神様は何語でおしゃべりするのか
はじめに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。(ヨハネによる福音書第一章第1節~2節)
Music & Arts Japan 2008のあとすぐ、久遠教会での韓国語讃美礼拝があったので、ここんところ、短期集中戦で英語とハングルの歌詞を覚えなければならなかった。
韓国語礼拝では、「Make us one」(わたしたちをひとつにしてください)という讃美を歌ったのだけれど、韓国語だけでなく、日本語でも歌い、さらにnikkouが手話をつけることになった。しかも原曲は英語である。ちなみにこの歌は、フィリピンのタガログ語とスペイン語で歌ったことがある。
さまざまな言葉で「Make us one」を歌うとき、nikkouは、すごく不思議な感じがする。
神は、地上にあるすべての言語を理解するんだ。
それは、単に、「神様は語学力がずばぬけている方だ」というにとどまらない。
この一年間、ハングルを学び、
この五年ばかり、ゴスペルを歌いながら、白人英語にはない黒人英語のニュアンスというものを学んできたのだけれど、
学ぶなかで、言語の背景には、その言葉を使っている人間が属しているグループの歴史や文化や価値観が厚く積もっている、
ということをいやがおうでも感じさせられてきた。
日本語に単純に翻訳できない言葉、というものが、どの言語にもある。
逆もまたしかり。
日本語の「おつかれさまでした~」と「それじゃ、よろしく」は英語にできない、なんてのは典型例だ。
『幸福な王子』『ドリアングレイの肖像』『サロメ』などの寓話を書いた19世紀末のイギリスの小説家、オスカー・ワイルドは語学力に長け、2年ごとに新しい言語を習得、
ヘブライ語をマスターしたとき、
「これで、天国に行ったとき、神様と、神様の言葉でおしゃべりができる」といったそうであります。
でも、nikkou、「Make us one」を歌うたびに、思うんだな。
神様とのおしゃべりは、ヘブライ語じゃないよ、きっと。
ヨハネ福音書冒頭の「言(ことば)」というのは、
ヘブライ語とか、ギリシャ語とか、日本語とか、英語とか、韓国語とか、手話とか、そういう、具体的な「言語」ではないんじゃないか。
もっと、根本的というか、根源的な「言(ことば)」、概念としての「言(ことば)」のことだと思うのね。
人間の「この人に、伝えたい」「この人と、つながりたい」という思い、「神様に、訴えたい、伝えたい」という思い、
いや、そもそも神様のほうから「この人に、伝えたい」という思いがあって、
音や、イメージや、(手話の場合、体の動きになって)、漏れ出た「その音」「そのイメージ」「その動き」そのもの。
それが、「はじめに」あった「言(ことば)」なんじゃないかと。
そう思うと、
ヨハネ福音書の第一章は、「言(ことば)」の持つ「人恋しさ」を伝えているようで、なんだかちょっと切なく、そして、とても美しく感じる。
「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」(ヨハネによる福音書第一章第四節~第五節)
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Comments
すばらしい、です。すぎ
Posted by: すぎやま | October 25, 2008 at 10:08 PM
7−72に詩を書いておきました。有名な詩ですが。すぎ
Posted by: 祖父ネット | October 26, 2008 at 06:38 AM
>祖父上
ごぶさたしちゃいました。
「春が夏の先にあるように、
失われつつある私達の命の春を
憐れんでください。
主よ、あなたは偉大です。」
うーん、アーメーン!
ぐっときますね。
Posted by: nikkou | October 30, 2008 at 11:18 PM