手話讃美2011
ろう教会のクリスマス会用の動画です。
歌は、「パン・パカ・パン二色パン」の「クリスマスの話」
こないだの礼拝で、
「東方の三人の博士」の話が出た。
この博士たちが出てくるのは、マタイ福音書。
ほかの福音書には出てこない。
しかも、通常「三人の博士」と言いならわされているけれど、
「三人」とはどこにも書いていない。
マタイがこの話を書いた時、彼の脳裏にあったのは、
二人だったかもしれないし、十人だったかもしれない。
後世、三人と言いならわされるようになったのは、贈り物が3つだったから。
マタイ福音書には「黄金、没薬、乳香」と書いてある。
だから、ここで重要なのは、三人だったか否かではなくって、
イエスの誕生にビビットに反応したのが、外国人だったことと、
贈り物に「没薬」「乳香」という、死者のためのものが含まれているということだそうだ。
ここには、
福音がユダヤを超えて伝わることと、
イエスが誕生から遠からぬ将来、恐ろしい死を迎える、
というメッセージがこめられている。
…という話で、はたと思いだした。
nikkouの9歳年少の妹が、nikkouも通った幼稚園で、クリスマス・ページェントをしたときのこと。
配役の立候補を募った時、
この幼稚園史上初、
天使に男の子が立候補し、
博士に女の子が立候補したそうであります。
博士はともかく、男の子の天使役の衣装の準備に、先生たちはてんてこ舞いだったそうです。
でも、男の子の天使も、女の子の博士も、
主イエスはとても喜びそうだ。
…なんて話を、教会でしたら、
ティーチャーいわく、
「A(現在、小学2年生の息子さん)が幼稚園のときは、
マリアさんに男の子が立候補したよね。
ケンちゃんって子。
おもしろいやつだったね。」
へー。それはさすがにびっくり。
でも、あとで考えてみたら、そんなケンちゃんの気持ちも、わからなくもない気がしてきた。
幼稚園でやるクリスマス・ページェントのマリアさんは、
ベィビー・ジーザス(役の人形)をだっこして、子守歌を歌う。
nikkouが子供のころはバブル全盛、猛烈社員と専業主婦まっさかりの時代で、
働いているお母さんのほうが少なく、
父親ってのは、あまり家にいない、
ましてや赤ん坊をあやすなんてことはほとんどなかった。
だから、マリアさんの役柄をみれば、それはイコール、お母さん=女、だった。
でも、今のパパたちは、
ふだんから赤ちゃんをあやしたり、お風呂に入ったり、ご飯を食べさせたりしているんだろうと思う。
お母さんが働いて、
お父さんが育児休暇を採ることも可能になった。
ケンちゃんのお父さんは、一生懸命子育てしているんだろうね。
マリアさんが、赤ちゃんを抱っこして歌を歌う役なら、
僕がやってもいいだろう、
だって、うちのパパだってやってるよ、というのが、
ケンちゃんの主張だったのかもしらん。
ケンちゃんみたいな男の子が増えたら、
出生率もあがるかもしれない、って
既婚・子なしのnikkouがいうと、説得力あるかも?
さて、幼稚園で博士をやった女の子と天使をやった男の子も、いまや26歳。東方の博士のように、飽くなき探求心と勇気をもった女性と、天使のように美しい心と喜びを告げ知らせる明るさをもった男性に成長しているといいなあ、と思います。
みなさま、どうぞよいクリスマスを。
先週の金曜日、夫と三谷幸喜監督「素敵な金縛り」というコメディ映画を観に行く。
深津絵里が演じる失敗続きの弁護士が、
転んでも、つまづいても、まけるもんか、と、がむしゃらに立ち向かっていく様子に
なんだか親近感。
夫からも「nikkouさんとキャラがかぶるんじゃない?」と言われた。
私も、職場の同僚たちにはあんなふうに見えているんだろうか。
でも、不器用な人間が人並みの結果を出すには、
がむしゃらにがんばるしかないんだよな。
先々週の水曜日には、兵庫の宝塚で、宝塚歌劇を観てきた。
宝塚を見ると、ラストの大階段で必ず泣く、というのは聞いていたけれど
予定調和のこの話の、どこで泣くんだ、と
半ばバカにして、思いっきり油断しておりました。
ええ、油断しておりましたよ。
だから、ラストで、―― あれ、なんの涙だ、これ? ――と思いました。
なにに泣かされたのか、っていうと、
それはもう、ひとえに、トップ女優さんの役者魂に尽きる。
トップ女優さんは、その他大勢とまったく違う扱いで、ずっーとスポットライトがあたっていて、
ひとり出ずっぱりの、歌いっぱなし躍りっぱなし。
彼女が、台詞ひとつ噛んだり、ダンスを一歩踏み外したりすれば、
すべての舞台がおじゃんになるだろう、とはらはらするほど、彼女に劇場中の視線が集まり続けての、
ラストの大階段なわけでした。
トップ女優さんは、深津絵里演じる弁護士と真逆、
ひとつの失敗も許されない。
でも、その緊張感を微塵も感じさせないほどスマートで華麗で、
自分とは遥かに遠い存在であることよのー、と思ったものです。
さて、昨日の礼拝で、
川崎教会の牧師、通称ティーチャーが、
「自分と同じ者として、隣人を愛せよ」という主のことばについて、
「どういうことなのか、ずーっと考えてきたんだけど」
と言った。
「ずーっと考えてきたんだけど、
最近、こういうことかな、って考えているんです。
世の中には、たしかに、やなやつがいて、
そういうやつとは、付き合わないっていう処世術もある。
でも、自分だけは、どんなに嫌いでも、別れたり、距離を置いたりできない。
もし、『やなやつ』が、主が出会わせてくれた隣人であるなら、
好むと好まざるとかかわらず、勝手に切り捨てたり、見限ったりできないんじゃないか、
『自分と同じ者として』っていうのは、
そういうことなんじゃないか、
って思うんですよね。」
それで、はたと、
仕事の取引関係のある若い男性のことを思い出した。
昨年からよく売り込みに来るようになった写真のエージェントの営業マンなのだけど、
不器用なnikkouから見ても不器用な人で、
忙しい時間や季節にアポなしでやってくるわ、
こちらの仕事の中身を理解していないわ、
売りこんでくる商品は的外れだわで、
あー、この人、この仕事向いていないんじゃないかなあ、と
ちょっと気の毒だった。
ただ、とにかく「がむしゃら」で、
しょっちゅう売り込みに来る。
nikkouより10歳は若いかなあという感じだったので、
10年「がむしゃら」やってれば、すこし、人並みになるかもよー、と
無責任に眺めていた。
ところがそのうち、ぱたりとこなくなり、
そして、先日、
別の、もっと遣り手な感じの営業マンが挨拶に来た。
なんでも、その不器用な彼は、病気になり、会社に来なくなり、
そのまま引き継ぎもせず、やめることになった、という。
がむしゃら君、折れちゃったのかなあ。
宝塚トップ女優と程遠い、がむしゃらタイプnikkouとしては、
がむしゃら君の、会社に行きたくなくなって、やがて本当にやめちゃう気持ち、
それほど想像に難くはない。
がむしゃらタイプにとって、
仕事で一番しんどいのは、じつは、人間関係だ。
仕事そのものは、まあ、最終的に帳尻があえばいいと思っている。
ただ、スマートタイプと同じ結果だとしても、
がむしゃらタイプは
その過程で、人間関係の摩擦でもって、叱責やら罵倒やら、女子の場合はセクハラやら蔑視やら、
まあ、それはそれは、たくさんの試練にあうわけで、
なんで、わたしばっかり、こんな嫌な思いをするんだろう、と思うことは少なくない。
ただ相手に嫌な思いをさせられるだけじゃなく、
相手に嫌な思いをさせたかも! それで怒らせたかも!なんて、考えていると、
すくんじゃって、仕事に出ていけなくなっちゃうよね。
nikkouだって、怒らせちゃった結果、会ってもらえなくなった相手が何人も(!)いる。
よく、それで仕事を続けているもんだと思う。
それでもnikkouが、なんとか折れずに進んでいけているのは、
ティーチャーの言葉を借りれば、
「主が出会わせてくれた隣人」という考え方のおかげだ。
これは断言してもいい。
何度も、その考え方で切り抜けてきたから。
世界観が、「いやなヤツと二人だけ」になってしまうと、
社会を突き進む気力は萎えてしまう。
ここに「主」という第三者が入ってくると、
しんどいのはそのままだけど、
案外、突き進む勇気が、相手と関わる力が、折れずにすむんだよね。
主よ、ご覧じあれ、ガンダム―じゃなかった、nikkou行きます! ってノリです。
突き進む先に、ちゃんと通り道が用意されていることを信じているしね。
がむしゃら君とは営業されるだけの関係だったので、
もう会うことはないかもしれないけれど、
そのままひきこもってしまうことのないよう、祈ってる。
今はすこし休んでいても、
また、がむしゃら君なりの活躍の場が与えられますように。
そして、願わくは、その傍らに、主の支えがありますように。
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