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November 07, 2011

「無教会全国集会2011」二日目

11月6日「無教会全国集会2011」二日目。

nikkouは午後、仕事が入ってしまったので、
午前中だけの参加になってしまったのですが、とても力づけられる集会でした。

お話なさったのは内坂晃氏。

お恥ずかしいのですが、nikkouたち、遅刻しまして、会場に入った時にはもう、お話が始まっていました。

お話は、ソマリアの難民のことのようでした。そして、今、日本の祈りが震災や原発のことに集中しているけれども、現在、世界中で、たくさんの苦しむ人々がいることを忘れてはならない、というようなことをおっしゃっていました。

以下、特にメモをとらなかったので、nikkouの心に刻まれたことを、記憶に従って、またnikkouの感想もまじえつつ、みなさまにシェアしたいと思います。

内坂さんいわく、

苦難の中にあるとき、人は神の弁護人になってはならない、とのこと。「弁護」は被告のことをよく知っていなければできないから。人に、神のことがわかるだろうか。

nikkouは、震災直後に「天罰」と言い放った政治家や、キリスト教界でじみ~に話題になっていた無神経なカルトの人々を思い出しました。

人にできることは、「神さま、どうしてこんなことが!」と泣いて、訴えることだけ。そして、必死に神さまがなにをお考えなのか、耳を傾けることだけ。

そしてもうひとつ。人は、神の姿を見たというような神秘体験や、病が治ったというような癒やしの体験、そして、困難を乗り越えた、というような経験をしたとき、それによって信仰が得られた、強められた、という思いを持つことがある。もちろん、それは、その人個人にとっては大切なものだろう。しかし、経験や体験が絶対化されて、聖書よりも大事になってしまって、そういう経験をしていない人を、「信仰が足りない」「本当の信仰をもっていない」と蔑んだり、批判したりするようになる。

神の弁護人、あるいは経験を重んじるような態度、それは、じつは、「闇の現実」にとらわれてしまった、とても余裕のない状態なのだ、という。

さて、そこで内坂さんは、子供のころの教会学校で先生をしていた大学生小林融弘氏の思い出話をされました。

内坂さんが子供のころ、三池炭鉱で大きな事故があって、たくさんの人が死んだ。小林氏は、この世の中に、こんなに苦しく辛い思いをする人々がいることと、教会の中で、「信仰は勝利!」と大きな声で歌っている人々とのギャップにとても思い悩み、そのことを日曜学校の週報に書いた。

小林氏は、この矛盾のなかで思い起こされたのが、十字架のイエスだったといいます。ひどい現実に殺され、悲惨な死を遂げたイエス。イエスでさえ、闇の現実に苦しまれた。しかし、イエスは、復活し、今わたしたちの間に生きて、働いておられる。

そう、「闇の現実」と福音をつなぐのは、十字架と復活、そして、イエスが今私たちの間に生きて働いている、ということ(ギリシャ語で、「インマヌエル(神はわたしたちとともにある)」という)だ。このことは、「闇の現実」とは違う、「もうひとつの現実」、「神の国」の存在をわたしたちに教えてくれる。

歴史上、「もう一つの現実」つまり、「神の国」がある、ということを信じて生きた人々があります。それは、ユダヤ教を信じるユダヤ人という人々。彼らはキリスト教とによる激しい迫害のなかでも、「神の国」の存在を信じつづけた。そうしたなかで、「ユダヤ人ジョーク」という、独特な文化が生まれた。

(内坂さんは、いくつかユダヤ人ジョークを紹介され、会場はくすくすと笑いに満たされました。会場で紹介されたジョークとは違いますが、こんなサイトがあるので、見てみてください。)

「闇の現実」はひとつの現実にすぎない。この世界には、「神の国」というもう一つの現実がある。そういう思いが、苦しい状況を相対化し、笑いのめす、そういう文化を生んだ。

さて、ではキリスト教徒はどうか。キリスト教徒が、「もう一つの現実」を仰いだ時、そこに生まれるのは、「ジョーク」ではなく、「ユーモア」だ、と内坂さんはいいます。

「ユーモア」とは、愛だ。

作家椎名麟三は、失意のどん底にあったとき、友人に誘われて、教会で復活の話を聴いた。

それは、復活したイエスが、復活したことを示すために、焼き魚を食べた、というくだりだった。

友人は「あーこんな話のときにつれてきちゃった」とがっくりきていたそうですが、椎名麟三は、とても感動したそうです。

なぜなら、そこには、愛にあふれたユーモアがあったから。

わたしは復活したよ、と示すために、みんなの前で一生懸命、むしゃむしゃ魚をたべる。真面目な場面なのに、なんだかおかしい。それは、神の愛があふれて、ユーモアとなって表れている。

「もう一つの現実」を仰いだとき、「闇の現実」は相対化される。「闇の現実」にとらわれた余裕のない状態から解放される。「もう一つの現実」とは、イエスの十字架と復活、そこに現れた、神の愛なのである。

nikkouは、思わず、涙ぐみそうになった。イエス様が魚を食べた時、弟子たちは、思わず涙ぐみながら、微笑んだのだろう。

涙ぐみながら、微笑まずにはいられない。

世の中には、ときどき、そういうことがある。つらいのだけれど、人の優しさや、ちょっと相対化してみたとたんに、なんだか滑稽な現実に、涙ぐみながら、笑ってしまう。それはとても不思議な笑いだ。

主イエスは、「今泣いている人は幸いです。その人は笑うようになるからです」と言った。

はじめてこの言葉を聴いた時、nikkouは、「禍福はあざなえる縄のごとし」ということか?と思った。今泣いている人も、いつか、復讐を果たして、「ざまあみやがれ」と嗤う日が来るだろう、ということか? と思った。

でも、今になってみればわかる。今泣いている人は、主イエスの十字架と復活を仰いで、「闇の現実」を相対化したとたん、涙ぐみながら、笑うのだ。その笑いは、泣いた人しか、きっと分からないとても幸せな笑いなのだと思う

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