来た黒人のおばさんが同じ席にいました。
nikkou、おぼつかない英語で話すのがおっくうで、おはずかしいことですが、最初、本を読んだりして無視しておりました。
ところが、このおばさん、いたって人懐っこく、
「あなたのお名前は? わたしはメロディよ。」といった調子で話しかけてくる。
で、nikkouも勇気を出して、片言英語で、
「お疲れじゃないですか」とか「観光はしましたか」とか「お土産は買いましたか」とかって話しかけ、
メロディさんも「浅草に行った、煙を頭にかけたりして面白かった」とか「うちには相撲レスラーのような大きなベイビーがいて、お土産を買うにしても、日本のものはみんな小さくて、探すのに苦労した」
とかってことをいう。
「相撲レスラーのような赤ちゃん!?」とnikkou、目がテンになりましたが、
「ベイビー」というのは、13歳の男の子だと聞いて、
なぁんだ、と大笑いしました。
日本のお母さんの言葉でいえば、「うちの坊主」とか「うちの小僧」とか、そんなニュアンスでしょうかね。

歌の練習の際も、メロディさんはもちろん、近辺の席の人たちと頭を寄せ合って、音程やら発音やらを確認、
ひとつのものを、複数の人たちで作り上げていくということの快感にわくわくしたのでした。

4日間、みっちり学んだあと、5日目のコンサートで舞台にのりました。
コンサートの最中、
すごく不思議な感覚が胸をよぎりました。

メロディさんはじめ、今回来日した黒人さんたち、
そして、ここに集まった何百人何千人の日本人たち、
ひとりひとりに、生活があり、祈りがあり、讃美があるんだなあ、
なんて、世界は広いんだろう…
という思い。
と同時に、そのひとりひとりのことを、生まれてから死ぬまで、すべて、われらの讃美している神は、知っているのだ、
なんて、世界は小さいのだろう…。

言葉にすると、そんな感じ。
一瞬にして、大きさと小ささを、同時に見てしまった、というような、
すごく、奇妙な感覚でありました。

コンサートを終えた翌日
いまごろ、メロディさんたちは、おうちに帰って、相撲レスラーのようなベイビーに日本のお土産を渡しているかしら、
なんてことを思いました。

また、いつか、
…神の国になるか、この地上にいるうちになるか、わからないけれど、
メロディさんたちに会いたいと思います。

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September 22, 2008

Music Arts Japan 2008

うかうかしていたら、直前になってしまいました。
nikkou、参加しております、「Music & Arts Japan2008」。
(ホームページは
こちら

明日、コンサートです。
400人のクワイアー(聖歌隊)に入って歌います。

明日の祝日、せっかくの休みだけれど、とくに行くところもないなあ、という方、
当日券、出ますので、ぜひどうぞ。

9月23日(祝火) 14:30開場 15:00開演
ウェルシティ東京(東京厚生年金会館)大ホール
東京都新宿区新宿5-3-1

http://www.kjp.or.jp/hp_20/access/

前売り¥3,000 当日¥3,500

「天使にラブソングを」で歌われて、日本でもすっかりおなじみになった「Oh Happy Day」(原曲は讃美歌516番「主イエスを知りたるうれしきこの日や」)をゴスペルにアレンジした、エドウィン・ホーキンズや、
詩篇121編を歌った「Total praise」
(nikkouのウエディング・パーティでも歌いました)の作者、リチャード・スモールウッドを講師に迎え、
先週の金曜日から今日まで、みっちり全10曲のゴスペル讃美を教えてもらいました。また、50人のアメリカ人ゴスペルクワイアーも来日。日本人とともに讃美をします。
エドウィンも、リチャード・スモールウッドも、いわゆるスーパー・スターであります。
そんな彼らが海を越えて、大勢の日本人を前に、連日、額に玉の汗を浮かべてクワイアーをディレクション(指揮)してくれているわけであります。

今日、400人の日本人と50人のアメリカ黒人のなかで、声をそろえて讃美の歌を歌いつつ、思いました。もう、だれになにを言われようと、わたし、ブラック・ゴスペルが好きだわ。
そのリズム、ハーモニーが、ただひたすら、楽しい。
そして、その歌詞のひとこと一言に胸が熱くなる。

最近、仕事で、明治時代、日本に讃美歌を伝えようと来日したメーソンというアメリカ人を調べているのですが、
メーソンの、その必死の思いが、メーソン来日100年後のエドウィンや、リチャード・スモールウッドに重なって、
ああ、なんと、クリスチャン・ミュージシャンとは、真摯に生きる人々なのだろう、と、つくづく感動しました。

海を越えてひとつとなるアメリカの黒人と日本人の声を、ぜひ、みなさまに聞いていただきたいと思います。

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September 16, 2008

Lyreライブ@東京基督教大学

15日(祝日)、夫とふたりでLyreのライブに行ってまいりました。

ライブ会場は、千葉県にある東京基督教大学
Lyreの6名は、この大学出身であります。
nikkou、神学校なる場所に足を踏み入れたのは初めて。
そんなこともあって、ちょっとわくわくしました。
この大学は、緑ゆたかな郊外にあって、
空の狭い東京に生活しているわれわれには、
すがすがしいほどの開放感。

会場となったチャペルも、
自然光と風とがふんだんに入り、
「半ば野外ライブのような感覚」(「いのちのことば社」社長挨拶)で、
たいへん心地よいところでした。

来年からメンバーの具志堅さんがカンボジアに、塚田さんがブラジルに宣教に出るとのことで、
当分の間、Lyreの讃美はこれが見納め・聴き納めになります。

ライブの曲目は、空の広さ・高さや、吹く風の心地よさに神の恵みを託したものが多く、
なるほど、Lyreの讃美は、この空の広いキャンパスでこそ生まれた歌だったのか、と納得。

なかでも、新しいアルバム『かけがえのないもの』に入っている「美しき日々」が心に響きました。

小鳥のさえずりで 目覚めた光の朝

陽だまりの窓際 あくびをしてる猫の顔

黄金色に続く 稲穂を揺らす風の音

流れる雲に乗り 羽広げ昇る白鷺

 ほら こんなにも あなたの前に あるものの全てに

神様の愛は 優しく注がれているから

疲れた心だけが重い時は 立ち止まって

風を感じ 空を見上げ 愛を思い 眠りにつこう

(若林栄子・作詞作曲)

そういえば遠藤周作がどこかで、「西洋人が花を通して神を思うのと、日本人の自然風物に神を感じるのとは、どこか違う」と書いていました。
たしかにゴスペルやヨーロッパの讃美歌に、自然風物を歌う歌がないわけではないですが、
「薔薇の花に置く朝露のように、神はやさしくあなたを愛する」とか、「神に力を与えられたものは、翼を張って天がける鷲のようだ」とか、基本的に比喩が中心。
「稲穂を揺らす風の音」や「白鷺」、「あくびをしているネコ」など、
比喩ではなく、自然を自然のままにみつめ、そこに注がれる神の愛を感じる、という歌詞は、日本文化の中に咲いた日本人クリスチャン特有の感受性かもしれません。

隅谷三喜男という神学者さんは、「クリスチャンでありながら、自然に神を感じてしまうのは、日本の伝統宗教に引きずられてしまっているのだろうか」というような意味の質問をされて、
「神様がつくった自然を、豊かに受け止めていくということは、日本人に与えられた特権かもしれません」と答えていました。(『隅谷三喜男 信仰のことば』)つくづく、よい賜物をいただいたものだと思います。

今回のライブでは、「ユーオーディア」という、クリスチャンによるクラッシック音楽の讃美グループから、
バイオリン奏者の方が参加、
Lyreの声に重ねてさらに美しいハーモニーを醸し出しておりました。

帰りは、あえてバスにのらず最寄り駅まで30分弱、ふたりで、てくてく歩いて帰りました。
開発がいまだ及ばぬ空地や雑木林の中、虫すだく声が
……風情を通り越して、まるでどしゃぶりの雨、ちょいとうるさいほどでした。
被造物は、ひとの感傷など慮ることなく、
ただのびのびと生きている。
そのことに、なんだか、かえって元気づけられるような夜でした。

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September 10, 2008

舞台「ドラえもん のび太のアニマル惑星」

Cni16770 先週末、鴻上尚史演出の「舞台ドラえもん のび太のアニマル惑星」を観にいった。
鴻上尚史好きのnikkouと、ドラえもん好きの相方の利害が一致した、というわけ。

「ドラえもん」の奇妙奇天烈マカ不思議な道具を、人間でもってどう演ずるのか、興味津津でしたが、
さすが鴻上尚史、タケコプターなどもユーモアたっぷりで、かつ自然体、
のび太もしずかちゃんもジャイアンもスネ夫も、ちゃんと、のび太しずかちゃんジャイアンスネ夫でしたし、
挿入歌やダンスも「ドラえもん」らしい楽天性にあふれていて、
とても楽しかった。

一方で、
なーんとなく、釈然としないところがあって、もやぁっとした気持ちで劇場を出ました。
相方がぽそっと「エンターテイメントに徹してくれればいいのに」とつぶやいたので、
あ、彼もおんなじような感覚だったんだなあ、と思った。

というのは、ところどころで舞台の上から、
自然環境破壊問題について、お説教されちゃったのであります。
どうやら、「ドラえもん」は、魔法のような「科学(?)道具」でもって楽天的な未来を予想させる夢マンガではなく
環境問題啓発マンガだったらしい。
われわれが現役で見ていたときからそうだったっけかなあ。

原作となった「長編ドラえもん のび太のアニマル惑星」は1990年公開、じつは、nikkouがかかわっている国語教科書に限っていえば、
90年代から急に、環境問題ネタが多くなります。
われわれが現役で子供だったころの国語教科書の思想は「反戦平和」と「人権尊重」でしたが、
現在そのへんはあまりあからさまでなくなりました。
逆に「環境問題」ネタは必須。
学年があがるにつれて、そこに「経済問題」「南北問題」「国際協調」「グローバリズム対ローカリズム」などなどが絡んできて、すげーややこしくなる。
「反戦平和」「人権尊重」のころは、「人間は存在するだけで素晴らしい!」という楽天性が根底にあったような気がしますが、
「環境問題」の現代、「結局、人間って、存在しないほうが良くない?」にひっぱられそうで、
今の子はたいへんやねえ、と思ったりしております。

そんな現代っ子であるわけだから、
学校でさんざん自然破壊だ、環境問題だ、エコロジーだって言われているはずなのに、
「ドラえもん」にまで言われちゃあ、ねえ、と
いささかしらけてしまったわけ。

一方で、ストーリー全体にはなんともいえない科学信仰みたいなのも同時に漂っていて、
「アニマル惑星」は、「すばらしい科学の進歩だ!」と絶賛されていたりする。
結果、
科学をうまく使えば、環境も守られて、植物も動物も人間もみーんな快適、すばらしい社会が到来するけれど、
使い方を間違えれば、環境破壊が進み、人間も滅んでしまいます、
みたいな話になっていて、
「そうか~?」と、ちょっと首をかしげてしまった。

「いっそのこと、科学に依存するのをやめちゃう、って話にはできないのかね?」と相方にいうと、
「そんなことをしたら、ドラえもん自体、存在しなくなっちゃうじゃん」とつっこまれた。
あ、そうか、「ドラえもん」は「すごい科学進歩」で生まれた存在でありました。

というわけで、
「ドラえもん」の楽しい道具をはじめとするエンターテイメント的な部分は十分楽しみつつ、
思想的な部分はえらい混乱しまくっているような21世紀をはからずも感じてしまった舞台なのでした。

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September 02, 2008

「愛」という言葉について

ゴスペルのリハーサル(練習)やコンサートでは、よく、
リーダーから、
「あなたを愛しています」とか「あなたは(神に)愛されています」という歌詞を、“隣の人に言いましょう”
といわれたりする。

ぶっちゃけ、nikkou、あれが、すっごく苦手です。
「あなたをあ」まで、隣の人の顔を見ながら言い、「いしています」で、ずるずる~っとあらぬ方向へ視線をそらす。
ときどき、まったくすっとぼけて、空を見ながら、「あなたは愛されています」と言い放っていたりする。
言い訳するわけじゃないが、これは、nikkouだけじゃない気がする。
「あなたを愛しています」と最後まで、隣の人をじいっと凝視しながら言っている人は、あまりいない。がんばって、「あなたを愛していま」までで、「す」で目をそらしてたりする。

アメリカの黒人教会で、「I pray for you, You pray for me, Ilove you, I need you to survive」(あなたのために祈ります、あなたは私のために祈ってください。あなたを愛しています。あなたがこの世界をなんとか生き延びてほしいと願っています)
という歌を歌ったことがある。
やはり、「隣の人に向って歌ってください」というリードがされた。
で、nikkou、隣にいた黒人のお姉さんに向って歌ってみた。
「I love you」あたりで恥ずかしくなって、目をそらし、
もう一度目をやると、
お姉さんは、もう、ずーっとnikkouを凝視、両手をnikkouにまっすぐ伸ばし、なんの照れもなく、はっきりnikkouに向って歌っていた。
しかも、繰り返し、繰り返し。
かなわねー、と思った。照れてる方が、恥ずかしいくらいだ。
文化ですかね。

クリスチャンになって7年になる。
クリスチャンになった当初から、どうも、「愛」という言葉に違和感を感じていて、
このブログでも、時々、ちょっと使ったりするが、まあ、それでもめったに使わない。

明治時代、女性の伝道者が田舎で説教をしていて、「神はわたしたちを愛されました。わたしたちも互いに愛し合いましょう。」と言ったとたん、
「じゃあ、一発ヤラせろや」とちゃかしたおじさんがいた、という笑い話があるが、
たぶん、nikkouの「愛」という言葉に感じているニュアンスというか、雰囲気は、そっちの感覚に近いんだろう。
「神の愛」という言葉が言い表しているものは、これまでのnikkouの人生には、まったく無かった概念なのかもしれない。
そして、nikkouの個人的な想像なんだけれど、
イエスの時代にも、この概念は無かったんじゃないだろうか。
だから、彼は、次々とたとえ話をした。
その概念をずばり、言い表す言葉がなかったから。

Htbookcoverimage 夏休みに、『イエスはなぜわがままなのか』(アスキー新書・岡野昌雄)という本を読んだ。
この著者、岡野氏のイエス観というか、聖書観は、nikkouとすごく近くって、強い共感を抱いた。

岡野氏いわく、
イエスは道徳的に正しい人ではないし、聖書は道徳的の本じゃない。
nikkouも、そう思う。
道徳的に見えることはあっても、それは、結果的なものだ。
むしろイエスは、世間の道徳観、良識や常識みたいなものを、がばっとくつがえすようなことをやったり言ったりする。
女の人が男の人たちの集会に参加するのは「不道徳」だ、という当時の強固な「良識」を蹴散らし、
「貧しい人にお金を恵んでやれ」と実に「道徳的」なことを言った弟子たちを「余計なことを言うな」とばかりに叱りつけたり、
「ランプの油が足りなくなった」と言っている同僚を家の外におっぽりだすような意地悪な女の子たちをたとえ話にしたりする。

なんで? どうして? そんなん理不尽じゃない?
と、聖書やイエスに出会った私たちは、
時に不満やらいらだちやら怒りやらを胸に、問い続けなければならない。

たぶん、それが、イエスのねらいだったんだろう。
キーワードは、「神の愛」なんだろうが、
日本語の「愛」という言葉は、イエスが伝えようとした「ナニか」の一部をかすって、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。

イエスがわたしたちに伝えようとした「ナニか」を体と心でがっつり受け取って生きる人には、
妙な迫力がある。
日本語の「愛している」「愛されている」という言葉が持つ甘い空気はみじんもない。
どちらかというと「凛としている」という感じ。
キング牧師とかマザー・テレサを上げるまでもない。
大村はまさんとか、ペシャワール会の中村哲医師とか、nikkouの身近にいる2,3人のクリスチャンの友とか。

主なる神は、名づけようのないその「ナニか」を完全に把握しているんだろう。
わたしは、把握していない。
ただ、せめて、毎日の生活のなかで、
“主よ、わたしのこの思い、この行いは、あなたがわたしに伝えようとした「ナニか」に近いでしょうか? ”
と問い続けるしかない。
でも、そんな「対話」ができるってことは、
幸いなんじゃないか、とは思う。

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