November 16, 2013

やっぱり欲しいわ、永遠の命

最近、映画鑑賞が趣味になって、毎晩DVDで映画を観ている。
先日は、トミー・リー・ジョーンズ主演の「告発のとき」を観た。
日本では缶コーヒーのCMで宇宙人を演じてすっとぼけた味わいを出しているトミー・リー・ジョーンズであるけれど、この映画ではベテランのハリウッドスターとして、重厚な演技をしております。

詳しいあらすじは申しませんが、イラク戦争したせいで、アメリカの帰還兵の心の荒廃たるや凄まじいことになってるよ、という話でありました。
たいへんいい映画だったので、ぜひ皆さんに観ていただきたいと思います。(予告編を貼っておきます)。


この映画と同じようなことは、たしかベトナム戦争でも言われていたはずで、アメリカはイラク戦争でもなお、同じことを繰り返しているんだなあ、とため息が出る。
日本は憲法9条を廃棄するだの改定するだのと長く議論をしているけれど、
その憲法の草案を作ったアメリカこそ戦争放棄・軍隊非保持の憲法を持たないと、内部から崩壊するんじゃないか、と心配になる。
日本憲法9条を改定するより、
世界中の国が「9条」をもつのが、それこそ「戦争の抑止」になるんじゃないかと思うが、
まあ、幻想だよなあ……、
祈り続け、祈り伝えていけば、何千年後かには、実現したりするだろうか。

そんなことを、Facebookに書いたら、
友人たちが、「遠い夜明け」という映画を教えてくれた。
南アフリカにおいて、醜悪なアパルトヘイト政策が行われていた時代、
黒人の自由と人種の平等を説いた若い黒人活動家、スティーヴン・ビーコと、
彼を支援した白人ジャーナリスト、ドナルド・ウッズの友情を描いた映画だ。

これもとてもすばらしかったので、ぜひ皆様に観ていただきたい。
(映画とコラボレートしたピーター・ガブリエルのビーコという歌を貼っておきます。)


スティーヴン・ビーコは、1977年30歳の若さで拷問死する。
義憤にかられたドナルド・ウッズは、彼を伝えようと亡命を決意する。
ウッズの脱出を、多くの黒人たちが、「ビーコの友なら、我々の友だ」と助けるのである。
その様子を映画で追いながら、nikkouは、まるで、ビーコの魂が生きて、友を守っているようだ、と思った。
肉体死しても、魂は滅びずか……とつぶやいて、ふと、聖書の有名な一節が脳裏に浮かんだ。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)

そうか、ビーコは、肉体を殺されても、「永遠の命」を得たんだなあ、と何気なく思って、はっとした。
「永遠の命」ってそういうことだったのか!

nikkou は、ぶっちゃけ、この聖書の一節があんまり好きではなかった。
なんか、取引っぽいんだよね。
イエスを信じたら、ご褒美に「永遠の命」をあげましょう、信じない人にはあげません、残念ですね怖いですね、どうですか欲しいですか、じゃあ信じてください、
……みたいな。
でも、肝心の「永遠の命」ってのが、なんだか得体がしれなくって、nikkou としては、まあくれるんならもらっておくけど特に欲しくはないかな、くらいな気持ちだった。

でも、そうじゃないんだ。
ご褒美でもなんでもないんだ。
本当に、イエスをーーつまり、イエスが伝えた真の自由や平等や愛や平和ーーを信じるなら、
たとえそれを信じたために殺されたり、一生報われなかったとしても、
後世、真の自由や平等や愛や平和が築かれる日まで、
その魂は決して、それこそ「永遠に」滅びない、
という「事実」を、
福音書が書かれた時代、つまりイエスの死後、人々は目の当たりにして、
それを、わたしたちに伝えようとしたんじゃないだろうか。

「遠い夜明け」のラスト、ビーコ以外にも、平等のために闘い、おそらく拷問死したであろう人名が次々とリストアップされる。
それをいたたまれない思いで見つめながら、みことばを噛み締めた。
この世界に、いつか真の自由や平等や愛や平和がきっとやってくる、
人間が信じなくても、神様は信じている。
そのくらい、この世界を愛している。
だから、それを信じたこの人たちは、死なない、
永遠の命を生きている。
きっとそうだ。
そうじゃなきゃ。

この映画に描かれた通り、1970年代の南アフリカでは、アパルトヘイトが破られるときは永遠にこないと思われていたのに、1994年、とうとうネルソン・マンデラ氏が大統領になった。

今は夢のようなことでも、そう遠くない未来、かなうかもしれないよ、と友人たちは言う。

そう、
だから、
世界中の国々に憲法9条を。
そんな夢のようなことも、
強く強く信じ、
その上に立って、日々の生活を踏みしめていくのなら、
いつか、叶うのかもしれない。

「永遠の命」って、
死んだあと、クリスチャンになったご褒美として、不幸なこの世とまったく無関係のカムフォタブルな天国でずーっとハッピーでいられますよ、
って意味じゃない。
私が死んだあとも、イエスを信じて生きた道のりは、きっと引き継がれ、その思いは永遠に滅びない、
そういうことなんじゃないかと思う。

だとしたら。
わたしも欲しいわ、永遠の命。
子どもたちの、そしてまたその子どもたちの世界のために。

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January 14, 2008

映画マリア

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昨年、現在の相方と婚約中のクリスマスのこと、
nikkouは相方に言った。

「もし、わたしがマリアさんだったら、つまり処女受胎をしたら、
速攻、堕ろすね。」
「ええっ、なんてことを」
と、相方絶句。
でも、そうですよ。
身に覚えがないのに、妊娠なんて、気味が悪いじゃないですか。
「で、堕ろしたその足で精神科に行く。
『先生、わたし記憶がないのに、妊娠したんです。
なんか、記憶障害か人格障害かなんかでしょうか。』って。」
「俺には言う?」
「…言うだろうねー。でも、重い話だねー、なんかやだねー」
想像したら、暗ーくなってしまった。

聖書にはグロテスクな話がたくさんあるけれど、最近結婚したnikkouにとって、処女受胎ってのは、1,2をあらそうグロテスクな話だ。

昨日、相方とふたりで、映画「マリア」を見てきた。

1024_768_c 映画自体は、マタイ福音書とルカ福音書を混ぜて構成した物語だったのだけれど、マリアが、受胎を告げられて「御心のままになりますように」と答えたときは、やはり、「どうして、そんなことを言っちゃうんだろう。せめて、結婚して、子供ができてもだれにも疑われなくなるまで待ってください、とかって言いなよ。」と思った。

そして、やはり、未婚の母として、小さなナザレの町では、非難と侮蔑の的になってしまうのである。

そんななか、苦悩と不安を押し殺して、ヨセフは、マリアを守ったんだろう。

マリアも偉かったけど、ヨセフも偉かったと思う。

映画の視点は、ずっと、第三者の目でふたりを眺め続けることになるから、主が彼らを守りつづけたときは、こういう目線だったんだろうな、という気がした。本当にか弱い小さな家族。

これは、nikkouの勝手な想像なんだけれど、
イエスの言葉「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」っていうのは、
この出生の秘密(処女受胎)が関わっているんじゃないかなあと思う。
どんなに、「聖なる受胎」であっても、普通の人には、婚外子を産んだ女にしか見えなかったマリアに、
きっと、ひどい言葉を投げつける人は少なくなかったんじゃないかと思う。
「セクハラ」という言葉どころか、きっと考え方すらなかった時代に、
レイプしたわけではないだろう、だから罪を犯したわけじゃないだろう、と開き直ってマリアさんにセクハラしまくる男たちに対して
「あんたたち、本気でそれが罪にならないとでも思ってるんかぃ?」って、イエスは言いたかったんじゃないかと思うのだ。

先日友人に、「nikkouは、絶対マリアさんみたいな試練はいやだなあ」と言ったら、「だいじょうぶ、神様は、その人にふさわしい試練しか与えられないから」と慰め(?)られた。ええ、ええ、そうしてくださいまし。マリアさんは、やはりえらいです。

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July 28, 2006

リトルバーズ

『眠られぬ夜のために』第二部

「7月26日

『イザヤ書』第55章(さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。…わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。…)。
ここに言われていることがもし真実であるならば、この世にはどうしてこんな多くの社会的悲惨や、それについてのこんなに多くの嘆きがあるのだろうか。しかし、嘆くよりまえに、ここに言われることは、試みにやってみるだけの甲斐があることではないだろうか。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

先週末、「東京映画平和祭」を観てきた。
ロビーに出ていたアヤシサ満載のブースや、
たった一日に複数の映画を各一回だけ上映するというやり方については、
誘ってくれた「一粒のぶどう」のブログに譲るとして、
わたしは内容についてちょろっと書きたい。

映画祭で鑑賞したのは戦時下のイラクをドキュメントした「リトルバーズ」と、アメリカ資本に蹂躙されていく小さな南の国を描いた「ジャマイカの真実」の二編。
いずれも衝撃的ながら、とくにショックだったのは「リトルバーズ」であります。
一時、連日ニュースで伝えられていたイラク戦争の戦死者の数や、デモ隊のひとりひとりが、
にわかにリアルに迫ってきました。

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アメリカ軍の空爆前夜、わいわいとにぎやかにお店のシャッターを閉じるひとびと。
カメラマンを見つけて、
「日本は好きだよ。ヒロシマ・ナガサキを知ってる。でも、今度の戦争で日本はなぜアメリカの味方をするんだ?なぜなんだ?」としきりに聞いてくるおじさんたち。
こちらはイラクのことをなーんにも知らんのになあ、
このおじさんはなんで日本が好きだなんて言ってくれるんかなあ、
となにやら申し訳ないような気持ちで眺めていると、
次のシーンには、その商店街が爆弾でぼこぼこに襲われているのである。

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さらにカメラは、街中の病院に入る。
ちいさなちいさな女の子の上に覆いかぶさって泣きじゃくる若いお父さんに出会う。
アリ・サクバンさん、31歳。
アメリカ軍の空爆で3歳、5歳、7歳の子どもたちをいっぺんに失ったという。
カメラはしばらくこのお父さんを追うことになる。
「ここは宮殿でもなんでもないのに」と憤懣やるかたない表情で破壊された家を見せ、
その朝、どんなに子どもたちがかわいらしかったか、
そこへどんな様子で爆撃が襲い、
どのように子どもたちがふきとんだか、
といういうことを、繰り返し繰り返し話す。

アリさん自身、湾岸戦争でクウェートに駆り出されたことがあるという。
兄ふたりはイランイラク戦争で死んだ。
そして子どもたちは今回の戦争で死んだ。
たくさんの戦争をくぐってきてなにがあったか、なにもない。
もうこりごりだ。
「人間は戦争するために生まれたんじゃないはずだ。真理や知識や倫理を追究するために生まれたはずなんだ、そうじゃないのか」と言う彼は、おそらく相当の知性と理性を備えた人なんだろうと思う。
そんな彼が、アメリカ兵を撃ち殺したい、と銃を取り出してくる。
アメリカ軍にお百度を踏んでも、破壊された家は補償されない。

ひるがえって、アメリカ軍の若い兵士にカメラが向くと、
「多少の犠牲は仕方ない。わざとじゃないんだ、誤爆なんだ。今回の戦争で、イラクの人たちは、フセインから解放されたじゃないか、よかったじゃないか」とあっけらかんと笑顔を向ける。

フセイン大統領の横暴さについてくりかえし宣伝されていたから、世は勧善懲悪、悪人が駆逐されて、ま、よかったじゃない、という気にならんでもない。…でも、頭痛を訴える人のあたまを鉈でかちわって「頭痛はなくなった、よかったね」みたいな話の気もする。

イザヤ55章は真実か、とヒルティが書いたのは、第一次世界後であり、第二次世界大戦前夜である。
「イザヤ55章の真実」を、今もって、人間は発見できないのだろうか。
nikkouも具体的にはどうしたらいいのか分からないけれど、
今回のイラク戦争は、ベストでもベターでもなかった、とは思う。

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June 12, 2006

筆子・その愛

『眠られぬ夜のために』第二部

「6月11日

『マタイによる福音書』8章22節
「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」

それ自身は良い事でも、はかなくすぎ去ってしまうことがすくなくない。
しかし、それを過ぎ去るままにしておかなくてはならない。
それらはいつも取り戻そうなどとしてはならない。
人生は、たえざる前進であらねばならず、すでにすぎ去ったことの単なる反復であってはならない。
最後の日まで、一日一日がひとつの仕事でなくてはならない。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

11月公開予定の「筆子・その愛」が楽しみである。
石井筆子、明治時代に生き、自分の娘が知的障害者であったことから、日本で最初の知的障害者福祉施設を作ったクリスチャン女性の一代記。
主演は常盤貴子だそうだ。彼女は、どうも、昔の日本女性を演じることが多い気がする。
キャストにアーサーホーランドが名を連ねているのが気になる。何の役なんだろうね。

以前、てじょんさんの教会の映画鑑賞会で知った「斉藤百合」という女性も似たような経歴だった。
斉藤百合も明治の女性。彼女の場合は、自分自身が盲人だったけれど、結婚して子供を育て、かつ社会(隣人)に尽くし、神様に尽くした。
与えられた生の中で、主のみこころを探りつつ歩みつづけた足跡は、
時代は違えども同じように、手本になるように思えた。

ただ、斉藤百合の作った女子盲学校は、あまり成功したとは言えなかったようだ。
筆子の創立した「滝乃川学園」は今も命脈を保っているらしい。

今日のヒルティに言わせれば、
善行だって、はかなく過ぎ去るものだ。
だから、斉藤百合が石井筆子に劣るなどといえようはずもなく。
過ぎ去ったものにすがりつくこと、反復することが大事なのではなくて、
一日一日のあらたな積み重ねが大切、と。

そういえば、nikkouのずうっと年上の先輩に、社内恋愛結婚をして、生まれた子供が自閉症だったというおふたりがいる。
奥さんのほうは、とても優秀な編集者だったのだそうだけど、こどものために会社をやめてしまった。
しかし、その才能を生かして、自閉症者の親の会の中心メンバーになり、会報を作ったり記事を書いたりしているらしい。
ご主人のほうは、定年まで勤め上げたけれど、「最近はかみさんのほうが忙しくて、オレはずうっとお留守番」なんだそうだ。

nikkouも、今の勤務先は、読者としてずっとあこがれていた出版社で、
入社したときは、定年まで勤め上げて、きっと歴史に残るロングセラーを作るんだ!と鼻息を荒くした。
ところが最近になって、先のことは分からない、と思うようになった。
たとえどの場にあっても、なんの仕事であっても、主に、そして社会(隣人)に尽くしぬきたい、とそれだけは意を強くする。

まずは今日の仕事で、精一杯の貢献を。
夜が明けたら、20Kgほどのキャリーバックをひいて、高校へ営業まわりにゆく。
目当ての都立高校に飛び込んで、休憩時間中の先生においすがり、とりすがり、キャリーバックから、7つ道具を取り出して、どんなにわが社の教科書が、この国の行方を憂い、この国の若者を愛し、期待しているかを売り込まねばならない(なーんちゃって)。

自分の仕事に重ねてみると、「一校くらい、営業がうまくいったからって、つけあがるなよ」と言ってるようにも思えるな、今日のヒルティ。

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May 28, 2006

戦場のアリア

『眠られぬ夜のために』第二部

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「5月28日

神は、ときによって、自然の出来事や事物を通してわれわれに話しかけることもある。
これは、神の言葉を理解しない現代人にも、まだしも一番わかりの早い言葉である。
ときには、花を通して語られることもある、花の語る言葉は、とくに愛らしい話し方となる。
しかし、つねにたましいを失っている切花や、温室育ちの花を通して語られることはない。…(以下略)」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

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切花に向かない野花。どくだみとシロツメクサ。どっちも好きです。
上は、教会の庭に咲いていたミニバラ。蜘蛛の巣が架かっていて、
雨粒が乗っているの。
こういうのも、切花にはない美しさですね。
たしかに、「愛らしい話し方」で何か、神の言葉を話しているような気がします。

200605271702000さて、本日は、たまちゃんのブログあやぽさんの記事を読んで、かねてより観たいと思っていた「戦場のアリア」を観てまいりました。
最近、重いものばかり観ているし、ちったぁハートウォーミングなもんでも観るかね、ってな気持ちで行ってきたのですが、どうしてなかなか、これは見ごたえ十分の名画でありました。

「1914年、第一次大戦下。フランス・スコットランド連合軍と、ドイツ軍が連日砲弾を鳴り響かせているフランス北部の村。クリスマスだけは家族のもとへ帰りたいと兵士の誰もが願っていたが、戦況はますます熾烈さを極めていた。 やがて訪れたクリスマスの夜。ドイツ軍には10万本のクリスマス・ツリーが届けられ、スコットランド軍の塹壕からはバグパイプの音色が聞こえてくる。そして、奇跡は起こった--。

これは、大戦下のクリスマス・イブに、互いに敵対する者たちが、クリスマス・キャロルの歌声をきっかけに、戦闘の最前線で歩み寄り、挨拶をし、フランスのシャンパンで乾杯したという信じられない本当の物語。
これが長編2作目となるクリスチャン・カリオン監督は、軍の正式記録には残されていないが、ヨーロッパ各地に今も語り継がれる戦場の奇跡を忠実に映画化した。」(映画公式HPより)

Hp
…されど、安直なヒューマンドラマにあらず。
国家を超えて隣人―文字通り「の塹壕の」―を愛することへの障害、残酷な戦いに傷つき、心を開けない若い兵士、そして、正しく平和を語れない教会…

映画の中で、マタイ10章を引いて戦争を正当化する神父が登場する。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく剣をもたらすために来たのだ」
(マタイによる福音書10章34節)
イエスの言葉である。
この言葉に続く「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。自分の十字架を担って私にしたがわない人は、わたしにふさわしくない」というくだりはなんとなく分からなくはない…というか、まあ、不肖nikkouもその覚悟でクリスチャンをやっておりますですが、しかし、「平和でなく剣を」という言葉はたしかに、過激でありますな。のみならず、こんなふうに、都合よく利用される言葉でありますな。別のところで、イエスは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」 (同・5章9節)とも言うのに。

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しかし、敵味方なく兵士たちと共に十字架のもとに集い、礼拝をささげた神父は、この戦いを正当化する神父(こっちのほうが偉いらしい)に問う。「それは、神の道か」―いや、画面の向こうから、私たちに問いかけているのだ。…もちろん、こんなふうに、時代を隔て、画面の外から客観的に見ることが出来たら、そりゃあ、答えはわかっているけどさ。nikkouはひそかに、心開けぬ若き兵士にも胸えぐられる思いでした。

映画の主人公である兵士たちと、そして、陰の主人公、主イエス・キリストの想いが、現代の世界中の戦場の人々に届くよう、祈ります―最近、映画を観るたびに、なにかしら祈らされますが。

いい映画でした。
まだ上映しております。
ぜひご鑑賞あれ。

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April 08, 2006

ホテル・ルワンダ

『眠られぬ夜のために』第二部

「4月7日

『今わたしの心が騒いでいる。父よ、この時からわたしをお救いください。』(ヨハネによる福音書12章27節)。
これもまた一つの『主の祈り』であって、特に『主の祈り』と呼ばれているもの(マタイによる福音書6章9節~13節)よりも、これと同じような深い悲しみにある時には、一層われわれに役立つことが多い。
(以下略)」

(岩波文庫・草間・大和訳)

Banner_234x60_1映画「ホテル・ルワンダ」を観てきた。
しんどかったわー。

「1994年、アフリカのルワンダで長年続いていた民族間の諍いが大虐殺に発展し、100日で100万もの罪なき人々が惨殺された。アメリカ、ヨーロッパ、そして国連までもが「第三世界の出来事」としてこの悲劇を黙殺する中、ひとりの男性の良心と勇気が、殺されゆく運命にあった1200人の命を救う。

 『アフリカのシンドラー』と呼ばれたこの男性は、ルワンダの高級ホテルに勤めていたポール・ルセサバギナ。

命を狙われていたツチ族の妻をもつ彼の当初の目的は、なんとか家族だけでも救うことだった。しかし、彼を頼りに集まってきた人々、そして親を殺されて孤児になった子供たちを見ているうちにポールの中で何かが変わり、たったひとりで虐殺者たちに立ち向かうことを決意。

行き場所のない人々をホテルにかくまい、ホテルマンとして培った話術と機転だけを頼りに、虐殺者たちを懐柔し、翻弄し、そして時には脅しながら、1200人もの命を守り抜いた。

本作は、家族4人を救うことを心に決めたひとりの父親が、ヒーローへと飛翔する奇蹟の過程を描いた実話である。」(映画公式HPより)

ジェノサイドというと、第二次世界大戦時のユダヤ人虐殺や、広島長崎への原爆投下、諸説あるにしても南京大虐殺、と歴史上の話と思いがちだけれども、これは、わずか10年ほど前の話。
ルワンダから遠く離れた国の人間として、胸にこたえたのは、虐殺を撮影した米国人ジャーナリストの言葉である。

「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける。」

実は、1994年ごろ、nikkouは、ルワンダのことを知っていた。
当時は、某出版社のバイトの学生だったのだけれど、
たまたま、
国連親善大使だった黒柳徹子のルワンダ難民キャンプの報告文を、
ワープロで打っていたのである。
そのときは、原稿を読みながら、「『怖いね』と言うだけでディナーを続ける」どころか、
「黒柳徹子って偽善者だね」なんて言ってたよ。ああ。

ホテルに駆けつけた国連軍は、ルワンダにいた外国人だけバスに乗せて走り去ってしまう。
現地のシスターたちと孤児たちを引き連れて走ってきた外国人神父までもが車に乗り込んだときは、nikkouはあやうく座席から立ち上がって、「お前はなんのためにルワンダに召命されたんだぁ~っ!」と叫ぶところだったよ。ドリフターズの舞台を見に来た小学3年生か。

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しかし、たとえルワンダに残ったとて、何ができよう。
日本にいて、テレビで虐殺の映像を見て、夕食を続ける以外、何ができよう。
大体にして、今現在、イラクで、アフリカで起きているあれこれに、何ができよう。

エンドロールで流れる歌に、字幕がついていた。
どことなくゴスペルを思わせる曲調だと思ったら、はたして、続々と、聖書の引用だった。
「ルワンダを逃げ出した西欧人への皮肉じゃないか」と一緒に見に行った友人は言う。
それもあるかもしれないけれど、一クリスチャンとしては、このときの聖書の言葉は、「鞭」どころか、「剣」だったね。お前は、この聖書の言葉を、机上じゃなく、現実として受け止めたことはあるか、って言われた気分。

歌は続く。
「子供たちは、泣いている」
「ジーザスは、泣いている」
「神様、われわれの叫びは聞こえますか」

きついなあ。
ジーザスは、泣いているよ。
主よ、わたしに、何ができますか。

(歌詞の引用聖句については、上記の友人が丁寧に聖書を引いて、ブログにアップしてくれました。
ブログ「雪よりも白く」 )

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January 29, 2006

「白バラの祈り」―ゾフィーの勇気はどこから

『眠られぬ夜のために』第二部

「1月31日

あなたは、この人生において、よき人間にならなくてはならない。
つねに善き霊の励ましにしたがい、
それ以外のすべてのものをこばむ人間にならなくてはならない。
それ以外のことは、たとえしばしば世の耳目をそばだてようとも、
大事な事ではない。
現在にとっても、未来にとっても、そういうことはほとんど問題にはならない。」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

200601292255000
「白バラの祈り」を観てきた。
圧倒された。
映画の筋や、俳優たちの熱演については、nikkouが書くよりも、すでに的確に表現している人たちがおられるので、関心のある方はご参照のほどを。


~Aufzeichnungen aus dem Reich~ 帝国見聞録

我想一個人映画美的女人blog

それにしても、反ナチスのビラを配っただけで、逮捕され、尋問され、名ばかりの弁護人がついた裁判で裁判官にののしられ、死刑にされる、という一連の動きに、慄然とする。
「白バラ」がしたことは、ビラを配っただけ、それだけである。だれも殺していない、だれも傷つけていない。

この映画に関して、監督がインタビューの中で
「ゾフィーのようなポジティブな女性がなぜ死に向き合うことができたのか。堂々と死に向かって歩んだ強さはどこからきたのか。神を信じる者は死と向き合いやすくなるのか」(『AERA』)と語っていたことは、先だって書いた。
また、各ブログでも、彼女の信仰と行動の関係について、「なぜそこまで?」と問いかける発言を目にした。

nikkouは、主人公ゾフィと同じプロテスタントのキリスト者であるのだけれど、
なぜ彼女はかくも強いのか、信仰がそうしたのか、と問われると、
はっきりと答えられない、というのが正直なところである。
nikkou自身は、そのような状況に接した事がないからである。
信仰とは、死を克服できるのか、良心にかくまで忠実でいることを促すのか。
…nikkouも試してみたい、なーんてことも思わないけどね。怖いよ、正直。

ただ、彼女の言動の背景にあるものは、知っている。
(分かっている、ではなくて。)

zophy
息詰まる審問のなかで、
審問官はゾフィに、
「国はお前の学生という身分を保証している。なにが不満で、反ナチ運動を行うのだ」という問いかける。
ゾフィは「ナチスの行いは自分の良心に反する」と答える。「ユダヤ人や精神障害者の虐殺が正しいとは思わない。」と。
審問官は「人間がそれぞれ良心を主張し始めたら、秩序がなくなる。」「精神障害者は、価値のない命だ」と主張するが、ゾフィは、きっぱりと言うのだ。「命は尊い。」「裁くのは、神だ。」
神だ―、とのせりふと同時に、審問官は、椅子を蹴って立ち上がり、「神などいない!」と怒鳴りつける。

…神などいない。
本当にいなかったら?nikkouの心に、ざわっと恐怖がゆらめいた。
神がいなかったら、ゾフィの存在など、嵐のなかの、木の葉だ。
ちぎれて、飛んで、くだけて、なにも残らない。

しかし、ゾフィは、微動だにせず、きっと審問官をにらみつけるのである。
ああ、信じているのだ、とnikkouは、ぐっとした。
ゾフィは信じているのだ。
主なる神が、すべての命をつかさどっていることを。
そして、現在も未来も、神が見通していることを。

審問を終えて、
審問官が手を洗うシーンが映し出された。
キリストの裁判のとき、裁判の責任を放棄したポンテオ・ピラトが手を洗ったことを彷彿とさせる。

ゾフィが牢獄で祈る、ひとつひとつの祈りもまた、
イエスの、逮捕から処刑の祈りを思い起こさせた。

200601292256000
逮捕された夜、彼女は
「神様、わたしの心をあなたに捧げます。平安を与えてください。」と祈り、
審問のさなかには
「神様、あなたはわたしの救い主です。どうか見捨てないでください。」と祈る。

主イエスは逮捕前に、
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)
と祈った。
死刑を目前に動揺し、しかし決意を固める様子は、主イエスに通じる。

圧巻は、断頭台に向かう直前の、ゾフィの祈りである。

「栄光に輝く神よ、
この地上に種をまいて実り多い土地に変えてください。
神様に目を向けない人々にも願いが届きますように。」

アーメン(そうでありますように)。
映画館の中で、nikkouは、小さく、彼女に和した。

アメリカのブッシュ大統領のイラク戦争以来、
キリスト者への風当たりが強い。
しかし、キリストを、「この人をみよ。」(ヨハネ福音書19章5節)
主は、暴力を持たない。

昨日の、石原兵永の文章から。
「(イエスの戦いは)
暴力 対 暴力の戦いではなく、
暴力 対 神の真理の戦いでありました。
イエスは神の国と神の義をつらぬいて、みずからは暴力をつかわずに、神のみこころに従って、
わが身を暴力のなすがままに全部ゆだねてしまった。
そして、そのことによって、悪の力を無効にし、無力化してしまった。」

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January 25, 2006

「白バラの祈り」を観にいこうと思う

1月23日『眠られぬ夜のために』第二部

「2千年前のパレスティナの文化よりもずっと高度な文化にキリスト教を適合させることができるということ――これを世間に証明してみせることが、われわれの使命である。(以下略)」

(筑摩叢書版・前田敬作訳)

200601250001000
1972年刊行の筑摩叢書版『眠られぬ夜のために』(前田敬作訳)を手に入れた。
もう、古書店でしか買うことができないものだけど、文章は、こっちのほうが平易。
今後は岩波版と併用していこうと思います。

さて、以前、ネットを逍遥していたら、「キリスト教が嫌いだ」という文章に行き当たった。
まあ、実にいろいろと書いてあったけれど、その中に、ちょっと印象深い一節があった。

その人は、どこぞで、あるキリスト教徒が「聖書は、年金問題も解決する」という意味のことを言っているのを耳にしたらしい。
…キリスト教徒というのは、2000年以上も昔に書かれた本で、現代の問題が解決すると本気で思っているのか、つくづく「おめでたい人たちだ」。…うんぬん。

なるほど。

しかし、今のnikkouに言わせると、
キリスト教に限らず、宗教の内包する倫理や思想や哲学や悟性や歴史を何も知らずに、年金問題をはじめとする経済や政治や社会の問題に取り組んで、解決できる、と考えているほうが、よっぽど、「おめでたい」と思うが、いかが。

そりゃ、聖書は魔法の本ではないので、ページを開くと「年金問題についてはこうしなさい」と具体的な指針が書いているわけではない。でも、聖書の伝える、ものの見方考え方を自分で咀嚼していて、信仰でどしっと腹がすわっていて、自分の生きる方向性についても、びしーっと背骨が通っている人と、何の哲学もなく時代に翻弄される人とでは、仕事の仕方が違うと思うが、いかが。

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1月28日から、映画『白バラの祈り―ゾフィー・シェル、最期の日々』が公開される。
「1943年、ヒトラー打倒を呼びかけた地下組織「白バラ」の一員であり、信念を曲げずに自ら死を受け入れたゾフィーの最期の6日間を描いた人間ドラマ」。(『AERA』・1月30日号)
公開されたら、絶対観にいこうと思っている。

先日、書店で彼女の書簡集「白バラの声」(新曜社)を見つけて、ぱらっとめくったら
はっと息を呑む一文が目に入ってきた。

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「祈っていてさえ、神を感じることもできない。…(中略)…でも、これに対抗する手立ては祈りしかないのよ。…(中略)…私は神がイエス・キリストを通して投げ与えてくださった綱にしがみついているしかないわ。私の手は痺れて、もう自分が綱を握っているのかどうかもわからなくなってしまっているけれど。」
(1942年11月18日)
処刑される3ヶ月前に書かれた手紙である。
わたしは、こんな絶望と希望のせめぎあい、ねがわくは、ごめんこうむりたいものだけれど。
でも、人生なにが起るかわからないからね。先輩には学んでおこうと思うよ。

映画の監督は無神論者だそうで、だから、ゾフィーの信仰を描くことに一番苦労したという。
「ゾフィーのようなポジティブな女性がなぜ死に向き合うことができたのか。堂々と死に向かって歩んだ強さはどこからきたのか。神を信じる者は死と向き合いやすくなるのか」(『AERA』・同)

…さあ…。nikkouも、まだ「求める」途上にある人なので、この監督と共に問いかけたい気分だ。

1月24日『眠られぬ夜のために』第二部
「ただしく送られた生涯の最後のモットーは、平和と慈愛というのでなくてはならない。
(中略)
短命におわった非常にすぐれた人たちを例外として、
たいていは、これが成就されるのは、かなり晩年になってからである。」
(筑摩叢書・前田敬作訳)

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