May 11, 2013

神谷美恵子の功罪

ハンセン氏病という感染症がある。
長年、この日本で非人道的な隔離政策が行われ、小泉政権下で国の責任を問う裁判が行われたことは記憶に新しい。

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このハンセン氏病をめぐって書かれた『「隔離」という病い ◆近代日本の医療空間』(武田徹)を読んだ。
本書の真ん中あたりで、神谷美恵子に関する記述があって、nikkouは、ひとかたならぬショックを受けました。
筆者の武田徹は、神谷美恵子が、この非人道的な隔離政策に、少なからず「貢献」した、と指摘しているのである。 その指摘には、なかなか説得力があって、神谷美恵子を真摯で誠実な愛の人であったと理解していた身には、読み進むのが、ちょっとばかり、つらかった。 でも、とてもとても大きなことを学んだように思うので、みなさまにシェアしたい。

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くわしくは本書を読んでいただきたいのだけれど、 簡単に要約すると、神谷美恵子の「罪」は2点ある。
まず、神谷美恵子がその主著『生きがいについて』などでハンセン氏病施設(療養所)に暮らすハンセン氏病のひとびとが「生きがい」を持って生きていることを礼賛したことについて。
「生きがい」を持つことは、はたして「正しい」のか。「生きがい」とは主観的なものではないか。
病者を社会から隔離することに必死になった人たちは、そのことを「生きがい」としていたのではないか、
あるいは、「国のために死ぬこと」を「生きがい」とする病者もいたのではないか、
生きる目的を一方的にはぎ取られた人たちが、隔離された環境で設定した生きる目的を「生きがい」と呼んでよいのか、
そもそも、「ある時点で生きがいを感じていることが、死ぬまで続く隔離された生活を正当化する根拠にはならない。」

そして、もう1点は、神谷がこうした療養所を「ユートピアとして描いたため、隔離政策を顧みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。療養所がユートピア=良き場所であるという神谷の主張は、病者との共存を快く思わない世間にとって実に都合がよかった。いうまでもなく、そこに病者を閉じ込めておくことへの罪悪感を感じなくて良くなるからだ。」という。

さらに、なによりnikkouの心に突き刺さったのは、神谷のこうした発想が、キリスト教を背景に生まれたものだ、という武田の指摘である。
より正確に言うと、フーコーが指摘した、キリスト教の「牧人権力」にある、という。
「牧人権力」とは、「牧人」すなわち羊飼いが、愛と責任を持って、まずしく弱い羊たちを正しい道に導く、という支配の構造のことだ。近代国家において、それは、支配者と大衆、という構造に置き換えられ、群の秩序のために、個性や人間性を犠牲にする、ということにつながる、というのがフーコーの分析だった。

神谷美恵子や、隔離政策を推進した医師光田健輔に、悪意はない、と武田をいう。 彼らにあったのは、気の毒な病者たちを、愛を持って保護する、という「牧人」としての使命感、責任感である。

……もう、読みながら、心臓ばくばくですよ。

ひとまず「牧人権力」は置いておいて、素朴に、主イエスは病者にどのように向き合ったか、思い出してみよう。
すると、隔離や保護とはまったく逆の方向、つまり、「あなたは病者ではない」と宣言して、社会のなかに押し出す、という行動ばかりしている、ということに気づく(マタイ8ー1〜4、ヨハネ5−1〜9などなど)。
ときにそれで病者が人びとに差別的なことを言われてもお構いなしである(ヨハネ9−8)。
主イエスからしてみれば、病者を受け入れない社会こそが、罪を病んでいるのだ。

だから神谷美恵子は聖書を読み間違えたのだ、と断罪することはたやすい。
今なら、「当事者性」なんて言葉も生まれて、障がいをもつ人や、認知症の老人などは、はたして「弱者」なのか、主体性をもった個人ではないか、なんて議論もなされていたりする。
でも、神谷の時代、「当事者性」なんて考え方、ほとんどなかったんじゃないかと思う。 そんななか、彼女なりに、一生懸命良心に従って働いたのに、 それは誤りでした、ってのは、あまりにも切ない。

そしてまた、その刃が自分にも返ってくるような気がして、身がすくむ。
今、私が一生懸命良心に従い、聖書に学び、なにか行動としたとして、 それが誤りだったら、どうしたらいいのだろう。

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そんな重たい思いを抱えたまま、礼拝後、川崎教会の牧師であり、nikkouのゴスペル仲間であるティーチャー(愛称)にこの話をした。
すると、ティーチャーも、『ハンセン病とキリスト教』(荒井英子)で、神谷美恵子の功罪を知った、と言う。
「でも、神谷美恵子が一生懸命ハンセン病の人たちに尽くした、ということと、 それが、今から見れば、功罪ある、ということとは、 別のことだよね。」
「たとえ、過ちであったとしても、ハンセン病の人たちと神谷さんが結んだ友情はすこしも傷つかないし、 わたしたちは、彼女の罪から、学ぶことができる。 彼女の思想や行動を検証することは、彼女の人格をおとしめることにならないと思うよ。」

ああ、そうか! とnikkou、はたと気づいた。
神谷美恵子が、一生懸命働いたからこそ、わたしたちは、その行動や思想を検証し、 自分の行いを顧みる材料にすることができる。
もし、神谷美恵子が、ハンセン氏病の人びとになにもしなかったら、わたしたちは、なんの検証もできず、何が罪か、よりよくするにはどうしたらいいのか、道しるべもなにも得られなかったことになる。
逆に、神谷美恵子を神格化して、彼女のことをなにも検証しなかったら、彼女の人生がなにも活かされないことになってしまう。

だから、わたし自身も、一生懸命誠実に生きて、過ちも含めて、後世の人びとに学ぶ材料を提供しよう、と考えればいいのかもしれない。

だれもが、過ちをおかす。
偉人と呼ばれる人も、検証すれば、かならず、なにかしら、誤りが見つかる。
「でも、イエスだけは、ないんだよ、誤りが。 これこそが奇跡だと思わない? 病を癒したり、復活したり、ということより、 何千年経っても、誤りがない、ということのほうが、奇跡だと思うんだけどなあ。」 とティーチャー。

そういわれて、ふと思った。
イエスが、わたしたちに伝えようとした道、
わたしたちのただなかに、こうあってほしいという「神の国」を
2000年経っても、
まだ、
わたしたちは理解できていないのかもしれない。

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September 13, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】「日本人である」というタラントン

さて、「日本人である」とはどういうことか、という話である

野々瀬さんが、「環境も、神様からの【恵み・借金】である」といい、
荒井さんから、朝鮮半島の人々と日本とのかかわりについてのお話をうかがい、またその過去にたいして、「うめき」という祈りを示された時、
nikkouの心に、ある化学反応がおきた。
それをシェアしたいと思う。

nikkouは、正直、「日本人であることの誇り」だの、「日本語は世界でもっとも美しい」だのということを言う人が苦手である。
仕事柄、そういうことを言う人と出会う確率はとても高いのだけれど、
そういうことを言う人には、営業上お付き合いをしても、
仕事(=執筆)は、頼まないようにしている。
理由は、大きくわけて三つある。

まず第一に、「日本人/日本語はすばらしい」という時点ですでに、
自分は、外国はもちろん、日本のこともあまり勉強していません、と告白しているのと同じだと思うからだ。
nikkouが執筆を依頼する先生の中には、
国語が専門でありながら、日本以外の国や言葉についてとてもよく学んでいる先生たちがいる。
そうした先生たちからnikkouは、ことばや人間について、じつに多くのことを学ぶ。
そもそも国語の先生をしていれば、いやがおうでも、
漢文にともなって中国文学や中国の歴史を学び、
現代文でも、フランスやドイツの哲学を学ばざるを得ない。
深く広く学べば学ぶほど、
「日本語」だけではなく、「ことば」について、
「日本人」だけではなく、「人間」について
思考をめぐらさざるをえない。
そうした中から、「日本語」や「日本人」をどうとらえるか、という視点が生まれてくることはある。
でも、どの国の言葉や歴史がもっともすぐれている、なんて大胆なことは、
どんな博学な学者でも判断がつかないはずだ。
だから、「日本人/日本語はすばらしい」とか言う人に原稿を依頼しても、
面白いこと、深いことは何もかけないだろうな、とnikkouは判断するのである。

第二に、そういうことを言う人としばらく話していると、
だんだん、すさまじい差別意識をあからさまにしてくることが多い。
「日本人であることの誇り」から転じて
「一神教である欧米文化は狭量だ」だの、
「中国や韓国は日本よりも遅れている」だのと言いだして、
もっとひどい人になると、
学歴が高いこと、勤務校の生徒の学力が高いことなどに優越感を持っていたり、女性差別的だったりする。
この人のクラスに、勉強のできない子や、在日コリアンの子、セクシャルマイノリティの子がいたら、
どうなっちゃうんだろう、と心がさむーくなる。

そして第三に、
そもそも、あなたも、わたしも、ある国に生まれたのは、
まったく、たまたまなんじゃないの? と思うからだ。
もし、あなたが生まれたのがたまたまアメリカなら、あなたは日本ではなく、アメリカを誇るのだろう。
もし、あなたが生まれたのが韓国なら、あなたは日本ではなく、韓国を誇るのだろう。
しかしあなたが、その国の人間や文化を生んだ創造主なのか、あなたの努力でこの国があるのか。
たまたま生まれた国を誇る、というのは、nikkouには、つくづくナンセンスに映る。

だから、nikkouは、「日本人であることの誇り」や「日本語は美しい」という考え方からは、
できるかぎりフリーでいよう、と思ってきた。
そして、職業的良心から、そういう人の本はつくらないようにしようと思ってきた。
できるかぎりニュートラルに、世界のことばや文化と向き合おうと思ってきた。

でも、そうすると、ひとつだけ、大きな問題にぶちあたるのである。

それは、
「日本人であることの責任」からもフリーになってしまう、ということである。
具体的に言うと、たとえば戦争犯罪に対して、どう罪意識を持てばいいのか、わからない、ということである。

第二次世界大戦で、日本軍は、アジア各国にひどいことをした。
話をきけばきくほど、嫌なことばかり。
でも。
でも、それがわたしと、なんの関係があるのだろう。わたしはたまたまこの国に生まれたのだし、日本に限らず、どこの国のどの時代の歴史にもあることだろう。
心のすみで、そんな思いがどうしてもぬぐいきれなかった。

戦争で、女の人を強姦したり、人を殺したりしたのは、
戦争に行った人たちでしょう。
実際に手を汚した彼らが、実際に殺されたり傷つけられたりした人やその家族に会って、謝るべきではないか。

もちろん、一人の人間として、
戦争の犠牲になった人たちを深く悼む思いはあるし、
一人の女性として、
ひどいめにあった女の人たちとともに嘆き、憤る気持ちはある。
でも、そこに、どうしても「日本人であるわたし」という概念が代入できなかったのである。

ところが、
今回、野々瀬さん、荒井さんのお話が、nikkouのなかで、ふと、つながったのである。
「日本人である」というのは、
神様から与えられた、莫大なタラントンの一部ではないのか。

神様から一方的に与えられた【借金、恵み】なので、日本人であることを誇る必要はまったくない。
でも、日本人であることの責任を放棄したら、――つまり、「日本人である」という【借金、恵み】を土に埋めてしまったら、
最後に、神様からげんこつをくらうかもしれない。
今、この時代に、この言葉を用いて生きる、この国に生まれた、という【借金、恵み】を
二倍、三倍の「よいもの」にして、神様にお返しする。
そうすれば、タラントンをいかしきったことになるのではないか。

戦争犯罪についても、あるいは、マスコミでさかんに煽っている独だか竹だけいう島についても、
いつか、
世界中が瞠目し、世界の歴史に語り継がれるような、平和に満ちた解決策を示せたら。
その解決策にむけて、わたしが「この時代のひとりの日本人」として一生懸命尽くして、その解決の一歩に参与できたら。
それは「後世への最大遺物」にならないか。

「日本人としての誇り」にとらわれず、
しかし、
「日本に生まれた責任」を積極的にはたす。
ウルトラC級の難しいことだと思っていた。
でも、意外なところに、解答の糸口があったような気がする。

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September 12, 2012

【無教会キリスト教青年全国集会2012】野々瀬さんの「タラントンの話」と、荒井さんの「北朝鮮の話」

一泊二日の無教会キリスト教青年全国集会、無事終了いたしました。
たいへん充実したひとときとなりました。

nikkouの心に残ったこと中心になりますが、
みなさまに、会の様子をシェアしたいと思います。

青年大会では、
初日、二日とも、聖書講義があるのですが、
今回は、初日が野々瀬浩司さん、二日目が荒井克浩さん、と
伝道者としては比較的若い50代の方たちからの講義でした。
どちらの講義でも、nikkouには深い感銘を受け、
あらたな気づきを与えられました。
かいつまんで御紹介するとともに、nikkouに与えられた思いをみなさんにシェアしたいと思います。

初日の野々瀬さんのお話は、マタイによる福音書25章14章~30節「タラントンの譬え」にみる未来に向かっての生き方、と題されたものでした。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、  五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 
恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 

このお話のポイントとして野々瀬さんがお話されたことをnikkouなりにまとめると、大きく分けて次の3点だと思う。

1)5タラントンを、兵士の一日のお給料=現代のバイトの日給、で換算すると、1億8000円~3億円!(2タラントンは7200万円~1億2000万円、1タラントンは360万円~600万円)
主人は「小さなものに」と言っているけれど、決して小さな額ではない。
 これは、主人の、しもべに対する莫大な信頼を表している。

2)この莫大な金額は、主人がしもべに「あげた」お金じゃない。
 あくまでも、預けたもの、しもべにしてみれば借金である。

3)1タラントンを土に埋めた人は、なにも悪いことをしていない。
主人のおカネを着服したわけでも、
儲けたほかのしもべたちを脅してお金をだまし取ったわけでもない。
ただ隠していただけなのに、ひどく叱られた。

さて、ここでいうタラントンという莫大なお金が譬えているものはなにか、ということですが、
よく、生まれ持った才能、と解されることが多い。
英語のタレントの語源だとする説もある。
でも、才能だけじゃないんじゃないか、と野々瀬さんは言った。
生まれた環境、出会った人、ひょっとしたら努力する能力さえも、
神様から預けられた莫大な【恵み・借金】ではないかと思う、と言う。
だから、自分の能力やら恵まれた環境やらを誇る人がいるけれど、
それは、借金の額を誇っているだけにすぎない。

神様から与えられたその【恵み・借金】を糧に、
大きく冒険してこい! と、神様を我々に期待している。
もちろん現実には失敗してしまうことだってある。
イエス様の譬え話のようにはいかないかもしれない。
でも、人間的には失敗でも、神様からみたら、喜ばれるような成功ということもあるんじゃないかと思う、とのこと。

一方で、1タラントンの男。
べつに悪い人じゃないのに、こんなにひどく叱られている、というのが、気の毒なのだけれど、
問題は、この人が、主人を、恐ろしい人だと見ているということ、
主人への信頼感がなくって、とても冷めきった関係だということ。
神は恐ろしい、と見る人には、実際に神は恐ろしく見え、
ひねくれた見方をする人には、実際にひねくれて見え、
愛している人には、愛の神に見える。
そんな、神と人との真理が反映されているのではないか、とのことでした。

そんな野々瀬さんのお話を聞いて、驚くこと多々。
まず、タラントンという単位がそんなに大きなものであったこと、
イエス様がこの話をしたとき、きっと人々はどよめいただろうと想像する。
そして、1タラントンの男は、とくに犯罪的行為をしたわけではなかった、と、注意を促されて、
はた、と思った。
悪いことをして裁かれるなら、話は分かりやすい。
でも、何もしなかった、といって裁かれたら、裁かれた側は腑に落ちないんじゃないかしら。

二日目は、荒井さんから、
韓国や北朝鮮と、日本人クリスチャンとの関わりについて、お話をうかがった。

まずは、第二次世界大戦中、日本人が韓国の人々に強要した神社崇拝や、
さらに日本人クリスチャンたちが、韓国人クリスチャンに、妥協するよう説得、勧告した話、
それに抵抗して多くの韓国人牧師が拷問をうけ、獄死したこと、
そんななか、矢内原忠夫は、ロマ書8章を掲げ、韓国のクリスチャンを励ましに韓国にわたったこと、
その際、殉教も覚悟したとの話から始まりました。

ローマの信徒への手紙8章18節‐25節
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 
人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 

世の矛盾と苦難のなかで、
わたしたちは、うめくしかないときもある。
でも、うめきつつ祈る時、それは、全ての被造物を救う祈りとなる、との証しのあと、
さらに、荒井さん自身、北朝鮮の教会に行った際のお話をされました。

なぜ、北朝鮮があのような軍事力を基礎とする国づくりをしているのか、
北朝鮮の人びとが言うに、
――日本に植民地支配されたことがつらかったから、苦しかったから、
そして、そうなったのは、自分たちが弱かったから、
だから、2度とそういう思いをしないように、
軍事力を強くしなければならない、と考えている、
とのことだということ。

彼らのかたくなな軍事政策を批判するのは簡単だけれども、
その背後には、やはり、日本との歴史的関わりが絡みついている、とのこと、
nikkouも、はっと胸を突かれる思いでありました。

この、野々瀬さんと、荒井さんのお話が、
nikkouのなかで化学反応を起こして、
ある、新しい視点が与えられました。
それは、「日本人」である、とはどういうことか、という視点であります。
長くなったので、項を改めます。

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August 15, 2012

2012年キリスト教無教会青年全国集会

今年もあります! 「キリスト教無教会青年全国大会」
nikkouも参加します。キリスト教、あるいは無教会にご興味のあるかた、U50であればどなたでも、ふるってご参加ください。

 

インフォメーション

開催日時:2012年9月8日(土)14:00 ~6日(日)16:00
開催場所:名古屋「金山プラザホテル」ゼミナールプラザ(JR東海道本線「金山」駅より徒歩6分)
     住所:460-0024 愛知県名古屋市中区正木3-7-15
     電話:052-331-6411
テーマ :「聖書に聞く―私たちの未来」
目的  :信仰に関する基本的なことがらをともに学び、話し合う。主の臨在をともに喜び、主をともに讃美し、主にともに祈る。
対象年齢:満50歳以下
参加費 :5,000円(食事代を含む、宿泊費別、代金支払いは当日で結構です。)
宿泊費 :7,000円(隣接の「金山プラザホテル」滞在の場合)
申込方法:郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・宿泊要不要をご記入のうえ、以下のEメールアドレスまたは住所あてに小舘美彦までお送りください。同内容をファックスでお送りくださっても結構です。
・Eメールアドレス:kodate*c-line.ne.jp(*を@マークに変えてメールしてください)
・住所:〒214-0032  神奈川県川崎市多摩区枡形6-6-1登戸学寮
・ファックス:044-922-7072
しめきり:2012年8月末日(金曜日)

プログラム 全体テーマ「聖書に聞く―私たちの未来」

第1日目(9月8日土曜日)
13:30~14:00 受付
14:00~15:30 開会礼拝 司会 小舘美彦 
・挨拶(15分)司会
・聖書講義(50分)野々瀬浩司
(10分休憩)
15:40~17:00 自己紹介と感想 司会 小舘美彦
・自己紹介と感想(40分)  全員
・近畿集会からの報告(30分) 那須容平
(10分休憩)
17:10~18:00 ゴスペルを歌おう(練習50分)指導 松永晃子
18:00~19:00 夕食・自由
19:00~20:50聖書に基づく学びあい「未来に関する聖句」 司会 小舘美彦
・未来に関する聖句解説(20分) 司会
・話し合い(60分)全員
・分かち合い(20分) 全員

第2日目(9月9日日曜日)
9:30~10:50  聖日礼拝  司会 小舘美彦
・聖書講話(50分) 荒井克浩
11:00~11:50祈りと讃美の集い(50分)司会 中川陽子
12:00~13:00昼食
13:00~14:50話し合い「私たちの進む道」司会 小舘美彦
・導入:様々な未来―明日、近未来、終末(20分) 司会
・話し合い(60分)全員
・分かち合い(20分) 全員
15:00~15:20ゴスペルリハーサル(20分) 全員
15:20~16:00 閉会礼拝  司会 小舘美彦 
・賛美:ゴスペル 全員
・感想(15分) 参加者(2~3名)
・閉会の言葉(10分)  司会

ちなみに、以前の「キリスト教無教会全国集会」のご報告は、下記のとおり。

2009年キリスト教無教会青年全国集会ご報告
2010年キリスト教無教会青年全国集会 ご報告

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November 07, 2011

「無教会全国集会2011」二日目

11月6日「無教会全国集会2011」二日目。

nikkouは午後、仕事が入ってしまったので、
午前中だけの参加になってしまったのですが、とても力づけられる集会でした。

お話なさったのは内坂晃氏。

お恥ずかしいのですが、nikkouたち、遅刻しまして、会場に入った時にはもう、お話が始まっていました。

お話は、ソマリアの難民のことのようでした。そして、今、日本の祈りが震災や原発のことに集中しているけれども、現在、世界中で、たくさんの苦しむ人々がいることを忘れてはならない、というようなことをおっしゃっていました。

以下、特にメモをとらなかったので、nikkouの心に刻まれたことを、記憶に従って、またnikkouの感想もまじえつつ、みなさまにシェアしたいと思います。

内坂さんいわく、

苦難の中にあるとき、人は神の弁護人になってはならない、とのこと。「弁護」は被告のことをよく知っていなければできないから。人に、神のことがわかるだろうか。

nikkouは、震災直後に「天罰」と言い放った政治家や、キリスト教界でじみ~に話題になっていた無神経なカルトの人々を思い出しました。

人にできることは、「神さま、どうしてこんなことが!」と泣いて、訴えることだけ。そして、必死に神さまがなにをお考えなのか、耳を傾けることだけ。

そしてもうひとつ。人は、神の姿を見たというような神秘体験や、病が治ったというような癒やしの体験、そして、困難を乗り越えた、というような経験をしたとき、それによって信仰が得られた、強められた、という思いを持つことがある。もちろん、それは、その人個人にとっては大切なものだろう。しかし、経験や体験が絶対化されて、聖書よりも大事になってしまって、そういう経験をしていない人を、「信仰が足りない」「本当の信仰をもっていない」と蔑んだり、批判したりするようになる。

神の弁護人、あるいは経験を重んじるような態度、それは、じつは、「闇の現実」にとらわれてしまった、とても余裕のない状態なのだ、という。

さて、そこで内坂さんは、子供のころの教会学校で先生をしていた大学生小林融弘氏の思い出話をされました。

内坂さんが子供のころ、三池炭鉱で大きな事故があって、たくさんの人が死んだ。小林氏は、この世の中に、こんなに苦しく辛い思いをする人々がいることと、教会の中で、「信仰は勝利!」と大きな声で歌っている人々とのギャップにとても思い悩み、そのことを日曜学校の週報に書いた。

小林氏は、この矛盾のなかで思い起こされたのが、十字架のイエスだったといいます。ひどい現実に殺され、悲惨な死を遂げたイエス。イエスでさえ、闇の現実に苦しまれた。しかし、イエスは、復活し、今わたしたちの間に生きて、働いておられる。

そう、「闇の現実」と福音をつなぐのは、十字架と復活、そして、イエスが今私たちの間に生きて働いている、ということ(ギリシャ語で、「インマヌエル(神はわたしたちとともにある)」という)だ。このことは、「闇の現実」とは違う、「もうひとつの現実」、「神の国」の存在をわたしたちに教えてくれる。

歴史上、「もう一つの現実」つまり、「神の国」がある、ということを信じて生きた人々があります。それは、ユダヤ教を信じるユダヤ人という人々。彼らはキリスト教とによる激しい迫害のなかでも、「神の国」の存在を信じつづけた。そうしたなかで、「ユダヤ人ジョーク」という、独特な文化が生まれた。

(内坂さんは、いくつかユダヤ人ジョークを紹介され、会場はくすくすと笑いに満たされました。会場で紹介されたジョークとは違いますが、こんなサイトがあるので、見てみてください。)

「闇の現実」はひとつの現実にすぎない。この世界には、「神の国」というもう一つの現実がある。そういう思いが、苦しい状況を相対化し、笑いのめす、そういう文化を生んだ。

さて、ではキリスト教徒はどうか。キリスト教徒が、「もう一つの現実」を仰いだ時、そこに生まれるのは、「ジョーク」ではなく、「ユーモア」だ、と内坂さんはいいます。

「ユーモア」とは、愛だ。

作家椎名麟三は、失意のどん底にあったとき、友人に誘われて、教会で復活の話を聴いた。

それは、復活したイエスが、復活したことを示すために、焼き魚を食べた、というくだりだった。

友人は「あーこんな話のときにつれてきちゃった」とがっくりきていたそうですが、椎名麟三は、とても感動したそうです。

なぜなら、そこには、愛にあふれたユーモアがあったから。

わたしは復活したよ、と示すために、みんなの前で一生懸命、むしゃむしゃ魚をたべる。真面目な場面なのに、なんだかおかしい。それは、神の愛があふれて、ユーモアとなって表れている。

「もう一つの現実」を仰いだとき、「闇の現実」は相対化される。「闇の現実」にとらわれた余裕のない状態から解放される。「もう一つの現実」とは、イエスの十字架と復活、そこに現れた、神の愛なのである。

nikkouは、思わず、涙ぐみそうになった。イエス様が魚を食べた時、弟子たちは、思わず涙ぐみながら、微笑んだのだろう。

涙ぐみながら、微笑まずにはいられない。

世の中には、ときどき、そういうことがある。つらいのだけれど、人の優しさや、ちょっと相対化してみたとたんに、なんだか滑稽な現実に、涙ぐみながら、笑ってしまう。それはとても不思議な笑いだ。

主イエスは、「今泣いている人は幸いです。その人は笑うようになるからです」と言った。

はじめてこの言葉を聴いた時、nikkouは、「禍福はあざなえる縄のごとし」ということか?と思った。今泣いている人も、いつか、復讐を果たして、「ざまあみやがれ」と嗤う日が来るだろう、ということか? と思った。

でも、今になってみればわかる。今泣いている人は、主イエスの十字架と復活を仰いで、「闇の現実」を相対化したとたん、涙ぐみながら、笑うのだ。その笑いは、泣いた人しか、きっと分からないとても幸せな笑いなのだと思う

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November 05, 2011

無教会全国集会2011

みなさま、ごぶさたしておりました。
ブログがすっかり止まってしまいました。

本日は、
「無教会全国集会2001」、
いろんな方々から、「ブログとまっているね」とお声掛けいただきまして、
すっかり反省いたしました。
みなさま、ご愛読ありがとうございます。
これからは、もうちょっと、更新を続けたいと思います。

さて、
「無教会全国集会2001」、プログラムは下記の通り。

開会式讃美歌286「かみはわがちから」聖書朗読「ローマの信徒への手紙5章5節」祈祷開会挨拶

聖歌250「なにゆえみ神は」
聖書朗読「イザヤ書40章27〜31節」
主演講演 「希望の根拠」 関根義夫
讃美歌527「わがよろこび」

発題
讃美歌262「十字架のもとぞ」
①高齢者にとっての希望の根拠 金井守
②若者にとっての希望の根拠 小館知子
③バーチャル社会における希望の根拠 八尾徹
祈祷

東北大震災特別プログラム
讃美歌515「十字架の血に」
特別講演「大震災の中の証し」吉原賢二

夕食交流会

とくにnikkouが心に残ったのは、小館知子さんの発題。
あるキリスト教の学生寮の寮長家族として、寮に住み込んで5年間になる知子さん、
寮に集う学生さんたちの悩みのトップは就職活動と恋愛とのこと。
就職活動では、いくつもの会社に落とされて、自分が一生懸命やってきたことーーたとえば、中学高校と野球をやってきて、そのことに誇りをもってきたような若者でも、「あのとき、野球なんかしないで、もっと一生懸命勉強していれば、こんなことにならなかったのに」と、その誇りに感じていたことまで否定してしまう。また、恋愛は、世界であなたが一番すき、といってくれる人がいたら、という切実な思いだ、という。
そうした悩みのおおもとにあるのは、「人と比較する/される」ということのストレスなんだろう。
でも、聖書の中には、比較しない、という価値観、欠点も長所も、神様があなたに与えた恵みだよ、というメッセージがたくさん示されている。
そのことを学生さんたちに伝えたい。
ただ、言葉で伝えても、きれいごとなだけ。
だから、寮では、3つのことに気をつけている。

1つめは、「聖書に聴くこと」。毎朝、短い時間だけれども、寮では礼拝をもっている。学生さんのほとんどは聖書を手にするのも初めてだけど、聖書を読んで一日を始めると、なんだか励まされる、人に優しくなれる、という若者もいるそうです。
2つめは、「愛を実践すること」。共同生活では、難しい人間関係もよくあること。でも、互いに赦し合う、認め合うよう努力する。愛とは赦すことだな、ということが、共同生活を通じてよくわかる。
3つめは、「救われた人に会う」。この夏には、徳島聖書集会にみんなで行ってみた。徳島聖書集会には、ハンディをもつ人がたくさんいる。そうした人たちが、主イエスに出会い、救われて、生き生きと明るい。彼らに出会って、キリスト教って、信頼できるかもしれない、と言う学生さんもいた、とのこと。

つい先日、この学生寮は、火事になった。幸いけが人はなく、消火はしたけれど、天井はススだらけ、床は消火活動で水浸し。知子さん、もう、どうしたらいいんだろう、と暗い気持ちになったという。
ところが、その翌日から、学生さんたちは、明るく音楽などかけながら、総出で掃除を始めたという。
なによりもよかったのが、失火した部屋の学生さんに対する寮生たちの様子。失火した学生さんは、思い出のアルバムも、集めていたレコードも、書きかけの卒論もすべて焼かれた。そのうえ、仲間たちに責められたりしたら、どんなにつらいだろう、と心配していた。けれども、みんな、部屋を失った彼のために居心地のいい寝場所をしつらえ、そして、いつもさりげなく、彼のそばにいる。だれも責めなかった。愛があった。

nikkouは、知子さんのお話を聞いて、「神の国はあなたがたのただなかにある」という主イエスの言葉を思い出しました。

夕食は、夫と、そして、高橋照男トミ子夫妻と。
高橋照男さんは、コワモテのブログを開設しておりますが、
いつ会っても、とても面白いおじさん。
大爆笑のたのしいひとときとなりました。

ちなみに、最後の「特別講演」は、福島の低放射線量の安全・危険をめぐって、質疑応答が紛糾。nikkouが興味深かったのは、会場の人たちが、広瀬隆、小出裕章はじめ、よく読んで調べているなあ、ということ。
ある年配の男性の方(われわれ科学者は、とおっしゃってたので、やはりどこかの理系の大学教授かもしれません)が、
「論点は、2つありますね」と整理してくれました。

ひとつは、現在の問題。もうひとつは、未来の問題。

現在の問題は、除染方法とか、低放射線量とかの問題。ただ、現在の科学には限界があって、どれが正しいのか、科学者の間でも意見が分かれる。分かれている意見をそのまま開示し、わかりやすく説明すべきだ。
そしたら、あとは個々人のリスク管理の問題になってくる。信仰の問題がからむとしたら、そこだ。
未来の問題は、原子力をどう考えるか、発電やライフスタイルをどうするかという問題。それは、科学はもちろん、倫理や社会や信仰の問題とからんでくるだろう。

nikkouは、この考えに賛成。
nikkouは脱原発を望んでいるけれど、それと、低放射線量をどう考えるか(nikkouは、大人の自分には問題ないと考えているけれど、もし妊娠したら、非常に気をつけるつもり)は、別々に考えたい。
科学には、限界がある。
原子力とか、日本の豊かさをどう考えるか、ということは、宗教や倫理や哲学の領域だ。

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November 19, 2010

明日、いよいよ「キリスト教・無教会全国青年集会2010」

いよいよ明日と迫ってまいりました。

当日申し込み、当日参加もOKだそうです。

そういえば「聖霊」ってなんだろう、と思っている方、そもそもキリスト教について考えたい、と思っている方、そして、私がこころに感じた「聖霊」について、分かち合いたいと思っている方、50歳以下のどなたでもどうぞ。nikkouはゴスペルのワークショップを担当します。「聖霊」がテーマの歌、ご用意しています。ぜひ一緒に歌ったり、語りあったりしましょう。

プログラム 全体テーマ「聖霊」

第1日目(11月20日土曜日)

13:30~14:00 受付
14:00~15:20 開会礼拝  
      ・賛美: 讃美歌312「いつくしみ深き」
      ・聖書朗読: 使徒言行録2:1~4 
             ・祈り
      ・挨拶
      ・賛美: 新聖歌411「み恵みの高嶺に」
      ・聖書朗読: ヨハネによる福音書7:37~39 a
           ・聖書講話「聖なる風と水―聖霊の働き」(50分)
      ・祈り
     ・賛美:つかわしてください―世界のさんび35「神の愛よ、聖なる霊よ」
15:30~17:00 自己紹介と証   
            ・賛美: 新聖歌185 「来たれ誰も」
       ・自己紹介
     ・証「わたしにとっての聖霊」
①(20~30分)②(20~30分)
     ・賛美: 新聖歌275 「信仰こそ」
17:15~18:00 ゴスペルを歌おう(45分)                             
18:00~19:00 夕食・自由
19:00~21:00 聖句に学ぶ:サブテーマ「聖霊とは何か」  
     ・賛美: 賛美歌21・354 「天の神、祈ります」
     ・聖霊に関する聖句の輪読 (15分)
     ・話し合い(60分)
     ・話し合われたことの分かち合い(15分)
     ・祈り
     ・賛美: 新聖歌135 「御霊は天より」

第2日目(11月21日日曜日)
10:00~12:30 聖日礼拝と発題
     ・賛美: 讃美歌533「くしき主の光」
     ・聖書朗読:ヨハネによる福音書14:16~19
     ・祈り 
     ・聖書講話(20分)
     ・証「わたしにとっての聖霊」 ②(20~30分)③(20~30分) 
     ・祈り 
     ・賛美: 讃美歌500「みたまなるきよきかみ」
     ・発題「聖霊の力」(20~30分)
     ・発題「湖の上を歩け」(20~30分)
     ・賛美:讃美歌21・351「聖なる聖なる」
12:30~13:30昼食
13:30~14:30 祈りと讃美の集い(60分) 
14:30~16:00話し合い:サブテーマ「聖霊を求めて」
     ・賛美: 新聖歌136 「御霊よ降りて」
        : 新聖歌416 「聖霊来たれり」
     ・話し合い(50分)
     ・話し合われたことの分かち合い(10分)
     ・質疑応答(15分)
     ・賛美: 新聖歌199 「主を仰ぎ見れば」
16:00~17:00 閉会礼拝  
     ・賛美:ゴスペル 合唱 
             ・感想(15分)
     ・閉会の言葉と祈り(20分)
     ・賛美: 讃美歌405「神ともにいまして」
17:00 散会

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September 18, 2010

「キリスト教・無教会青年全国集会2010」ご案内

無教会の青年全国集会をご案内します。東京にて、2日間です。

nikkouも参加します。しかも、ゴスペルのワークショップでディレクター(指揮者)をやります。キリスト教に興味のある方、クリスチャンであってもなくても、お気軽にどうぞ。昨年も参加しましたが、(報告はこちら)とっても充実していました。nikkouのゴスペル・ワークショップに参加したいかたもどうぞ~catface

「キリスト教・無教会青年全国集会2010」
開催日時:2010年11月20日(土曜)14:00 ~21日(日曜)17:00

開催場所:今井館聖書講堂(東急東横線 都立大学駅下車 約7分)
     住所:東京都目黒区中根町1-14-9

テーマ :「聖霊」

目的  :信仰に関する基本的なことがらをともに学び、話し合う。
 神様の臨在をともに喜び、神様をともに讃美し、神様にともに祈る。

対象年齢:満50歳以下(託児室を準備しますので、ご家族づれでの参加大歓迎です。)

参加費 :4000円(初日の夕食と二日目の昼食代を含む。宿泊費は含まない。
代金支払いは当日で結構です。)

宿泊:近辺のビジネスホテルを紹介します。各自で申し込んでください。

申込方法:郵便番号・住所・氏名・年齢・電話番号・聖霊に関して知りたいこと
や疑問(省略可)をご記入のうえ、以下のEメールアドレスまたは住所あてに小舘美彦までお送りください。
同内容をファックスでお送りくださっても結構です。
   Eメールアドレス:kodate@c-line.ne.jp   
   住所:〒214-0032  神奈川県川崎市多摩区枡形6-6-1登戸学寮 
   ファックス:044-922-7072

しめきり:2010年11月7日(日曜日)

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December 16, 2009

クリスマス・イブの集い

2009_ol_今年も川崎教会にて、クリスマス・イブの集いがあります。

12月23日(祝・水)、川崎リトルライト・シンガーズ も歌います。

キャンドルサービスをしたり、讃美歌を歌ったり、祈ったり、と心安らかなひととき。

お近くの方はぜひどうぞ。

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December 06, 2009

おじいちゃん牧師、旅立ち

Memory_of_paster_h_takahashi_3 「末期の目でみる」というのは、誰のことばだったか。
内村鑑三かしら。

書こう、書こうと思っているうちに、一年がすぎようとしております。
nikkouが通う川崎教会のおじいちゃん先生こと、高橋秀良牧師、天に召されたのは、昨年のクリスマス前、79歳でした。
先々週は、高橋秀良牧師が最後の礼拝説教をしてまる1年、ということで、その記念の礼拝でありました。昨年の今頃は、最期の日はいつかいつかと教会もご家族も、はらはら見守っておりました。

高橋牧師は今から3年前の2006年夏、前立腺がんの告知を受けました。
告知のあった週の礼拝後、本人の口からそのことを告げられて、みな、思わず緊張してシーンと静まり返ったことを思い出します。
ところがおじいちゃん先生、抗がん剤投与の治療を拒否、「わたしは、残された時間を闘病にすごすよりも、家族とともにすごし、読書をし、そして、伝道に尽くしたい。」と主治医に告げ、
通院しながら、がんの育成を遅らせるホルモン剤の投与をすることになったのでした。

がん宣告を受けつつも我らがおじいちゃん先生、これまでとまるで変わらぬ豪快な笑顔で
「汝の敵を愛せって言われたから、私はガンを愛するよ!」とか、
「私はガン患者だから、これはみんな、遺言と思って聞くように!」とか、
「今の讃美歌は、わたしのお葬式で歌ってください」などなど、
ジョークを飛ばしまくり、
変わらず礼拝でメッセージを語り続けた。

そして主イエスのことばの中でも特に、

「君たちのうち、だれが思い煩ったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
野の花を見よ、紡ぎもせず、織りもしない。
しかし、私は君たちに言う。
栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、
神はこのように装ってくださるのなら、
君たちにそれ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(ルカ福音書12章)

とあるところを、くりかえし、くりかえし読んだ。
ガン細胞は、徐々に背骨に、足に、転移し、杖なしでは歩けなくなり、やがて車いすになった。
そして、礼拝のたびに、衰えていく身を示しながら、
「私たちははたして『自分の力で生きている』のか、
それとも『神のご配慮によって生かされて生きているのか』」
と、時に火を噴くような勢いで語った。
なんせガン患者、説得力があります。
そのとき初めて礼拝に出席していた近所のおじさんが、思わず「そうか!」とつぶやいたほどでした。

そんな調子で、がん宣告から1年経ち、2年経ち、
なんだか、おじいちゃん、このままガンを克服してしまいそうなんじゃない、とだれもが思い始めた2008年の夏、
突然、熱中症を起こして、救急車に運ばれた。
ところが一週間もたたぬうちに復活して、
「ラザロじゃないけど、『秀良! 起きなさい!』と主に言われた。」とニコニコと礼拝に出席していた。
しかしここから急速に勢いが衰え、今からちょうど1年前の11月第四日曜日、ふたたび救急車で運ばれていった。

このときおじいちゃん先生は「お別れが近い」と悟ったらしい。
息子である誠牧師を通じて、
「なるべくたくさんの人に、病院に会いに来てほしい。眠っていたら、起こしてほしい。お別れを言いたいから。」と伝言した。
nikkouも、翌日から青森に研修に発つ相方と一緒にお見舞いに行った。
そのとき秀良牧師はすでに「お別れモード」で、
それは、しみじみしたものでも、悲しいものでもなくて、
なんだかとても決然とした様子、
「とめてくれるな、いざ、旅立たん」って感じだった。
nikkouも、すでに祖父祖母を見送っていたけれど、
病室でこんな決然とした雰囲気に接したことはなかったので、
どうしていいのか、正直分からず、
ただ、「はい、はい」と話を聞くばかりだった。

「先生、また夏の時のように、復活してください。」
と言うと、
「あーーっ、もういい、もういい、もう、夏とは違うんだ。」
と遮られた。
「この世が楽しい、と思うのは、健康だからだよ。
体が少しずつ朽ちていくと、
もう、あっちのほうが楽しいだろうな、と思うんだよね。
ごはんもおいしくないしね。

いま、うとうとしながら、讃美歌を口ずさんでいたんだけど、
ああ、行き先がわかっているって、
うれしいなあ、ありがたいなあ、と思った。
信仰がない人は、きっと怖いだろうね。
われわれは、また会えるからね、怖くないね。」
と、淡々という。
そう、「今日はいい天気だったね」みたいな話をしている調子で、
本当に当たり前のこと、という感じで。

旅立ちの時は神様が決めるのだから、人間にはどうもしようがないのだけれど、
こんなふうに旅立ちの支度が出来るなら、
決して死ぬのは怖くない、と思った。
そう、正直に申し上げると、 我が意を得たり、とばかりに、
「死ぬのも、証しだからね」とにんまりした。

それから数週間後。
ほとんどベットから起き上がれなくなったころ、
息子の誠牧師がお見舞いに行き、いつものように静かに話して、「では、また明日来るね」と病室を出ようとすると、
秀良牧師、突然、病人とは思えぬ大きな声で

「人生で、もっとも幸せなことはっ!!」

と、叫んだそうであります。
「なんだい?」と誠牧師、あわててベットに駆け戻ると、

「主イエスが、最後まで、ともにいてくれることだな。」

と、今度は静かに言ったそうです。
そこで誠牧師、「アーメン!」と答え、
ふたり、がっちりと握手をしたそうであります。

秀良牧師が召されたのは、それから数日後でありました。
病院から危篤を知らされ、駆け付けた家族が手を取り、秀良牧師の愛唱歌「アメージング・グレイス」を歌うと、呼吸が静かに歌に合ったそうであります。
歌うのをやめると、呼吸が苦しそうになる。
歌うと、一緒に歌うように呼吸が上下する。
そんななか、すーっと、霊が身体を抜けるのを、その場にいた家族の方たちは感じたそうです。

高橋牧師、亡くなるまで「臨床体験」の本をずいぶん熱心に読んでいたそうで、
「死ぬときは、身体から魂が、すーっと抜けるらしいぞ! これはおっもしろいぞー!」と笑っていたそうであります。
そんなわけで、この瞬間、奥様、思わず、

「あなた……、……面白かった?」

と聞いてしまったそうであります。

最期の最期まで、
なぜか希望に満ちた、明るいお別れでした。

死の報に接したその日、nikkouは日記にこう書いた。

「悲しいというよりは、 もっと熱い気持ちです。
感謝とか、もろもろ。

『顔をエルサレムに向けて』、
神様から与えられた道をきっちりと歩みきって、
神様から「よし、ここが地上の生活のゴールだ」とOKが出たら、
天に帰る。

そんな、主イエスが示された生き方をお手本に生きたい。

寄り道しつつ、脇道にそれつつで、なかなか難しいけれど、
きっちり歩みきれば、
生きているときも、死ぬ時も、すごく、すごく幸せなんだなあ、と
おじいちゃん先生の地上の最後の日々に接して思った。
「永遠の命」が、すこぅし分かった。

最期の日まで、わたしも、きっちり歩みきりたい。
今夜が地上の生活のゴールでも、がっかりしないように、生きようと思う。」

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