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November 17, 2009

われわれクリスチャンは、不寛容なのか。

今日、上野公園を通ったら、「上野よみがえり会」というキリスト教団体が雨の下、ホームレスさんに炊き出しをしていました。(カメラを向けるのがためらわれたので、これは、炊き出しが終わった後の広場。)

(「上野よみがえり会」は、愛宣教会のホームレス支援団体。『ホームレス入門―上野の森の紳士録』に愛宣教会の牧師先生のお話が出てきて、nikkou、不覚にも涙しました。)

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さて、数日前、小沢一郎さんが、「キリスト教は排他的で独善的だ」と発言されたことがニュースになっております。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091110/stt0911102121020-n1.htm

nikkouもクリスチャンになって丸7年となりますが、
どうなんでしょうね、私は7年前より排他的で独善的な人間になってしまったのでしょうか。

ちなみにこのセリフ、この7年間、絶えず聞かされてきた気がいたします。
ついひと月前も上司と飲んでいて「一神教は不寛容だ。」と断罪されました。
わたしは彼になにか不寛容なことをしたのだろうか。
ちょっと聞いてみたいような気もしたのだけれど、
なんとなく「ここは問い詰める『空気』じゃない」と思ったのと、
いつもこういう場面で感じる、「ここでムキになったら、『ほうら、不寛容だ』と上げ足を取られておしまい」という感覚があったのとで、
さらりと流してしまいました。

「キリスト教は不寛容」「排他的」「独善的」というセリフは、イラク戦争以降、日本でしきりに言われるようになった気がいたします。
ただ、イラク戦争のあと、
日本でも「自己責任」だの「KY」だの「負け組・勝ち組」だのといった言葉がはやって、
「なーんだ、日本人だって不寛容で排他的で独善的じゃん」みたいな声もちらほら上がるようになって、
すこし下火になったのかな、と思っておりました。
どっこい、根強いです、われわれ「クリスチャンは排他的で不寛容で独善的」説。

鴻上尚史という脚本家がいて、彼がわりと繰り返し書いているエピソードがある。
「アンデスの奇跡」と呼ばれる実話だそうであります。
こんな話。

今から30年ほど前、アメリカのアンデス山脈に飛行機が墜落した。
ほとんどの人が墜落の際に亡くなったそうですが、
数名が、生き延びた。
ところが、墜落したのは荒涼とした山の中、
救助も期待できず、食べ物も底をつき、
とうとう、亡くなった人を食べよう、ということになったそうであります。
鴻上尚史が語るには、
その際、生き延びた人は全員クリスチャンだったので、
「食べるかどうかはおのおの神様に祈って決めよう」ということになったそうであります。
祈った結果、神様に「食べろ」と示された人は、食べる。
「食べるな」と示された人は、食べない。

(人によって神は違うことを示すのか、という突っ込みをしたくなりますが、
nikkouのささやかなクリスチャン歴から鑑みるに、
同じ状況でも、神様がその人に応じた葛藤や決断を導くということは大いにあると思います。
「ナルドの香油」。)

鴻上さんはそれを知って、「これが日本人だったらどうするかなあ」と考えたとか。
で、日本人ならきっと「空気を読む」だろう、という結論に至った。
「空気」が「みんな、生き延びるために食べよう!」だったらみんな食べるし、
「やっぱり良くないよ」だったらみんな食べない。
さらに、「食べよう」という「空気」になったあとも、だれが最初に食べるのか、みたいな「空気」を読み合ったり、「あいつKYだ」と断罪したりするだろう、とのこと。
なるほど。
日本にも「ひかりごけ」とか「野火」みたいな作品がありますから、
実際どうなるかはわかりませんが、まああり得ないことではない。

そこで、日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするだろう、とちょっと考えてみました。
(ちょっと長くなってきたので、続きはまたあした。)

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Comments

私は、数人のキリスト教徒の友人がいますそして10年ぐらい聖書やキリスト教の勉強もしました。
しかし一人一人の人間としてけして悪い人々ではありませんが。結局、親しくなればなるほど人を改宗しようと出てきます。彼らにとって異文化異教徒は罪であり救わなければならない対象なのです。それは彼らが神とするヤハウエの愛が、結局のところねたみと嫉妬の愛の神であり、キリスト教の教義の中心においてもイエスの思想と異なり排他的であるといわざる得ないのです。他者の(文明・宗教を否定した救済は、結局我執の救済であり、征服なのです。)その歴史においても、彼らが征服した、南米のインデオに自らの宗教や文化を取り戻させようとは思わないのです。
このことはいくら話してもわからないのです。
最後の審判で、キリスト教徒は自分たちのみが救われ、異教の民は滅びると考えっます。つまり選別です。
イエスの名によってのみ救いにいたる道がある。
この様な思いがあり、他者へのエゴの愛と同時に利他的愛は成り立たないのです。
他者の誇り奪い征服する愛それがキリスト教です。
尚「イエスの名によってのみ救いにいたる道がある。」という文言があるとしても[新約聖書の作者がイエスの口に入れたと思われる]イエスの思想は福音はキリスト教の教義と異なり無我無私の愛を説いていると感じます。キリスト教は結局パウロの宗教です。 

Posted by: tanuki | August 31, 2013 at 12:31 AM

tanukiさん コメントありがとうございます。
するどいですねー。まったく同感です。
「イエスの名によってのみ救いにいたる道がある」というイエスのことばは、たぶん、聖書を記した人たちの信仰告白だったんだろう、とnikkou も考えています。
イエスの愛を宗教化して他者を傷つける刃としないよう、nikkou も心していきたいと切に思います。

ただひとことだけ。nikkou よりも深く聖書を学ばれたtanukiさんには言うまでもないことかと思いますが、パウロの真意も、「キリスト教徒」には深く理解されていないのかもしれない、と思うことがあります。(もちろん、nikkou もちゃんと理解していないと思う)。イエスの愛も、パウロの真意も、誤読しているのではないか、その本質はなんなんだろう、と問い続ける人生が、nikkou にとっての信仰生活です。

Posted by: nikkou | September 02, 2013 at 08:32 AM

 人間には神が必要です。しかし自分たちが、自分が自分の所属している宗教のみがそれを理解し所有していると考えるのは思い上がりだと思います。神を感じることはおそらく人が何物にもとらわれず、謙虚になりきった時なのだと思います。本当のことを言えば自分はパウロのことはまだよく理解できません。
ただ、イエスを神と祭り上げた彼の神学が気になります。
最近クエーカー教徒について少し学びました、彼らは3位1対などは砂上の楼閣だと表明してピューリタンに迫害されました。
つまり、キリスト教神学を認めないクリスチャンです。したがって、今日でも異端とされています。
しかし、彼らの歴史を調べてみると他者を、他宗教を迫害した歴史が全くありません。
また、ピューリタンたちが滅ぼした、アメリカインデアンとも融和的だったそうです。そして、慈善活動にも平和にも彼らの貢献は非常に大きくノーベル平和賞を2度も受賞しています。アーミッシュの人々も教会の権威を認めない異端者としてプロテスタントから迫害されました。だけれども「神を憎む男の銃撃事件2006年10月」のとき彼らは加害者の家族を許すと表明しました、彼らにとって「汝の敵を愛せよ」は言葉だけではないのです。
だが、私にはキリスト教神学を絶対としない彼らのほうにこそイエスの精神があるように感じるのです。
私はキリスト教徒ではありません。仏教徒でもありません。
どちらにも共感する面は多くありますが。
一つの宗教を絶対視することが、多く悲劇
生み出してきた原因に思えてなりません。
 信仰は人に安らぎを与えますが同時にその信仰を揺さぶられたとき信者は存在不安に陥り(相手が自分と違うコスモロジーを持つことに不安となる)悲劇を繰り返してきたように感じるからです。

Posted by: tanuki | September 03, 2013 at 06:01 PM

クエーカー教徒も、アーミッシュの人たちも、興味深いですよね。私の身近にもクエーカーの方がいましたよ。
私もクリスチャンになろうと思ったことはなかったんですけども(むしろ、反発のほうが大きかった)、なんか、ふと、なっちゃったんですよねー。
人生、分からないことばかりです。

Posted by: nikkou | September 04, 2013 at 11:01 PM

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