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November 30, 2011

民主主義ってなんだ?

『眠られぬ夜のために』第二部

「10月29日

悪は今のところ、たしかにこの世の巨大な力であり、ひろい範囲を領している。それはいぜんとしてこの世の王であるが、しかし『裁かれた』王であって、その支配権を『しだいに』放棄しなくてはならないだろう。
 それゆえ、この王はいつも恐れているのだ。(中略)

しかし、善のほうでもまた恐れるならば、それによって、善は、悪にたいするその優越性の主な根拠を、たちまちうしなってしまう。最もよい事柄でも、勇気がかけていると、それだけですでに、全く、あるいは半ば、くりかえしだめになってしまった。そこで、いくどもまた新しくやり直さねばならない。若い人たちに勇気を教え込むことが出来れば、それは現代のあらゆる教育のとりわけよい仕事となるであろう(以下略)。」
(岩波文庫:草間平作・大和邦太郎訳)

ハングル教室の李先生から、韓国の民主化のため、どれだけ多くの犠牲があったか、というお話を聞いて、ふと、思った。
民主主義ってなんだ?

生まれたときには、もう日本は「民主主義」だった。だから、あらためて考えると、それがどういうものか、よくわからない。命をかけて勝ち取るべきものなのかどうか。
李先生は、韓国の民主化運動の中心となったのがキリスト教教会だった、という。
教会でその話をすると、nikkouのゴスペル仲間で牧師である通称テイーチャーが、「民主主義の根幹はイエスの福音なんだよ」という。
えー、まじでー?
nikkou の乏しい知識では、民主主義のルーツはたしか、ギリシャのポリスだったはず。主イエスとは関係ないんじゃないの?
そうこうするうちに、大阪では橋本さんが当選。うーん、ほんとに民主主義と福音に、関係があるのかなあ。そういえば、以前、内村鑑三の読書会で、「キリスト教がある国は、民主主義国家でなければならない」というようなことを言うひとがいて、学生さんが、「でも、多数決とキリスト教の倫理は対立することがありますよね」と反論した。それがnikkouの心にずっとひっかかっていたのでした。

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ということで、あらためて勉強してみました、民主主義。
まずは『民主主義という不思議な仕組み』(佐々木毅)から。
それで、ようやく頭の整理がされた。
まず大事なポイントとして、「民主主義」と、「民主制」は別だってことだ。
民主主義」は、「人はすべて、生まれながらに自由で平等で、だから、政治に参加する権利がある」という考え方のこと。
民主制」は、「民主主義を反映させる政治システム」。ただ、鏡のように完璧に反映するシステムというのはなくって、大統領制にせよ、議院内閣制にせよ、一長一短なのだそうだ

この「民主主義」の「だれもが自由で平等という考え方」、大きな動きとなって実現したのはイギリスのピューリタン革命が最初だそうだけど、この本を読むと、なんだか唐突にでてきたような感じがする。それ以前の政治には、まず、「戦争にいくのだから政治に参加すべきだ」という成人男性が中心だったギリシャのポリス、
そして、「力のあるものが政治を行うべきだ」という王政
「貴族も大きなの力と経済力があるのだから、特権を認めろ」という貴族制などがあった。

しかし、「人はみな、自由で平等だから政治に参加すべきだ」という理屈は、よーく考えてみると、あまり説得力がない。「戦争に行くから」「お金があるから」「力があるから」という理由に比べて、「人はみな自由で平等」という理由には目に見える証拠がないのだ。
ああ、ここに、福音があるんだなあ、とぴん、ときた。この本には書いていないけれど、民主主義を唱えた人たちの脳裏には、主イエスの「神の前には、男女も社会的地位も、経済力も軍事力もなく、みな、等しい」という理念があったのだろう。

さて、そこで問題の多数決だけど、これは「民主主義」の問題ではなく、「民主制」のほうの問題なのだそうだ。
本書では、「一見多数の意見のようだけれど、じつは少数派による情報コントロールがあるのかもしれない(たとえばナチス・ドイツとか)」、「そもそも投票率が低いのかもしれない(日本の選挙なんかいつでもそうだ)」、という見方を紹介する。そして、なにより、衝撃的だったのは、「正理をもって身を棄つる」(福沢諭吉)という発想だ。
これは、政治よりも良心を上に置く、ということで、具体的には、19世紀アメリカにおいて、奴隷制に反対して納税を拒否したヘンリー・デイビット・ソローという人を紹介している。同じ発想の持ち主には、ガンジーやキング牧師がいる。日本では君が代日の丸問題などが関係してくるだろうか。

つまり、多数決で決まった法律であっても、倫理的じゃない、良心に反する、と考えたなら、反対していい。いやするべきだ。そして、情報コントロールされていないか、注意深く見守る。「良心には反しているけど、決まったんだから仕方ないんじゃない?」と考えている人たちを説得する。そして、ときには、その決定に従わない(←!)。

でも、これは、正直、難しい。民主主義国家の日本に生きる一市民としても、つくづく難しいと思う。法と対立する良心。福音や隣人愛に反する社会と闘う。まさに信仰レベルの話だ。

法律で決まっちゃったもんは仕方ないんじゃない? と考えて良心を殺してしまうことは、民主主義を殺すことにもなるのだろう。民主制の欠陥に、民主主義が負けちゃったらだめなのだ。結局、民主主義をつくるのは、制度ではなく、人間だということだ。

主イエスのことば「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ福音書2章27節)にならっていえば、「民主主義は人のためにあるもので、人が民主主義のためにあるのではない」というところか。

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さて、日本で民主主義について深く考えた人、といえば、丸山真男という政治学者である。
ということで『丸山真男』(岩波新書 苅部直〉も読んでみた。
丸山は、揺れ動く「政治」に対抗するために、人は「人格的内面」を持たなきゃならない、ということを言っているのだけれど、
その「人格的内面」を徹底して守りうるのは宗教の立場、とりわけ「ラジカルなプロテスタント、例えば無教会主義者であろう。」と書いているそうだ。
丸山の師匠は、南原繁という学者で、無教会のクリスチャンだった。師匠の影響から出た言葉なんだろうけれど、丸山自身はクリスチャンではない。
丸山は、信仰と政治について、なにを思い、どう考えていたのだろう。もう少し、民主主義の勉強をするため、丸山真男の著作を読んでみようと思います。

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November 17, 2011

ネット社会とキリスト教の倫理

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きのう今日と宇野常寛『ゼロ年代の想像力』という2000年代の文化を論じた評論を読んでいて、はたと、そういえば、この5年間くらいで、だいぶネットに対する認識が変わったなあ、と気づいた。
5年前というとちょうどこのブログを始めたころだけれど、
まだ試行錯誤する部分が大きかった気がする。
特に、見知らぬ人からの書きこみには疲弊した。
思いもかけない攻撃的・暴力的な言葉はもちろん、
なんでもない書きこみにも、それはそれは気を使って返信したものだ。

やがてSNSが登場した。
ただ教会でも、SNS内にコミュニティを開設しよう、という話になったときには、
ちょっと微妙な気持ちになった。
nikkouはSNSには慎重だったからだ。
コミュニケーションをとる相手を最初から選別する、というのは、
キリスト教的な倫理観からすると、よくないんじゃないかなあ、と思っていたのだ。
一方で、知人のホームページやブログが攻撃的な言葉や性風俗の営業で
ひどく荒らされるのを見ていたし、
説教をホームページに載せている教会では、
その内容に執拗に絡んでくる人がいる、ということも問題になっていた。
自分も疲弊気味だったので、
まあ、わからなくはないかな、仕方ないのかな、とも思った。

あれから5年、
SNSを使って見ると、思っていた以上に快適な空間なのは、否めない。
読む相手を選べる、というのは、
ブログよりもはるかに、言葉に気を使わなくていい。
前提が共有できているし、攻撃されるダメージもない。
そしてなにより、SNSを使ったおかげで、SNS外のホームページやブログとの使い分けが分かって、ブログを通じてのコミュニケーションにもずいぶん慣れてきたような気がする。

SNSに置かれた教会のコミュニティは、完全にクローズトではなく、
リアルでコミュニケーションをとった相手には、
「よかったら、SNSのコミュニティを見てみてくださいね」と誘っている。
まずリアルありきなわけだ。
ホームページはホームページでちゃんとあって、所在地や電話番号も書いているので、SNS外のホームページは教会の看板や電話帳に掲載している案内みたいなもの、SNSは、教会を訪れてきた人が、教会の中で話を聴いたり、気持ちを打ち明けたりするようなもの。
そう考えると、必ずしもキリスト教の倫理と対立しないのかもしれない。

自分のブログとSNSの日記も完全に住み分けるようになってきて、
ブログは不特定多数にむけての「壁新聞」で、
SNSはリアルで親しい友人にむけての「私信」みたいな感覚だ。
だからSNSでは、仕事が忙しいとか、甥っ子や姪っ子が遊びに来た、とか
他愛のないことを書いている。

一度夫に、ブログもSNSのように書けばたくさん書けるから、そういう形にしようか、と言ったら、
それはかえって読者を失うのではないか、といわれた。
たしかに、30後半のおばさんの日記など、世間的にはどうでもいいわな。

ブログのコミュニケーションも慣れてきた。
さんざん使い古されてきた言い方だけど、
やはり、誤解の少ないコミュニケーションのためには、
パソコン越しではなく、リアルで会うのがベスト。
だから、この人への対応は、パソコン越しでは難しいなあ、というときは、
「そっとしておく」というのがもっとも適切なんだろう。

そんな対応方法を、キリスト教の倫理的に言えば、「時が来るのを待つ」というのかな、
そして、大事なのは「いつかこの人と顔を合わせた時が与えられたら、ちゃんとコミュニケーションをとろう」
という意思を持ち続けることだろう。
同じ人からの書きこみを禁止する機能もできたけれど、
性風俗関係以外には、使っていない。

ツイッターやSNSは気楽で便利だ。でも、やはり、ブログのような不特定多数向けというコミュニケーションは、まだまだ魅力的な気がする。
開かれている分、ツイッターやSNSに比べて押しつけがましさをあまり感じないところも、長所だと思う。
ブログを久しぶりに再開したところで、SNSとの違いにあらためてビビり気味なのだけど、ここは気持ちを強くもって、また続けていきたいと思います。

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November 15, 2011

結婚という祝福と呪い

『眠られぬ夜のために』第一部

11月14日
結婚は軽く見てよいことではなくて、本当は恐ろしい事柄である。それは、個人にとっても国民にとっても祝福の源にもなれば、または全く立ち上がれないほど重く彼らの上にいつまでものしかかるように見える呪いの源にもなる。このことは、個人についても、全体としても、実にしばしば指摘することができる。
結婚の日は生涯におけるとりわけ重大な日であって、ただ女性にとってそうであるだけではない。結婚式当日のいろいろ楽しい催しも、往々にして、結婚という事柄のあまり厳粛さを当事者とその家族に対し、ただいくらかでも覆い隠そうという秘かな意味を持つものかもしれない。
(岩波文庫 草間平作・大和邦太郎訳)

今日、同僚と、隅田川沿いのフレンチに行ったら、「本日のパスタ」が「長ネギと鶏肉の塩味パスタ」だった。思わず、しみじみしちゃったよ。
今から7年くらい前だったか、今の夫とつきあって最初のデートが、このフレンチレストランで、そのときの「本日のパスタ」がやはり「長ネギと鶏肉の塩味パスタ」だったのだ。
その日、nikkouは、食べている最中に、ふと食欲がなくなって、半分以上のこして、彼に食べてもらったのでした。
なぜ、食欲を失ったのか。
じつは、その間、nikkouは「私は、この人と結婚するんだな。私の人生、これで、決まっちゃったんだなあ」と思ってたのでした。
彼が男性として魅力がなかった、というわけではない。むしろ、ナイス・ガイでした。
そしてなによりも、nikkouは「年齢=彼氏いない歴」であったので、やっと、この「恋愛戦争」から降りられる、と、ほっとしていた。
しかし、その一方で、もう、この人以外の男とつきあったり、この人以外の人との将来を夢見たりする可能性はいっさいなくなるんだなあ、と思った。そう思った瞬間、自分に与えられた人生の時間の、ある期間が終わったんだ、と感じたのでした。「ああ、こうして、ひとつひとつ、区切りをつけていって、やがて、わたしは死ぬんだ」と、つまり、その瞬間、今まで考えてきたこととまったく違うレベルで、生々しく、「死」を意識したのでした。
そういう意味で、「結婚」は、当時のnikkouにとって、「祝福」であり、「呪い」だった。

あれから7年たってみると、そんなこと考えたなんて、すっからかんに忘れてしまっていたほど、お気楽〜な結婚生活を送っております。

ただ、あの一瞬、死を、人生は時間的に限りがあるんだ、ということを、生々しく感じたというのは、案外貴重だったような気がします。

今日のヒルテイを読んで思い出したことをもう一つ。
結婚が決まったとき、教会の長老さんにこう言われた。
「今はセクハラだっていわれるから、あまりこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけれど、nikkouさん、結婚が早く決まってよかったと思うよ。結婚するとわかるから。人間って、自分の思い通りにはならないなーって。」
「へー、そんなもんですかねー」なんて相槌をうってから半年後、
他人だった人間と生活するってのは、こんなに大変なことなのか、と感じていたころに、
あらためてその長老さんに、「おっしゃっていた意味がわかりました」と言ったところ、
「え? そんなこと、言ったっけ?」と、きょとんとされる。
そして、「いやー、自分が言っときながら、忘れていてなんだけどね、ほんと、その通りだと思うよ。結婚するとわかるよね、思ったことは、なんでもかんでも口にすりゃいいってもんじゃないってね」と、またもや金言をはかれました。
この話をすると、結婚している人は、たいがい、とても強く賛同してくれます。

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November 09, 2011

学び知りゆく世界は広し

更新すると、アクセス数が増えますね。こんなに拙いブログですのに、みなさま、ありがとうございます。

さて、今、nikkouは、ハングル検定に向けて勉強中なのですが、検定が終わったら、合否にかかわらず、「がんばった(?)自分への御褒美」ということで、ギターを買おうと思っている。
買って飾るんじゃないよ、
ちゃんと練習して、ゴスペルの弾き語りができるようになりたいのです。

ハングルに、手話に、ギターに、とずいぶんあっちこっちに趣味が飛ぶねえ、
と周囲から呆れられる。

いや、ちがうんですよ、みなさん。
一応、全部、首尾一貫しているんです。

ハングルを始めたきっかけは、韓国の讃美が素晴らしかったから。
手話は、手話通訳ではなく、手話讃美を習っているわけだし、
ギターも、讃美の伴奏用。
(願わくは、英語ができるようになりたいのだけど、
これも、翻訳されていない英語ゴスペルの歌詞を聴きとったり、歌詞カードを読んだりできるようになりたいからなのです)
つまり、ぜんぶ、讃美が根っこになっているのだ。

先日の「無教会全国集会2011」で、
徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄さんが発題に立って、
「聖霊に促されて、人は信仰をもつことができる。
聖霊もなしに、研究や勉強をしても、何の意味もない」と発言して、
会場から異議申し立てがありました。
いわく、
「聖書研究だって大事だ。
あなたは聖霊、聖霊っていうけれど、聖書研究もしないで聖書を読むなんてありえない!」
それに対して、吉村さん、
「聖書研究がいけない、とは言っていない。
自分だって、勉強をしている(彼は、ラテン語もギリシャ語も勉強したらしい)。
でも、それが目的になってはいけないのだ。
聖霊に促されて、勉強したくなって、勉強する。
それが正しい。
聖霊に促されて、音楽をやる人もいる、詩を書くひともいる。
それぞれ、まず、聖霊が与えられたうえで、やりたいこと、やるべきことをやるのだ。
聖書研究するひとが特別えらい、ということはないのだ」というような主旨のことを言っていた。

ふむ、なるほど。
無教会は特に研究好きの人が多いので、それをいさめるつもりでおっしゃったのでしょう。
(そして、やはり研究好きの人の反発を食らったのでしょう。)
そういう意味では、nikkouは、
自分の楽しみのため、というよりは、
讃美したい、という聖霊の促しによって、
ハングルを学び、手話を学び、英語を学び、ギターを学びたいと思う。

ただ、面白いことに、
讃美のために学んでいたはずが、
思いがけなく、韓国の強烈な歴史を知ったり
ろうあ者の大変だったり愉快だったりする現実を知ったり、
ということになった。

nikkouの母校の校歌に「学び知りゆく世界は広し」という一節がありましたが、
まったく、その通りだと思います。

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November 08, 2011

ハングル教室

だらだらとハングルの勉強をしております。
遡ること4年、アン・ソンジン氏のゴスペルや、韓国の教会への親睦旅行をきっかけに、ハングルを始めたのですが、ラジオだけが先生で、ほとんど惰性化しておりました。
そんなおりしも、ふと、聖ヨハネ教会という聖公会の教会の前に「ハングル教室」の張り紙をみつけ、ふらふらっと申し込みをしてしまいました。

先週の月曜日から通い始めたのですが、初めてのハングル教室は、想像以上に、中身の濃い、とても楽しいひとときでした。

教会の牧師が韓国人の李先生。
李先生自身が、コーヒーをいれながら(カフェ・エクレシアのマスターでもあるのだ)、韓国語を教えてくれる。

「最初の30分は、韓国の歴史と文化について、学びます」と聞いていたのだけど、実はあまり期待してなかった。
ところが、あにはからんや、これが、本当に面白かった。

李先生いわく、
「現代の韓国は1979年、80年を抜きにして語ることはできません。
K-POPも、韓流映画も、すべて、ここを土台にしています」といって
取り出した、一枚のDVD.
それは、「光州事件」についてのドキュメンタリーでした。
「光州事件」。
言葉は知っています。
韓国が軍事政権下にあったころの民主化運動と、血の弾圧、でしたよね。
ただ、nikkouは、文字面でしか、理解していなかった。

李先生は、光州事件のとき、大学一年生。19歳くらいでしょうか。
光州事件をきっかけに、聖職者を志したのだそうです。
なぜなら、光州事件について韓国で徹底的な情報弾圧がされた際、
多くの教会は、海外の支援者や、海外に留学していた牧師や神父たちを通して、
外国からの情報を受け取り、人々に伝えたから。
教会を民主化運動の拠点として、多くの聖職者が働き、また激しい弾圧を受けた。
自分も、民主化運動のために働きたい、
大学一年生の李先生は、そう考えた、というのであります。

民主化運動と教会!
まあ、韓国にいったとき、なんとなく感じてはいたけれど、
生身の人間(しかも、ちょっと年上のお兄ちゃん―オッパ―的な人)から言われると
その迫力というか、リアリティーにたじろぐような思いがしました。

民主主義と、キリスト教って、
理念としては、近いんでしょうかね。
まあ、独裁主義や軍国主義よりは近いとは思うんだけれど、
ちょっと興味深いテーマであります。
ドキュメンタリーを見たあとは、
独学ではなかなか腑に落ちなかった文法的な説明を聞いて、
さらに、発音練習。

CDではなく、やはり生身の人間から聴くハングルは、
とても美しく、やはりいいものでした。

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November 07, 2011

「無教会全国集会2011」二日目

11月6日「無教会全国集会2011」二日目。

nikkouは午後、仕事が入ってしまったので、
午前中だけの参加になってしまったのですが、とても力づけられる集会でした。

お話なさったのは内坂晃氏。

お恥ずかしいのですが、nikkouたち、遅刻しまして、会場に入った時にはもう、お話が始まっていました。

お話は、ソマリアの難民のことのようでした。そして、今、日本の祈りが震災や原発のことに集中しているけれども、現在、世界中で、たくさんの苦しむ人々がいることを忘れてはならない、というようなことをおっしゃっていました。

以下、特にメモをとらなかったので、nikkouの心に刻まれたことを、記憶に従って、またnikkouの感想もまじえつつ、みなさまにシェアしたいと思います。

内坂さんいわく、

苦難の中にあるとき、人は神の弁護人になってはならない、とのこと。「弁護」は被告のことをよく知っていなければできないから。人に、神のことがわかるだろうか。

nikkouは、震災直後に「天罰」と言い放った政治家や、キリスト教界でじみ~に話題になっていた無神経なカルトの人々を思い出しました。

人にできることは、「神さま、どうしてこんなことが!」と泣いて、訴えることだけ。そして、必死に神さまがなにをお考えなのか、耳を傾けることだけ。

そしてもうひとつ。人は、神の姿を見たというような神秘体験や、病が治ったというような癒やしの体験、そして、困難を乗り越えた、というような経験をしたとき、それによって信仰が得られた、強められた、という思いを持つことがある。もちろん、それは、その人個人にとっては大切なものだろう。しかし、経験や体験が絶対化されて、聖書よりも大事になってしまって、そういう経験をしていない人を、「信仰が足りない」「本当の信仰をもっていない」と蔑んだり、批判したりするようになる。

神の弁護人、あるいは経験を重んじるような態度、それは、じつは、「闇の現実」にとらわれてしまった、とても余裕のない状態なのだ、という。

さて、そこで内坂さんは、子供のころの教会学校で先生をしていた大学生小林融弘氏の思い出話をされました。

内坂さんが子供のころ、三池炭鉱で大きな事故があって、たくさんの人が死んだ。小林氏は、この世の中に、こんなに苦しく辛い思いをする人々がいることと、教会の中で、「信仰は勝利!」と大きな声で歌っている人々とのギャップにとても思い悩み、そのことを日曜学校の週報に書いた。

小林氏は、この矛盾のなかで思い起こされたのが、十字架のイエスだったといいます。ひどい現実に殺され、悲惨な死を遂げたイエス。イエスでさえ、闇の現実に苦しまれた。しかし、イエスは、復活し、今わたしたちの間に生きて、働いておられる。

そう、「闇の現実」と福音をつなぐのは、十字架と復活、そして、イエスが今私たちの間に生きて働いている、ということ(ギリシャ語で、「インマヌエル(神はわたしたちとともにある)」という)だ。このことは、「闇の現実」とは違う、「もうひとつの現実」、「神の国」の存在をわたしたちに教えてくれる。

歴史上、「もう一つの現実」つまり、「神の国」がある、ということを信じて生きた人々があります。それは、ユダヤ教を信じるユダヤ人という人々。彼らはキリスト教とによる激しい迫害のなかでも、「神の国」の存在を信じつづけた。そうしたなかで、「ユダヤ人ジョーク」という、独特な文化が生まれた。

(内坂さんは、いくつかユダヤ人ジョークを紹介され、会場はくすくすと笑いに満たされました。会場で紹介されたジョークとは違いますが、こんなサイトがあるので、見てみてください。)

「闇の現実」はひとつの現実にすぎない。この世界には、「神の国」というもう一つの現実がある。そういう思いが、苦しい状況を相対化し、笑いのめす、そういう文化を生んだ。

さて、ではキリスト教徒はどうか。キリスト教徒が、「もう一つの現実」を仰いだ時、そこに生まれるのは、「ジョーク」ではなく、「ユーモア」だ、と内坂さんはいいます。

「ユーモア」とは、愛だ。

作家椎名麟三は、失意のどん底にあったとき、友人に誘われて、教会で復活の話を聴いた。

それは、復活したイエスが、復活したことを示すために、焼き魚を食べた、というくだりだった。

友人は「あーこんな話のときにつれてきちゃった」とがっくりきていたそうですが、椎名麟三は、とても感動したそうです。

なぜなら、そこには、愛にあふれたユーモアがあったから。

わたしは復活したよ、と示すために、みんなの前で一生懸命、むしゃむしゃ魚をたべる。真面目な場面なのに、なんだかおかしい。それは、神の愛があふれて、ユーモアとなって表れている。

「もう一つの現実」を仰いだとき、「闇の現実」は相対化される。「闇の現実」にとらわれた余裕のない状態から解放される。「もう一つの現実」とは、イエスの十字架と復活、そこに現れた、神の愛なのである。

nikkouは、思わず、涙ぐみそうになった。イエス様が魚を食べた時、弟子たちは、思わず涙ぐみながら、微笑んだのだろう。

涙ぐみながら、微笑まずにはいられない。

世の中には、ときどき、そういうことがある。つらいのだけれど、人の優しさや、ちょっと相対化してみたとたんに、なんだか滑稽な現実に、涙ぐみながら、笑ってしまう。それはとても不思議な笑いだ。

主イエスは、「今泣いている人は幸いです。その人は笑うようになるからです」と言った。

はじめてこの言葉を聴いた時、nikkouは、「禍福はあざなえる縄のごとし」ということか?と思った。今泣いている人も、いつか、復讐を果たして、「ざまあみやがれ」と嗤う日が来るだろう、ということか? と思った。

でも、今になってみればわかる。今泣いている人は、主イエスの十字架と復活を仰いで、「闇の現実」を相対化したとたん、涙ぐみながら、笑うのだ。その笑いは、泣いた人しか、きっと分からないとても幸せな笑いなのだと思う

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November 05, 2011

無教会全国集会2011

みなさま、ごぶさたしておりました。
ブログがすっかり止まってしまいました。

本日は、
「無教会全国集会2001」、
いろんな方々から、「ブログとまっているね」とお声掛けいただきまして、
すっかり反省いたしました。
みなさま、ご愛読ありがとうございます。
これからは、もうちょっと、更新を続けたいと思います。

さて、
「無教会全国集会2001」、プログラムは下記の通り。

開会式讃美歌286「かみはわがちから」聖書朗読「ローマの信徒への手紙5章5節」祈祷開会挨拶

聖歌250「なにゆえみ神は」
聖書朗読「イザヤ書40章27〜31節」
主演講演 「希望の根拠」 関根義夫
讃美歌527「わがよろこび」

発題
讃美歌262「十字架のもとぞ」
①高齢者にとっての希望の根拠 金井守
②若者にとっての希望の根拠 小館知子
③バーチャル社会における希望の根拠 八尾徹
祈祷

東北大震災特別プログラム
讃美歌515「十字架の血に」
特別講演「大震災の中の証し」吉原賢二

夕食交流会

とくにnikkouが心に残ったのは、小館知子さんの発題。
あるキリスト教の学生寮の寮長家族として、寮に住み込んで5年間になる知子さん、
寮に集う学生さんたちの悩みのトップは就職活動と恋愛とのこと。
就職活動では、いくつもの会社に落とされて、自分が一生懸命やってきたことーーたとえば、中学高校と野球をやってきて、そのことに誇りをもってきたような若者でも、「あのとき、野球なんかしないで、もっと一生懸命勉強していれば、こんなことにならなかったのに」と、その誇りに感じていたことまで否定してしまう。また、恋愛は、世界であなたが一番すき、といってくれる人がいたら、という切実な思いだ、という。
そうした悩みのおおもとにあるのは、「人と比較する/される」ということのストレスなんだろう。
でも、聖書の中には、比較しない、という価値観、欠点も長所も、神様があなたに与えた恵みだよ、というメッセージがたくさん示されている。
そのことを学生さんたちに伝えたい。
ただ、言葉で伝えても、きれいごとなだけ。
だから、寮では、3つのことに気をつけている。

1つめは、「聖書に聴くこと」。毎朝、短い時間だけれども、寮では礼拝をもっている。学生さんのほとんどは聖書を手にするのも初めてだけど、聖書を読んで一日を始めると、なんだか励まされる、人に優しくなれる、という若者もいるそうです。
2つめは、「愛を実践すること」。共同生活では、難しい人間関係もよくあること。でも、互いに赦し合う、認め合うよう努力する。愛とは赦すことだな、ということが、共同生活を通じてよくわかる。
3つめは、「救われた人に会う」。この夏には、徳島聖書集会にみんなで行ってみた。徳島聖書集会には、ハンディをもつ人がたくさんいる。そうした人たちが、主イエスに出会い、救われて、生き生きと明るい。彼らに出会って、キリスト教って、信頼できるかもしれない、と言う学生さんもいた、とのこと。

つい先日、この学生寮は、火事になった。幸いけが人はなく、消火はしたけれど、天井はススだらけ、床は消火活動で水浸し。知子さん、もう、どうしたらいいんだろう、と暗い気持ちになったという。
ところが、その翌日から、学生さんたちは、明るく音楽などかけながら、総出で掃除を始めたという。
なによりもよかったのが、失火した部屋の学生さんに対する寮生たちの様子。失火した学生さんは、思い出のアルバムも、集めていたレコードも、書きかけの卒論もすべて焼かれた。そのうえ、仲間たちに責められたりしたら、どんなにつらいだろう、と心配していた。けれども、みんな、部屋を失った彼のために居心地のいい寝場所をしつらえ、そして、いつもさりげなく、彼のそばにいる。だれも責めなかった。愛があった。

nikkouは、知子さんのお話を聞いて、「神の国はあなたがたのただなかにある」という主イエスの言葉を思い出しました。

夕食は、夫と、そして、高橋照男トミ子夫妻と。
高橋照男さんは、コワモテのブログを開設しておりますが、
いつ会っても、とても面白いおじさん。
大爆笑のたのしいひとときとなりました。

ちなみに、最後の「特別講演」は、福島の低放射線量の安全・危険をめぐって、質疑応答が紛糾。nikkouが興味深かったのは、会場の人たちが、広瀬隆、小出裕章はじめ、よく読んで調べているなあ、ということ。
ある年配の男性の方(われわれ科学者は、とおっしゃってたので、やはりどこかの理系の大学教授かもしれません)が、
「論点は、2つありますね」と整理してくれました。

ひとつは、現在の問題。もうひとつは、未来の問題。

現在の問題は、除染方法とか、低放射線量とかの問題。ただ、現在の科学には限界があって、どれが正しいのか、科学者の間でも意見が分かれる。分かれている意見をそのまま開示し、わかりやすく説明すべきだ。
そしたら、あとは個々人のリスク管理の問題になってくる。信仰の問題がからむとしたら、そこだ。
未来の問題は、原子力をどう考えるか、発電やライフスタイルをどうするかという問題。それは、科学はもちろん、倫理や社会や信仰の問題とからんでくるだろう。

nikkouは、この考えに賛成。
nikkouは脱原発を望んでいるけれど、それと、低放射線量をどう考えるか(nikkouは、大人の自分には問題ないと考えているけれど、もし妊娠したら、非常に気をつけるつもり)は、別々に考えたい。
科学には、限界がある。
原子力とか、日本の豊かさをどう考えるか、ということは、宗教や倫理や哲学の領域だ。

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