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February 09, 2009

「アガペー」はさびしい

41afz9wtvel__bo2204203200_pisitbsti 『サーバント・リーダーシップ』(ジェームス・ハンター著)を読む。

「神の愛=アガペー」とは、「敵をも愛する愛」である、
とは、礼拝やクワイアーで、さんざん聞かされる言葉ではある。

たいがいどこでも、そんな話のあとは、
「主よ、しかし、わたしは、敵を愛する心をもちえません。この罪深きわたしをお赦しください。」と祈って、おしまいになる。

だがしかし。
本書では、「敵を愛する」とは、けっして「敵に好意を持て」という意味ではない、という。

じつはこれも、礼拝やクワイアーで、さんざん聞かされる話である。たいがい、キング牧師の
「われわれは、別に『敵に好意を持て、仲間が殺されようが、石を投げられようが、敵に好意を持て』と神に命じられているのではない、『敵を愛せ』とは、どんなに好意が持てなくても、敵に、礼儀正しく、忍耐をもち、フェアな態度で接しなさい、という意味である。」
という意味の言葉を引用しつつ、
それが、主イエスの、生涯を通じて示した、愛の形である、と説かれる。

本書では、それをビジネスにおけるリーダーのふるまいに適用せよ、と勧める。
まあ、たしかに、いけすかないからといって部下や同僚を、いじめたり、窓際に追いやったりする上司は持ちたくない。

さらに、本書で、「アガペーは、やろうと努力すれば、できるはずだ」という。
これは、ちょっと、面白いと思った。
たしかに、「アガペーは、神しかできないので、私はしません、すみません」ですまないのが、人間社会のつらさであり、面白さでもある。

なるほど、神の愛とは、エロースや、フィレオーとは違う、公平な行為であるわけか、と
わが職場と、わが上司や同僚を思い浮かべつつ、理解した、と思ったところで、
一晩おいて、
今朝のことである。

「ああ、神様、今日も一日、わたしを愛してください」
といつものように、祈って、
はた、と思った。

神様は、わたしを、アガペーで愛しているんだなあ、と。

そして、
正直、思いました。

…さびしいなあ。

いや、頭ではよくわかるんです。
神は、悪人にも善人にも、公平である、と。
どんなに神の思いに反する者であろうと、神は、その人に、礼儀正しく、フェアで情け深く、忍耐深く、接するのだ、と。
だから、わたしがいかなる罪を犯そうが、神はわたしを見捨てない、と。

でもさ、
やはり、ひとは、誰かに可愛がられたい、といいますか、
誰かの秘蔵っ子、誰かのいい子、誰かのごひいきさんでいたいものではないか、と。
つまり、わたしは、神様に気に入られたい、と思っていたわけですよ。

でも、神様は、私に対して、そういう「愛」を持っているわけではないんですね。

これは、クリスチャン6年目にして、
はじめて抱いた思いであり、
はじめて気付いた悟りでありました。
わたしは、神の愛を、エロースとごっちゃにしていたんでしょう。

なんだか、「神はこの世をひとしく愛する」という意味が、
いままでとまったく違って感じられて、
朝の通勤風景が、厳粛に見えました。

そう、厳粛。
冬の空気に似て、とても透明で、締まっていて、
「神の愛」という言葉に、まったくの甘さがないまま、静かに心に満ちた。

今日も、世界は、神の愛に、満ちておりました。

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Comments

「さんざん」ということばが、じつに印象的で、らしい、と、おもった。祖父

Posted by: 祖父ネット | February 26, 2009 at 06:44 AM

 もうひとつ、これはちょっとコメントしておきたいことがあります。
 神さまの愛、アガペーって、そういうさびしいもの、冷ややかなものではないと思います。
 むしろ正反対。神さまはあたたかい、いや、熱烈な愛をもっていらっしゃる方だと思います。

 人間的な発想ですと、この世の人を善人も悪人も愛する、ということは不可能であり、そのようにできるということは、相手が好きでなくてもよい、愛するということは公平だから冷静な冷ややかな愛ということになるかもしれません。
 でも、神さまは、善人も悪人も、熱烈に愛してくださっている。だって、神さまにとっては、みんなご自身の造られたものだから。被造物だから。できが悪いといわれる子ほどかわいいという、親の愛みたいものだと思います。熱烈です。

 私が、ちょうどクリスチャンになった頃に、星野富弘のある詩を読んで、感動しました。その視を、ちょっと挙げておきます。
 タイトルは「空」。絵は、かりんの実。

  毎日見ていた
  空が変わった
  涙を流し 友が祈ってくれた
  あの頃
  恐る恐る開いた
  マタイの福音書

  あの時から
  空が変わった
  空が私を
  見つめるようになった

 富弘さんと、聖書との出会いの詩です。
 きっと、彼を見舞って祈ってくれた友が聖書を置いていってくれた。
 その聖書を開いて読んだときに、彼の中で何かが変わった。その日から、空までが変わって見えるようになったのだ、と言います。

 これは私にも覚えがあります。
 自然の花を、木々を、もちろんこの私をも造られた方がいる。そう信じられるようになった時に、私は道を歩いていても楽しかった。目に見えるものがすべて、それを造った神さまの愛に満たされている。神さまは、空から愛をもって私たちを見つめていらっしゅる。
 それは木々や私だけではない。道を歩くすべての人も、電車に乗るすべての人も、神さまは造られて愛していらっしゃる。そう思ったときに、うざいおやじも、うるさいおばさんも、みんな愛らしい顔をしているような気がして、ひとりで微笑んでいたものです。

 最後にもうひとつ。
 昨年までギリシャ語を勉強していましたが、今年になって、ヘブライ語を学んでいます。
 ヘブライ語では、「愛する」という言葉は、「アハプ」と言います。そして、この言葉にはギリシャ語の「アガペ」「フィレオ」「エロス」のような細かい区別はありません。
 イエスさまは、ヘブライ語で話し、考えていたのです。ですから例えば、ヨハネ福音書の最後の箇所のように、「アガペ」と「フィレオ」を使い分けているのは、福音書の記述者の解釈に過ぎないのです。
 私たち、ギリシャ語の聖書の発想にとらわれすぎていないでしょうか。
 イエスさまは、もっと人間的な愛情で、愛されていたのだと思います。だって、イエスさまは、人の姿となって来られて、私たちと喜怒哀楽を共にされたんですもの。不幸な人たちのために、涙を流されたんですもの。悪い人たちのためにも、天を仰いで嘆かれたんですもの。決して、冷ややかな方ではなかったと思います。

Posted by: | August 02, 2009 at 02:31 AM

てじょんさん、あらためてコメント感謝です。

>ヘブライ語では、「愛する」という言葉は、「アハプ」と言います。そして、この言葉にはギリシャ語の「アガペ」「フィレオ」「エロス」のような細かい区別はありません。

へー!これぞまさしく「蒙を啓かれる」ってやつですなあ。知らなかった。なるほどなあ。

ちなみに5月の無教会青年大会のディスカッションで、「愛すると好きって違うんだ」と話したら、牧師の息子だという大学生が「ちょーショックー!」と叫び、会の終わりの感想を発表するときに「僕は神様に好かれようとしていたんだけど、ひょっとして、それは、『神様、僕以外の隣人のことは愛さないで』という嫉妬の感情も交じった気持だったかもしれない。そういうことに気づかされました」と言っておりました。ふーむ、青年よ。その気づきもよくよく検証してみてくれ。nikkou、結構思いつきで言うからなー。

Posted by: nikkou | August 04, 2009 at 12:52 PM

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 今日で夏休み前の神学校のヘブライ語の授業は終わり。  ヘブライ語の「愛」という言葉に思うところがあった。 「愛」にはいくつかの種類がある。と、ギリシャ語では教えられた。  これは、プラトンなどギリシャ哲学でもそうだ。  「アガペー」 これは「神の愛」で「博愛」「隣人愛」に近い。  「フィレオ」 これは「友愛」でより人間的な愛情。家族愛も。  「エロース」 これは「性愛」で恋情など一段低いものとなる。  新約聖書を読んでいると、この区別に出会うことがある。  例えば、ユダヤ福音書のラザロの復活の... [Read More]

Tracked on August 25, 2009 at 12:29 AM

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