映画マリア
昨年、現在の相方と婚約中のクリスマスのこと、
nikkouは相方に言った。
「もし、わたしがマリアさんだったら、つまり処女受胎をしたら、
速攻、堕ろすね。」
「ええっ、なんてことを」
と、相方絶句。
でも、そうですよ。
身に覚えがないのに、妊娠なんて、気味が悪いじゃないですか。
「で、堕ろしたその足で精神科に行く。
『先生、わたし記憶がないのに、妊娠したんです。
なんか、記憶障害か人格障害かなんかでしょうか。』って。」
「俺には言う?」
「…言うだろうねー。でも、重い話だねー、なんかやだねー」
想像したら、暗ーくなってしまった。
聖書にはグロテスクな話がたくさんあるけれど、最近結婚したnikkouにとって、処女受胎ってのは、1,2をあらそうグロテスクな話だ。
昨日、相方とふたりで、映画「マリア」を見てきた。
映画自体は、マタイ福音書とルカ福音書を混ぜて構成した物語だったのだけれど、マリアが、受胎を告げられて「御心のままになりますように」と答えたときは、やはり、「どうして、そんなことを言っちゃうんだろう。せめて、結婚して、子供ができてもだれにも疑われなくなるまで待ってください、とかって言いなよ。」と思った。
そして、やはり、未婚の母として、小さなナザレの町では、非難と侮蔑の的になってしまうのである。
そんななか、苦悩と不安を押し殺して、ヨセフは、マリアを守ったんだろう。
マリアも偉かったけど、ヨセフも偉かったと思う。
映画の視点は、ずっと、第三者の目でふたりを眺め続けることになるから、主が彼らを守りつづけたときは、こういう目線だったんだろうな、という気がした。本当にか弱い小さな家族。
これは、nikkouの勝手な想像なんだけれど、
イエスの言葉「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」っていうのは、
この出生の秘密(処女受胎)が関わっているんじゃないかなあと思う。
どんなに、「聖なる受胎」であっても、普通の人には、婚外子を産んだ女にしか見えなかったマリアに、
きっと、ひどい言葉を投げつける人は少なくなかったんじゃないかと思う。
「セクハラ」という言葉どころか、きっと考え方すらなかった時代に、
レイプしたわけではないだろう、だから罪を犯したわけじゃないだろう、と開き直ってマリアさんにセクハラしまくる男たちに対して
「あんたたち、本気でそれが罪にならないとでも思ってるんかぃ?」って、イエスは言いたかったんじゃないかと思うのだ。
先日友人に、「nikkouは、絶対マリアさんみたいな試練はいやだなあ」と言ったら、「だいじょうぶ、神様は、その人にふさわしい試練しか与えられないから」と慰め(?)られた。ええ、ええ、そうしてくださいまし。マリアさんは、やはりえらいです。











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