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November 19, 2009

われわれクリスチャンは不寛容なのか(つづき)。

Ueno2 つづきです。

日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするか。

正直に言って、やはり「空気」を優先するだろうなあ、という気がした。
「空気」を破って、食べたり食べなかったりできるかなあ。ちょっと勇気がいるし、周囲が日本人だけだったら、「私は空気を読めていないんじゃなくて、空気を読んでもなお、神に従うんです」ということを理解してもらうのに、骨が折れそう。

ちなみに、アメリカの保守的なWASPが多い地域に一年間留学をしたことのある相方にこの話をしたら、
「そりゃー、誤解だよ。アメリカ人も『空気』を読むよ」と反論された。
「その事故の場合は『神様に祈って決めよう』という空気になっただけだよ。
なかには『民主的に多数決で決めよう』って考えてる人だっていたと思うよ。
でも『神様に祈って決めよう』って空気になったから、それに従ったんじゃないの。
人間、そんなに考えることって違わないよ」
だそうであります。
たしかに、もし生存者に無神論者がひとりいて、「わたしは神なんていないと思うから、その案は無意味だと思う。多数決で決めましょう」って言いつのったら、どうなるんだろう。無神論者の人は疎外感を覚えるだろうし、まわりのクリスチャンは「KYだなあ」って思うかもしれない。
つまり、この時は、たまさか、みんながクリスチャンだったから、一応の共通認識に立ったうえで、「寛容」にもそれぞれの決断が尊重された、という面があるのかもしれないのだ。

同じように、nikkouが常日頃言われている「あなたたちクリスチャンは不寛容だ」というセリフは、
「神との関係を持っていない人は、あなたたちの価値観の中にいると疎外感を覚える」という意味だろうと思う。
でも、その都度、クリスチャンだけじゃないでしょ、日本人だって「空気」という「神」への不寛容で排他的で独善的な信仰を持っていて、日本人じゃない人はその「空気」に疎外感を覚えるよきっと、と反論しそうになる。
(山本七平には、この「空気」信仰が、戦時中どんなふうに働いたか分析した『「空気」の研究』という著作があります。)
nikkou自身、振り返ってみた感じ、
クリスチャンになる前も、なったあとも、自分と違う価値観に対しては同じくらい、「不寛容」で「排他的」で「独善的」なんだろうと思っています。
でもそれがたぶん、人間の「罪」のひとつなんじゃないかなあ、と思う。
だから、イエスは、人間のその「罪」をきっちり捉えて、「あなたの敵を愛せ」、「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを、あなたの隣人にもしなさい」と言ったのだ。

(「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを…」がキリスト教の独善性を表す、という人もいるが、
実際にこれを本気でやってみると、すごーくたいへんなことがよくわかる。
相手の立場を自分におきかえて、さらに、神様からはどう見えるか、という視点までもって、
すごくすごく考えなければならないので、
どうしても客観的にならざるを得ない。独善的には、なりようがない。)

イラク戦争やアメリカの黒人差別、日本人クリスチャンも戦時中に朝鮮のクリスチャンに神社参拝を強制するなど、これまでキリスト教徒の人たちが「不寛容」で「排他的」で「独善的」といわれるようなことをしてきたのは、事実だと思う。では、彼らがキリスト教徒でなければ、寛容で、普遍的な善を行い、正しく生きたか、というと、さて、どうかわからないと思う。

でも、クリスチャンになっても、なかなかイエスの言うとおりにはできない。

たぶんそれは、人間である限り、どうしようもないんだろうと思う。
ただ、「わたしは人間だから、『不寛容』で『排他的』で『独善的』である」という自覚があるのと、ないのとでは、微妙に違うような気もする。

主イエスは「自分のことも分かってないのに、人を裁くな」と言った。
だから、「小沢さんだって、不寛容で独善的じゃーん」なんてのは、まさに、主イエスが指摘した「人を裁く」行為なんだろう。水掛け論だ。
さらに主イエスは、「木は実によって判断される」とまで言われた。
だから、nikkouが主イエスに愚直に従うなかで少しでも「これぞ真の寛容な人間だ」と、こころある人に理解されれば、
だれかを言葉で論破するよりはるかに、主イエスに喜ばれるような気がする。

そんなわけで、飲み会で何を言われようと、小沢さんが何を言おうと、いつか「実」をみてもらえるよう、じっと聖書に学び続けようと思う。
(でも、こんなところに、言い訳がましく書いちゃったけどね。)

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November 17, 2009

われわれクリスチャンは、不寛容なのか。

今日、上野公園を通ったら、「上野よみがえり会」というキリスト教団体が雨の下、ホームレスさんに炊き出しをしていました。(カメラを向けるのがためらわれたので、これは、炊き出しが終わった後の広場。)

(「上野よみがえり会」は、愛宣教会のホームレス支援団体。『ホームレス入門―上野の森の紳士録』に愛宣教会の牧師先生のお話が出てきて、nikkou、不覚にも涙しました。)

Ueno1_2

さて、数日前、小沢一郎さんが、「キリスト教は排他的で独善的だ」と発言されたことがニュースになっております。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091110/stt0911102121020-n1.htm

nikkouもクリスチャンになって丸7年となりますが、
どうなんでしょうね、私は7年前より排他的で独善的な人間になってしまったのでしょうか。

ちなみにこのセリフ、この7年間、絶えず聞かされてきた気がいたします。
ついひと月前も上司と飲んでいて「一神教は不寛容だ。」と断罪されました。
わたしは彼になにか不寛容なことをしたのだろうか。
ちょっと聞いてみたいような気もしたのだけれど、
なんとなく「ここは問い詰める『空気』じゃない」と思ったのと、
いつもこういう場面で感じる、「ここでムキになったら、『ほうら、不寛容だ』と上げ足を取られておしまい」という感覚があったのとで、
さらりと流してしまいました。

「キリスト教は不寛容」「排他的」「独善的」というセリフは、イラク戦争以降、日本でしきりに言われるようになった気がいたします。
ただ、イラク戦争のあと、
日本でも「自己責任」だの「KY」だの「負け組・勝ち組」だのといった言葉がはやって、
「なーんだ、日本人だって不寛容で排他的で独善的じゃん」みたいな声もちらほら上がるようになって、
すこし下火になったのかな、と思っておりました。
どっこい、根強いです、われわれ「クリスチャンは排他的で不寛容で独善的」説。

鴻上尚史という脚本家がいて、彼がわりと繰り返し書いているエピソードがある。
「アンデスの奇跡」と呼ばれる実話だそうであります。
こんな話。

今から30年ほど前、アメリカのアンデス山脈に飛行機が墜落した。
ほとんどの人が墜落の際に亡くなったそうですが、
数名が、生き延びた。
ところが、墜落したのは荒涼とした山の中、
救助も期待できず、食べ物も底をつき、
とうとう、亡くなった人を食べよう、ということになったそうであります。
鴻上尚史が語るには、
その際、生き延びた人は全員クリスチャンだったので、
「食べるかどうかはおのおの神様に祈って決めよう」ということになったそうであります。
祈った結果、神様に「食べろ」と示された人は、食べる。
「食べるな」と示された人は、食べない。

(人によって神は違うことを示すのか、という突っ込みをしたくなりますが、
nikkouのささやかなクリスチャン歴から鑑みるに、
同じ状況でも、神様がその人に応じた葛藤や決断を導くということは大いにあると思います。
「ナルドの香油」。)

鴻上さんはそれを知って、「これが日本人だったらどうするかなあ」と考えたとか。
で、日本人ならきっと「空気を読む」だろう、という結論に至った。
「空気」が「みんな、生き延びるために食べよう!」だったらみんな食べるし、
「やっぱり良くないよ」だったらみんな食べない。
さらに、「食べよう」という「空気」になったあとも、だれが最初に食べるのか、みたいな「空気」を読み合ったり、「あいつKYだ」と断罪したりするだろう、とのこと。
なるほど。
日本にも「ひかりごけ」とか「野火」みたいな作品がありますから、
実際どうなるかはわかりませんが、まああり得ないことではない。

そこで、日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするだろう、とちょっと考えてみました。
(ちょっと長くなってきたので、続きはまたあした。)

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November 16, 2009

主イエスにつながるぶどうの枝枝

さて、もう一月もたってしまいましたが、今年の無教会全国集会は初めて開催されてから23回目だったそうで、歴代の全国集会で最も参加者が少なかったそうであります。
なんでも無教会クリスチャンが高齢化し、
次々と他界、
後継者もいない集会がほとんどだとか。

若者はなぜ無教会に集まらないのか―
無教会の将来はどうなってしまうのか―
といったことが、
今回、集会を通じて嘆じられておりました。

そんなこんなの一番最後、
閉会の挨拶で、事務局の小舘兄が壇上から、こんなことを言った。

「無教会に若者が集まらない、後継者がいない。そうみなさんお嘆きですが、はたして、そうでしょうか。本当に後継者がいないのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
無教会の後継者たる若者たちが、わたしたちの目の前にいないだけではないでしょうか。
わたしたちの見えないどこかで、内村(鑑三。無教会の創始者)や塚本(虎二。無教会の伝道者)・矢内原(忠雄。東大総長。無教会の伝道者)の著作を読み、静かに福音の種を芽吹かせている若者たちがいるのではないでしょうか。」

……勝手に小舘兄の援護射撃(?)をさせていただきますが、
nikkou、証言いたします。
Yes!
おりますよ!無教会の集会に来ない、内村鑑三から福音の種を芽吹かせた若者。

nikkouの知っている人で、2名おります。
ふたりともゴスペル仲間で、ふたりとも男性です。

ひとりは、アメリカ留学中に信仰を与えられ、日本に帰ってきて「日本のクリスチャン」という立場に悩み、
内村鑑三の著作に触れて一息つき、
今は、教会に連なりつつ、ブログなどで内村の紹介をしています。

もうひとりは教会で信仰を与えられたものの、教会を離れ、
無教会の集会には1、2度出席したものの、そこからも離れて、
今はどこにも属していない。
いずれ、ゴスペル仲間たちと、喫茶店などで塚本訳の福音書を輪読しながらディスカッションをする会を始めたい、というヴィジョンを語ってくれたことがあります。

(最近、またひとり、nikkouのブログを読んで「無教会」に興味を持ちました、という方に出会った。)

こういうことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、
nikkouが観察するところ、
今の無教会というのは、樹形図というか、家系図をとても大切にする傾向が強いように思います。

内村先生の弟子の、塚本先生(矢内原先生・政池先生・高橋三郎先生…etc)の弟子のナニナニ先生の集会のナニナニさん…みたいな。
ちなみに若い世代は必ず「独立学園(無教会系私立高校)の卒業生ですか、何期生ですか」と聞かれるけれど、これもまあ樹形図の一枝なんだろう。
nikkouは無教会クリスチャンの人と結婚したために無教会に出入りしている、という立場なので、この樹形図に連なっておらず、時々なんとなく「よそのおうちの子」という気分になることがある。

でもね、たぶん、ありとあらゆる教派が、最初はそうだったんだと思うんです。
クエーカー派(17世紀創設)のジョージ・フォックスさんとか、メノナイト派(16世紀創設)のメノ・シモンズさんとか、メソジスト(18世紀創設)のジョン・ウェスレーさんとか、ひょっとしたら、プロテスタントの始まりのルター(1483-1546)も、
いやいや、そもそも主イエスご自身、最初の100年くらいは「主イエスの弟子の、ペテロさんの弟子の、ナントカさんの弟子の、ナントカさんの弟子の、ナントカさんの教会の人」みたいな言われ方があったんじゃないか、と想像する。

そういやパウロにも「あなたがたはめいめい『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」と嘆いている手紙がある(コリントの信徒への手紙1章12節)。
でも、今となっては誰も、「私は主イエスの弟子の、パウロの弟子の、アポロの弟子の、ナントカの弟子の、ナントカの弟子の………の弟子の、nikkou」なんて言い方はしないでしょ。
あえて言えば、中間の人たちはみんなすっとばして、直接「イエスの弟子のnikkou」であります。


ということは、無教会もあと50年後くらいには、「ナントカ先生の集会」的な樹形図はいったん立ち消えになってしまって、
そのかわり、nikkouの友人たちのように、個人的に内村や塚本の著作を読みながら、主イエスに出会い、友人たちとその喜びを分かち合おう、とする小さな輪が生まれてくるかもしれない。

もしそうなった時、その小さくて、若い芽吹きは、「無教会クリスチャン」と呼ばれるだろうか。
呼ばれないかもしれない。
でも、いいんじゃないかな、と思う。
ちゃんと、内村鑑三が伝えたかった「イエス・キリストの福音のよろこび」はつながるのだから。
そして、そうなったときにはもはや、内村鑑三のものの見方が、内輪の伝承を超えて日本中で普遍化した証拠ではないか、と思うのであります。

インターネットの時代ですから、「内村鑑三を読んで、主イエスと出会った方、内村鑑三に学ぶことがある、と思っている方、分かち合いの時をもちませんか」と呼びかければ、すぐに数名か、数十名か、集まるだろうと思います。やがて、そんな「全国集会」が開かれるかもしれません。無教会の家系図に連なっていても、いなくても、教会に通っている人も、どこの教会にも集会にも行っていないけど一生懸命聖書を読んでいます、という人もウェルカム、という形なら、それこそたくさん集まることでしょう。
一方、そうなったら、それはそれでいろいろと試練もあるだろう。
でも、みんながそろって主イエスにつらなっていれば絶対にだいじょうぶ、試練は乗り越えられるはず。主イエスはこう言っている。

「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節

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November 13, 2009

Steal away

お待たせいたしました、「Steal away」(歌:「無教会全国集会2009 第9分科会ゴスペルシンガーズ」)です。ニフティは、1MBしかアップロードできないために(つまり、おおきなファイルは載せられないために)、1番だけです。

歌詞は、次の通り。

Steal away

Steal away
Steal away
Steal away to Jesus

Steal away Steal away home
I ain’t got long to stay here

1. My Lord He calls me
He calls me by the thunder;

The trumpet sounds
within a my soul

I ain’t got long to stay here

*(Bridge)

2 .Green trees a bending
Poor sinner stands a trembling;

The trumpet sounds
within a my soul

I ain’t got long to stay here
*(Bridge)

3. My Lord He calls me
He calls me by the lighting;

The trumpet sounds
within a my soul

I ain’t got long to stay here

Steal away
Steal away  home

(日本語訳)
こっそり こっそり こっそり
イエス様のもとへ 逃れていこう

こっそり こっそり、ふるさとへ逃れていこう
もう、ここには いなくてもいい

1 わが主なる神様が呼んでいる
神様が 雷で呼んでいる

トランペットが 私の魂のうちから 鳴り響く

もう ここには いなくてもいい

2 青い木がたわんでいる
あわれな罪びとが ふるえながら 立っている

トランペットが 私の魂のうちから 鳴り響く

もう ここには いなくてもいい

3 わが主なる神様が呼んでいる
神様が 光で呼んでいる

トランペットが 私の魂のうちから 鳴り響く

もう ここには いなくてもいい

こっそり こっそり  ふるさとへ

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