November 17, 2011

ネット社会とキリスト教の倫理

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きのう今日と宇野常寛『ゼロ年代の想像力』という2000年代の文化を論じた評論を読んでいて、はたと、そういえば、この5年間くらいで、だいぶネットに対する認識が変わったなあ、と気づいた。
5年前というとちょうどこのブログを始めたころだけれど、
まだ試行錯誤する部分が大きかった気がする。
特に、見知らぬ人からの書きこみには疲弊した。
思いもかけない攻撃的・暴力的な言葉はもちろん、
なんでもない書きこみにも、それはそれは気を使って返信したものだ。

やがてSNSが登場した。
ただ教会でも、SNS内にコミュニティを開設しよう、という話になったときには、
ちょっと微妙な気持ちになった。
nikkouはSNSには慎重だったからだ。
コミュニケーションをとる相手を最初から選別する、というのは、
キリスト教的な倫理観からすると、よくないんじゃないかなあ、と思っていたのだ。
一方で、知人のホームページやブログが攻撃的な言葉や性風俗の営業で
ひどく荒らされるのを見ていたし、
説教をホームページに載せている教会では、
その内容に執拗に絡んでくる人がいる、ということも問題になっていた。
自分も疲弊気味だったので、
まあ、わからなくはないかな、仕方ないのかな、とも思った。

あれから5年、
SNSを使って見ると、思っていた以上に快適な空間なのは、否めない。
読む相手を選べる、というのは、
ブログよりもはるかに、言葉に気を使わなくていい。
前提が共有できているし、攻撃されるダメージもない。
そしてなにより、SNSを使ったおかげで、SNS外のホームページやブログとの使い分けが分かって、ブログを通じてのコミュニケーションにもずいぶん慣れてきたような気がする。

SNSに置かれた教会のコミュニティは、完全にクローズトではなく、
リアルでコミュニケーションをとった相手には、
「よかったら、SNSのコミュニティを見てみてくださいね」と誘っている。
まずリアルありきなわけだ。
ホームページはホームページでちゃんとあって、所在地や電話番号も書いているので、SNS外のホームページは教会の看板や電話帳に掲載している案内みたいなもの、SNSは、教会を訪れてきた人が、教会の中で話を聴いたり、気持ちを打ち明けたりするようなもの。
そう考えると、必ずしもキリスト教の倫理と対立しないのかもしれない。

自分のブログとSNSの日記も完全に住み分けるようになってきて、
ブログは不特定多数にむけての「壁新聞」で、
SNSはリアルで親しい友人にむけての「私信」みたいな感覚だ。
だからSNSでは、仕事が忙しいとか、甥っ子や姪っ子が遊びに来た、とか
他愛のないことを書いている。

一度夫に、ブログもSNSのように書けばたくさん書けるから、そういう形にしようか、と言ったら、
それはかえって読者を失うのではないか、といわれた。
たしかに、30後半のおばさんの日記など、世間的にはどうでもいいわな。

ブログのコミュニケーションも慣れてきた。
さんざん使い古されてきた言い方だけど、
やはり、誤解の少ないコミュニケーションのためには、
パソコン越しではなく、リアルで会うのがベスト。
だから、この人への対応は、パソコン越しでは難しいなあ、というときは、
「そっとしておく」というのがもっとも適切なんだろう。

そんな対応方法を、キリスト教の倫理的に言えば、「時が来るのを待つ」というのかな、
そして、大事なのは「いつかこの人と顔を合わせた時が与えられたら、ちゃんとコミュニケーションをとろう」
という意思を持ち続けることだろう。
同じ人からの書きこみを禁止する機能もできたけれど、
性風俗関係以外には、使っていない。

ツイッターやSNSは気楽で便利だ。でも、やはり、ブログのような不特定多数向けというコミュニケーションは、まだまだ魅力的な気がする。
開かれている分、ツイッターやSNSに比べて押しつけがましさをあまり感じないところも、長所だと思う。
ブログを久しぶりに再開したところで、SNSとの違いにあらためてビビり気味なのだけど、ここは気持ちを強くもって、また続けていきたいと思います。

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November 19, 2009

われわれクリスチャンは不寛容なのか(つづき)。

Ueno2 つづきです。

日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするか。

正直に言って、やはり「空気」を優先するだろうなあ、という気がした。
「空気」を破って、食べたり食べなかったりできるかなあ。ちょっと勇気がいるし、周囲が日本人だけだったら、「私は空気を読めていないんじゃなくて、空気を読んでもなお、神に従うんです」ということを理解してもらうのに、骨が折れそう。

ちなみに、アメリカの保守的なWASPが多い地域に一年間留学をしたことのある相方にこの話をしたら、
「そりゃー、誤解だよ。アメリカ人も『空気』を読むよ」と反論された。
「その事故の場合は『神様に祈って決めよう』という空気になっただけだよ。
なかには『民主的に多数決で決めよう』って考えてる人だっていたと思うよ。
でも『神様に祈って決めよう』って空気になったから、それに従ったんじゃないの。
人間、そんなに考えることって違わないよ」
だそうであります。
たしかに、もし生存者に無神論者がひとりいて、「わたしは神なんていないと思うから、その案は無意味だと思う。多数決で決めましょう」って言いつのったら、どうなるんだろう。無神論者の人は疎外感を覚えるだろうし、まわりのクリスチャンは「KYだなあ」って思うかもしれない。
つまり、この時は、たまさか、みんながクリスチャンだったから、一応の共通認識に立ったうえで、「寛容」にもそれぞれの決断が尊重された、という面があるのかもしれないのだ。

同じように、nikkouが常日頃言われている「あなたたちクリスチャンは不寛容だ」というセリフは、
「神との関係を持っていない人は、あなたたちの価値観の中にいると疎外感を覚える」という意味だろうと思う。
でも、その都度、クリスチャンだけじゃないでしょ、日本人だって「空気」という「神」への不寛容で排他的で独善的な信仰を持っていて、日本人じゃない人はその「空気」に疎外感を覚えるよきっと、と反論しそうになる。
(山本七平には、この「空気」信仰が、戦時中どんなふうに働いたか分析した『「空気」の研究』という著作があります。)
nikkou自身、振り返ってみた感じ、
クリスチャンになる前も、なったあとも、自分と違う価値観に対しては同じくらい、「不寛容」で「排他的」で「独善的」なんだろうと思っています。
でもそれがたぶん、人間の「罪」のひとつなんじゃないかなあ、と思う。
だから、イエスは、人間のその「罪」をきっちり捉えて、「あなたの敵を愛せ」、「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを、あなたの隣人にもしなさい」と言ったのだ。

(「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを…」がキリスト教の独善性を表す、という人もいるが、
実際にこれを本気でやってみると、すごーくたいへんなことがよくわかる。
相手の立場を自分におきかえて、さらに、神様からはどう見えるか、という視点までもって、
すごくすごく考えなければならないので、
どうしても客観的にならざるを得ない。独善的には、なりようがない。)

イラク戦争やアメリカの黒人差別、日本人クリスチャンも戦時中に朝鮮のクリスチャンに神社参拝を強制するなど、これまでキリスト教徒の人たちが「不寛容」で「排他的」で「独善的」といわれるようなことをしてきたのは、事実だと思う。では、彼らがキリスト教徒でなければ、寛容で、普遍的な善を行い、正しく生きたか、というと、さて、どうかわからないと思う。

でも、クリスチャンになっても、なかなかイエスの言うとおりにはできない。

たぶんそれは、人間である限り、どうしようもないんだろうと思う。
ただ、「わたしは人間だから、『不寛容』で『排他的』で『独善的』である」という自覚があるのと、ないのとでは、微妙に違うような気もする。

主イエスは「自分のことも分かってないのに、人を裁くな」と言った。
だから、「小沢さんだって、不寛容で独善的じゃーん」なんてのは、まさに、主イエスが指摘した「人を裁く」行為なんだろう。水掛け論だ。
さらに主イエスは、「木は実によって判断される」とまで言われた。
だから、nikkouが主イエスに愚直に従うなかで少しでも「これぞ真の寛容な人間だ」と、こころある人に理解されれば、
だれかを言葉で論破するよりはるかに、主イエスに喜ばれるような気がする。

そんなわけで、飲み会で何を言われようと、小沢さんが何を言おうと、いつか「実」をみてもらえるよう、じっと聖書に学び続けようと思う。
(でも、こんなところに、言い訳がましく書いちゃったけどね。)

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November 17, 2009

われわれクリスチャンは、不寛容なのか。

今日、上野公園を通ったら、「上野よみがえり会」というキリスト教団体が雨の下、ホームレスさんに炊き出しをしていました。(カメラを向けるのがためらわれたので、これは、炊き出しが終わった後の広場。)

(「上野よみがえり会」は、愛宣教会のホームレス支援団体。『ホームレス入門―上野の森の紳士録』に愛宣教会の牧師先生のお話が出てきて、nikkou、不覚にも涙しました。)

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さて、数日前、小沢一郎さんが、「キリスト教は排他的で独善的だ」と発言されたことがニュースになっております。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091110/stt0911102121020-n1.htm

nikkouもクリスチャンになって丸7年となりますが、
どうなんでしょうね、私は7年前より排他的で独善的な人間になってしまったのでしょうか。

ちなみにこのセリフ、この7年間、絶えず聞かされてきた気がいたします。
ついひと月前も上司と飲んでいて「一神教は不寛容だ。」と断罪されました。
わたしは彼になにか不寛容なことをしたのだろうか。
ちょっと聞いてみたいような気もしたのだけれど、
なんとなく「ここは問い詰める『空気』じゃない」と思ったのと、
いつもこういう場面で感じる、「ここでムキになったら、『ほうら、不寛容だ』と上げ足を取られておしまい」という感覚があったのとで、
さらりと流してしまいました。

「キリスト教は不寛容」「排他的」「独善的」というセリフは、イラク戦争以降、日本でしきりに言われるようになった気がいたします。
ただ、イラク戦争のあと、
日本でも「自己責任」だの「KY」だの「負け組・勝ち組」だのといった言葉がはやって、
「なーんだ、日本人だって不寛容で排他的で独善的じゃん」みたいな声もちらほら上がるようになって、
すこし下火になったのかな、と思っておりました。
どっこい、根強いです、われわれ「クリスチャンは排他的で不寛容で独善的」説。

鴻上尚史という脚本家がいて、彼がわりと繰り返し書いているエピソードがある。
「アンデスの奇跡」と呼ばれる実話だそうであります。
こんな話。

今から30年ほど前、アメリカのアンデス山脈に飛行機が墜落した。
ほとんどの人が墜落の際に亡くなったそうですが、
数名が、生き延びた。
ところが、墜落したのは荒涼とした山の中、
救助も期待できず、食べ物も底をつき、
とうとう、亡くなった人を食べよう、ということになったそうであります。
鴻上尚史が語るには、
その際、生き延びた人は全員クリスチャンだったので、
「食べるかどうかはおのおの神様に祈って決めよう」ということになったそうであります。
祈った結果、神様に「食べろ」と示された人は、食べる。
「食べるな」と示された人は、食べない。

(人によって神は違うことを示すのか、という突っ込みをしたくなりますが、
nikkouのささやかなクリスチャン歴から鑑みるに、
同じ状況でも、神様がその人に応じた葛藤や決断を導くということは大いにあると思います。
「ナルドの香油」。)

鴻上さんはそれを知って、「これが日本人だったらどうするかなあ」と考えたとか。
で、日本人ならきっと「空気を読む」だろう、という結論に至った。
「空気」が「みんな、生き延びるために食べよう!」だったらみんな食べるし、
「やっぱり良くないよ」だったらみんな食べない。
さらに、「食べよう」という「空気」になったあとも、だれが最初に食べるのか、みたいな「空気」を読み合ったり、「あいつKYだ」と断罪したりするだろう、とのこと。
なるほど。
日本にも「ひかりごけ」とか「野火」みたいな作品がありますから、
実際どうなるかはわかりませんが、まああり得ないことではない。

そこで、日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするだろう、とちょっと考えてみました。
(ちょっと長くなってきたので、続きはまたあした。)

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August 10, 2007

「異端」と呼ばれる宗教のこと

『眠られぬ夜のために』第一部

「8月5日
ペシミストたちを言葉で改宗させようなどと、むだな骨折りをしてはならない。

人間の考え方を変えさせるのは、神にのみできることであって、われわれのなしうることではない。」
(筑摩叢書:前田敬作訳)

200708090956000
暑いですねー。東京も夏空。
さて、最近、nikkouたちの家に、キリスト教の「異端」と呼ばれる宗教のひとつの方が尋ねてくるようになった。かならず二人組みでやってきて、その宗教の機関紙を置いていく。
玄関先でちょっと話してみたが、穏やかで品がよく、いつも微笑みを絶やさず、話す範囲においては、さほど「異端」性は感じられない。
なもんで、思わず直球できいてしまった。
「なぜ、あなたたちは“異端”って言われてるんですか?」
するとふたりは、困ったような微笑を浮かべて顔を見合わせていたが、やがて「三位一体を認めないんです」と言った。…ふむ、なるほど。たしかに「三位一体」というのは、なかなか腑に落ちないものである。nikkouも、ただなんとなく、そんなもんかと思っているくらいである。
でも、それだけで「異端」? 三位一体がわからない、ということは「正統」と呼ばれるプロテスタントのクリスチャンにもよくあることのような気がするけれど。

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August 15, 2006

静かに祈る日

『眠られぬ夜のために』第二部

「8月15日
(前略)
キリストでさえも、こういう人たちには、ときとして腹をたてた。

マルコによる福音書9章19節
『ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。』
同6章46節
『そして群集に別れてから、祈るために山へ退かれた。』」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

今日は、敗戦記念日。
千鳥が淵の戦没者墓苑にお祈りに行ってまいりました。

海外のジャングルの中に朽ち果てつつあったお骨を集め、納めているというそのお堂の前で、
わが祖父たちも、ひとつ違えば、ここにいたのだろう、と
ぐっと胸につまるものがありました。

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戦争中は
きっと、だれもが心傷つき、
そして、だれもが、罪を犯したのだろうと思います。
だから、
人の心の弱さや傷をいたわり、
また、罪を余さず見通して裁き、
赦したまう
われらが主イエスの十字架を思い、御名を通して、
堅く手を組んで祈りました。

今、世界中でやまぬ戦争の中で
多くの心が傷つき、また罪を犯していることと思います。
そのすべてを主イエスが癒し、裁き、赦したまうことを祈ります。

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June 14, 2005

『靖国問題』再び~「心のよりどころ」(最終回)

さて、ここで、靖国に集うおじいさんたちの笑顔を思い出す。

若き日に敗戦で価値観を覆され、
子供の世代には、「偏り」を嫌われ、
孫たちには、「あれは間違っていたのだが」という結論から語らねばならず、
口が重くなる人たち。

彼らが笑顔を見せられるのは、
かつて戦争に大義名分をあたえ、
今は「鎮魂」という名目で若き日を振り返ることのできる靖国神社の中だけなのか。

靖国神社の中で、
かなりの年齢を重ねた彼らを見つつ、
nikkouはふと、焦燥感にかられた。
彼らはきっと、当時のありのままの思いや、当時目にし耳にしたことを、
靖国神社だけにそっと打ち明けて、
この世を去ってしまう。
最後の生き証人が失われるまで、あと何年もないだろう。
こうして、靖国神社と密接に関わった人々を失い、
この施設は、たとえば高橋哲哉が『靖国問題』(ちくま新書)で語るように、
実感のない「鎮魂」「平和祈念」という新たな大義名分を与えられ、
外交問題や政治問題として利用され、浮遊してゆくだろう。

nikkouは思う。
靖国に集うおじいちゃんたちが、わたしたちのほうに振り向いて、
靖国にではなく、わたしたちに、その思いを語ることはできなかったのだろうか。
その昂揚感、その虚無感、その悲しみ、その懐かしさを。
そして、わたしたちが、それを「偏り」と断罪せずに受け止めることができていたら。

そう、だれも彼らを受け止めないから、彼らは「靖国」を必要としているのではないか。
彼らを「靖国」に追いやっているのは、わたしたちではないのか。

6月10日付けの朝日新聞投書欄に、65歳の男性の、
遺族は「靖国」しか「心のよりどころ」にできない、という参拝肯定論が載った。
それは、悲しいことだ、とnikkouは思った。

この都会のがらんと大きなこの施設ではなく、
家庭で、故郷で、この施設に集ってくるひとりひとりの戦争の日々について、耳を傾け、
彼らの「戦友」のために、彼らが出会った他国の人のために、ともに祈ることのほうが
彼らと私たちの「心のよりどころ」を見出せるのではないかとnikkouは思う。
「心のよりどころ」は、神殿の中ではなく、わたしたちの関わりの中に生まれるものだ。
それは、目にみえなくとも、はるかに慰めと愛に満ちていないか。

だから、まず、nikkouは、
まだらボケがはじまってしまったわが祖父が、
全部の記憶を天国に宅急便で送ってしまう前に、
きちんと話を聞きにいこう、と思う。
あの施設ほど大きくはないけれど、
nikkouの小さな胸のなかに、おじいちゃんの思いを受け止めたい。

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June 13, 2005

『靖国問題』再び~わたしたち孫の世代

ウチのおじいちゃんは、本当のところ、どんな戦争をしてきたのだろう。
考えてみれば、一度もそんな話をしたことがない。

7年前、墓参りへの坂道を登るとき、
手を引いてあげようとしたら、祖父はがんとして拒んだ。
伯母が「おじいちゃんは陸軍だから。足腰が丈夫なの」とフォローしたのを覚えている。
彼は、20歳そこそこで中国に派兵されている。

先日、70代の老紳士とお茶をした。
彼は無教会のクリスチャンである。
彼もかつては軍国少年だった、という。
「天皇陛下のために死ぬんだ、と思っていた。
それが普通だった。
同世代もみんなそう思っていた。
今の若い人たちみたいに、何をしていいかわからない、という虚無感はなかった。」
と回想した。
そして、「今思えば危険だったな~と思う。あの時代は間違っていた」と何度も付け足した。

そう、おじいちゃんたちが戦争を語るとき、そこには「ねじれ」がある。

当時、日本は正しいと思っていた。
でも負けた。
今、あの当時の日本は間違っていたと思う。

というねじれ。

テレビや新聞で、韓国や中国の人たちは言う。
日本と違って、韓国や中国では家庭の中で戦争が語られてきた、と。

でも、韓国や中国の老人たちにはねじれがない。

当時、日本は間違っていると思っていた。
そして、われわれは日本に勝った。
今も、日本は間違っていると思う。

ほら。ストレートに繋がる。

日本の老人たちのねじれは、nikkouたちが想像するよりつらいのではないかと思う。
正しいと信じていたものは、実は正しくなかった、という結論から始めなければならない。
口も重くなるだろう。

だからなのか私たち孫の世代は、戦争の話を直接聞く機会が少ない。
核家族だったせいもあるかもしれない。
もちろん、学校の現代史では習っている。
でも、問題になった「強制連行」や「従軍慰安婦」は新聞で知った。
日本基督教団がなぜできたのか、とか、韓国のクリスチャンへの神社参拝の強制と迫害などを知ったのは、
本当にごく最近のことである。

すべて、活字の中の世界。
わたしたちのおじいちゃんおばあちゃんがその世界にいた人たちだ、ということを実感として持っていないのだ。

そこに、「靖国問題」を解く鍵があるのではないか、と思う。

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June 12, 2005

『靖国問題』再び~わが両親の世代

靖国神社には、うれしそうに集うおじいさんたちがいる、ということを書いた。
さて、そこで今日は、私のお父さんお母さんの世代について書きたい。

わたしの両親は団塊の世代である。
両親とも、70年代に大学生であった。
ふたりとも「ノンポリ」だった、という。
これは、政治活動をしなかった、という意味らしい。
学校に行っても封鎖されていて授業をやっていないので、こりゃ就職が危うい、と図書館に行って国家資格をとる勉強をしていた、という現実的な人たちだ。

学生時代に三島由紀夫の自決事件やら浅間山荘事件やらをテレビで見て、
その血なまぐささや陰惨さに嫌悪感を抱いている。
「全共闘崩れ」という言い方を、侮蔑をこめて言う。

そのせいか、子供たちが政治や社会に積極的に関わる行動を警戒する。
たとえばnikkouが障害者介助を始めたとき、市民団体か宗教団体がからんでいないか、と注意された。

政治的に突出した行動を避ける、というのは、
時代がゆれているときには、ある意味安全な身の処し方かもしれない。
右でも左でもなく、中庸でラジカル。
その時々で判断せよ。
偏るな、深入りするな。

さて。
わたしたち団塊ジュニアと、靖国に集うおじいさんたちの間には、
こうした警戒心の強い団塊のお父さんお母さんたちがいる、ということを、
実感として告白して、次に続けたい。

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June 11, 2005

『靖国問題』再び(全4回)

6月9日『眠られぬ夜のために』

「『あなたの神はどこにいるか』(ヨエル書2章17節)という問いは、現在またもや、多くの国々の『実利主義政治』に面と向かって、しきりに突きつけられている。」(岩波文庫:草間・大和訳)

最近、二日連続で靖国神社に行った。
別に参拝しに行ったわけではありません。
仕事で通りかかったので、お茶を飲むベンチを求めて立ち寄っただけです。

nikkouはクリスチャンなので、毎日何回も祈っている。
だから、神社に行っても拝む対象がない、その必要がない、
ということを、以前も書いた。
靖国神社についても同じだ。
もしnikkouが首相だったら、追悼と平和祈願は靖国神社ではなく、
ひとり部屋にこもって、
国も死因もさまざまな戦没者名簿でも広げて、ひとりひとりのために真剣に祈るだろう。

nikkouに、靖国神社は必要ないけれど、
でも、この国には、靖国神社を必要とする人がいるんだろう、と思う。
そのことについて、書いてみたい。

とはいっても、nikkouには、首相の靖国参拝問題や、その外交問題まで発展させる知力も根性もない。
1976年生まれ、核家族にて東京育ち、女子、会社員、
というパーソナルな立場から、靖国神社がどう見えているか、という話をしたいだけである。

靖国神社に立ち寄った2日間で、2日とも目に付いた人びとがいる。
蒸し暑い中に、ネクタイ、背広姿のおじいさんたちの集団である。
顔にいっぱいしみを浮かせて、杖をつきつき、見るからに高齢そうな人びとが、
なんだかとてもうれしそうに笑いつつ、
2,3人固まって、立ち話をしたり、砂利道を歩いていたりする。
鳥居の前には大型の観光バスが連なっている。
神社のスケジュールが出ていたので眺めてみると、
連日なんとか師団とかどこそこ県人会とかの慰霊祭が行われている。
察するに、そういうイベントに来た人々なのだろう。

ちくま新書『ナショナリズム』(浅羽通明)によると、
国外での戦争は、本来は生涯、出会うはずのない人同士が、
軍隊という組織の中で出会うことで、
「日本人」という「国民的同胞意識」を自覚する機会となったという。
戦争を知らないnikkouには、サッカーのワールドカップでのチームメイトみたいなのを想像するけれど、
きっと「戦友」というは、そんなのより、ずっと濃い関係なんだと思う。
彼らは文字通り生死を共にしたり、「共犯関係」(浅羽通明)を持っている仲間なのだ。

だから、靖国に集うおじいさんたちのうれしそうな顔は、
「戦友」たちとの同窓会のような、いや、もっと強いなつかしさによるものなのかもしれない。
そういう関係がいいとか悪いとか言う前に、おじいさんたちにはそういう「友」がいるのだ、ということをまず意識しておいて、これから少し、続けて書いていきたいと思う。

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April 06, 2005

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)

『眠られぬ夜のために』4月6日

「今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実なものを見分けるある種の本能である。」
(岩波文庫:草間・大和訳 以下同)

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)読了。
問題点を、順を追って解説してあり、論点がまとまっていて、とても読みやすかった。
「靖国問題」とひとことで言っても、かなり重層的になっているらしいし、
そのすべてについて、わたしにまとまった考えがあるわけではないので、
ここでは、いちクリスチャンとして、思うことを書いてみたい。

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