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May 25, 2009

仏教について学ぼうと思う

先日、相方とふたりで柴又帝釈天に散歩に行って来た。
寅さんの実家のモデルとなったお団子屋でお団子を買って食べ、お土産屋をのぞき、帝釈天の大門をくぐり、そして、本堂に入ると、お坊さんが勤行している。
本堂の畳の上に座って、お線香の香りをかぎながら、お坊さんの勤行の声にしばらく耳を傾けた。
相方も後から入ってきて、一緒に座って眺めていたのだけれど、ふと、「撮影禁止」の看板の隣に、「参詣の方は、帽子をぬいで、座ってください」という看板を見つけあわてだした。
相方に促されて本堂を出、しばらく口論になる。

「ここに帽子をぬいで、座っていることは、異教の神の参詣をしていることになる」と相方。
「そんな大げさな。見学をしているだけではないか。では、帽子をかぶって立って眺めていれば、参詣にならないのか」とnikkouもちょっとムキになって反論。
「それは相手に失礼だから、本堂には入らないで、外から見学すればいい」と相方。
「それでは、見学したことにならない。そんな『見学』なんか、全然納得がいかない。
だいたい、私の実家では、毎日仏壇に線香が焚かれていた。
そういう環境で育った私にとって、線香の香を嗅いでリラックスするのは、文化であって宗教ではない。」
「文化というのが曲者だ、文化だから宗教ではないという論法で、戦時中の日本基督教団は宮城礼拝をしたのではないか」
「宮城礼拝と文化の問題は異なる。わたしは、宮城礼拝の強制には断固闘う。
それでは、あなたは、京都や奈良の神社仏閣を、ブルトーザーでぶちこわしても構わないというのか」
「それはまた極論だ」
平行線であります。

まあ、この日はなんとなく、育ちの違いからくる主観的な問題ではないか、というあたりに収まったのでありますが、
そんな喧嘩をしている最中に、相方が「nikkouさんは、ゴスペルシンガーズのリーダーなのだから、言動に責任を持たなければならない」という趣旨のことを言いました。
nikkou、まあ、多少ムキになってはいますが、それじゃあ仏教について勉強してみようじゃないの、
本堂で帽子を脱いで座ることは、はたして参詣になるのか見学の範疇なのか、
仏教の教義の上から検証してみようじゃないの、と思い始めました。

ちなみに、相方が言った「福音派の人たちは、神社の鳥居をくぐることも、仏閣の大門に入ることもしない」という台詞にはうなづきかねます。
nikkouは、自分で調べ、自分の頭で検証する。
もちろん、人の意見を参考にはするけれども、どんなエライ先生の言動であっても、どんなにプロテスタント最大教派の共通認識であっても、それに無条件に従うことはしない。
nikkouは、たとえば仏式のお葬式でクリスチャンはどうふるまうか、ということを、牧師に言われたとおりにしたり、「クリスチャン大百科」を読んでそのとおりにしたりということが大嫌いである。
もちろん、参考にはするけれど、ひとつではなく複数の考えに当たるべきだと思うし、なによりも自分で聖書を読み、祈って考えるべきだし、
そもそも最終的に判断するのは、それらを自分の頭で検討を重ねて、納得したうえでのことだと思う。
牧師の考えと違ったとしても、よーく考えた結果であれば、何の臆することもなかろう、と思う。
私には、考える脳味噌を、神様から与えられているのだから。

神道に関しては、一応国文科出身なので、大まかな知識はある。
有名な神社に関して言えば、それがどのような意図で建立され、どういう行動が宗教行為になるのか、ということも、ある程度の知識は持っているつもり。
たとえば伊勢神宮と出雲大社については、古事記・日本書紀・出雲風土記を概要ではありますが知っていますし
参考書としては西郷信綱「古事記の世界」(岩波新書)が一番理解の助けになったように思います。
「日光東照宮」は、そこの宮司さんやお坊さんの話を聞いて「江戸時代は完璧に政治施設であり、現在は完璧に観光施設である。」と理解しました。
地元の「お稲荷さん」には、「江戸名所図会」や「日本の米」などを読んで当時の農民の切実な信仰が込められていると感じました。
したがって、伊勢神宮、出雲大社、日光東照宮は、歴史的建造物として見学し、興味関心を寄せていますが、手水を使ったり二礼二拍手一礼はしません。
お稲荷さんは、参詣の対象として尊重し、共感を寄せ、敬意を払いますが、やはり手水を使ったり二礼二拍手一礼はしません。
いずれにしても、鳥居をくぐらない、という形で回避することはしません。

ただ、仏教については、教養過程で「仏教概論」くらいしか学ばなかった。
その知識も、いまや曖昧であります。
なので、さっそく書店に行って、仏教書や新書・文庫・選書等の棚を眺めてきました。
いくつかの本の目次や前書きを眺めて、まず見当がついたのは、
「仏教」とは
インドで「ゴーダマ・シッタルーダ」が提唱した思想と、
中国・朝鮮を経由して日本に入ってきた際に、時の国家権力と結びついたり反抗したりするなかで、別の思想体系へと変化していった「日本仏教」というものとがある、ということ。
このふたつは分けて考えたほうがいいのかもしれない。

というわけで、「ゴーダマ・シッタルーダ」の最古の言行録である「スッタニパータ」(岩波文庫「ブッタの言葉」)を買ってくる。
まずここから読破して、その後、日本仏教の概論を読み、その中で、一番日本の仏教に影響を与えている宗派の経典を読んでみよう、と思います。
その際、キリスト教との比較で批判的に読むのではなく、まず全面的に肯定する姿勢で読もうと思う。

今回は、まあ、多少夫婦喧嘩の延長のところもあるけれど、良い機会だとも思う。
検討の結果、クリスチャンをやめて仏教徒になっちゃうこともあるかもね。
まあ、時間はかかるかと思いますが、ここは自分にとって避けては通れないところだ、とも思います。

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May 22, 2009

キリスト教・無教会青年全国集会(4)―ゴスペルのひととき(後編)

(前編より続く)この祈祷会で、集まった30人ほどのディレクターたちのお祈りの課題……いや、自分がどういう状況にいて、神様からどのような恵みを与えられたか、という「証(あか)し」を聞くにつれて、
nikkou、自然に、心が変化していくのを感じました。
まず、胸にじわじわと広がってきたのは、
「なぜ、私はゴスペル讃美をするのか」
という根本的な問いかけ。
そして、
「なぜ、無教会の仲間たちと一緒にゴスペル讃美をするのか」という、
本当は一番最初に考えなければならなかったこと。

それは、…ああ、楽しいからだ。
ゴスペルを通じて、自分の力いっぱいの讃美を神様に捧げるのが、楽しいからだ。
どうして、それを忘れていたんだろう。

自分がお祈り課題をいう番になり、
「80人の、ゴスペル初心者を、アカペラで、ディレクションするという状況に置かれています」というと、
なぜか、どーっと大笑いされる。
大笑いされて、にわかに、肩の荷が下りるのを感じた。
「あ、笑いごとなんですねー、これ。超悲惨な状況かと思っていた」というと、またもや、どっかんどっかんウケる。
「今までとはまた違う、新しいステップに挑戦してみろ、という神様からのメッセージなのかな」というと、
「そうだよ!」という声があがり、
うんうん、うなづいてくれる仲間がいる。

ひとりでオロオロしていた自分が馬鹿に見えてきた。
神様は、きちんと、助けを与えてくれていた。
もっと早く、神様に相談すればよかった。

その週の川崎LittleLIghtのリハーサルでは、LittleLightのメンバーである高橋誠牧師に相談。初めてゴスペルを歌う人へのシェアの仕方を教えてもらい、「伴奏のカラオケ、作ってあげようか」とまで言ってもらう。

また、ふと思いついて今回の全国集会に参加するTさんに
「伴奏をお願いできる人、いませんか」とメールすると、即座に「私でよろしかったら、ピアノを弾きます」という返信が!
と同時に、一人で背負い込んでおろおろするな、という教訓を生かして、小舘兄にメール、
「ゴスペルのリハーサルを、小舘さんにもイメージしていただきたいので、
クワイアーのリハーサルを、見学にいきませんか?」というと、これまた、すぐに了解の返信!
直近のリハーサルが行われている小岩のクワイアーに行くことになりました。
小岩のクワイアーのリーダーである小澤寛子さんからも、「待ってます!」の返信。
ああ、助けられています。

小岩のクワイアーでは、
「こころを尽くして」というピアノ・コージさんのゴスペルと、
「Total Prase」を讃美、
nikkou自身、初対面の人たちとも、神様の前では気兼ねなく讃美する、という快感を思い出し、
小舘兄は「あまりの素晴らしさに、カルチャーショックを受けた。」と熱い感動を語ってくださったのでした。

全国集会の直前には、登戸学寮という無教会の学生寮で、学生さんたちとリハーサルをさせていただきました。
登戸学寮の学生さんたちがまた、歌がうまくて。
あっというまに曲を理解してしまうことに、舌をまきました。
私自身、すこし感覚がつかめ、Tさんの伴奏に対する信頼感も与えられました。
さらに、リハーサルに来てくれたAさんがギター伴奏で参加してくれる、とも!
さらにさらに、参加者も80人ではなく20人程度、という小舘兄の報告にほっとしながら、当日に臨んだのでした。

さて、当日。
自己紹介で、どきっとする声がありました。
「私は仏教徒で、あまり考えずに、この集会に参加してしまったのですが、ゴスペルを歌える、ということで、楽しみにしています。」
…そ、そうですか。
nikkou、緊張いたします。
と、同時に、
この彼女に楽しんでもらわなければ、
この彼女に、ああ、ゴスペルっていいなあ、と思ってもらわなければ、
と責任を感じました。

さまざまなプログラムは順調にすすみ、
とうとう、ゴスペルの時間。
nikkou、直前にトイレに駆け込んで、ひとり、祈りました。
神様、あなただけを見上げ、あなただけを心から喜んで讃美できるようにしてください。

26名の参加者の前に立ち、祈り、そして、
「This little light」(この小さな光を)、
Lyreの「もちいてください」、
「Amazing Grace(おどろくばかりの)」を讃美。
無我夢中ではありましたが、ふと気付くと、
全身をそらすようにして大きな声で讃美している兄貴、
軽快なステップを踏んでいる姉貴、
自己紹介の彼女も笑顔で大きな口をあけ、
輝くばかりの顔、顔、顔、そして、思いがけないほど大きな声に包まれていました。
(あとで、夫のところに来たある参加された方のメールには、
ゴスペルの時間について、
「歌は苦手なのですが、気がついたら、大きな声で歌っていました」という一文がありました。)

これはもう、nikkouの力ではありませんね。
やはり、神様の国からの風、「聖霊」が吹きわたっていたに違いない。
本当に、すばらしい讃美のひとときでした。

あとで夫から
「nikkouさん、ディレクションがうまくなっていて、びっくりした。まりりんさんみたいだった」と言われました。
「まりりんさん」とは、nikkouが長いことメンバーだったシャローム・ゴスペル・クワイアーのディレクター。
知らず知らず、多くの影響を受けていたのでしょう。

小舘夫妻、登戸学寮の学生さんたち、高橋誠先生、
讃美の相談を受けてくださったNさん、
ピアノを弾いてくださったTさん、
ギターを弾いてくださったAさん、

小岩のクワイアーの小澤寛子さん、
久遠Nu Praiseの坂上悦子さん、
祈祷会のリーダーの粟野めぐみさん、
ディレクターの仲間たち、
シャロームの「まりりん」さん、
わが夫、
青年全国集会で一緒に讃美してくれたおひとりおひとりに、
こころから、感謝。

そして、なによりも、
すべて、きちんと道筋をつけて導いてくださった、わが主に、感謝。
この道筋の、ひとつでも、順番が狂ったり、一人でも欠けたりすれば、このひとときは、与えられなかったのではないかと思う。

頑固なnikkouのエゴも、砕かれ、溶かされたのでした

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May 19, 2009

キリスト教・無教会青年全国集会(3)―ゴスペルのひととき(前編)

小舘兄から青年全国集会の企画を知らされた数日後、さらに一通のメールが、nikkouに送られてまいりました。

「プログラム案を書いた後で思いついてしまったのですが、
ぜひともどこかにみんなでゴスペルをうたうようなコーナーをもうけ、
nikkouさんにご指導していただきたいのです。
ご協力をお願いできませんでしょうか。」

じつは小舘兄、わたしたちの結婚式にも出席してくださって、入退場の際、友人たちが讃美してくれたゴスペルにとても感心していらしたのでした。
いつか無教会でもゴスペルを歌おう、とお考えだったのかもしれません。
正直にいいますと、nikkou、この時点で、「全国集会ったって、どうせ、10人前後の参加だろうな」とタカをくくっておりました。
10人くらいなら、川崎Little Lightだって、それくらいの規模になったことがありますし、久遠Nu Praiseでときどきディレクションを振られるときも10人前後です。
そのくらいの人数ならアカペラで小曲ならなんとかできるだろう、と、
あまり考えずに
「やりましょう!」と承諾してしまったのでした。

ついでに、全国集会のプログラム中の讃美も、
日本キリスト教団の「讃美歌」からのみで、ちょっと固いのではないか。どうせなら、新しい讃美もたくさん入れたほうがいいのではないか、
と小舘さんに進言。
「ヒムプレイヤーにそれしか入っていないのだけれど、ほかに伴奏があればいいのでは」という返信に力をえて、
(今思えば)nikkou、
…暴走いたしました。

徳島聖書キリスト集会の勝浦さんがカラオケをつくっていらしたはず!と徳島のNさんに電話、
思いつくかぎりのワーシップソングを挙げ、
プログラムの改変を提案したのでした。
当惑していらしたのはNさん。
「ワーシップソングでは、歌ったことがない人もいるんじゃないかと思うんです。変更するなら『讃美歌』を『讃美歌21』にするとか、『聖歌』を『新聖歌』にするとかくらいのほうがいいのではないでしょうか。」

…思い返すに、賢明なアドバイスだったと思います。

ただ、nikkou、すっかり舞い上がっておりましたから、「固いなー」と憮然としました。
夫にも「こうなったら、すんごいすばらしいゴスペルを紹介して、度肝をぬいてやるわ!」と息まいたりしておりました。
そんなわけで、少し気持ちが沈んでいるところに、
さらに、小舘兄から
「参加者は80人くらいになりそう(!)」という情報が入ります。
nikkou、にわかに不安に襲われました。

「ゴスペルが好きではない人がいる(と、nikkouが勝手に解釈した)80人もの、ゴスペル初体験の人を、アカペラでリードするなんて、ハードル高すぎ!」

さてこうなったら、選曲からまずとりかからねばならないとエゴむき出しでがつがつしているところへ、
ふと、久遠NU Praiseの坂上悦子さんから、メールが舞い込んできました。
「今週末、ゴスペルのディレクションをしている人限定で祈祷会があるんだけれど、来る?」
おお。天の助け。先輩ディレクターたちにアドバイスを求めにいこう!
とnikkou、「喜んで、行きます!」と返信いたしました。

ところがその祈祷会で、リーダーの粟野めぐみさんは、最初にこう言うのです。
「祈祷会のルールとして、次のことを守ってください。

1)ここで話されたことは、絶対に秘密にすること。
2)お祈りしてほしい課題をいうこと。愚痴をいわないこと。
3)アドバイスを求めないこと。

えー。アドバイスを求めちゃいけないのー、とがっかりいたしました。
ところが、nikkou、この祈祷会で、ほろりん、と頑固なエゴが溶かされたのです。
(後編に続きます)

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May 14, 2009

キリスト教・無教会青年全国集会(2)

Dscn0968 2日目は、小舘美彦さんのリードで、内村鑑三の信仰論について学ぶことからスタート。このあたりが「無教会」らしさであります。

nikkou的に、心にコツン、とぶつかってきたのは、
「信者の義はその(十字架の)中にあるのである。それが広義となりて社会に現れ、善行となりて世の称賛を招くに至るのを待つ必要はないのである。」(「信仰の強弱」より)
「多くの人は信仰に達っせんと欲するがゆえに達しえないのである。信仰に達する真の道は、達っせんと欲する努力をやめて、自己をそのまま彼の御手にゆだねまつるにある」(「信仰の道」より)、
「神を愛し、罪を恐れず、十字架上のキリストを仰ぎみておのれにかえりみて自ら神前に義たらんとつとめず、これ大胆者の信仰である」(「大胆なる信仰」より)

という文章。
小舘兄は、内村鑑三が、「私たちはことさら愛や善行を実践する必要がないこと。ただひたすらすでに十字架において救済が達成されていることを信じさえすればよいと述べる」。
つまり、「信仰よりも愛の行いや善行を優先してしまうことは間違っている」と主張したと解説。
ただ、「愛の行いや善行そのものを否定したわけではない。信仰の恵みとして愛の行いや善行が生まれることはもちろん良いことであるし、信仰を強めるために努力して愛の行いや善行を行うこともよいことなのである。」
そして、このような信仰観(信仰そのものが目的であり、愛や善行は恵みないし手段であるという信仰観)から、「多少の間違いを犯してもよいから、神の前に正しいと思ったならば、がんがんチャレンジして生きろと呼びかける」と解き明かしてくれた。

小舘兄、最後に「『いや、それは違うだろう』と思う人もいると思う。それは結構なんです。内村が100%正しいなんてことはないから。みなさんの経験と照らし合わせて、内村の言葉をよく考えてみてください」としめくくった。
ああ、こういう感覚が健全だよなあ、カルトじゃないまともな宗教って感じがするなあ、と思いつつ聞いておりました。

じつは参加者から挙げられた「信仰上の疑問点」に、「ほんとうにキリスト教とは、一番すぐれた信仰なのだろうか? 私の知っている仏教徒には、本当に尊敬すべき人格を持ち行動もされている人がいる。」「『キリスト教は、一番すぐれた信仰』という考えは高慢ではなかろうか」というのがあったのです。
もう、これはねー、日本でクリスチャンやっている限り、避けて通れない問題ですよねー。オール・クリスチャンの、アメリカ南部の黒人教会じゃあ、まずあり得ない疑問だろう。
それに対して、今日ひとつの答えが、内村鑑三から示されたな、と思ったわけです。
別に、人格者になるため、善行をするために、私たちはキリスト教信仰が与えられたわけじゃないでしょ、というのが内村鑑三の考えじゃないか、と思ったのです。なんせ、彼は儒教道徳をバックボーンにもったお侍さんだったわけで、儒教道徳をまじめに守ったほうが「人格者」になれたかもしれない。
でも、どの宗教が優れているかどうか、とか、どうしたら人格者になれるのか、なんていう問いかけなんかふっとぶような、(吉村孝雄さんの言葉でいえば)圧倒的な迫り方、(nikkouの実感からすると)すごい開放感でもって、信仰が与えられて、結果的に、人格者になる人もいるかもしれない(ならない人もいるかもしれない。あたしみたいに。)。
「キリスト教が一番すぐれた信仰」かどうかは、nikkouには、わかりません。nikkouも、すごくすばらしい仏教徒の人を知っています。古い神社仏閣を散策するのだって好きだ。
でも、人格者になれるかどうか、ということは、あまり比較基準にならないのかもしれない、と思った。nikkouの人生においては、主イエスが開放を与えてくれた。それだけは確実に言える。
ただ、こんなことを考えられるというだけでも、この日本に生れてよかったんじゃないかな、と思いました。

続いて、昨日同様、ディスカッションの時間がもたれました。
「信仰とはなにか」という今回のテーマについて、「逆に、信仰がない、とはどういうことか想像してみよう」
「神様は、信仰をわたしたちに与えることで、何を望んでおられるのだろう」というテーマが小舘兄から出される。
後者については、「そんなの、神様しかわからないんじゃないの」という声があがる中、わたしのいたグループからは「昨日のゴスペルでしょ。This little light of mine!(神様が私たちの内に与えてくれた小さな光を輝かせよう、という讃美)」「こうやって語り合う中で、エマオの旅人みたいに心が燃えてくること」という名言が飛び出しました。
アーメンでありました。

「青年会のブログ」にも、今回の報告が載っています。Lamb's Foldー青年会のブログー : 青年全国集会に参加してきました

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May 13, 2009

キリスト教・無教会青年全国集会(1)

Dscn0966_3  ゴールデンウィークの5月5日・6日に、夫婦で「キリスト教・無教会青年全国集会」に行ってまいりました。テーマは「信仰を持って生きるとは」。
とても楽しく、充実した一泊二日となりました。

名古屋の小さなホテルで、総勢26名、全国から集められた無教会にかかわる同世代が、ディスカッションをしたり、祈りあったり、そしてゴスペルを歌ったり(!)しました。

冒頭に、青年全国集会のリーダーで、無教会の若い伝道者でもある小舘美彦さんから、青年全国集会の三原則が掲げられました。

1)恐れずに、正直に心を開くこと。言いたいことは遠慮なく口にすること。
2)たがいに尊重しあうこと。他人をバカにしたり、傷つけないように配慮すること。
3)打たれ強くなること。傷ついても、神様がくださった試練だと思ってぐっとこらえること。

三原則が守られたのか、2日間、さまざまな機会でもたれた話し合いで、私自身は一回も嫌な思いをすることなく、楽しく語り合うことができました。(でも、私がだれかを傷つけたりいやな思いをさせたりはしたかも。この場を借りて、ごめんなさい。)

最初の聖書講義は、徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄さん。唯物論者ばーっかりだった大学生時代、ある日一冊の本によって主イエスに出会い、まったく変えられてしまったこと。仏教も勉強したし、コーランも読んだけれど、そうしたほかの宗教と比較して、キリスト教がいい、と思ったのではなく、圧倒的な力で主イエスが迫ってきたこと。「信仰」とは、自分で選びとったり、研究の対象とするものではなく、一方的に与えられ、圧倒的に迫り、今生きて働いているものであること。そして、今日集った若者から、主に促された働き人が起こされることを願っていること。
・・・そんなことを話されました。

その後、小グループに分かれてのディスカッションがあり、参加者から出された信仰上の悩みが語り合われました。たとえば、
「クリスチャンとして生きてくためには、群れが必要なのでしょうか。同じクリスチャンの群れであるはずなのに、そこにいると苦しくなってしまうのはなぜでしょうか。」
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、というみことばが好きなのに、他人に対して怒りをコントロールできない。」…などなど。

なかなか率直な打ち明け話がされ、お互い一生懸命、考えたり、励ましたり。nikkouのグループでは、「でも、怒りのない人って、気持ち悪いですよー。なんか、仮面をつけているみたいで」という大学生がいたので、nikkou思わず、
「そうそう。いつも怒らないでにこにこしている敬虔そうなクリスチャン、ってムカつかない? いきなり水をかけるとか、そういう意地悪をして、どこまでやったら怒り出すか試したくない?」と言ってしまい、「いや、おれ、そこまでえげつなくないっすから」とドン引きされてしまう。
「あー、こういう話できるだけで、すごいうれしい。自分の通っている礼拝で、そういう話をすると、『信仰が足りない』って言われたり、たくさん本を渡されたりとか、するばっかりで、ただ、心のもやもやを打ち明けたかったんだよねー」という兄貴もいて、終始、のびのびした話し合いでありました。そう、「分かち合い」が必要だったんだよね。もちろん、指導や教示がありがたいときだってありますが、まずは「そうそう」と受け止めてくれる友が必要なときもあります。

その後のゴスペルの時間では、This little light of mineと、Lyreの「もちいてください」を讃美。nikkouがディレクションを担当させていただきました。
この讃美の準備を通しても、大きな成長を促されたように思いました。長くなるので、それはまた項を改めて書きたいと思います。

「無教会青年全国集会」2日目の話につづきます。

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