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January 25, 2011

クリスチャン・リフォームBefore After

1月24日 この世でいつもキリスト教に対立する最大の障害は、一般に、キリスト教の局外に立っている人間にはキリスト教の教えにしたがって生きる可能性がまったく想像だにつかないという事実である。これはまったく自然なことである。というのは、信仰に入ると、人間そのものが別人のようになってしまうのだから。 (筑摩叢書 前田敬作訳)

2年前の徳島での無教会全国集会の分科会で、
60代の男性が面白い証しをした。

この方、北関東の農村で育ったそうですが、
小学生だったある日、
学校から帰ると、家がやたらと明るく感じられたそうです。
もう、ふすまから、壁から、なにかを照り返しているように、妙に明るい。
あとから帰って来た妹も同じことを言ったので、
自分だけの感覚ではないと思う。
発光限は、お母さんだったそうです。

「…その日、母が言うんです。
“今日、私、イエス様に会った。”

母は、女学校を出ているので、そこで聖書をもらったらしい。
でも、農家に嫁いで、生活も苦しくて、聖書どころではなかった。
その日、母になにがあったのか、詳しくは知りませんが、
どうやら、持っていた聖書を紐解いて、信仰を得たらしいんですね。

その日から、母は変わってしまいました。
それまでは、貧しさと激しい労働で、苦労が全身から滲み出しているような人だったのに、
その日を境に、笑顔が増え、いつも讃美歌を口ずさみ、優しい母になった。

母の薦めで、わたしも若いころ洗礼をうけ、
この歳までクリスチャンとして生きてきました。

でも、
実は、母のような、自分が変えられる、という経験はまったくしていません。
というよりも、したくなかった。
母を見て、あー、怖いなーと思ってしまったんです。
自分は仕事もあるし、家庭もあるし、人格が変わったようになってしまったら、困るなあと、
そう思っていました。

ですが、仕事も定年を迎え、老後と呼ばれる時期になって、
やっぱり、母のように、変えられてみたい、と思うようになりました。」

…そんなお話。
正直だなあ、とnikkou、思わず感心しました。
じつは、nikkouも学生時代、そう思っていました。
クリスチャンになったとたん、いつも眉間にしわを寄せていたような男の子が元気いっぱいになったり、
合コンに明け暮れていたコケティッシュな女の子が、妙に上品になってしまったり、
というのを当時、身近に2,3人知っておりました。
それを見て、
「シューキョーにセンノーされちゃったのねー、やだわー」と思ってました。
たとえ、いい方に変わったとしても、
やっぱり、それまでの自分と違ったふうになってしまうのは、
気味が悪い。

やっぱり、ヒルティが言うように、
経験してみないと分からないんだよね。

でも、nikkouの場合、クリスチャン・リフォームbefore・afterは、
そんなに劇的でもなかった。
じわじわ動いていって、
はっと気づくと、前とは違うところに立っているような気がする、という感じです。

ただ、昨年、10年ぶりに会った友人から、
「nikkouちゃん、全然変わってなかった」と年賀状がきたので、
じつは、外側の印象は変わってないのかもね。
(ひょっとして中身も変わってないのかも~!? そんなのやだー。)

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January 21, 2011

信仰は理性を超える

1月20日
 けれども、おそらくあなたは言うであろう――わたしは神を信じることができない。そのような形而上的な直感にわたしの悟性が反対する、と。事実、それは、どちらも本当である。しかし、にもかかわらず、あなたとそのような超感覚的な観念とをへだてているのは、じつは悟性ではなく、もっと別種な心情なのである。悟性の役目は、意志がすでに決定したことを是認するだけである。それが逆だったら、悟性のためらいぐらい、われわれはいつでも跳び越えてしまうであろう。
(筑摩叢書 前田敬作訳)

昨年末の無教会キリスト教全国青年大会で、
大学講師をしているK兄がこんなことを言った。

「こないだ、仏教学者の友人がうちに泊まったのね。
その友人がいうんだ。

…キリスト教ってのは、論理が破たんしている。
聖書なんか、めちゃくちゃだ。
読んでいると頭がおかしくなる。
仏教というのは、理知を重んじる。
ブッタの教えというのは頭を使えば、誰でもわかる。
イエスの教えってのは、頭でどんなに考えても納得がいかない。
こんなめちゃくちゃなもんを信じるやつがいるなんて、信じられない。

…でも、ふしぎなのは、
仏教には、キリスト教ほどの力はない。
世界に改革を起こしてきたのはたいていキリスト教のほうだ。
なぜ、こんな理性のない宗教が、力をもつんだろう。」

nikkouも、
学生時代よく、クリスチャンの子を理性で追い詰めた。

「わたしの眼にあなたは高価で尊い」という聖書の言葉によって、拒食症から立ち直った、という友には、
「それって、数百年前のガイジンにむかって神が言った言葉で、
神が、あなた自身にむかって言った言葉じゃないでしょ。
なんで、それがあなたのことになるのよ。」
「なんでだろうねえ」と友は笑った。

「神は愛である」という言葉を信じる友には、
「なぜ、そんなことを信じられるの?」と聞いた。
「聖書にそう書いてあるから」と言われた。
「聖書にそう書いてあると、なんで信じられるの」
「聖書は神のことばだから。」
…ここでもうすでに頭がおかしくなりそうになるのをこらえて、
「じゃあ、神が存在しなかったら、神は愛である、というのも嘘になるよね。
神がいなければ、世界には人間の愛しかないんじゃないの。
つきつめれば愛なんて、すべて人間のエゴなんじゃないの?」
と問い詰めると
友は、「わたしもクリスチャンになる前はそう思ってた」と苦笑した。

結局nikkouがイエスを信じたのは、
ゴスペルの練習に来たティーチャーが
「聖書にはわからないこと、矛盾していると思うことがたくさんある。
でも、わかったふりをしないでください。
わからないことはそのまま、宿題として、とっておいてください」
と言ったときだった。
あ、牧師でも、聖書のことわからないんだ、と思った。
その瞬間、理性の壁をイエスの光がすっと通り抜けた。
「求めなさい。そうすれば、与えられます。」
というイエスのことばが、理性を通さず、魂に直接、どんっ!とぶつかってきた。

まず信仰がやってきた。
理性はあとから信仰を追いかけて、つまづいて、方向転換して、
そしてまたあらたな展開を与えられている。

信仰を与えられたあとも、理性や理屈でつじつまを合わせようとするクセはなかなか抜けない。
でも、面倒な人間関係のなかで、
自分の力ではどうにもならない状況の中で、
頭で考えてもどうしても腑に落ちなかった聖書のことばを思い出し、
あ、イエスさまが言っていたのは、こういうことだったのか、気づき、
その思いが、身にしみる。

信仰は理性を超える。
この10年、信仰を与えられたあとも理性でさんざん躓いて
ようやく、それがわかった。

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January 18, 2011

早く早く、信仰を与えてよ

ある友人から、「キリスト教では、信じる者はみな、救われるのか?」と聞かれた。
こういう根源的な質問って、結構難しい。
いろいろ考えてみたんだけれど、
やっぱり「Yes」だな。
ただ、「信じる」こと自体が難しいんじゃないかなあ、
高名な神学者さんでも信じることができなくて七転八倒したり、
まったく無学の子どもが、すらっと信じてしまったりってことはあるんじゃないかな、
と返信してみた。

すると友人は、“そう、その「信じる」ことができなくて、七転八倒しているんだ”という。
彼は、浄土真宗に救いを求めているんだけれど、
浄土真宗は、「信じる者はみな、救われる」のではないんだそうだ。
nikkouは浄土真宗のことはよく分からないのだけれど、
彼の話によると、
自分の力で信じる「自力の信心」っていうのがあって、これは「信じていても救われていない」。
そして、阿弥陀如来の力によって、「いただく」信仰というのがあって、
これを「信心決定(けつじょう)」と言うんだそうで、
これこそが「信じていて、救われている」人なんだそうだ。

それをいうなら、
キリスト教って、「信心決定」しかない、と思う。

1月17日


信心におごる気持ちを絶やし、
わがままな心と争いとをなくして下さい。
この世のいつわりの快楽を、わたしに
しんから苦いものにして下さい。

おのれの力では浄い人になれません
その前にあなたの祝福を受けなければ。
そうすればあなたは忍耐づよく、愛をもって
わたしのすべての罪をゆるされる。

『眠られぬ夜のために 第一部』草間平作・大和邦太郎訳

今日のヒルティもそう言う。
聖書ではパウロがそう言った(新約聖書「エフェソ人への手紙」第2章8節)。
そもそも主イエス自身、
自分の力で得たと思っている「信仰」を誇っている人たちにものすごく厳しかった。

じゃあ、
信仰が欲しくて七転八倒している人は、
どうしたらいいんだろう。

主イエスはどうしても自分の力では信仰が得られない、と思っている弱い人たちに、
「求めなさい、そうすれば与えられます」と優しく、力強く宣言したけれど、
目の前で七転八倒している友を前にすると、
「じゃあ、早く早く、信仰を与えてよ! この人、求めてるじゃないのさ」と
神様に詰め寄りたくなる。

昨年末の「無教会キリスト教青年全国大会」でも、
長年求めていて、ずーっと与えられずに苦しんだ、という兄貴がいた。
この兄貴は、3代続いてのクリスチャンホームで、学校もミッションスクールで、
キリスト教は常に身近にあったのに、
まったく信じられなかったんだそうだ。
のみならず、自分の内面を厳しく監視する恐ろしい神のイメージがつきまとって、
キリスト教のことを考えると気が滅入るくらいだった。
自分のまわりの人は、いともたやすく信じているのに、
なかなか信じられない自分は、落ちこぼれのような気がしていた、という。

ところがある日、無教会の集会で、すっと、主イエスの言葉の明るさ、強さ、優しさが心に入って来た。
「罪、というのは悪いことを考えてしまうこと、ではなくって、
的外れ―神様が私に望んでいる生き方からそれてしまうこと。
悔い改める、というのは、かつて犯した悪いことをくよくよ思い悩むことではなくって、
神様のほうに向きなおって、あたらしく歩き出すこと、
平和、というのは、戦争のない状態ではなくって、
満たされていること。」
一度分かると、もつれた糸がほぐれるように、するすると聖書がわかった。
聖書の話を聞くたびに、涙がこぼれた。

まるで、「ベトサダの池の病人」みたいだった、と兄貴は言った。
「ベトサダの池」というのは「ヨハネによる福音書」5章に出てくるお話。
風がベトサダの池の水面を揺らした時、一番乗りに入ると病気が治る、という言い伝えがあって、
池の周りにはたくさんの病人がいた。
そこに38年寝たきりで、どうしても池には入れない人がいた。
自分が入ろうとすると、誰かが先に入ってしまう。
そこへ、主イエスが来て、
その人に、「歩きなさい」と言った。
そうしたら、池に入らなくっても、歩けた。
病が治った。

…僕のところにもね、イエス様が来てくれて、「歩け」って言ってくれたんだよ。

そういいながら、兄貴は、大きな手のひらで、ぐいっと眼を拭って
「ああ、ベトサダの話をするときは、いっつも泣いちゃうんだよなあ」と照れくさそうに笑った。

この兄貴に、
信仰が与えられなくて七転八倒している友人の話をしてみた。
すると、兄貴は、まるで自分が傷ついたような顔をして、
「うーん。祈るしか、ないのかなあ」とつぶやいた。

祈ってるのに。
祈ってるのに。
こんなに祈ってるのに。
信仰って、自分の力で勝ち取るわけにいかないのに、
どうして、神様は、ときどき、
求めている人に、ぱっと与えてくれないんだろう、と思う。

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January 15, 2011

現在と未来に対する正しい洞察力

1月15日


教会の最高位者から宣教師やディアコニッセ(奉仕女)慈悲の友の会修道女にいたるまで、
およそ聖職にある人たちを評価する場合、
われわれ平信徒にとって主として標準となるのは、
かれらが次のような偉大な宗教的能力のいずれかを備えているかどうかである。
すなわち
慰めの力、
効果ある祈り、
病気の治療、
罪のゆるし、
預言の能力、
一層正確にいえば現在と未来に対する正しい洞察力、
いいかえれば真理のみ霊(たま)を宿しているかどうかということである。
少なくとも、以上の諸能力のいくらかを備えていると認められないような聖職者のどんな指導にもあなたは信頼してはならない。
『眠られぬ夜のために』岩波文庫 草間平作・大和邦太郎訳


nikkouのゴスペル仲間にも、nikkouと変わらない年齢で神学校に通ったり、伝道者になったり、という人がいて、いつもすごいなあ、と思う。
ぶっちゃけ経済的には不安定だろうし、精神的負担も大きいし。ヒルテイみたいなおじいさんに「以上の諸能力のいくらかを備えていると認められないような聖職者のどんな指導にもあなたは信頼してはならない。」なんて言われちゃうわけだから。


nikkouがここ10年通う教会は、
「おじいちゃん先生」とその息子の「ティーチャー」牧師の2人で牧会していた。
礼拝は2人交代で1週おきにはなす。
深刻な問題をかかえていそうな人が教会に現れれば、2人で話を聴く。
なんとなく、バランスのいい感じがしていたのは事実だ。


2年前、おじいちゃん先生が亡くなり、教会の牧師がティーチャーひとりになったとき、
「わー、ティーチャーたいへんだなあ」とみんな密かに思った。
年度始めの教会総会で、
長老さんのおひとりが、ティーチャーとも親しい、姉妹教会の牧師をときどき礼拝に招聘してはどうか、と提案した。
ティーチャーひとりでこの教会を牧会するのはたいへんだろうし、
なにより、ティーチャーにもし何かあったら、教会が困る、と。


お気持ちはたいへんありがたいのですが、とティーチャーは言った。
ぼくは、毎週礼拝でお話をすること自体は負担ではないし、勉強にもなるから、だいじょうぶです。
なにかあったとき、××先生(招聘しよう、と提案された牧師)にお願いする、ということはあるかもしれないけれど、
でも、教会自体の存続については、あまり心配していないんです。
ぼくの子供たちは、小学生なのに、大人でもびっくりするような信仰をちゃんともっている。
nikkouさんたち若い世代もいるし、
nikkouさんたちのこどもたちも将来生まれてくると思う。
教会を中心に、地域から人が集まってくることだって、これからあると思う。
今、ぼくが死んだあとのことを考えることは、あまり意味がない。
神様がこの教会を必要だと思われるなら、ぼくたちが心配しなくても、きっと、次の世代につながる配慮を、神様はしてくれる。


そんな話をして2年。
今振り返ってみると、当時教会を覆っていたのは、
神様への信頼をすこし上回るほどの、
おじいちゃん先生を失った不安感だったのかな、と思う。


そして、わたしたちの教会には「現在と未来に対する正しい洞察力」が与えられているんだと、nikkouは信じている。

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January 14, 2011

中身の詰まったパンのように


先日の祝日には銀座のバーゲンにいってまいりました。
銀座のバーゲンでお買い物なんて、nikkouも大人になったなあ、と
しみじみしてしまう四捨五入40歳の2011年。

さて、本日の『眠られぬ夜のために』第一部です。

1月13日


地上における天国は、人間がたえず神のみこころと合一することよりほかに、もはやなにも熱望しなくなった時から始まる。来るべき天国も、それ以外のものであるはずがない。同じように、このような心境に到達しない人間が、天国に入るのにふさわしく、そこで心地よく感じようとは、理屈からいっても考えられないことだ。
草間平作・大和邦太郎訳


nikkouは、クリスチャンになってそろそろ10年になります。
「神様のみこころにかなう人になりたい」との熱望は持っていると思うんだけれど、
この10年弱を振り返って思うのは、
そう熱望したときから、悩み多き人生を送り始めている気がする、ということだ。


クリスチャンになる前、nikkouの世界ではわりと、善・悪とか正・不正が截然としていたように思う。
親の価値観や、学校で教わったこと、社会の大多数にとって「正しい」ことが、だいたい、自分にとっても「正しい」ことだった。
まじめな子だったなあ、と思います。


クリスチャンになってみると、これまでの価値観では「悪」だったものでも、実際そんなに悪いことじゃないんじゃないか、と思うことが出てきた。
たとえばnikkouの母親は常にすっぴんで、おしゃれに無頓着な人なので、彼女に育てられたnikkouは勝手に「着飾ることは罪悪」みたいなルールをこさえていた。
クリスチャンになったある日、おしゃれしようがしまいが、それは「罪」とか「悪」とかとはぜんぜん関係ないんじゃないか、ということに、はた、と気づいた。


nikkouは27歳まで自分で洋服を買ったことが、ほとんどなかったんですが、
そのことに気づいたある日、タンスの洋服(すべて母親が購入)を取り出し、好きか嫌いか考えて、嫌いなものを実家に送り返そう、と思いたちました。
そしたらなんと、タンスがすっからかんになった。
で、ボーナス全額を費やして、自分が着たい洋服を買ったのでした。
その時期のnikkouの写真をBefore.afterで見せたいくらいだね。
「おまえはアメリカ帰りの田中絹代か」・・・nikkouにはよくわからないたとえですが、同僚にそう言われたほどの変わりようでした。

それはまあ、ごくごく他愛のないことですし、そもそも「みこころにかなう」ことと関係があるのかないのか、よくわからないのですが、
もっと深刻な例も、ままあって、
それまでは無条件に「悪」あるいは「正義」だったことについて
さて?
と立ち止まってしまうことが多くなった。


nikkou以外の人にも関係してくるのではっきりいえないのだけれど、
去年から、ちょっと難しい人間関係にまきこまれかけていて、
以前のnikkouなら全力疾走でそこから逃げただろうに、
今のnikkouは、「うーん、これはよいのか、悪いのか」ともやもやしていて、
それはもうずーっと、もやもや〜とそのままで、現在にいたっている。

でも、ま、いっか、とも、思っています。

マイ・ルールでもって、「この人は悪い人だ。わたしは悪い人とはつきあわない!」って決めちゃえば楽なんだけれど、
それこそ「神様のみこころ」をちょっと待ってみようか、と思ってる。
それは正直言って、「地上の天国」という語感のもつ「ふわふわーん」とスイーツな感じではなく、
もっと「みしっ」と緊張感のある感じです。
中身のしっかり詰まったドイツパンみたいな感じ。
だから、
「みこころ」が見えたときには、
しっかり働いた後にしっかり食った後のような満足感があるんじゃないかな、という気がしています。

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January 12, 2011

神を呼ぶということ

今年から、初心にもどって、もう一度ヒルティ「眠られぬ夜のために」を読みなおすことにしました。
ブログを始めて5年。
5年間で変化したこともあり、しなかったこともあり。
「眠られぬ夜のために」の理解も、変化したところがあり、しなかったところもあるでしょう。
つらつらと、また、そんなこんなを書き連ねていきたいと思います。

本日1月12日の「眠られぬ夜のために 第一部」から


おまえはあいかわらずだ。
なん度敗れてもそのままだった。
人間はだれもおまえ、自我には勝てない。
新しい夜明けが来なければだめだ。

未知の高みからやってくる
別の霊、別のこころーー
どんな価いを払っても、どんな苦痛を忍んでも
それを手に入れたい。おまえはもう去るべきだ。
(『眠られぬ夜のために』岩波文庫 草間平作・大和邦太郎訳)

「おまえ」とは「自我」のことです。
のっけから他人のフンドシだけど、昨年の「無教会キリスト教全国青年大会」でK姉がお話されたことを思い出しました。nikkouの記憶をたどって書くので、ちょっと違うところもあるかもしれない。なので、nikkouの心に映ったK姉の証、ということでお許しいただいて、このブログで分かち合いたい。

K姉いわく、
「わたしって、すっごく負けず嫌いなんですね。」。

人と話をしていても、
あー、
わたしのほうがよく知ってるなー、とか、
わたしのほうがよく考えてるなー、とか、
キリスト教の集会に行っても、
この人、偽善的だ、とか、
この人、律法的だ、とか、
この人、聖書が分かってない、とか、
裁いてばっかり。
自分より少しでも出来る人がいると、
その人の粗探しをして、少しでも自分が優位に立とうとする。
もう、ひどいんです。

ある日、
電車のなかで、すっごく痩せている人を見ました。
その時も、すぐに心の中で、
「あーいやだなー、この人こんなにがりがり。
私は、健康で、綺麗で、良かった。」
って思った。

でも、
その人、実は、自分と同じ場所に向かっていた。
その場所っていうのは、あるキリスト教の集会で、
その集会で、電車で見た、その、すごくやせている人が、証をしたんです。

その人、……末期がんだったんです。
その時はもう、いつ死んでもおかしくない状況だったのに、
みんなと讃美したり、祈ったりしたくて、その集会にきてたんです。

(…そういいながら、
K姉、ふいに涙をぼろぼろっとこぼした。)

もう、わたし、死んでしまいたい、って思いました。
こんな自分、生きていたくないって。

神様、わたし、死にたいですって、祈って祈って、祈っていたら、
ふっと思いました。
わたし、死ねるんだ、て。
それは、べつに、自殺するって意味じゃないんです。
そんな嫌な自分は、イエスさまに出会った時点で死んでしまって、
イエスさまに、かわりに、自分の中で生きてもらえばいいんだって。

それからも、またいろんなところで、
嫌な自分が頭をもたげそうになるんですね。
でも、
そのたび、「神様、神様、神様、神様」って必死に呼ぶんです。
すると、
すーっと嫌な自分が溶けてしまうことがわかった。

この間、友達と、あるギャラリーに絵を見に行ったんです。
そのギャラリ―に、その絵を描いた画家さんがいました。
最初、すごく嫌な感じの人だ、と思ったんです。
また嫌な自分がむくむく起こってきて、
「こんな嫌な人の描いた絵なんか、たいしたことないよなー」って思いそうになった。
でも、だめだだめだ、神様神様神様…、って心の中で祈った。
そしたら、
嫌だなあ、って思ったその画家さんと、
ふつうに打ち解けて話せて、深い芸術の話もできて、
その画家さん、最初思ったほど嫌な人じゃなかった。
勝手にレッテルを貼らなくって、よかった。

そんな証でした。
……nikkouなんか、
思いっきり「負けず嫌い」なので、
この話は心に刺さりました。
と同時に、K姉はいいなあ、と思った。
たぶん、nikkouが同じように末期がんの人に出会っても、電車のなかで思ったことなんか、なかったことにしちゃう。
自我が強くても、見て見ぬふり。
そんなに強い自我を、いつ克服できるんでしょうか。
もっと「神様、神様、神様、神様……」とすなおに呼び求めることができたら、
もっと自分や周囲の人たちとも自由にのびのびと付き合えるようになる気がする。

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