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September 13, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】「日本人である」というタラントン

さて、「日本人である」とはどういうことか、という話である

野々瀬さんが、「環境も、神様からの【恵み・借金】である」といい、
荒井さんから、朝鮮半島の人々と日本とのかかわりについてのお話をうかがい、またその過去にたいして、「うめき」という祈りを示された時、
nikkouの心に、ある化学反応がおきた。
それをシェアしたいと思う。

nikkouは、正直、「日本人であることの誇り」だの、「日本語は世界でもっとも美しい」だのということを言う人が苦手である。
仕事柄、そういうことを言う人と出会う確率はとても高いのだけれど、
そういうことを言う人には、営業上お付き合いをしても、
仕事(=執筆)は、頼まないようにしている。
理由は、大きくわけて三つある。

まず第一に、「日本人/日本語はすばらしい」という時点ですでに、
自分は、外国はもちろん、日本のこともあまり勉強していません、と告白しているのと同じだと思うからだ。
nikkouが執筆を依頼する先生の中には、
国語が専門でありながら、日本以外の国や言葉についてとてもよく学んでいる先生たちがいる。
そうした先生たちからnikkouは、ことばや人間について、じつに多くのことを学ぶ。
そもそも国語の先生をしていれば、いやがおうでも、
漢文にともなって中国文学や中国の歴史を学び、
現代文でも、フランスやドイツの哲学を学ばざるを得ない。
深く広く学べば学ぶほど、
「日本語」だけではなく、「ことば」について、
「日本人」だけではなく、「人間」について
思考をめぐらさざるをえない。
そうした中から、「日本語」や「日本人」をどうとらえるか、という視点が生まれてくることはある。
でも、どの国の言葉や歴史がもっともすぐれている、なんて大胆なことは、
どんな博学な学者でも判断がつかないはずだ。
だから、「日本人/日本語はすばらしい」とか言う人に原稿を依頼しても、
面白いこと、深いことは何もかけないだろうな、とnikkouは判断するのである。

第二に、そういうことを言う人としばらく話していると、
だんだん、すさまじい差別意識をあからさまにしてくることが多い。
「日本人であることの誇り」から転じて
「一神教である欧米文化は狭量だ」だの、
「中国や韓国は日本よりも遅れている」だのと言いだして、
もっとひどい人になると、
学歴が高いこと、勤務校の生徒の学力が高いことなどに優越感を持っていたり、女性差別的だったりする。
この人のクラスに、勉強のできない子や、在日コリアンの子、セクシャルマイノリティの子がいたら、
どうなっちゃうんだろう、と心がさむーくなる。

そして第三に、
そもそも、あなたも、わたしも、ある国に生まれたのは、
まったく、たまたまなんじゃないの? と思うからだ。
もし、あなたが生まれたのがたまたまアメリカなら、あなたは日本ではなく、アメリカを誇るのだろう。
もし、あなたが生まれたのが韓国なら、あなたは日本ではなく、韓国を誇るのだろう。
しかしあなたが、その国の人間や文化を生んだ創造主なのか、あなたの努力でこの国があるのか。
たまたま生まれた国を誇る、というのは、nikkouには、つくづくナンセンスに映る。

だから、nikkouは、「日本人であることの誇り」や「日本語は美しい」という考え方からは、
できるかぎりフリーでいよう、と思ってきた。
そして、職業的良心から、そういう人の本はつくらないようにしようと思ってきた。
できるかぎりニュートラルに、世界のことばや文化と向き合おうと思ってきた。

でも、そうすると、ひとつだけ、大きな問題にぶちあたるのである。

それは、
「日本人であることの責任」からもフリーになってしまう、ということである。
具体的に言うと、たとえば戦争犯罪に対して、どう罪意識を持てばいいのか、わからない、ということである。

第二次世界大戦で、日本軍は、アジア各国にひどいことをした。
話をきけばきくほど、嫌なことばかり。
でも。
でも、それがわたしと、なんの関係があるのだろう。わたしはたまたまこの国に生まれたのだし、日本に限らず、どこの国のどの時代の歴史にもあることだろう。
心のすみで、そんな思いがどうしてもぬぐいきれなかった。

戦争で、女の人を強姦したり、人を殺したりしたのは、
戦争に行った人たちでしょう。
実際に手を汚した彼らが、実際に殺されたり傷つけられたりした人やその家族に会って、謝るべきではないか。

もちろん、一人の人間として、
戦争の犠牲になった人たちを深く悼む思いはあるし、
一人の女性として、
ひどいめにあった女の人たちとともに嘆き、憤る気持ちはある。
でも、そこに、どうしても「日本人であるわたし」という概念が代入できなかったのである。

ところが、
今回、野々瀬さん、荒井さんのお話が、nikkouのなかで、ふと、つながったのである。
「日本人である」というのは、
神様から与えられた、莫大なタラントンの一部ではないのか。

神様から一方的に与えられた【借金、恵み】なので、日本人であることを誇る必要はまったくない。
でも、日本人であることの責任を放棄したら、――つまり、「日本人である」という【借金、恵み】を土に埋めてしまったら、
最後に、神様からげんこつをくらうかもしれない。
今、この時代に、この言葉を用いて生きる、この国に生まれた、という【借金、恵み】を
二倍、三倍の「よいもの」にして、神様にお返しする。
そうすれば、タラントンをいかしきったことになるのではないか。

戦争犯罪についても、あるいは、マスコミでさかんに煽っている独だか竹だけいう島についても、
いつか、
世界中が瞠目し、世界の歴史に語り継がれるような、平和に満ちた解決策を示せたら。
その解決策にむけて、わたしが「この時代のひとりの日本人」として一生懸命尽くして、その解決の一歩に参与できたら。
それは「後世への最大遺物」にならないか。

「日本人としての誇り」にとらわれず、
しかし、
「日本に生まれた責任」を積極的にはたす。
ウルトラC級の難しいことだと思っていた。
でも、意外なところに、解答の糸口があったような気がする。

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September 12, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】野々瀬さんの「タラントンの話」と、荒井さんの「北朝鮮の話」

一泊二日の無教会キリスト教青年全国集会、無事終了いたしました。
たいへん充実したひとときとなりました。

nikkouの心に残ったこと中心になりますが、
みなさまに、会の様子をシェアしたいと思います。

青年大会では、
初日、二日とも、聖書講義があるのですが、
今回は、初日が野々瀬浩司さん、二日目が荒井克浩さん、と
伝道者としては比較的若い50代の方たちからの講義でした。
どちらの講義でも、nikkouには深い感銘を受け、
あらたな気づきを与えられました。
かいつまんで御紹介するとともに、nikkouに与えられた思いをみなさんにシェアしたいと思います。

初日の野々瀬さんのお話は、マタイによる福音書25章14章~30節「タラントンの譬え」にみる未来に向かっての生き方、と題されたものでした。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、  五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 
恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 

このお話のポイントとして野々瀬さんがお話されたことをnikkouなりにまとめると、大きく分けて次の3点だと思う。

1)5タラントンを、兵士の一日のお給料=現代のバイトの日給、で換算すると、1億8000円~3億円!(2タラントンは7200万円~1億2000万円、1タラントンは360万円~600万円)
主人は「小さなものに」と言っているけれど、決して小さな額ではない。
 これは、主人の、しもべに対する莫大な信頼を表している。

2)この莫大な金額は、主人がしもべに「あげた」お金じゃない。
 あくまでも、預けたもの、しもべにしてみれば借金である。

3)1タラントンを土に埋めた人は、なにも悪いことをしていない。
主人のおカネを着服したわけでも、
儲けたほかのしもべたちを脅してお金をだまし取ったわけでもない。
ただ隠していただけなのに、ひどく叱られた。

さて、ここでいうタラントンという莫大なお金が譬えているものはなにか、ということですが、
よく、生まれ持った才能、と解されることが多い。
英語のタレントの語源だとする説もある。
でも、才能だけじゃないんじゃないか、と野々瀬さんは言った。
生まれた環境、出会った人、ひょっとしたら努力する能力さえも、
神様から預けられた莫大な【恵み・借金】ではないかと思う、と言う。
だから、自分の能力やら恵まれた環境やらを誇る人がいるけれど、
それは、借金の額を誇っているだけにすぎない。

神様から与えられたその【恵み・借金】を糧に、
大きく冒険してこい! と、神様を我々に期待している。
もちろん現実には失敗してしまうことだってある。
イエス様の譬え話のようにはいかないかもしれない。
でも、人間的には失敗でも、神様からみたら、喜ばれるような成功ということもあるんじゃないかと思う、とのこと。

一方で、1タラントンの男。
べつに悪い人じゃないのに、こんなにひどく叱られている、というのが、気の毒なのだけれど、
問題は、この人が、主人を、恐ろしい人だと見ているということ、
主人への信頼感がなくって、とても冷めきった関係だということ。
神は恐ろしい、と見る人には、実際に神は恐ろしく見え、
ひねくれた見方をする人には、実際にひねくれて見え、
愛している人には、愛の神に見える。
そんな、神と人との真理が反映されているのではないか、とのことでした。

そんな野々瀬さんのお話を聞いて、驚くこと多々。
まず、タラントンという単位がそんなに大きなものであったこと、
イエス様がこの話をしたとき、きっと人々はどよめいただろうと想像する。
そして、1タラントンの男は、とくに犯罪的行為をしたわけではなかった、と、注意を促されて、
はた、と思った。
悪いことをして裁かれるなら、話は分かりやすい。
でも、何もしなかった、といって裁かれたら、裁かれた側は腑に落ちないんじゃないかしら。

二日目は、荒井さんから、
韓国や北朝鮮と、日本人クリスチャンとの関わりについて、お話をうかがった。

まずは、第二次世界大戦中、日本人が韓国の人々に強要した神社崇拝や、
さらに日本人クリスチャンたちが、韓国人クリスチャンに、妥協するよう説得、勧告した話、
それに抵抗して多くの韓国人牧師が拷問をうけ、獄死したこと、
そんななか、矢内原忠夫は、ロマ書8章を掲げ、韓国のクリスチャンを励ましに韓国にわたったこと、
その際、殉教も覚悟したとの話から始まりました。

ローマの信徒への手紙8章18節‐25節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 

世の矛盾と苦難のなかで、
わたしたちは、うめくしかないときもある。
でも、うめきつつ祈る時、それは、全ての被造物を救う祈りとなる、との証しのあと、
さらに、荒井さん自身、北朝鮮の教会に行った際のお話をされました。

なぜ、北朝鮮があのような軍事力を基礎とする国づくりをしているのか、
北朝鮮の人びとが言うに、
――日本に植民地支配されたことがつらかったから、苦しかったから、
そして、そうなったのは、自分たちが弱かったから、
だから、2度とそういう思いをしないように、
軍事力を強くしなければならない、と考えている、
とのことだということ。

彼らのかたくなな軍事政策を批判するのは簡単だけれども、
その背後には、やはり、日本との歴史的関わりが絡みついている、とのこと、
nikkouも、はっと胸を突かれる思いでありました。

この、野々瀬さんと、荒井さんのお話が、
nikkouのなかで化学反応を起こして、
ある、新しい視点が与えられました。
それは、「日本人」である、とはどういうことか、という視点であります。
長くなったので、項を改めます。

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