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May 11, 2013

神谷美恵子の功罪

ハンセン氏病という感染症がある。
長年、この日本で非人道的な隔離政策が行われ、小泉政権下で国の責任を問う裁判が行われたことは記憶に新しい。

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このハンセン氏病をめぐって書かれた『「隔離」という病い ◆近代日本の医療空間』(武田徹)を読んだ。
本書の真ん中あたりで、神谷美恵子に関する記述があって、nikkouは、ひとかたならぬショックを受けました。
筆者の武田徹は、神谷美恵子が、この非人道的な隔離政策に、少なからず「貢献」した、と指摘しているのである。 その指摘には、なかなか説得力があって、神谷美恵子を真摯で誠実な愛の人であったと理解していた身には、読み進むのが、ちょっとばかり、つらかった。 でも、とてもとても大きなことを学んだように思うので、みなさまにシェアしたい。

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くわしくは本書を読んでいただきたいのだけれど、 簡単に要約すると、神谷美恵子の「罪」は2点ある。
まず、神谷美恵子がその主著『生きがいについて』などでハンセン氏病施設(療養所)に暮らすハンセン氏病のひとびとが「生きがい」を持って生きていることを礼賛したことについて。
「生きがい」を持つことは、はたして「正しい」のか。「生きがい」とは主観的なものではないか。
病者を社会から隔離することに必死になった人たちは、そのことを「生きがい」としていたのではないか、
あるいは、「国のために死ぬこと」を「生きがい」とする病者もいたのではないか、
生きる目的を一方的にはぎ取られた人たちが、隔離された環境で設定した生きる目的を「生きがい」と呼んでよいのか、
そもそも、「ある時点で生きがいを感じていることが、死ぬまで続く隔離された生活を正当化する根拠にはならない。」

そして、もう1点は、神谷がこうした療養所を「ユートピアとして描いたため、隔離政策を顧みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。療養所がユートピア=良き場所であるという神谷の主張は、病者との共存を快く思わない世間にとって実に都合がよかった。いうまでもなく、そこに病者を閉じ込めておくことへの罪悪感を感じなくて良くなるからだ。」という。

さらに、なによりnikkouの心に突き刺さったのは、神谷のこうした発想が、キリスト教を背景に生まれたものだ、という武田の指摘である。
より正確に言うと、フーコーが指摘した、キリスト教の「牧人権力」にある、という。
「牧人権力」とは、「牧人」すなわち羊飼いが、愛と責任を持って、まずしく弱い羊たちを正しい道に導く、という支配の構造のことだ。近代国家において、それは、支配者と大衆、という構造に置き換えられ、群の秩序のために、個性や人間性を犠牲にする、ということにつながる、というのがフーコーの分析だった。

神谷美恵子や、隔離政策を推進した医師光田健輔に、悪意はない、と武田をいう。 彼らにあったのは、気の毒な病者たちを、愛を持って保護する、という「牧人」としての使命感、責任感である。

……もう、読みながら、心臓ばくばくですよ。

ひとまず「牧人権力」は置いておいて、素朴に、主イエスは病者にどのように向き合ったか、思い出してみよう。
すると、隔離や保護とはまったく逆の方向、つまり、「あなたは病者ではない」と宣言して、社会のなかに押し出す、という行動ばかりしている、ということに気づく(マタイ8ー1〜4、ヨハネ5−1〜9などなど)。
ときにそれで病者が人びとに差別的なことを言われてもお構いなしである(ヨハネ9−8)。
主イエスからしてみれば、病者を受け入れない社会こそが、罪を病んでいるのだ。

だから神谷美恵子は聖書を読み間違えたのだ、と断罪することはたやすい。
今なら、「当事者性」なんて言葉も生まれて、障がいをもつ人や、認知症の老人などは、はたして「弱者」なのか、主体性をもった個人ではないか、なんて議論もなされていたりする。
でも、神谷の時代、「当事者性」なんて考え方、ほとんどなかったんじゃないかと思う。 そんななか、彼女なりに、一生懸命良心に従って働いたのに、 それは誤りでした、ってのは、あまりにも切ない。

そしてまた、その刃が自分にも返ってくるような気がして、身がすくむ。
今、私が一生懸命良心に従い、聖書に学び、なにか行動としたとして、 それが誤りだったら、どうしたらいいのだろう。

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そんな重たい思いを抱えたまま、礼拝後、川崎教会の牧師であり、nikkouのゴスペル仲間であるティーチャー(愛称)にこの話をした。
すると、ティーチャーも、『ハンセン病とキリスト教』(荒井英子)で、神谷美恵子の功罪を知った、と言う。
「でも、神谷美恵子が一生懸命ハンセン病の人たちに尽くした、ということと、 それが、今から見れば、功罪ある、ということとは、 別のことだよね。」
「たとえ、過ちであったとしても、ハンセン病の人たちと神谷さんが結んだ友情はすこしも傷つかないし、 わたしたちは、彼女の罪から、学ぶことができる。 彼女の思想や行動を検証することは、彼女の人格をおとしめることにならないと思うよ。」

ああ、そうか! とnikkou、はたと気づいた。
神谷美恵子が、一生懸命働いたからこそ、わたしたちは、その行動や思想を検証し、 自分の行いを顧みる材料にすることができる。
もし、神谷美恵子が、ハンセン氏病の人びとになにもしなかったら、わたしたちは、なんの検証もできず、何が罪か、よりよくするにはどうしたらいいのか、道しるべもなにも得られなかったことになる。
逆に、神谷美恵子を神格化して、彼女のことをなにも検証しなかったら、彼女の人生がなにも活かされないことになってしまう。

だから、わたし自身も、一生懸命誠実に生きて、過ちも含めて、後世の人びとに学ぶ材料を提供しよう、と考えればいいのかもしれない。

だれもが、過ちをおかす。
偉人と呼ばれる人も、検証すれば、かならず、なにかしら、誤りが見つかる。
「でも、イエスだけは、ないんだよ、誤りが。 これこそが奇跡だと思わない? 病を癒したり、復活したり、ということより、 何千年経っても、誤りがない、ということのほうが、奇跡だと思うんだけどなあ。」 とティーチャー。

そういわれて、ふと思った。
イエスが、わたしたちに伝えようとした道、
わたしたちのただなかに、こうあってほしいという「神の国」を
2000年経っても、
まだ、
わたしたちは理解できていないのかもしれない。

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