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July 25, 2012

風がどこから吹くのかだれもしらない(下)

『眠られぬ夜のために』第二部いましばらくの間、祈りと心の目ざめをもって、耐え忍ぶがよい。あなたの家族や親しい人びとのためにも。そうすれば、きっとあなたの最良の時が来る。「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」(創世記49章18節)岩波文庫:草間・大和訳

さて、ニコデモとイエスの対話。ヨハネ福音書に出てくるお話である。

ニコデモは、2000年前のイスラエルで大きな勢力を誇ったユダヤ教の一派、ファリサイ派の老教師であった。
ファリサイ派とは、宗教的戒律から、さまざまな「差別」を、おそらく悪意なく、作りだした宗派である。
ある晩、イエスのもとに、ニコデモがそっと訪れる。
なぜニコデモがイエスのもとにやってきたのか、聖書は常に簡潔なので、情報がすくなくて、よくわからない。
イエスの教えに感銘をうけたから、というのが多くの解釈だ。
まあ、ほんとうのところはよく分からないなあ、とnikkouは思っている。
長くファリサイ派を率いてきた老教師の一人として、新進気鋭のリーダー、イエスに会ってみたかっただけかもしれない。
たぶん、ヨハネ福音書に収められているのは対話の一部で、もっと多くのことをふたりで丁々発止論じ合ったのではないかと思う。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音書3章3〜4節」

ニコデモは、イエスに対して「あなたのお考えは、どうも無理があるように思えるんですがね」という感じ。
これに対して、今回、イエスは、あまり煙にまくようなことを言わない。
どちらかというと、熱心に、理解を求めようとしているように思える。

「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

無理なんかないですよ、とイエスは言う。「生まれる」っていうのは、あなたの身体はそのままに、たましいが、まったく別のものになってしまう、っていうことなんですよ、と。
たましいって何か、って。
身体のように目に見えるものではないですが、ちゃんとあります。
まるで風のように。

近代以降の人間にとって、「新たに生まれ変わったように」という表現は、わりに月並みに感じる。
でも、ひょっとしてこの時代、個人の人格や内面と、身体とを分けて考えるというのはとても奇妙で、斬新な発想だったのかもしれないなあ、とnikkouは思う。
そういうと、まるでイエスがデカルトを先取りしていたみたいな言い方になるけれど、それほど抽象的ななものじゃなくて、社会的な役割に、個人が強く強くしばられていた時代、個人の内面が変わったところでどうなるものでもないし、それでも突き進んでしまったら、社会はえらい混乱に陥るではないか、という考えかたが常識だったんじゃないかなという意味。
「生まれ変わるってあんた、もうどうにもならんがな、この内面や人格は、この社会的役割(身体)によって与えられたんだし、そうやって作られた内面や人格でもって、ここまでの社会的役割を築いてきたんだから。
やり直すんなら、もう一度赤んぼうにもどって、あんたのいうような新しい考え方が実現できるような社会的役割(身体)が与えられないと、やれんがな」
というのがニコデモの主張ではなかろうか。そう考えると、ニコデモの主張もそう頓珍漢なものではないように感じる。

でも、変えられてしまうんですよ、社会的役割(身体)なんて、どうせほろびるものですから、捨てちゃってかまわない。人間の内面(霊)は、風みたいに自由で、そんなもの超越しちゃってるんだから、とイエスはいう。常識的なニコデモ先生には、たいへん過激で不穏な主張に映らなかっただろうか。

そして、そんな主張を聞いて、ニコデモに意識の変化はあっただろうか。変わったのだったらいいな、と思うけれど、この後はもう、ニコデモは登場しない。

そんな聖書箇所を読みながら、はた、と思った。
今回の事件について、イエスはどう思うだろう。
もちろん、被害にあった子を、彼は全力で守ろうとするだろう。
当時、被害にあっていた人たち(皮膚病のひとたち、売春婦のひとたち、放牧に従事していたひとたち)に、彼はよりそっていた。

でも、加害者の子たちも、彼は、一生懸命救おうとするのではないか、
そう思った。
もし、彼らが今のようにバッシングの嵐にあったら、
「ざまあみろ、自業自得だ」とは言わないだろう。

ニコデモを「加害者」と呼ぶのはちょっと酷だけど、でも、「加害」のシステムの側にいたことは間違いない。でも、ニコデモのように、年老いて、長らく自分の信じた道を歩き続けた人にさえ、イエスは、新しい道へ生まれ変わろう、と促す。
であれば、これから長い道のりを歩もうとする若者にも、きっと、勧めるだろう、

君のたましいは、今、どこにあるのか。
これまでの歩みは間違っていた、と気づいたか。
新しい道はみつけたか。
まだか。
では、さがそう。変わろう。
そして、もう一度、あるきだそう。

本当なら、あの子が自殺などする前に、
それはちがう、新しい道をあるこう、
と、強く叱ってでも、勧めなければならなかったのに。

でも、今、イエスにならうなら、
加害者の彼らの行き先をふさいで罵倒することではなく、
新しい道はみつけたか、さがそう、と呼びかけることではないか。

そんなことを書いている途中に、ニュースで、加害者へのバッシングがとうとう本当に「リンチ」を呈してきたと報じている。

ニコデモに、イエスは続けてこう言う。

神が御子(イエス)を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである。

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