われわれクリスチャンは不寛容なのか(つづき)。
日本人であり、クリスチャンでもあるnikkouはどうするか。
正直に言って、やはり「空気」を優先するだろうなあ、という気がした。
「空気」を破って、食べたり食べなかったりできるかなあ。ちょっと勇気がいるし、周囲が日本人だけだったら、「私は空気を読めていないんじゃなくて、空気を読んでもなお、神に従うんです」ということを理解してもらうのに、骨が折れそう。
ちなみに、アメリカの保守的なWASPが多い地域に一年間留学をしたことのある相方にこの話をしたら、
「そりゃー、誤解だよ。アメリカ人も『空気』を読むよ」と反論された。
「その事故の場合は『神様に祈って決めよう』という空気になっただけだよ。
なかには『民主的に多数決で決めよう』って考えてる人だっていたと思うよ。
でも『神様に祈って決めよう』って空気になったから、それに従ったんじゃないの。
人間、そんなに考えることって違わないよ」
だそうであります。
たしかに、もし生存者に無神論者がひとりいて、「わたしは神なんていないと思うから、その案は無意味だと思う。多数決で決めましょう」って言いつのったら、どうなるんだろう。無神論者の人は疎外感を覚えるだろうし、まわりのクリスチャンは「KYだなあ」って思うかもしれない。
つまり、この時は、たまさか、みんながクリスチャンだったから、一応の共通認識に立ったうえで、「寛容」にもそれぞれの決断が尊重された、という面があるのかもしれないのだ。
同じように、nikkouが常日頃言われている「あなたたちクリスチャンは不寛容だ」というセリフは、
「神との関係を持っていない人は、あなたたちの価値観の中にいると疎外感を覚える」という意味だろうと思う。
でも、その都度、クリスチャンだけじゃないでしょ、日本人だって「空気」という「神」への不寛容で排他的で独善的な信仰を持っていて、日本人じゃない人はその「空気」に疎外感を覚えるよきっと、と反論しそうになる。
(山本七平には、この「空気」信仰が、戦時中どんなふうに働いたか分析した『「空気」の研究』という著作があります。)
nikkou自身、振り返ってみた感じ、
クリスチャンになる前も、なったあとも、自分と違う価値観に対しては同じくらい、「不寛容」で「排他的」で「独善的」なんだろうと思っています。
でもそれがたぶん、人間の「罪」のひとつなんじゃないかなあ、と思う。
だから、イエスは、人間のその「罪」をきっちり捉えて、「あなたの敵を愛せ」、「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを、あなたの隣人にもしなさい」と言ったのだ。
(「あなたが隣人からしてもらいたいと思うことを…」がキリスト教の独善性を表す、という人もいるが、
実際にこれを本気でやってみると、すごーくたいへんなことがよくわかる。
相手の立場を自分におきかえて、さらに、神様からはどう見えるか、という視点までもって、
すごくすごく考えなければならないので、
どうしても客観的にならざるを得ない。独善的には、なりようがない。)
イラク戦争やアメリカの黒人差別、日本人クリスチャンも戦時中に朝鮮のクリスチャンに神社参拝を強制するなど、これまでキリスト教徒の人たちが「不寛容」で「排他的」で「独善的」といわれるようなことをしてきたのは、事実だと思う。では、彼らがキリスト教徒でなければ、寛容で、普遍的な善を行い、正しく生きたか、というと、さて、どうかわからないと思う。
でも、クリスチャンになっても、なかなかイエスの言うとおりにはできない。
たぶんそれは、人間である限り、どうしようもないんだろうと思う。
ただ、「わたしは人間だから、『不寛容』で『排他的』で『独善的』である」という自覚があるのと、ないのとでは、微妙に違うような気もする。
主イエスは「自分のことも分かってないのに、人を裁くな」と言った。
だから、「小沢さんだって、不寛容で独善的じゃーん」なんてのは、まさに、主イエスが指摘した「人を裁く」行為なんだろう。水掛け論だ。
さらに主イエスは、「木は実によって判断される」とまで言われた。
だから、nikkouが主イエスに愚直に従うなかで少しでも「これぞ真の寛容な人間だ」と、こころある人に理解されれば、
だれかを言葉で論破するよりはるかに、主イエスに喜ばれるような気がする。
そんなわけで、飲み会で何を言われようと、小沢さんが何を言おうと、いつか「実」をみてもらえるよう、じっと聖書に学び続けようと思う。
(でも、こんなところに、言い訳がましく書いちゃったけどね。)






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