May 31, 2008

「優劣のかなたに」―大村はまさんのこと

全国集会では、のべ50人近い人の証し(体験談)を聞いた。たとえは悪いかもしれないけど、『遠野物語』(柳田國男)みたいだったよ。
市井の人のささやかな生活の中にある、ささやかな奇跡や感動。
まさに珠玉の短編!って話もあれば、とうとう時間内に収めきれずに、すさまじく取り留めのない話になってしまっている方もいた。

プログラムによって時間はさまざまで、一人20分のスピーチの場合もあれば、分科会などで一人3分、ひとことずつ、ということもあった。
時間がくると、小さなベルが「ちーん」となる。
大勢の人が聞いているところで、3分くらいで、上手にお話をするっていうのは、かなりのテクニックがいる。
ときどき鳴る「ちーん」を聞きながら、nikkouはふと、大村はまさんを思い出した。

41ct2tbowdl__ss500_ はまさんはnikkouの勤める教科書編集部の、精神的支柱となっている教育者のひとりだ。
3年前の4月に98歳で亡くなった。
有名な大学の教授とか文筆家とかというわけではなく、生涯、ごく普通の公立中学校の国語の先生だった。

この先生、今から50年前から、中学生に「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」を徹底的に仕込んだ人である。
いま流行りのフィンランドメソッドやらPISA型なんかも真っ青の、実力重視。
はまさんの言葉でいえば「聞きひたり」「話ひたり」「読みひたり」「書きひたる」国語教育。

はまさんが「時間内に、わかりやすく話をする訓練」に使ったのが、まさに「ちーん」となるベルだった。

はまさんの授業は、たとえばこんな感じ。(教室をいきいきと1』より要約)
はまさんはよく、グループ学習をした。学習の目的によって、グループのメンバーがかわり、そのつど、席替えをした。
そのために、席順表を配る。
そして、ひとつ、注意をする。
「おれの席はどこだぁ?」とか「○○ちゃん、こっち、こっちよぉ」とか、やらないこと。
「どこだあ」と聞かなくても、席順表を見ればわかります。
また「○○ちゃん、こっち、こっちよぉ」というのは、相手がわからないとでも思っているみたいで、大人の場合、失礼です。
これは、単に、授業中は静かにしなさい、というしつけではなく、その後、授業で展開していく「話し合い」(今で言うディスカッション)のための下準備だそうだ。
仲良しのだれだれちゃんと同じ意見、とか、
みんながそう言うならそうだと思います、
というくせをつけない。
相手を一人の大人として尊敬し、また自分の意見を堂々と発表する下準備、というわけ。
もちろん、これは下準備で、これ以外にも、「相手を尊敬し、自分も堂々とする」ための工夫がてんこもりにある。
はまさんの一番のモットーは「明るく生き生きした教室」だった。
そして、そのために重視したのが「優劣のかなた」だった。
中学の国語の授業では、生徒が優越感や劣等感を抱くことがあってはならない。
そうではなく、ひとりひとりにあたえられた能力の中で、ただ「聞きひたり」「話しひたり」「書きひたり」「読みひたる」。そういう態度を身につけさせる。

はまさんは「学力」観は、目の前の受験だけでなく、人生全体を見通したものだった。
たとえば、将来、夕食の買い物がてら、スーパーの袋を下げて本屋さんに寄れる奥さんになること、会社の会議で「話し合い」の上手な人になること、育児のふとしたことを書きとめたり、つらい気持ちを、書くことで整理したりできること…、そんな、豊かな言語活動を身につけた「大人」になることだった。

2005年4月、はまさんが亡くなった時、「大村はま先生のお葬式は、○○教会にて。」と聞いて nikkouは、思わず、イスがひっくり返りそうな勢いで飛び上がってしまうところだった。
そうか、はまさん、クリスチャンであったか!
うかつにも、はまさんの講演会で肉声を聞き、著書も読んだのに、まったく気付かなかった。
しかし、たしかに、「優劣のかなた」とは、聖書的だ。ひとりひとり、体の器官のように役割があって、目が耳に、「あんた、耳のくせに」なんて言わない。それぞれが最大限の役割を発揮せよ、とね。
はまさんは敬虔ぶって、聖書を引用したり、清らかなことを言うタイプの人ではなかった。
主イエスの「神の国と神の義をまず求めよ」というみことばを、自分の持ち場でどのように実践するか、真剣に考えて、命がけで実践した人だった。
口先でなく、生き方そのものから、キリストの香りが香る人、押し付けがましくなく、仕事のなかで、ただ黙々と聖書を実践すると、こうなるんだ、という人。人間だから罪も犯すけれど、方向性においてはきっと、間違っていない、という人。
そういうクリスチャンに、nikkouもなりたい。

3分以内で証しが収まりきらなかった、という方、
ぜひ大村はまさんの著作をどうぞ。

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March 05, 2008

イエスの容貌

Acchrist_3 先日、高校国語の参考書をぱらぱらめくっていたら、本文の「キリスト」に注がついていて、脚注に「キリスト」の写真、もとい、絵の写真が載っていた。トルコ・アヤソフィア寺院蔵。

nikkouの脳裏に、アノ「源頼朝」やアノ「聖徳太子」が焼きついているように、高校生の脳裏にはこの「キリスト」が焼き付いちゃったりしそうです。

↓nikkouが初めて「イエス・キリスト」を知った本。
情操教育のためか、5歳のとき、父が買ってくれた。

212ek4pchhl_aa140_ 『わたしたちのイエスさま』
シルベリオ・ピス (著)、三浦 綾子 (翻訳)。

記憶のなかでは、おもいっきりアングロサクソン・イエスがシャンプーのCMみたいに、長~いサラサラの金髪を風になびかせながら、種をまいたり、船に乗ったりしていたような気がします。

幼いころの刷り込みというのは恐ろしいもので、nikkouは長い間、イエスは金髪のヨーロッパ人だと思っていました。

実際はユダヤ人なので、たぶん黒髪、黒眼。肌は浅黒く、彫りは深いほうだろうと思われます。ただ、聖書に彼の容姿に関する記事はない。容貌をたたえる記事すらないので、外見はごく普通の人だったのかもしれない。
上記の本、絵のタッチもすごくリアルで、
サタンなんか、オイルをテラッテラに塗ったボディビルの選手みたいでした。

のなんとも西洋的な空気が5歳児には新鮮で、
何度も眺めたものでありますが、
小学校に上がるや否や興味を失い、
絵本もどこかへ。
そして長い間絶版だったのですが、
アマゾンの古本に出ていることに気づきました。
買おうかなあ、買うまいかなあ。
でも、実際に見たら笑っちゃいそうだなあ。
記憶の中に活かしておくのが一番かなあ。

(ちなみに、ほぼ隔週くらいに我が家にやってくる、某キリスト教三大異端の一派の人たちがくださる機関紙の絵のタッチが、なんだかこの絵本と似ていて、機関紙を見るたびに、そこはかとなく、なつかしい。さらに余談だけど、彼らがくるたびに、nikkouが岩波聖書とか注のついた新共同訳聖書とかと彼らの聖書をつきあわせるせいか、最近、彼らはまったく聖書をひらかず、機関紙をわたすと、後ずさりしながら去っていってしまう。nikkou、いぢめてる?)

Dscn0686ちなみに、アメリカはNY,ハーレムの黒人教会の廊下に貼ってあったイエス像。

黒人さんです。

映画「パッション」は、まあ名画だとは思いますが、ジム・カヴィーゼル演じるイエスは、ちょっとアメリカーンな気がしました。

51vzcrcjk2l__aa240_ 写真集「ジーザス」(いのちのことば社)でブルース・マルチアーノが演じたイエスは、くちゃっと笑う感じが庶民的で気さくなあんちゃん風でいいです。

nikkou自身、讃美や祈りで「イエスさま」と呼びかけるとき、どんな容貌を思い描くかというと、・・・まったく浮かばないんですね、これが。

存在感みたいなものだけ。

あえて像を結ぼうとすると、やっぱりどことなく東洋人的になるんじゃないかという気がします。

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February 07, 2008

イーユン・リー『千年の祈り』

またまた本の話。41esfp46lbl__ss500_ イーユン・リー『千年の祈り』(篠森ゆりこ訳)

表紙からなんとなく韓国の話だと思いこんでいたので、読み始めるなり中国を舞台にした短編集だと気づいたときは、ちょっと面食らった。

でも、とても面白かった。

中国の作品で記憶にあるのは、莫言の『豊乳肥臀』と、彭見明『山の郵便配達』、あとはユン・チアン『ワイルド・スワン』くらいだけど、今回の『千年の祈り』も含めて、いずれも、同じ感覚を起こさせる。

なんていうか、善悪の基準とか、正義とか、人類の進歩とか、

そういうものが、一切、信じられなくなる、という感じ。

四千年の歴史の凄みですかねー。

読みはじめるなり、いちいち途方もないような、馬鹿馬鹿しいような気がして、

最初、なんともいえない嫌悪感が湧くんだけれど、

だんだん、SFを読んでいるようなワクワク感に支配されはじめ、

最後はしみじみと、人間ってわけのわからない存在だなあ、と思わされる。

やはり中国を舞台にした小説に、アメリカ人宣教師の娘パールバックの『大地』があって、これもとても面白いんだけど、イー・ユン・リーや莫言、彭見明に感じる途方もなさみたいなのはなく、どことなくすんなり収まっていた。

中国に少なくとも4代は生きて、王朝、戦争、内戦、文化大革命、毛沢東の失脚、天安門事件…等を“家族”の歴史、「私たち」の歴史として、内側から知っている人たちの物の見方には、世界中、だれもかなわない、という気がする。

51uroeoebl__aa240_ 『千年の祈り』の一篇、「息子」には中国のクリスチャンがちらっと出てくる。…んだけど、キリスト教すら、中国には、どんぶりこっと飲み込まれるような感じがします。というか、互いにがっぷり飲みこみあっているというか。クリスチャンのくせしてnikkou、そこになにか痛快なものを感じました。

訳者あとがきによると作者のイーユン・リーは、この作品を英語で書いたそうな。

中国語で書こうとすると、なぜか自己規制してしまう、という。

そんなひと言にも、「ああ、これは内側の人が書いた物語なんだ」と思った。

(2008.2.7)

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January 08, 2008

ベルセポリス

Photo 今、渋谷で「ベルセポリス」という映画が公開中。

すごい、観たい。

原作はマルジャン・サトラピ『べルセポリス』。

ほかに『刺繍』という本も翻訳されていて、昨年、イランにはまった勢いで読んだ。
イラン出身パリ在住のサトラピはグラフィックデザイナーで、
この本たちも、日本で言うところのまんが形式です。

彼女の著書には両方とも、サトラピのおばあちゃんが出てくるんですが、
この人が、もう、すんばらしいんであります。
聡明で、勇気があって、若々しくて、おしゃれで、セクシーで、経験豊富で、現代的。
はねっかえりの孫娘に理解を示しつつ、言うべきことはきっちり言う。

「恨みや復讐ほど最悪なことはない。いつも毅然として、自分に公明正大でいるんだよ」

というのが、おばあちゃんの忠告で、そしておばあちゃんの生き方そのものである。

息詰まるような社会で、人々がどのように感じ、どのように生きているか、ユーモアとペーソスたっぷりに語られている。

じつは、nikkouの書棚には大量のイスラーム関係書が眠っている。
昨年、讃美仲間の1人が「シオニスト=クリスチャン」であることを知って、あわてて買い集めたのだ。

「シオニスト=クリスチャン」ってのがどういう人たちをいうのか、わたしもよく知らないのだけど、
この友人の場合、まず、パレスチナにユダヤ人が入植したことは、神の意志である、と信じている。そして、全世界にちらばっているユダヤ人を説得して、パレスチナに入植させている(この友人は、翻訳作業を通してその手伝いをしている、という)。その結果、それまで某国で医者をしていたユダヤ人が、パレスチナでは食うや食わずになったりするという。
「えー、それって、かなり不自然な話なんじゃないの。中東の石油をねらっているアメリカの思惑にのせられてるだけなんじゃないの~」と
思わず口走ると、
「それはどこで聞いた話?」という。
「テレビ。」
「日本のマスコミは偏ってるんだよ」

…さようですか。
まあ、たしかに、あたしは、パレスチナはおろか、イスラームについてもユダヤについても、まったくの無知ですわ。
で、パレスチナ関連書と、それに類するイスラーム関係書を買い集めたってわけ。
ただ、まあ、そのうちね、と思って積読していたのです。

小説をきっかけに、一気にイスラーム革命を経験したイランへ導かれたわけですが、
なんだか、ミャンマーについて読みふけったときと、まったく同じ事態が発生中。
ヤスミナ・カドラやアーザル ナフィーシーが描く抑圧的なイランもイランなら、サトラピが描く聡明でセクシーなおばあちゃんもイランである。
革命や戦争はどの本にも描かれているけれど、とらえ方はそれぞれ微妙に違う。
怒りだったり、共感だったり、あきらめだったり、無視だったり…。
そして、イランという国がどんどん輪郭を失っていくと同時に、
イランの人々がどんどん身近になっていくのを感じる。

でもこれはちょっと、おもしろい感触でもある。
イランからパレスチナにむかって、このまま突き進もうか、思案中。
でもなんか、抜けられない深いもんが待ってそうで怖い。

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November 19, 2007

小説について

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『サフラン・キッチン』『カブールの燕』に触発されて、『テヘランでロリータを読む』を読んだ。
今度は、ノンフィクション。
イランではホメイニーによるイスラーム革命以後、人々の生活が大きく抑圧されるようになるのだけれど、そのあおりで大学の職を追われた英文学の先生が、自宅でこっそり女学生たちとともに英文学を読んだ記録である。

なかほどまで読んだところで、あれ、どこかで読んだ状況と似ているぞ、と思う。
…あ、あれだ、『ワイルド・スワン』。中国の文化大革命を描いたノンフィクション。
ホメイニーのイスラーム革命は1970年代、中国の文化大革命は1960年代で、ちょっと遅れるけれど、まねしたのか?

しかし、イランにせよ中国にせよ、かつて世界的な文明を誇った国が独裁化するにあたって、そうした過去を否定するかのように、暴力的に文学や芸術を抹消しようとするのはなぜなんだろう。

イランはイスラーム国家だけど、
不肖キリスト教徒のnikkouだって、「聖書以外の書物、特に文学を読むことを禁ず」なんて法律の国なんかにいたら、速攻、亡命する。
…と、言ったら、相方が、自分は文学を読まなくてもなんの痛痒も感じない、てなことをほざいた(←nikkouまだちょっと怒っている)。
そういえば婚約中にも、
某作家について「同時代人であることを幸せに思う」とnikkouが熱く語ったら、「小説など読むなんて、時間の浪費だ」というようなことを相方が言い放って、大喧嘩になった。
あの喧嘩をもう一度かと身構えたところ、
「まあ、nikkouさんの文学観と、俺の文学観はどうも違うようだから、話し合いにならないよ」と逃げられた。

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今、nikkouは教科書編集部にいて、教科書編集の時期になると、高校生に読んでほしい小説とはなにか、ということを会議で議論し、たくさんの小説を読む。
そんなこんなで発掘した小説の新教材を携え、学校に営業に回ると、
面白いことに男子校の100%で言われる。「うちは男の子だから、小説がわかんないんだよね」。
で、女子校の100%で言われる。「うちは女の子だから、小説ばかり読むんですよ。」
…小説の好き嫌いに男女差があるものなのか?
イスラーム社会では男性に圧倒的な支配権があるらしいけど、女性を抑圧するのと同じ理屈で小説を排斥するのか?

あるベテランの国語の先生がnikkouに言うには、文学の好き嫌いなんてのは、後天的なものだそうだ。
文学を楽しむ家庭環境にいなかったか、最低最悪の国語教師に文学の世界の喜びを奪われたか、どっちか。
たしかに、小説家も詩人も文芸書編集者も男女とも同率くらい(?)いるように思える。
身近なところでは、nikkouの父は文学が好きで、どっさり積もった本で家はいつも薄暗く、床はぬけそうだった。
そんな環境で育った娘たちは、外出時、化粧ポーチは忘れても文庫本は忘れない人間に育ったので、やはり後天的なものかもしれない。
(相方のほうは図鑑や科学読み物ばかり与えられて育ったんだそうだ。)

男は生まれつき文学がわからない、というものではないのだ。
当然イランにだって、文学好きの男もいる。
そして、文学を好きになると、他者を抑圧することは不可能になる。
なぜなら、よい文学は、いやおうなしに、自分とは全く違う他者の痛み、他者の悲しみ、他者の喜びを、まるで自分のもののように体験させる力を持つものだから。
だから、文学に惹かれた男たちが、葛藤し、反発し、あるいは現実との戦いに敗れ虚しく引きこもっていく様子も、確かにこの本には描かれている。

そして、女たちは、
学ぶこと、働くこと、人を愛すること、人前で笑うさえことも禁じられた女たちは、それこそ必死に、命がけで文学を読む。
その喜びは、あまりにも鋭く、あまりにも深く、
わが身に引き比べて、なんだか恥ずかしくなる。
岡真理さんのいう、イスラームの女性は哀れで愚かな存在なんかじゃない、というのは本当だ、ということがよく分かる。
彼女たちは、いつか、内側から、社会を変えるかもしれない。
だから、今わたしにできることは、彼女らに同情すること、優越感にひたることじゃないんだな。
どうすりゃいいのかわからないけど、たとえばただ、じっとその彼女たちの状況を心におぼえておくことも大事かなと思う。

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November 05, 2007

イスラーム世界の恋

彼らがしつこくたずね続けていると、彼(イエス)は身を起こして、彼らに言った。
「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネによる福音書8章7節)

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アラブ文学の研究者で、第三世界フェミニズムの論者でもある、岡真理さんという学者さんが、『彼女の「正しい」名前とはなにか』(青土社)という本のなかで、
イスラームの女性に対して、
「あなたたちは古い因習に抑圧された気の毒な方たちだ」
という言い方をしたり、
彼女たちをその抑圧から解放するように求めるキャンペーンを叫んだりすることは、
誇り高き彼女らを、傷つけることなのだ、という意味のことを書いている。
もしその世界の価値観が打ち破られるとするなら、
彼女たちの意思で、また彼女たちの力でなされるべきであって、
「第三世界」からの搾取から成り立っている「先進国」の人間たちが、自省することなく強制的に変化を要求するなんてのは、
逆に彼女たちを貶めることだ、と。

それを読んだときは、なるほどなあ、気をつけなければなあ、と
素直に思ったのに、
ここんところ、立て続けにイスラーム圏の作家の小説を読んで、
激しく揺さぶられている。

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ヤスミン・クラウザー『サフラン・キッチン』(新潮社クレストブックス)。
綺麗な表紙に惹かれて買ったのに、
なかなかショッキングな内容だった。
作家は、母親がイラン出身のイギリス人である。

ヤスミナ・カドラ『カブールの燕たち』も読んだ。
タリバン政権のもと、混乱のカブールでの、二組の夫婦の衝撃的な生き方が描かれる。
この作者はアルジュリアの軍人だった人で、現在フランスに亡命。

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いずれも、人々―とくに女性に
対して、あまりにも苛酷な状況に思えてならない。
前近代的、非人道的、抑圧的、理不尽で、野蛮で、暴力と差別に支配された、暗く貧しい世界…
そうとしか言いあらわしようがないのではないか、と
思わずこぶしを握りしめてしまうような、そんな世界。
日本も「格差社会」になりつつある、なんていうけれど、
ここに描かれているのは、本当の「格差社会」、
生まれた家や性別や環境によって、与えられるチャンスも、生きていく道のりも、あらかじめ厳然と定められている社会。
裁くな、という言葉を反芻して、
岡真理さんの忠告に従おう、と思いつつ、ただ、胸はちくちくと痛む。
もう、ほんと正直言って、「イスラームに生まれなくってよかったなあ」と思っちゃうもんね。

で、ありながら、
『サフラン・キッチン』の主人公、マリアムは、ロンドンでは見つけられなかった深い愛を、イランの大地で取り戻し、
『カブールの燕』では、ひとつの恋に激しい祝福が、命がけの祝福が、与えられる。
自由に恋をし、自由におしゃれをし、教育でも職業でも、チャンスは与えられるべきものとしてある社会では、きっと得られない、激しい恋と激しい祝福。そして、抑圧を跳ね返す、愛への渇望。
激しすぎて、呆然とする。

『サフラン・キッチン』なんて、会社の昼休みに読み終えちゃったもんだから、午後はしばらく仕事にもならずに、ぼーっとしてしまった。

『カブールの燕』では、石打ちの刑のシーンがある。
聖書にも出てくるんだよね、石打ち。まさに姦淫の現場を押さえつけられた女に対して行われようとする。現代でも、親の決めた結婚相手以外の男に恋をしてしまったイスラームの女性は、姦淫の罪を犯したとして、殺されてしまうらしい。
ああ、そうだとすると、この聖書の「姦淫」の女というのは、
たとえば30歳くらい年上の夫に、強制的に嫁がされて暴力と差別を受けていた中で、本当の恋を見つけてしまった人だったりして。―小説の読みすぎかな?
イエスはこの時、「罪のないものから石を投げよ」と言い放って、人々をたじろがせてしまうのだけど。

聖書の中の、古代の言い回しでさっくり書かれている石打ちの刑とちがって、
現代小説において、現代を舞台に描かれる石打ちの刑というのは、けっこう壮絶で、
nikkouの想像の棒高跳びバーなんか、楽々はるか天空へ飛び越えちゃう感じだった。

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December 17, 2006

バビロンの流れのほとりにて

『眠られぬ夜のために』第二部

「12月13日
『詩篇』第90篇、第116篇および第118篇は、数千年後の今日でも、人生のいくたの辛酸に鍛えられた人物がつい昨日その備忘録に書き付けたかとおもわれるほど新鮮で、いきいきと真実感にあふれた、三つの太古の歌である。『詩篇』第37篇(とくに第25節を見よ)、第109篇および第110編は、さらにその補足となるものである。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

詩篇116編は、nikkouも感動したよ。この詩は「わたしは主を愛する。」で始まる。「主に仕えよ」とか、「主のいましめを守れ」とかいうフレーズの多い旧約聖書で、こんなに気持ちのいい信仰告白はないかも、と思ったくらい。
詩篇には、ゴスペルの歌詞になっているフレーズがたくさん出てきて、読んでいるとつい口ずさんでしまう。ゴスペルに採られているのはやはり、軽快な調子の詩が多い。
でも、そういうのばっかりじゃないんだな、詩篇って。それこそ寛容の精神のかけらもないようなおどろおどろしい呪いとうらみに満ちた歌とか、絶望の淵から呼び求める、みたいなものもある。ヒルティが挙げている109篇「わたしの讃美する神よ、どうか黙していないでください」とか、有名な137篇「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」とかがそうだ。nikkouもそういうの、嫌いじゃない。人間臭くって。『聖書』っていうものが、清らかな道徳書なんかじゃなく、長い年月、人間が積み重ねてきた実感を詰めた本なんだ、ということを深く感じられる気がする。

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詩篇137篇で、ふと思い立って、森有正「バビロンの流れのほとりにて」を読み始める。前半はヨーロッパの教会や美術館で観た絵画について、見事な描写が続く。筆のタッチや色使いはもちろん、飾られた部屋の空気とか光の当たり具合まで目に浮かぶようで、これはもう、実物の絵は見ないほうが、かえっていいんじゃないか、って気がするくらい。特に宗教画の描写がすばらしくて、その部分だけ繰り返し繰り返し読んでしまう。

森有正の最晩年の恋人は、栃折久美子さんという筑摩書房の元編集者だった。栃折さんは退社して装丁家として独り立ちし、同時に森有正の私設秘書のような立場になって、こまごまと身のまわりの世話をしたらしい。その辺のことは、栃折さんの『森有正先生のこと』という回想録に詳しい。
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二人の関係について、森有正のこんな言葉が残されている。

「お仕事のこと、これを私はまず第一に考えます。私どもはそれぞれ主体的には第一人称の人間、したがってお互いには第三人称(二人称ではありません)の人間でなくてはなりません。だから、お互いの関係は信頼ではなく、信仰なのです。」

栃折さんを、大事な仕事をするひとりの人間として認め、自分自身も、きちんと責任を果たしたいといったところ。森有正の文章を読むと、クリスチャンなのかそうじゃないのか、いつも微妙な感じだけれど、大切な人との間では、ちゃんと「第三人称」になる。つまり、「この世にあなたと私、ふたりっきり」じゃなくって、主という第三者の前で「彼、彼女」という対等な存在であることを意識していた感じがする。
こういうのが大人の男女の関係なんでしょうかね。

栃折さんはやがて森有正に励まされたその仕事が軌道にのり、そのまま、のめりこんでいくうちに、森有正と疎遠になっていく。
そんな栃折さんの様子を、深く深く理解しながら励ます、森有正の手紙は良かった。『森有正先生のこと』は、時々、ぽんっと投げ出すように森有正のことばが記録されてあって、行間をあれこれ読まなきゃいけない。それがなんだか、ひとりよがりな感じがして、正直ちょっと、いらっとするんだけど、でも、その「いらっ」てのをすべて忘れてしまうほどいい手紙だった。

「時の流れは実に早く、しかも我々は時の中をうしろ向きにしか進めないのです。… わたしもあとずさりをしながら進んで行きます。時々横目であなたをみます。もしうしろに崖があったら、横からは見えますからすぐ教えてあげます。」

こんな手紙を送ってすぐ、森有正はなくなってしまう。
そして栃折さんは、森有正と結婚しなくて良かった、結婚していたら、森有正になにもかも捧げつくしてしまって、今の仕事はなかった、と振り返る。いさぎよい。
うしろ向きに進みながら、見えているものが、最終的に納得のいくものだったら、本当にいいよね。
仕事でも、恋愛でも。

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October 09, 2006

ミャンマーの「真理」

『眠られぬ夜のために』第二部

「10月8日

われわれは、人間や世界について多くのことをまなび
知れば知るほど、
キリストの人間知の偉大さにおどろき、
また、この人間知のかわりにべつな世界観を立てようとする人たちの愚かさに
おどろかざるをえない。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

みなさま、ごぶさたしておりました。
帰宅してからも、本ばかり読んでおりました。
なにを読んでいたか、というと、じゃーん、ミャンマー(ビルマ)関係書です。
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左上から
*『ミャンマーの柳生一族』
 高柳秀行・集英社文庫・2006年3月25日
 (初出「小説すばる」2004年8月~2005年10月)
*『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』
 田辺寿夫・根本敬・角川Oneテーマ21・2003年5月10日
*『ミャンマーという国への旅』
 エマ・ラーキン・大石健太郎訳・晶文社・2005年8月30日
 (著者がミャンマーを訪れたのは1995年)
*『マヌサーリー』
 ミンテインカ・高橋ゆり訳・てらいんく・2004年8月10日
 (原著の初版は1976年)
*『自由―自ら綴った祖国愛の記録』
 アウンサンスーチー著・マイケル・アリス(アウンサンスーチーの夫)編
 ヤンソン由実子訳・集英社・1991年12月20日
*『変わりゆくのはこの世のことわり マウン・ルーエイ物語』
 テイッパン・マウン・ワ著・高橋ゆり訳
 てらいんく・2001年3月20日
 (原著は1930年~1941年に発表)
*『ミャンマーの実像―日本大使が見た親日国』
 山口洋一・勁草書房・1999年8月30日
(著者がミャンマーに滞在したのは1995年)
*『希望の声』
 アウンサンスーチー著・大石幹夫訳・岩波書店・2000年7月26日

で、ミャンマー(ビルマ)についてなにか分かったか、と申しますと、
読めば読むほど、分からなくなる!というのが正直な感想です。
旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』を思い出しました。

「知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す」

(1章18節)

最初の2冊めを読み終わったときは、「もー、ミャンマーのことはなんでも分かった!」と思いました。
「軍事政権」という言葉のおどろおどろしさと裏腹に、東南アジア特有のなんくるないさー感がたゆたう、微温的な国。
でも、子どもの駄々のような軍部のてきとーさによる経済破綻と人権侵害に国民はうんざりしていて、
そんな中で、東洋の精神性と西洋の知性が融合した才女アウンサンスーチーが民主化運動を進めている国。
その軍部は日本が戦時中にイギリスからの独立をけしかけてこさえたそうな…。

ところが、3冊め『ミャンマーという国への旅』にきて、ふと、不安になりました。
この本が描くのは、軍部による文化人への激しい迫害や、教育の崩壊、そして恐怖。先の2冊は、表面的な理解だったのだろうか。それともこの本が極端なのか。
さらに4冊目『マヌサーリー』を読んで、途方にくれました。
ミャンマーで最も人気のある小説だそうですが、nikkou、この小説の面白さが、さーっぱり分からなかったのであります。

アウンサンスーチーの『自由』に描かれていたのは「発展途上国、最貧国ビルマ」ではなく、王朝文化と仏教の倫理観に培われた豊かな国であり、今は、アメリカ型資本主義でも、もちろん高圧的な軍事政権ではない、最善を求めて歩み続ける一つの国でありました。

今、『変わりゆくのはこの世のことわり』を読んでいるところ。70年前の小説ですが、これはちょっと面白い。
次に『ミャンマーの実像』を読もうと思っている。
『ミャンマーという国への旅』と同時期のミャンマーに滞在した日本大使の記録です。
ぱらっとめくったところ、「ミャンマーに人権侵害はない、軍事政権はたいへんよろしくやっている、アウンサンスーチーにだまされてはいけない」的な主張のようであります。今まで読んできた本と真逆の主張のようです。
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以上、どの本も、それぞれミャンマーの一面なのでしょうが、読めば読むほど、全体は分からなくなる。
だいたいにして、日本人の私たちだって、日本の現状と日本の将来のことなんかそう的確に分かっているわけじゃないです。ましてや、外国の現状と将来なんて、わかるはずがない。

「コヘレトの言葉」とか「ヨブ記」なんかでは、よく、「人間には、なーんも分からないのさ」ということが主張されている。限られた期間、限られた場所、限られた人しか、知らないのに、知ったようなことなど、言えるだろうか。

イエスの言葉、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31節32節)も思い出されました。

「真理」というのは、つまり、「人間には、なーんも分からないのさ、知っているのは『永遠の主なる神』だけなのさ」ということなのかしら、と思います。
「ああ、わたし、なーんも分からんわ」と思うと、確かに、偏見や傲慢さからは「自由」になれますな。

では、nikkouには何が出来るのか。
主イエスの言葉にとどまるならば、やはり「あなたの隣人を愛せ」だろうと思う。
ユーミンちゃんがどんな立場であろうと、どんな考えだろうと、nikkouはユーミンちゃんの「best friend」だ。(←ユーミンちゃんが、そう言ってくれた)。ミャンマーはユーミンちゃんの国で、nikkouには、何も口出しできない。
ただ、日本にいる間、日本のいいところも、もちろん悪いところも、できるかぎり案内してあげようと思う。
そして、ユーミンちゃんのミャンマーでの活躍に、少しでも役立てればいいと思う。

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September 25, 2006

ろうあ教会で讃美

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月24日

あなたが心軽やかな生活を望むなら、マタイによる福音書6章33節~34節に従って生活しなければならない。

マタイによる福音書6章33節~34節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

今日はろうあ教会で手話讃美の発表会。
ろうあ教会の礼拝から参加したのですが、とても興味深かった。
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讃美歌は、太鼓で礼拝堂を振動させてみんなを一致させる。
聖歌隊(聖手話隊?)もちゃんといる。
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メッセージは健聴者の牧師さんだったので、手話通訳がついていました。おかげで、手話の勉強になった。
礼拝後、「風の音」で讃美を披露したのですが、「とてもきれい」「合格」とお褒めいただきました。ほんとは緊張して、あちこちぶっとんじゃったんだけどね。また頑張って練習します。

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さて、ろうあ教会の方の中に、中国からいらいしたMさんという女性がおられました。
日本の手話もぺらぺら(?)なので、日本人ろうあ者とのコミュニケーションには不都合はないとのこと。
実はnikkou、たった今、ユン・チアン著『ワイルド・スワン』を読んでいたところ。
『ワイルド・スワン』とは、抗日戦争、共産党と国民党の内乱、そして文化大革命を経験したユン・チアンの祖母、母、自分と三世代の回顧録であります。
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ちょうど文庫の下巻が手元にあったので、取り出して見せたところ、Mさん、「はっ」と息をのみました。そして、「この著者のおかあさんと私のおかあさんは親友だった」とおっしゃるのです。
「ひぇっ」と、今度はnikkouが息をのみました。
文庫の口絵には写真が載っているのですが、その写真を指差しながら、「ユン・チアンの弟と、自分の兄は同級生だった」とも。
ということは、おそらくMさんの両親は共産党の高官だったのでしょうね。
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さらに、「ユン・チアンの両親は文化大革命の受難を生き延びたけれども、自分の両親は処刑された。親族はみんなアメリカに逃げてしまった。自分は4人兄弟だったのだけれど、全員他人に預けられて育った。文化大革命以後、兄弟とも親戚とも、会っていない」と、しゅぱしゅぱ、っと手話で語りました。そして、ばっとMさんの目に涙がにじんだので、「あ、やばい、泣かせちゃった」と思ったのですが、Mさん、ふっと横をむいて、向き直ったときにはもう、涙はありませんでした。勝気な人なんだなあ、と思いました。

『ワイルド・スワン』に描かれた戦後50年の中国は、よく言えばダイナミック、正直に言えば凶暴な印象。あまりにも話がでかいので、下巻にさしかかったときには、もはや「ジャックと豆の木」でも読んでいるみたいな非現実感を抱いておりました。そこへ現れたMさんは、まるで小説の中の登場人物が3次元になって出てきたように見えて、nikkou、思わず、ぼーっとしてしまいました。
文化大革命の時代、中国のクリスチャンの人たちはどんなだったんだろう。Mさんに重ねて聞いてみたいような気もしたけれど、なんだかためらってしまった。

「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」
帰り道、急に生ナマしく見えてきた『ワイルド・スワン』の残りを一気に読み終えて、この人たちにとって、「十分」どころか、「二十分」だったんじゃないか、こりゃ、と思った。

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September 05, 2006

キリスト教式結婚式

『眠られぬ夜のために』第二部

「ほんとうによい結婚とは一体いかなるものであるかは、主として、次のことで知ることができよう。すなわち、来世の新しい生活を考える場合に、先立った妻とそこでまた出会うのがただ自明のように感じられるばかりでなく、ぜひとも必要なことだと感じられる、ということである。もし妻とめぐりあいができないとすれば、自分の精神的自我の一部がかけているという苦痛を覚えるであろう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティがこの本を書いたときは、妻に先立たれているから、すごく個人的な妻への愛の告白みたいに聞こえる。
幸せな夫婦だな、と思いますね。
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結婚といえば、先日斉藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)読了。面白かった。
本書の中で、「結婚とあまり関係ない方も、一度はリクルート社の『ゼクシー』という結婚情報誌を覗いてみるといい、きっと驚く。」とあったので、買ってみました『ゼクシー』。
確かに、驚いた。厚さ1348ページ(!)、まるで電話帳の厚さでわずか500円のこの雑誌に、十字架十字架十字架礼拝堂礼拝堂礼拝堂。
めくれどめくれど、まさに教会のタウンページであります。
もちろん、最近のホテルにはチャペルが備え付けられているということぐらいはnikkouも知っていたけど、
「結婚式用の教会」つまり、日曜礼拝には使わない、ただ、結婚式のためにだけに作られた「教会」建築というものが、こんなにもあるとは知らなかった。(下はウチの教会。その下は、「結婚式用の教会」)
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nikkouが主イエスと出会ったゴスペルクワイアー「オアシス」は、8割がノンクリスチャン、というクワイアーでした。
あるときメンバーのひとりが、ある結婚式用のチャペルにて結婚式を挙げることとなり、披露宴ではわれわれ仲間が、お祝いにゴスペルを讃美しにいくこととなりました。
そこで彼女が選んだのは、「I tried Him for myself」(意訳すると「私自身のために、イエスキリストを信じてみることにした」といったところか?)という、深い信仰を歌ったゴスペル。
いよいよ式がせまってきたある日彼女がこんなことを言った。

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…「I tried Him for myself」を選んだのは、チャペルで結婚式をあげることになってあらためてこの歌の意味が胸にせまってきたから。もし、ゴスペルを知らずに、このチャペルで結婚式を挙げていたら、十字架もただの飾りにしか見えていなかっただろう。十字架を前に、結婚を誓うことの重みを、かみ締めている・・・。

nikkouは、別に、クリスチャンでもないのに十字架の前で結婚式をするなんておかしい、なんて言わない。主イエスはだれにでも愛を注ぐ方だ。
ただ、結婚式のとき、たとえ結婚式専用の十字架であってもその前に立つ予定があるのであれば、せめて、新約聖書一冊買って、福音書だけでも、めいめいが読むといいのに、と思う。もし面倒なら、阿刀田高さんの「新約聖書を知っていますか」でも、三浦綾子さんの「新約聖書入門」でもいい。結婚式場も、聖書を新郎新婦にプレゼントするとか、結婚式をしない日曜(仏滅とか)にはゴスペルコンサートをもちます、くらいのキリスト教へのリスペクトがあってもいいように思う。
「十字架は飾りじゃない」と分かるだけで、キリスト教式結婚式がより感動的になると思うのだけど、余計なお世話なのかな。

無教会クリスチャンの結婚式

神に誓う結婚式

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August 31, 2006

森鷗外『雁』

『眠られぬ夜のために』第二部

「8月31日
……ダンテは、彼が描いたフランチェスカ・ダ・リミニをむしろ煉獄編に移すべきであったろう。
…同情と後悔とは、地獄にふさわしいものではないからである。
この点では、テニソンはランスロットとギネヴィアの描写にあたり、ダンテにおとらぬ詩的表現を示し、しかも心理的真実においては幾分まさっている。(以下略)」
(岩波文庫・草間・大和訳)

Gan
先日、フリーペーパーの書評で鷗外の『雁』が紹介されていたので、ふと気になって読み返してみた。
初めて読んだのは高校生のとき。ちんぷんかんぷんでした。
30歳になった今、読み返してみると、すごいね、これは。
男の身勝手さと、
流れから逃れえぬ人間関係を書かせると、
鷗外の右に出るものはいないんじゃないかと思う。
そういえば「舞姫」は高校三年生の教材ですが、高校生諸君には、ぜひ、10年後に読み返してみたまえ、と言いたいね。

『雁』に出てくるお玉さんは、「お見合い」で「お妾さん」になり、周囲に遠慮しいしい生きている。
この微妙に社会から認知されているんだかされていないんだかわからない、いたたまれな~い感じとか、男の無神経さとか、そういったものをクールに概観している語り手とか、
文豪の技は細部に宿りますな。

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ちなみにパールバック「大地」でも、中国の農民王龍が羽振りが良くなってお妾さんを囲うシーンが出てくるが、
「雁」の本妻「お常さん」と、王龍の妻の阿蘭はよく似ている。
不美人で丈夫な糟糠の妻と、
美人で可憐な御妾さんというのは、
小説の類型ですが、
どちらも、檀那(だんな)から、そこはかとなーく馬鹿にされている感じがする。
不美人で丈夫でも大切にされている妻の話ってのはお話にならんのでしょうかね。

ヒルティは読書家で、小説もよく読んでいる。
フランチェスカ・ダ・リミニというのは夫の弟と不義の恋におちた女性、ランスロットはアーサー王物語に出てくる騎士で、やはり恋物語の主人公とのこと。
不義の恋は、地獄ではなく煉獄に行くべき、というところに、彼の恋愛観をみるのはうがちすぎだろうか。
不義だろうが地獄だろうが、もう、どうしたって恋に落ちちゃうことはあるんだなあ、みたいな。
「煉獄」というのは、カトリックの発想で、死後魂の行き先が天国や地獄に決定する前に、魂を清めるために設定されているスポットのことだそうです。

お玉さんは、
妾になるのを仕方ないと受け入れていると思っている一方で
通りすがりの大学生、岡田に片思いし続けます。
これは「不義の恋」になるのか、どうか。
近代的な発想からすると、お玉さんの存在自体が「不倫」なわけですしね。

ちょうど今、仕事で「伊勢物語」に取り組んでおります。
来年の今頃、学芸文庫で出ます。日文関係の友人たちよ、ぜひ買ってください。
著者は、源氏物語の権威のおひとりである某老教授。
一度彼に、以前からちょっと気になっている「近代の恋愛」と「近代以前の恋愛」の違いを、聞いてみようと思っています。
「近代的恋愛観」と「前近代的恋愛観」というのは決定的に違う…と日本文学の先生方はまるで当たり前のようにおっしゃる。でもそれがなにかは、nikkouどうも明確に把握できず。
把握したからってなんてこともないけど、近代の恋愛観にはキリスト教も関わっているというし、まあなんだか面白そうじゃないですか。

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November 30, 2005

「萌え」は日本を救うか!?

11月27日『眠られぬ夜のために』第一部

「何事によらず、その事をくわしく知り、それに通じることは結局よい結果を生む。
無知はその反対である。
この世界をも、そのいろいろな性質・要素をできるだけ完全に知ることによってわれわれのものとすべきである。」

(中略)

「…きわめて数多い女性が、自分が無益な生活をしているという深刻な、しかも日々つのりゆく感情に苦しめられて、本当の心身の健康に到りえず、それどころか、今持っている健康さえも、そのことを絶えず気にするあまり損なったり、ついには全く失ってしまうということは、きわめて当然である。
彼女たちに対して医師はなによりもまずこう言うべきであろう、
『働きなさい。あなた方も、他の人たちと同様に、働くのが使命であり、義務なのです。(以下略)』」

(岩波文庫・草間・大和訳)

仕事が忙しい。
年末ですな。
なので、nikkouは朝型生活にチャレンジすることにした。帰宅したら、すぐ寝る!すぐ起きる!三日坊主に終わらん事を。

さて、日付がちょっとさかのぼるけれど、ヒルティの「女性は働くべきだ」という上記の主張、100年前のスイスではどのような意味を持っていたのだろう。

日本の女性が社会で働き始めたのは、ここ数十年来のことだ、というのは、自分の母親世代を見ているとよく分かる。わたしの子ども時代は、ほとんどのお家のお母さんは専業主婦だった。
わたし自身は男女雇用機会均等法以降に就職した女子で、未婚で、平社員なので、女性の先輩たちが体験してきたような試練をまだ知らない。時代を切り開いてきた先輩たちに敬意を表し、彼女たちに学んでいきたいと思う。

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さて、現在『萌える男』(本田透・ちくま新書)を読んでいる。
この中に、
女性が経済的に自立した現代、家族を維持するのは経済的な依存関係ではなく、わたしたちは「より良い関係を築くことができる」という理想を共有することだ、という一節がある。

「萌える男」というのは、いわゆるアキバ系オタク青年のことなのだけれど、この本で「萌え」に対峙される思想が、「キリスト教」と「恋愛資本主義」というので、面白く読んだ。
このテの本は「説得力があるかどうか」がキモであって、「正しいか正しくないか」ということは検証のしようがない。だから、nikkouには、本当のところはよく分からないのだけれど、ものすごーーくはしょって、かつ易しく紹介してみよう。

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本田いわく、
もともと、日本に「恋愛」という概念はなかった。
(nikkou注:坂口安吾も、中世の恋愛とは、「不義密通」であり、心中や刑罰の対象であった、と書いていた。)
それが、近代になって、キリスト教文化とともに「恋愛」という概念が流入。理想的な男女関係として紹介される。(ex.北村透谷)
キリスト教では、人間のアイデンティティは唯一絶対の神に保証される。そうした関係性の中で、男女関係も安定するのだ、という。
(nikkou注:要は、「この人は神様の大切な人だ」という認識があって、はじめて人は「互いに愛しあう」ことができる、というわけでしょうか。)
しかし、神への信仰なき時代に入ると、自分のアイデンティティを人間に保証してもらわなければならなくなる。
(nikkou注:つまり、彼氏や彼女に「あなたはステキだ」「あなたは大切な人」と認めてもらわなければ、人は精神的に不安定になる、というわけ。ううっ思い当たるなあ。)
しかし、人は神ではないので、そうそう無条件に他人を愛せないし、そうそう「ステキ」な人なんてのも存在しない。
そこで、日本は80年代に入って「恋愛資本主義」なるものによって「モテるものとモテないもの」に二分される。「ステキな男・女」になるための「モテ・テク」やら、それに付け入った消費活動やらが隆盛を極める。
そうした「恋愛資本主義」に背を向けた男たちが、現実に存在しない人物(アニメとかゲーム・キャラクター)に想像上の恋愛をすることで自我を安定させる「萌え」に行きついたのが現代――なんだそうだ。

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本田透は、この現代日本の「愛」なき状況を救うのは「萌え」だ!「萌え」がアニメなどの二次元から現実世界の三次元にフィードバックされれば、「愛」は復活する!と気炎をあげるのだけれど…うーん、無理じゃないでしょうか。
だって、アニメみたいな、かわいくって超癒し系の女の子を現実に求められても、困るもん。

以前、女性のための聖書セミナー「Women's conforence」で講師が「白馬に乗った王子様は現れません!あなたの伴侶となる人は、あなたと同じ、主にあって罪びとである人間です!」と言い放っていたが、あれは「萌えるな!」という警告だったのか!?

クリスチャンであるnikkouには、やっぱり「恋愛」の基本に返って、「恋愛」とともに日本に入ってきながら日本に定着しなかった「キリスト教」、いや、主イエスの愛のあり方を、日本人が自分のものとして消化していくことが、一番確実でかつ、早道なんじゃないか、という気がする。

でも、もはや日本には「恋愛資本主義」が蔓延して、
かく言うnikkouも、思いっきりその価値観に洗脳されてきて、たいそう苦しんだので、
戦いは困難?と思ったりもする。
主よ、この国の人びとを、愛したまえ。

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November 16, 2005

会わずにいることは魂で愛し合うこと。

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月14日

結婚は軽く見てよいことでなくて、本当は恐ろしい事柄である。

(中略)

結婚式当日のいろいろの楽しい催しも、往々にして、結婚という事柄のあまりの厳粛さを当事者とその家族に対し、ただいくらかでも覆い隠そうというひそかな意味を持つのかもしれない。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

結婚って、たいへんョ~、結婚式を華々しくやるのは、そのたいへんさをごまかすためョ~、というヒルティ。
30歳目前に独身のnikkou、眠られぬ夜になりそうなメッセージであります(笑)。

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さて、今日もここに一冊の本。『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』(港の人)
野村一彦という18歳の青年の、1931~32年にかかれた日記である。
そこには、「美恵ちゃん」という女の子への思慕が切々とつづられている。

一彦は、無教会クリスチャンの金沢常雄が主宰する聖書集会に通う、敬虔な青年であった。
親友・前田陽一の妹、美恵子さん(愛称、美恵ちゃん、Mimi)に恋をして、目が合ってもすれ違っても心震えるような痛みを、陽一に打ち明ける。すると、美恵子も一彦に好意を持っているということを知らされるのである。
しかし、一彦は病弱であったため、美恵子のお母さんに交際を反対されてしまう。
会えない二人の思いを、一彦は主に打ち明ける。

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「静かな祈りの時に、僕らは魂において、どんなに近くいることができるかを知った。
美恵ちゃんは僕のものではある。
しかし、それよりもまず僕らは真に神のものである。
そして僕らの愛し合うことさえもがいかに神の恵みであるかもこのごろ分かってきた。
(中略)
会うことの出来ない僕らはただ神様にすべてをおまかせするよりない。
そして僕はたとえ一生を美恵ちゃんに会わずに終わろうとも感謝して行くつもりでいる。」

「神様、Mimiは美しうございます。―それは恋愛に酔うためではなく(本当にそんな事ではなく)あなたのものであるMimiが僕の愛する人であり、また僕を愛していますから。
そして僕はそのMimiに出来ることならまたいつか、少しでも早く会いたいのでございます。
けれどもあなたの御智恵はまことに深くありまして、別れていねばならない事からよき事を多く教えくださいました。
神様、僕は会えました悦びにも、会えませんつらさにも同じようにあなたの聖名を呼ばせて頂きました。願わくはこれから先もなおかくありますように。」

これが、18歳の文章である。
昭和の青年の早熟さと清らかさを見るようである。

お母さんの悲しい予感は当たって、一彦は21歳で腎臓結核のため夭折。Mimiは、一生結婚しない、と泣いた。
そんなMimiであったが、12年後に植物学者の神谷宣郎と結婚、2児を育てつつ、ハンセン病患者のケアや、文筆業、そして精神科医として美智子皇后の相談役など、活躍する。
Mimiとは、神谷美恵子10代の姿である。

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『会うことは目で愛し合うこと、
会わずにいることは魂で愛し合うこと。』
には、そんな切ないプラトニック・ラブのみならず、昭和のクリスチャンホームらしい折り目正しくて闊達な前田家(美恵子の実家)の様子がうかがわれて興味深い。
主イエスのことばに、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マタイによる福音書22章20節)というものがある。
主のみ国では、人間世界の婚姻関係も無効だ。
今はもう、涙も拭い去られて、美恵子の魂も、一彦の魂も、自由になっていることと思う。

「けれども神はすべてをよくなし給う。この愛が神の聖意にかなうなら(願わくはいつもかくあらんことを!)神様は僕らを離し給うはずがない。それはこの世においてもゆるされることだろう。ましてかの国においてをや。」
(『会うことは目で愛し合うこと、
会わずにいることは魂で愛し合うこと。』)

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November 03, 2005

神様と相思相愛

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月3日

人間がこの世で達成することができ、また人のために役立つものは、
神への愛、したがってあらゆる真と善に対する愛であり、
また共に生をうけているすべての者に対するまことの親切である。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

イエスのことばに、人間にとって最も大切なことは、
①神を愛すること。
②隣人を愛すること。
というのがある。(マタイによる福音書22章37節~39節)
今日のヒルティも、これをもとにしている。
ノン・クリスチャンのころ、nikkouはそのことばを聞いて、
「②の隣人を愛すること、というのは分かるが、①の神を愛する、っていうのは、具体的にどういうことだ?」と思った。
今夜、ヒルティを読んでいて、そのときの気持ちを久しぶりに思い出した。やっぱり、真剣に悩むってのはいいね。後で思い出したときに、いつの間にか、ちゃんと主は答えてくれていたんだな、って気づくから。

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というわけで、今日も、神と人が互いに愛し合っている瞬間を捉えた一冊を紹介したい。
『おかあさんのばか』(写真・細江英公、被写体と詩・古田幸、窓社)。
40年前のひとりの女の子の日常を写したドキュメント写真集である。
古田幸ちゃん。小学校6年生。お母さんが病死して、お父さんとおにいちゃんと3人暮らしである。
お母さんが死んで1ヵ月後、幸ちゃんはお母さんの死を詩につづり、お父さんがそれを新聞に投稿する。その詩を見た写真家が、幸ちゃんの日常を撮影したい、と訪れたそうである。

突然主婦を任ぜられて、幸ちゃんは張り詰めた表情で、洗濯をし、お買い物をし、お料理をし、仏壇の掃除をしている。40年前の日本だから家事労働も手作業だし、決して豊かではないし、失礼だけれど、彼女自身美少女でもなんでもない。すごく、地味な写真集だ。変に同情を誘う感じでもないし。でも、なんだか目が離せなくなるような、強い力がある。

この中に、幸ちゃんの、こんな詩がある。

「教会の神様

おかあさんが死んでから
さびしい日がおおい。
おとうさんやおにいさんは
神様なんていないというけれど
私はやっぱり神様をしんじる。
教会へ来てよかったな。
神様に聞いてほしいことがいっぱいある。
神様に力になってもらいたいこともある。
教会へ行くと
私はおかあさんにあえるような気がする。」

そして、お父さんの添え書き。

「妻も私も、あまり信心のいいほうではなかった。妻が意識不明で眠り続けていた時、苦しい時の神頼みから、水天宮のお守りをもらって妻の心臓にはったものだった。幸は、クラスメートから、教会にいくようすすめられ、私に相談した。私には、とめる権利などあるはずもない。日曜日の朝の幸の顔は、別人のように生き生きとしている。」

お母さんが亡くなって、お父さんもおにいちゃんも、幸ちゃんに気を使っているし、幸ちゃんも、二人を支えようと必死である。「おかあさんのばか!」と叫んでも、お母さんだって辛いだろう。お母さんも好きで死んだんじゃないし。

でも、神様は、お母さんのことも、お父さんのことも、おにいちゃんのことも、そしてもちろん、幸ちゃんのことも、よく知っているし、大切に思っていて、とっても心配しているよ――ということを、教会のだれかが、教えてくれたのかもしれない。

「私はやっぱり神様をしんじる。」
「神様に聞いてほしいことがいっぱいある。」

という幸ちゃんの言葉は、神様への、愛の告白だ。

「神を愛せ」というのは、もう、これだけで十分なんじゃないかな、とnikkouは思う。
幸ちゃんが、大人になっても、神様を愛し続けたかどうかは、分からない。
でも、幸ちゃんが苦しかったひととき、神様と相思相愛になって、幸ちゃんのささやかな生活が守られた、というだけで、nikkouは、神様に感謝の気持ちでいっぱいだ。

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「兵隊宿」

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月2日

この世でたまたま同時代に生きたすべての人たちと
(たとえ恩寵に浴した人びとの間でも)
ふたたび出会い、しかも今度は永久にともに暮らすのだという考えは、
決して特に心の励みになるものではない。
このことは、この地上での確かに理想的でない人間関係についての追憶が、
あの世でも消えないということを前提にしている。
しかし、おそらくわれわれは、むしろそのような関係はすっかり断ち切りたいし、
事実、地上の死によって断ち切ったのである。
忘れるということは、すでにこの地上での浄福の始まりである。
もの忘れのレーテの川がなく、あらゆる苦しいことをいつまでも覚えていては、浄福などはありえないのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

今夜のヒルティ翁は、「神のみ国に入ってまで、つきあいたかねぇ奴もいるやな~」という感じ。
「ま、それはお互い様なんだしさ、天国に入っちゃえば、いやなことは忘れられるってんなら、それは神の恵みだね」と。

なかなか、自分の思いが相手に伝わらず、相手の思いも理解できず、険悪になっちゃうことって、よくあるものだ。
人間関係って難しい。

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さて、最近、竹西寛子「兵隊宿」を読んだ。高校の国語教科書などにも採用される短編小説である。
戦時中、軍港街で出征前の兵隊を民間人の自宅に宿泊させる、という制度があったことを、初めて知った。
この小説では、「兵隊宿」になった家の少年の成長が、出征前の3人の軍人たちとの交流を通してしみじみと書かれる。

小説の中で、軍人たちが少年を連れて、地元の神社に参拝に行くシーンが描かれる。
彼らは、神殿に深く長く頭を垂れる。
少年は、神社裏にある戦死者の墓地に、彼らが気づいてしまうのではないかと気が気でない。

nikkouは、クリスチャンでなかった年月のほうが長いので、竹西寛子が描くような、自分の力では思うようにならないこと(恋愛とか受験とか)を、神社の神に託す心境は、まだ心が覚えている。
だから、この小説のこのシーンを、悲しいなあ…と切なく読んだ。

ああ、戦争でなくなった人々、心傷ついた人々を悼みたい。
シベリアの抑留や戦闘中の死はもちろん、空襲や原爆や栄養失調で死んだ民間の人も、日本の人も中国の人も韓国の人もアメリカの人もドイツの人も、…みんなみんな、その苦しみが慰められ、罪が清められるよう、祈りたい…
…と、思っていた矢先の今朝、首相の靖国参拝擁護のブログ記事を見つけてしまった。
んー、その主旨のものは、つらいからなるべく見ないようにしているんだけどな~。
それは、nikkouたちの作っている国語の教科書が売れないことで有名な、さる保守的な土地柄の地方の、高校の先生のブログであった。
教科は国語…やれやれ。

いわく、
「首相が戦没者を悼むのは当然」
「中国韓国は内政干渉するな」
…先生!nikkouもそう思います!
戦争のことを国の代表者が振り返るのは大切だし、それは、中国や韓国でなく、この国自身の問題だと思います!

日本人は、戦争で苦しんだ人を悼むと同時に、その罪を心にとどめる、という難しい課題をずっと負って来た。
といっても、それは日本に限らない、世界中の多くの国々がそうなんだけれど。
その先生の記事を何度も何度も読んだけれど、先生は、「罪」のほうには触れておられない。
かの神社には、その悲しみと罪とを同時に清める力はない。
「人間」を、――それも、とても限られた「人間」を、拝んでいるから。

かの神社に集うお年寄りにnikkouは、心を寄せたいと思い、そう書いてきた
けれど、現在や未来のこの国の代表者や、この国の人たちが拝すべきは、そういう人為的にくくられた「人間たち」ではなくて、その「人間たち」をも含む、すべての、戦争に傷ついた人びとの、悲しみ苦しみ罪をともに負い、悼み、赦す、もっと大きな「思い」というか、「視点」というか、「存在」なんじゃないか――
…と、書きつつ、ああ、でも、この先生は、そういう考え方は分かってくれないんだろうな、と思ったりする。
んでもって、そういう考えを生み出すようなキリスト教をはじめとする一神教が戦争の元凶になるんだ、とか言ったりするんだろうな。

nikkouは臆病者なので、そのブログにトラックバックしない。
それに、最近、言葉を重ねるよりも、祈りで自分の心を健やかに保ちつつ、自然な行いや、黙って相手にそっと寄り添っているほうが、はるかに大切だ、ということに気づいてきたから。

だから、祈った。切に、そして、強く。
人間の言葉ではなく、神様が直接、この高校の先生の心に触れて、彼の心が変えられるように。
彼のブログに出会えたことに、感謝しつつ。
時々思い出したら、また祈ろうっと。

ks兄、今日は爽やかな話題じゃなくってごめんね。

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November 02, 2005

おとうさんとぼく

『眠られぬ夜のために』第一部

「11月1日

われわれがこの人生に召されたのは、それに興味がなくなったら、勝手にこの人生から出て行ってよいためではなく、むしろ、神が適当なときにわれわれを呼びもどすまで、自分や他人にとって有益な生活を営むためである。」

(岩波文庫・草間・大和訳)

daisukihigetousann
ドイツには「おとうさんとぼく」という有名なマンガがある。
作者はe.o.プラウエン。
ドイツに旅行するとき買ったガイドブックにも紹介されていた、ドイツの国民的マンガである。
日本では、青萌堂から「ヒゲ父さん」シリーズとして刊行されている。

せりふのないシンプルなタッチの4こまから8こまくらいのマンガで、
「ぼく」の遊びや本に「ぼく」より夢中になっちゃったり、
宿題を手伝ったら間違いだらけで先生にしかられたり、
「ぼく」のおしりをぺんぺんしようとしたらズボンのほつれに気づいて、そっちのけで繕い物をしちゃったり…と、とかく、「ぼく」を愛してやまない、愛すべき「おとうさん」が、ユーモラスに、そしてポエジーに描かれている。

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だから、作者のe.o.プラウエンは、ナチスに捕らえられて、自殺した、ということを知ったときは、本当に驚いた。
最近の人だと思っていたのに。

当初、ナチスの風刺画を描いていた彼は、当局にねらわれるようになり、
それを逃れて、変名で「おとうさんとぼく」を描く。
その後、反ユダヤ的なマンガを描くよう圧力を掛けられても屈せず、とうとうナチスに捕らえられて自殺した、というのである。

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これを知ったときのnikkouの気持ちを、言葉にあらわすのは難しい。
んー、なんと言ったらいいんだろう。
つらいなあ…、と、思い、そして、語弊を恐れずに言えば…きっと彼には祝福がある、というか、なんか、そんな思い、がした。

nikkouは、同世代のご多分にもれず、戦後教育の中で、戦時中に圧力を掛けられて殺された人の話を、ずいぶんと聞かされてきた。
幼いころのnikkkouは、そういう話に触れるたびに、
「死んでしまったら、元も子もない、苦しい死に方をするよりは、主義をまげてでも生き延びるべきだ」と思ったり、
「いや、命より大切なものがある、やはり正義を貫くべきだ。」と思ったり、
両極の「べき」論にあちこち揺れてきた。

でも、e.o.プラウエンの話を知ったときは、なんだか、そういう「べき」論ではない、複雑な思いがした。

こんなにも、愛に満ちたマンガを描く人だ、もし節をまげて、えげつないユダヤ人蔑視のマンガを描いていたら、戦後、どんなに良心の呵責に苦しめられたか分からない。
でも、自殺するとき、彼は、「ああ、これでいいんだ、自分は正しかったんだ!」と、胸を張って死に飛び込んだだろうか。「自殺」ということの暗さを思うと、やはり、苦しかっただろうな、と思う。そんな時代に生きたことに、そして、そんな時代にどうしても時局におもねるマンガを描くことのできなかった「不器用」な自分に、深く絶望したかもしれない。

正義を曲げて生き延びても、正義を貫いても、苦しい。
そんな状況におかれた彼の「自殺」は、今夜のヒルティが言う、「人生に興味がなくなった」ゆえの自殺ではなく、「処刑」に近い気がする。

でも、nikkouは思うのだ。
極限状態を生き延びて、その後良心の呵責に苦しまれる人生であっても、主は、赦してくれるのではないか。
また、正義を貫いて、命を失う人生であっても、主は、それをいとおしんでくれるのではないか。

いま、プラウエンからわたしたちの手元へ遺された、愛らしいマンガ集に、感謝する。
プラウエンの最期を、主が赦し、その戦いの傷を癒してくださいますように。

nikkouはいつか、主のみ国でプラウエンに会えたら、伝えたい。
あなたの苦しみを、わたしは理解できないかもしれないけれど、
でも、あなたのユーモアには、いっぱい笑ったよ。
とっても楽しかった。
すてきなマンガをありがとう、って。

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September 11, 2005

だれも飢えることのないように福音の種まきをしないか

9月11日『眠られぬ夜のために』

「いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ、
単なる幻想であり、自己欺瞞にすぎない。

(中略)

このような人間愛では、一方に年々数百万の人たちが
精神的あるいは肉体的に餓死することも起こりうるし、
しかも、
人はそれをひどく悲しむこともなく、また自分はほんの僅かな不自由をも忍ぼうとしないのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳*太字は原文では傍点)

「奈美(ちひろ)」さんのブログにショックを受け、数日間、ウンウンうなされた結果、
AV女優に関する本を読んでみることにした。

namaenonai

『名前のない女たち~企画AV女優20人の人生』(中村淳彦・宝島社)
AV女優へのインタビュー集である。
AVの宣伝に流されない秀逸なインタビュー集であった。

読んでいる間、ずーーーーっと、nikkouの眉毛は八の字になっていたと思う。

彼女らの告白をひとことでまとめると「絶望」である。
「お金がほしい」という言葉の裏には、人間への底なしの不信がある。
「セックスが楽しい」という言葉は、「それ以外はなにも楽しくない」という告白と抱き合わせである。
いくつかの暗い要素の組み合わせと重複のせいで、心にふっと入り込んでくる絶望感。
nikkouがAV女優にならなかったのは、たまたま運がよかったからではないか、と思うほど、
女性たちを襲う暗闇は唐突で理不尽である。
行間から立ち上る飢えと渇きは、あまりに痛々しく、哀しい。

ホワイトバンドプロジェクトが対象としている「飢えと渇き」は、お金によって、ある程度は解決できるかもしれない。
しかし、彼女たちの「飢えと渇き」はお金じゃ救えない。
お金はもうすでに、手にしているのだから。

hukuinn
『名前のない女たち』の中に、一人、クリスチャンのAV女優が出てくる。
8人兄弟と母親の9人家族で、父親が残した借金とりから逃れて各地の教会を転々とし、
「百万人の福音」で記事にされたために献金が集まって、家が借りられた、という生い立ちを持つ。(写真は今月号で、彼女の家族が掲載された号ではない。)
長じてから、ひとり借金の返済を決意、AVと風俗で荒稼ぎをするのである。

このインタビューでは、彼女の信仰について、突っ込んだ質問はなされていない。
だから、本当のところは分からないし、
クリスチャンへの身びいきなのかもしれないけれど、
nikkouには、彼女が唯一、「希望」を語っていたように感じた。
ほかの女優と違って、彼女だけがみずから精神科と産婦人科を受診、入院している。
「将来の夢は?」と聞かれて、多くの女優は
「夢などない」
「結婚して、ダンナに養ってもらう」と答えるのに、
彼女だけが「孤児を養子にもらって育てる」と答える。
AVの撮影で子宮外妊娠してしまい、子どもを産めない体になってしまった、ということさえ、
「孤児を助けるためには、むしろよかった」とも言う。
でも、子宮外でなければ、絶対産んだ、といいながら。

確かに、彼女の性生活には無茶なところがある。
「姦淫するなというママが信仰しているキリスト教の教えはどこへ行ってしまったのか、
彼女はクリスチャンだが、聖書のストイックな教えはまったく届いていないようである。」
とインタビュアーがちゃちゃをいれたくなるのも分かる。

しかし、nikkouには、彼女にはなにか、教条主義的なキリスト教でははかれない、神の影響力が及んでいるような気がしてならない。
ここに、nikkouは、か細いか細い希望の光をみる。

ひとつの価値観としてでもいい、
彼女たちに福音を知ってもらえないか。
たとえば、ゴスペルを、彼女たちの前で歌うとか。

もちろん、困難は予想がつく。
どうやって彼女たちに接触するのか。
たとえ出会えても、企業の飲み会で歌うよりもはるかに不毛な働きに感じるやもしれぬ。
いまだ、長い説教と文語の賛美歌を歌い、教養と品位の高い空気をただよわせている多くのキリスト教会のどこが、彼女たちを受け入れるだろう。
わたしたちの想像もつかない社会の暗黒部分に触れることもあるだろう。
多くの備えが必要だ。

しかし、主はわたしたちの必要を満たし、
あらゆる人を赦し、愛するのではなかったか、
そう、歌ってきたではないか。

愛するゴスペルの兄弟姉妹たち、
AV女優たちに福音の種まきをしないか。

nikkouは今、そのために祈る。
もし賛同するのなら、ぜひともに祈ってほしい。

主よ、哀しみの中にいる女性たちに、あなたの声を届けてほしい。
そのための必要を整えてください。

そして。

「奈美(ちひろ)」さん、わたしがあなたを知ったのは、主の計画であったか。
nikkouは、いつか必ずあなたに会って、あなたの手をとって祈りたいよ。
主よ、どうか「奈美(ちひろ)」さんの心と体の傷を癒し、
これから、新しい道のりを歩み行けるよう、祝福してください。
イエス様の名にあって
アーメン

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September 09, 2005

9月10日はホワイトバンドデー

9月9日『眠られぬ夜のために』

「…あわれみの心はいわば第六感のようなもので、
根本的にはただ厳しい苦難を通じてより善い人びとの心に生じる感情であって
――みずから犠牲を払わず、他人の助けにもならない弱弱しい同情などとは違うのである。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ホワイトバンドプロジェクトなるものがある。
http://www.hottokenai.jp/home.html

あまたある「世界の貧困を救おう」という働きのひとつである。

nikkouも、ひとつ買った。
300円で世界の貧困に役立てるならお安い御用である。
そう、遠くの隣人を助けるのは、実はたやすい。

poriannna
『少女パレアナ』という小説がある。
明るい孤児の成長物語、まあ、『赤毛のアン』の一類型といおうか。

この中に、きわめて痛快なシーンが描かれている。

ふとしたきっかけで、ホームレスの少年と親しくなったパレアナは、
「あなたを引き取って、めんどうをみてくれる親切なおばさまたちがいる!」と思いつく。
そのおばさまたちは、遠い国の貧しい子供たちのために、衣類やお金を贈っているのである。
遠い国の子供たちでさえ、援けずにはいられない人たちだ、
目の前のあなたを助けないわけがないじゃない!
・・・このおばさまたち、というのは、――教会の婦人会の方々なのである。
むろん、婦人会にはていよく追い払われてしまうのであるが、
nikkouは、どちらかというと、この婦人会の側の人間だろう。
自分と関わり合いにならない限りの援助なのである。

ホワイトバンドをつけるとき、胸に浮かぶのは、パレアナの痛烈な批判、そして、
「みずから犠牲を払」って、世界の貧困に立ち向かっていった人々である。
インドにマザーテレサがゆき、
アフリカにシュバイツアーは行った。
ネパールには岩村昇医師が診療所を開き、
アフガニスタンでは中村哲医師が井戸を掘っている。
そして、その無名の多くのスタッフたち。
white_band
ホワイトバンドを腕につけつつ、nikkouの心は、いささかの含羞を覚える。
ホワイトバンドに参加しています、と胸をはってはいけない。
ホワイトバンド、しか、参加できません、といわねばならない。

この心を主はすべて見ている。
いつか、nikkouの含羞を取り除くべく、招命なさるかもしれない。
そうなったら、もう、
「満天の星空の下、岩陰で用を足すほうがはずかしいよっ!」ってのが本音であっても、
ゆかざるを得ないでしょうか。

なんともひねくれもののホワイトバンドデーなのであります。

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September 07, 2005

一生、「求める」という希望

9月7日『眠られぬ夜のために』第一部

「本当の内的進歩が行われる仕方には、つねに三つの段階がある。

第一の段階は感激であり、さながら枯れ柴をもやすように、勢いよくパチパチと音をたてて高く燃え上がる火焔である。

第二の段階は、この炎々たる火がいくらか消え衰える状態であって、つい先ほどまで火焔そのものであった人と同じ人間とはどうしても信じられないことが多い。

第三の段階は、いつまでも燃え続ける石炭の火の、たえまなく暖かさをあたりにひろげる、静かな、変わりない焔に似ている。そこにはもはやすこしの動揺も変化もなく、その有益なはたらきはだれにもはっきり分かる。

人間の精神がなにか大事な問題で、この最後の段階にまで達したならば、
それは、内へむかっては平和、外へむかってはと呼びうるような、
あの活動的な平和を得ることになる。」
(岩波文庫・草間・大和訳*太字部分、原文では傍点)

いいですね~。
もう、何も書き足したくない気分。
はやく第三の段階にたどりつきたいと思うnikkouであります。
たぶんnikkouはまだ第一の段階。ブログで熱く神の愛を語るなんて、うひょ~若~い(笑)。

さて、これは「第三の段階」と思える人を紹介したい。
無教会のクリスチャンで平澤弥一郎さんという。
hirasawa

彼の著書、『75歳 ドイツで聖書を学ぶ』を読んだのは、わたしがイエスに出会う2年ほど前のことだ。
そのころノン・クリスチャンだった私にも、彼の心にふつふつとたぎる神への愛は響いた。
そして、そのユーモアに笑い、人生の積み重ねがつかんだ愛に泣いた。

タイトルにあるとおり、仕事からリタイアしても、人生はリタイアせず、
75歳、胸にペースメーカを埋め込んで、ドイツの神学校に留学、主を求め続けた。

そう、「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイによる福音書7章7節)の言葉は、
一生涯、尽きる事のない希望の宣言である、ということを、
身をもって示したのである。

彼はドイツ留学中に、ヒルティの墓参もしている。
彼の師、塚本虎二は終戦後まもなく、
「戦争に負けた日本の青年たちには、今こそ聖書とヒルティのものを読む絶好のチャンスだ」と言ったという。
また著者は、心配性の自分が、ドイツ留学を思い立つことができたのも、
ヒルティの
「とにかく思い立ったらすぐやり始めよ」という言葉に励まされてのこと、と言う。

この本が発刊されて数年後、nikkouも、クリスチャンとなった。
そして、驚く事に、この本を手がけた編集者と知己を得た。
「平澤さんに会いたい」と初対面の挨拶もそこそこに、そう告げたnikkouに、
「こんなに若い子が、あの本を」と、うれしかった、とその編集者は今でも言う。

平澤さんが、日本に帰ってきたら、
体調がよくなったら…、とタイミングをはかっているうちに、
平澤さんは天国へと帰ってゆかれた。
2002年、5月ごろだったか。79歳であった。

編集者とふたり、小さな飲み屋で、あの本について語り合った。
あの本が、nikkouに教えてくれた事を、彼に話した。
彼はうっすらと目に涙を浮かべていた。

この秋、平澤さんの跡を訪ねて、ドイツのマインツに旅する。
一週間にも満たない、ささやかなツアーであるが、
求め続ける世界の広さを、胸に刻んできたい。

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September 04, 2005

Calling My Name

9月1日「眠られぬ夜のために」第一部

「神はどんな後悔でも聞きいれてくださる。
ずっと後になってからでも、
また何度も悪へ逆戻りしてからでも、
赦してくださる。
われわれの主は、助力と平和を求めてくるどんな人間をも、突き放しはされない。
もう一度はっきり言うが、
どんな人間をも、
例外なくどんな人間をも。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

ヒルティ、めずらしく、激しい口調である。
ここには引かないけれど、聖書の参考箇所も、今日は旧約から新約にわたって幅広く、複数個所にわたる。
さすが、裁判官であり弁護士であった人である。
こんなふうに、被告を諭したこともあったのだろうか。

Nikkouは、学生時代、このことが、どーしても分からなくって、クリスチャンの友人を見つけては執拗にたずねた。

「ねねね、キリスト教の神様ってさ、どんな罪も赦すんでしょ。
じゃあさ、クリスチャンになったら、窃盗でも殺人でも売買春でも強姦でも、なんでもやりほうだい、ってことなの?」

クリスチャンの友人たちのうち、
二人は「救われると、自分の罪がよく見えるようになって、あまり罪を犯さなくなる」と答えた。
一人が「そうそう、オレもノン・クリのとき、そう思ってた!」と、妙に喜んでいた。けど、彼自身から答えは得られなかった。
一人は「あなたは、『罪』というものが分かっていない!」と机を叩いて怒った。
一人は絶句した。
…ごめんよ、みんな。へんなこと聞いて。

gelmanium
当時、花村萬月の「ゲルマニウムの夜」が芥川賞を受賞した。
カトリックの修道院で孤児として育った主人公が、告解のあとに修道女を犯す、という物語だ。
罪を犯す前に告解しておいた、というわけ。
Nikkouは、そんな小説の前に、うーむと頭を抱えていたのである。
クリスチャンになったら罪を犯すな、というなら分かる。
しかし、際限なく赦してしまう神など、信じていいものか。
理不尽ではないか、不条理ではないか、そんなの、世界が規律を失う。

199910
そういえば、ヤクザに伝道しているアーサー・ホーランド牧師も、
どえりゃ~悪いことをあれこれやってきた男たちが
「オレの罪は赦された~」とか言って喜んでいるのをみると、
ちょっと複雑な気持ちになる、という意味のことを書いていた。正直な人である。

最近練習しているゴスペルソングに、「Calling my name」という曲がある。
ヘゼカイア・ウォーカー率いるザ・ラブ・フェローシップ・クルセード・クワイアーの名曲である。
“救われたったら救われた、神様ってばすばらしい!”という賛美に満ちたゴスペルソングの多いなかで、
この曲はちょっと異質で、
「わたしは、クリスチャンなのに、神様に恵みを受けているはずなのに、ああ、それなのにそれなのに、どうしてこんなに罪ばっかり犯しちゃうんでしょう」と泣きが入るのである。
Nikkouはとくに、「Knowing this」(わかっちゃいるんだけど)っていう歌詞が大好きで、ここにくると、思いっきり力がはいる。
「にも関わらず、主よ、あなたはわたしの名を呼ぶのか。わたしなど、あなたの子にふさわしくない、ひどい人間なのに。」
と歌は続く。

10年前のnikkouの問いに対する答えのヒントがここにある気がする。

神はどんな罪でも、赦すのか。
そうだ。どんな罪でも赦される。
君の罪深い心が、窃盗やら、殺人やら、売春やら、強姦(は、いくらなんぼでもないか)なんぞを引き起こしたとしても、きっと神は赦すだろう。
歴代のクリスチャンたちや、聖書の登場人物は、みんなそうやって赦されてきたことを証言している。

ただし、だ。
『ああ、わたしの罪は赦されているのだ』と気づいたときの痛みたるや、
きっと、『もう、こんなわたし赦さないでほっといてくれたほうがましだ、罰っしてくれたほうが楽だ』といいたいくらいの苦しみにちがいないよ。
…この歌は、そういって泣いているよって。

クリスチャンになって3年目のnikkouであるが、正直に告白して、この3年間にもうすでに何度か罪の味をなめております。
幸いにして(?)、「赦さないでください!」というほどの激しい悔恨はまだ与えられていないものの
さすがに泣いちゃうくらいの自己嫌悪には浸かるし、
そこから踏み出すには、必死に赦しを乞うこともあったりはする。
これ以上の罪との対面は、願わくは避けたいものである。

ただし、わが身を振り返って思うのだが、
人はクリスチャンになろうがなるまいが、死ぬまで罪を犯し続けるだろうと思う。
でも「これは、『罪』だ」と気づくのと気づかないとの差は大きいんじゃないかと思う。
その話は、また後日。

最後に、ヒルティはもうひとこと。

「このような経験をしたことのある人たちが、後になるとかえって、最も信頼できるひとになることがよくある。
というのは、彼らは一方で享楽生活のみじめさを、
他方で平和の幸福を、身をもって深く学び知り、
そのどちらがまさるかを悟っているからである。」

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August 30, 2005

フジ子・ヘミングの信仰

8月27日『眠られぬ夜のために』第一部

「神とその支配とはゆるぎない事実であり、
また自分の内的生活におけるあらゆる真の進歩も同様に一つの出来事であって、
獲得された知識や、まして単なる観念では決してないということが、
自分の経験によって分かったときに初めて、人は本当の信仰に到達するのである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

hujiko
イングリッド・フジ子・ヘミングの「天使への扉」(光文社 知恵の森文庫)を読んだ。
正直、暇つぶしの気持ちで手に取った一冊であったのだが、
読み始めて、おもわず、うめいた。なんとまあ。
これほどにも篤い、
・・・いや、熱い熱い、信仰告白の書であったとは。

フジ子・ヘミングは、いわずと知れた、波乱の人生を乗り越えてきた名ピアニストである。
その半生はNHKの特番から始まって菅野美穂主演でドラマ化もされた。

戦時中に、建築家でスウェーデン人の父と、ピアニストで日本人の母との間に生まれるが、
手続きの不備でスウェーデン国籍を喪失、無国籍となる。
母親との確執、ハーフゆえのいじめ、音楽の世界でのねたみ争い、そしてついに難民ビザで留学したドイツで聴力を失い、帰国もできず砂糖水で飢えをしのぐほどの極貧…と、次々に試練を受ける半生なのである。なるほど「ドラマ」である、見所満載である。
50代で帰国後、聴力が40%回復した右耳で、友人の求めに応じて聖路加病院でのチャリティコンサートなど続けていたところ、ふと、NHKに取り上げられて、アルバム「奇跡のカンパネラ」がベストセラーとなり、今に至る。

nikkouはさほどクラシックにくわしいほうではないが、それでも、
ある日CDショップで頭上のスピーカーからすごい面白いカンパネラが聴こえてくるので驚いて、
カウンターで確認したらフジ子だった、ということがあるので、
素人にもわかる、豊かな表現力のある人なのだと思う。

彼女は言う
「…途中、何度も思いました。
なんで神様は私をこんな目に遭わせて平気でいるのだろう、と。
だけど、そうではなかった。
まるで、私の人生は神様にプログラミングされていたかのように感じます。」
(「天使への扉」)

有名になったからではない、自分の音楽をだれかが聴いて喜んでくれるから、うれしい。
お金は、寄付をしてしまう、自分は古着を着ていればいい、天国に貯金したほうがいい。
コンサートでは、「イエス様、イエス様」と心で祈りながら弾く、
耳が遠いから「牧師」の声が聞こえない、だから教会に行かず、家で聖書を何度も何度も読む…。
別の本によると、彼女が受洗したのはカトリックだというが、本人は「神父」だろうが「牧師」だろうが、頓着しない。
教派も神学もない。
ただ、心に、聖書が生きている。
試練をくぐりぬけた人の持つ、主に命を捧げる覚悟だけが、どっしりと据わっている。

ああ、そうでありたい、とnikkouは切に願う。

クリスチャンになる前は、「教派の争い」は外国のお話だったし、
とりとめもない議論のことを、洒落て「神学論争」と呼んだものだけれど、
主を信じる人の群れに身を投じれば、それが外国のことでも、シャレでもなんでもない人があることに愕然とする。
そんな中で、フジ子の信仰に、はっと目を見張るおもいだ。

nikkouも、今はただ、イエスに従い、神の国へ帰ってゆくことだけを目指したいと切に思う。
普段の生活のなかで、淡々と、されど熱く、み言葉を実践していきたいだけ。

(注)「フジ子・ヘミングウェイ」で検索してこられる方が多いのですが、正しくは「フジ子・ヘミング」ですよ。

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August 15, 2005

人は人を変えられない

8月5日『眠られぬ夜のために』

「ペシミストたちを言葉で転向させようとして、むだな骨を折らないようがよい。

(中略)

彼らから離れることのできない義務があるならば、辛抱づよく彼らをがまんしなさい。
彼らの考えを変えうるのは神だけであって、われわれにできることではない。」

人を変えることができるのは神だけだ。
人は他人を変えることができない。
…という、多くのクリスチャンの先輩たちの忠告を、nikkouはなかなか受け入れられない。

以前、ある友人から、
「nikkouはだめ男を更正させて、その中に自分の影響力を見ようとしているんじゃないの?
一種の自己顕示欲だよね」
と言われた。

うわー、サイテーじゃん。
それって、まるで「だめんず・うぉ~か~」みたい。
「だめんず・うぉ~か~」というのは、倉田真由美という漫画家の、
だめ男ばかり渡り歩く女性に取材した作品だ。
アルコール依存症とか、D.V男とか、うそつきとか、浮気男とかばっかり、付き合ってしまう、という女性たち。
漫画はコミカルに描かれているけれど、結構イタイ。

恋愛相談の類は、
「結婚したら、この人も変わるかもしれない、子どもができたらこの人も変わるかもしれない」なんて、期待するな、ということをくり返し言う。

今日のヒルティも、半分はおんなじ。
人は変わらない。
ただし
「神だけは変えることができる。」
そう、イエスに出会って180度人生が変わったパウロのように。
この一点が信仰の世界なわけで。
nikkouには、その点の認識がまだ、甘いわけで。

ミッション・バラバというキリスト教の伝道集団がある。
元ヤクザの男たちだ。
今、彼らの妻について取材した「バラバの妻として」(NHK出版・坂口かおり著)を読んでいる。

ミッション・バラバの彼らが主イエスに出会う前というのは、まさに「だめんず」の極みである。
その中のひとり、鈴木まり子さんは
ヤクザの組を追われて失踪した夫のため、
毎日、近所から苦情が出るほど泣き叫びながら、
「夫を返してください」と祈ったという。
しかし、夫が失踪先で逃げ込んだ教会で、主イエスに出会い、劇的な変化を遂げて帰ってきたのち、
さらに神学生となって、大工の仕事のかたわら、学校に夜毎、通いはじめたら
今度は、
「神様、なんでこんなに変わったんですか、かわいそうですよ。」
と祈ったという。

いいなあ。
神様とこんなに密接な人。
自分ではなく、神様が彼に臨んでいるんだ、と心から分かっている人。

nikkouはなんでこんなにおせっかいなんだろう。
神様にゆだねず、自分の力で、力ずくで、相手にせまってしまう。
失敗してから気づいても、もう遅いのに。

主よ。わたしが、あなたにすべてをゆだねることができますよう、わたしの信仰を強めてください。
心を尽くして、主の御名にあって、アーメン

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July 21, 2005

読書には要注意

詩篇121篇1~2節 (新共同訳『聖書』)

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る
  天地を造られた主のもとから。」

ひきつづき、文学の話。

nikkouの2歳下の妹(nikkouは4人姉妹なのだけど、その次女)は、
毎年、誕生日前後に夏目漱石の『こころ』を読むのだそうだ。
読むたびに、ちょっとずつ違って感じる、という。
なんだか分かる気がする。

「文学は人の心を傷つける」というけれど、
本当は、逆に、読む人の心が、実際の生活の中で傷ついているから、
文学に共感するのかもしれない。
妹の場合、毎年あらたな「傷」を増やし、それを文学の中に再発見しているのかもしれない。

詩篇は、旧約聖書の中の、文字どおり「詩」ばかり並べた章で、
まさに、「絶望」と「希望」のオンパレードである。
傷ついて、癒され、倒れては、起き上がり…。
人の世はそのくり返し、とでもいうように。

…ん?そして、その果てはイエスの「受難」と「復活」?
そういえば「復活」がなかったら、イエスの生涯は悲惨なだけだ。

ある友人が、芥川龍之介が自殺したのは、イエスの復活を信じられなかったからではないか、と言った。
彼の絶望の先には、希望がなかったのか。

でも、nikkouは、芥川を、だからダメな小説家なんだ、とは思わない。
彼の小説の中では、いつも「絶望」と「希望」が綱引きをしている。

クリスチャンはいつも「希望」に満ちている、とは限らない。
ときどき、「うーん、もうだめ」と絶望に沈みながら、詩篇を読んでみたりする。
絶望がちょっとばかし勝っているとき、
詩篇は、まあ、待ってみな、と言い聞かせてきたりする。
「わたしの助けは来る」(詩篇121篇 2節)って。

よっぽど敬虔なひとでないかぎり、
「絶望」と「希望」の勝敗は、紙一重だ。
だから、芥川の「綱引き」は切実で、何十年経っても読み続けられる。

読みたい文学を選ぶコツは、
今の自分がどんなタイプの「傷をうけたい」か、
この小説はどのくらいわたしを「傷つける」か、照らし合わせることかもしれない。
4女が死んだ直後に、死者が怨霊となってよみがえる、というホラー小説を読んだ後味の悪さは、今もふか~い傷になって残っている。おバカですねぇ、はい。

ヒルティはこんなことも言う。
「あまりに多く読みすぎるのは、たとえいわゆる良書やきわめて宗教的な本であっても、
まだ本当に自分の考えの固まっていない人にとっては、不健康である。
というのは、そういう人は
とかく他人の意見や気分にあまりにも染まりやすく、
しかも、それらの意見や気分はおそらく完全に本物とすらいえないし、
またその人自身の事情にも十分ふさわしくないかもしれない。」
(『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫 「6月14日」)

読書には要注意です。

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July 19, 2005

芸術は人の心を傷つけることで感動させる

<7月18日『眠られぬ夜のために 第一部』

「最もよい現代詩であっても、病人や悩める人のためにそれらが果たすところは、
あまりにわずかである。

(「真正な文学」のもっているような「無邪気」と「童心」をとりもどすには)
多くの場合、不幸をくぐりぬけることが必要である。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

ずいぶん更新の間を空けてしまったけれど、その間の『眠られぬ夜のために』のエッセイも良かったのよ。
どんどん日が経ってゆくのが惜しい気がする。
その間も時々のぞきに来てくれていたみなさま、ありがとうございます。

さて、今日は文学論。
ヒルティには、「不幸」や「悲しみ」というものが、生きていくうえで欠くべからざるものだ、という強い主張がある。

「どんな方法でよりも、深い悲しみの時に、われわれは神に一層近づく」(7月10日)
とか
「内的人間も、くり返し、時おり火の中に入れられ、それから槌で急激にきたえられねばならない」(6月20日)
とかね。

かなしいこと、くるしいことを、ぐるりんっ!とひっくり返して
それは大切な、得がたい経験だよ、と言えるヒルティは、敬虔なひとだったんだなあ、と思う。

先日、仕事で、茂木健一郎という脳の研究者の「芸術は人の心を傷つけることで感動させる」という文章を読んだ。
読んだ直後はピンとこなかったのだけれど、
今日のヒルティの箇所を読んで、「あ!」と思い当たった。

そう、心の残る文学は、読むとちょっと胸が痛い。
ちくっ、
きりっ、
ずきっ、
しくっ
…としたりする。
ときどき電車の中でじわっと涙ぐんだり、
家でぐすっと洟をかんだりする。

ここ数日間読んだ本で、nikkouは何度「心を傷つけ」ただろう。

nishinomajo『西の魔女が死んだ』梨木香歩(新潮文庫)では
不登校の女の子の「女の子同士のつきあいってめんどくさくって」という言葉に過去を思い起こしてぐさっとし、






kiyoshiko
『きよしこ』重松清(新潮文庫)では、吃音の少年の口にできない言葉が胸につもっていく様に苦しくなり、






hikarinomeri-go-raund『ひかりのメリーゴーラウンド』田口ランディ(理論社)では、初恋の男の子の病を知ってやるせなくなり、






senkoku『宣告』加賀乙彦(新潮文庫)では、死刑囚の恐怖とともにできないもどかしさを思い、




……うーん、きりがない。

「人は、芸術作品に接することで、積極的に傷つけられることを望む」(茂木健一郎)

そう、わざわざ傷つくために文学を読む。
なぜだろう。
茂木氏にいわせると、脳は、そうした「心の傷」を「記憶」して、この悲しみは自分の人生でどれだけ切実なものなのか、という「判断」を、積み重ねていくのだという。
まあ、そういう言い方もできるかな。

nikkouのことばで言うと、
nikkouが、好んで小説をはじめ文学作品で「心を傷つけ」るのは、
その「痛み」を知る前と知った後では、
nikkouの心が少しだけ違うからである。
(ちなみに、意図的に「登場人物はあんまり変わらない」という小説を書く作家もいる。
でも、読み手はやっぱり少し違ってしまうのである。)

ヒルティ言うところの「不幸」をくぐりぬけ、「火」に焼かれることで、
すこぅし、心が強くなる、
・・・とまではいかなくても、そのシュミレーションをしているのかもしれない。
痛みへの想像力を働かせることが、すこしだけできるようになる。

ところで、上記の本の、登場人物たちは、
それぞれ、ちゃんと、火をくぐりぬけて、心が強くなっているので、だいじょうぶ。
本屋さんで見かけたら、ぜひ一度手にお取りくださいませ。

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July 06, 2005

装丁してみた

20050705_2311_000


愛用している岩波文庫『眠られぬ夜のために』がだいぶ傷んできたので、ハードカバーに自装してみました。
新刊本でも持っているのですが、「増田蔵書」の印がある古書店購入本に愛着があり、ぼろぼろになってゆくのが忍びなかったのでした。
なかなか可愛らしくできたのがうれしくて、会社に持っていって同僚に自慢してまわりました。
出版社なので、本などめずらしくもなんともない人たちなのだけど、
「花ぎれまでちゃんとあるじゃない」とマニアックなほめ方をされたりして、それなりに面白がってもらいました。
(「花ぎれ」というのは、本体と背表紙の間に挟まれている布のこと。飾りです。)
20050705_2315_000

もともとの持ち主の増田さんって、ほんと、どんな人だったのかしら。
ときどき赤線がひいてあるところから憶測するに、年配の男性のような気がする。
かつて古本屋にうっぱらった一冊が、今、中身だけ同じなのに別の顔に装丁しなおされて、
あれこれ憶測されていると知ったら、増田さん、どう思うかな。


ちいさな文庫本がハードカバーになっている、っていうのは、予想以上に可愛らしい。
何度も取り出して眺めてしまう。
ほかにも気に入った本で試してみようと、材料の紙を買い込んできてしまった。
やみつきになりそう。
参照したのが、この本。よろしければお試しあれ。


追記

「自分で作る小さな本」(田中 淑恵・文化出版局)を参照に、実際に装丁してみた方のブログ、HPなどを集めてみました。みなさんとても上手。

ハンドメイドジャングル
http://plaza.rakuten.co.jp/utan7/2017

「PAPELITO」にて田中淑恵さんのワークショップ
http://www.h5.dion.ne.jp/~papelito/News02.htm

またたび村
http://blog.so-net.ne.jp/matatabi/archive/c41388
pata's blog
http://cherish.air-nifty.com/blog/cat2346723/index.html
My Favorite Thing
http://www.enjoy.ne.jp/~neko-yanagi/ha-s-1.htm



まねできないけれど、ユニークな手作り本をたくさん掲載していて、眺めているだけでも楽しいのが、
クラフト・エヴィング商會の「らくだこぶ書房21世紀古書目録」(筑摩書房)です。
おすすめ。

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June 09, 2005

『光に向かって咲け』―斉藤百合について

6月7日『眠られぬ夜のために』

「…もしわれわれが時代精神全体と相容れず対立するとしたならば、
われわれの人格を犠牲にしてまで、それに従うほどの値打ちがあるものはめったにない。
むしろ逆に、個人が時代精神に以前と違った方向を与えたという事実は、
これまで少なくないのである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

友人のてじょんさんのお誘いで、常盤台教会の映画上映会に行ってきた。

てじょんさんのホームページ
http://homepage3.nifty.com/taejeon/

二本立てで、一本はマザーテレサ、もう一本は斉藤百合という女性について。

斉藤百合という女性のことを、nikkouはなにも知らなかった。
戦前、盲人の女性の地位向上につとめた人である。
本人も盲人であった。
その生涯は、岩波新書『光に向かって咲け―斉藤百合の生涯』(粟津キヨ著)にくわしい。
戦前の盲女性がどういう暮らしをしていたか、…などと、nikkouは、考えた事もなかった。
というよりも、そういう問いを、思い浮かべたことすらない。
だから、映画を見ながら、はーっとショックを受ける想いであった。

戦前の女性には、結婚して家庭を切り盛りすることが最も重要な仕事であったという。
今のように、オール電化の世ではないので、家事は重労働。
盲人には危険きわまりない、ということで、
家事訓練は最初から受けられない。
ということは、失明した時点で、結婚することは不可能。
裕福であれば、家の奥深くにひっそりとかくまわれ、
貧しければ、女按摩として、温泉街を流しあるき、父の知らぬ子供を生むことも少なくなかった、というのだ。

斉藤百合は、11歳のとき森巻耳(けんじ)・しげ夫妻のクリスチャンホームにひきとられ、
リベラルな家庭でのびのび育ち、
長じては、東京女子大学の一期生に入学。
当時の日本では型破りな盲人女性であったらしい。
まさに「時代精神」に立ち向かった人である。

盲人の女性に家事訓練を受けさせ、教養を身につける私塾をひらき、
自立と、結婚をする勇気を持つよう励まし、
自身、私塾を経営しつつ、4人の子供を育てた。

クリスチャンでもあった。
当時の男性と、百合との信仰のとらえかたの違いにも、「時代」が現れていて面白い。

日本ライトハウス発行の点字雑誌『黎明』に
「盲女子を性の誘惑から守り、異性に心を向けさせぬために、信仰を持たすべし」と書いた岩橋武夫と、
百合の私塾に入りたい、という手紙をよこした17歳の少女に、
「かたい土の下にも春の息吹は感じられます。
ものみなが、芽吹くこのとき、どうして盲女子だけがからにとじこもっていなければならないのでしょう。
勇気を出しなさい。
神様は必要を満たしてくださるでしょう。」
と励ましの返事を書いた百合。

岩橋武夫の文章に、女子であるnikkouは、信仰をなんだと思っているんだ、とむっとするが、
当時の人びとの眼には、百合のほうが非常識に映っていたかもしれない。

「神を愛する者たち、すなわち神の計画に従って召された者たちにとっては、
すべてのことが共に働いて善へと至る、ということを私たちは知っている。」
(ローマ人への手紙8章28節:青野太潮訳)

まったくね、永遠のときを通して人々の営みを見る神のまなざしからは、なにが善とされるのか、
時代に縛られた人間にはわからない、ということもあるんだろう。
nikkouは、ただしく計画に従って働いているだろうか。
ふぅむ、省みるとなんだかちょっと恐ろしい…。

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May 17, 2005

いつも、いつまでも、祈り続ける

5月16日『眠られぬ夜のために』

「人との交際において最も気持ちのよい、最も有効なものは、落ち着いた、いつも変わらぬ友愛である。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

今日のヒルティの格言で、いささか季節はずれだが、ディケンズの『クリスマスキャロル』を思い出した。
その中には、主人公である冷血な老人スクルージのために祈り続ける人びとが描かれていた。
小説そのものが今手元にないので、ちょっと心もとないのだが、
たしか、スクルージが愛した妹の息子や、雇い人の貧しい男、そしてその家族。
どうしてあんなやつのために祈るのだ!とののしる友人や家族をなだめて、祈り続ける人たち。

ヒルティ『眠られぬ夜のために』第二部の2月19日には、こんな記事もある。
「あなたはある人のため真剣に、くり返し祈ることもしないで、その人に絶望することがあってはならない。」
(草間・大和訳)

映画『クリスマスキャロル』を見たとき、ははあ、なるほど…と思った。
スクルージは、「忘れていた」んだ。
彼は、もともと冷酷な男ではなかった。ただ、あまりにも長い間、人から離れていたので、人の交わりの中にある喜びやあたたかさを忘れてしまっていただけなのだ。
幽霊につれられて、そうした祈り続ける人々を目にし、スクルージは人びとの中に戻ってゆく。
そして、人びとは、彼のことを喜びをもって迎える。
絶えず、変わらず、彼のことを祈り続けていたから、できたことだ。

ほんとに、人は死ぬまでなにがあるか分からない。
神は、それぞれの道のりに、いくつものチャンスを用意する方だ。
もしわたしが友に失望したら、それは、その友を変えようとしている神への挑戦であり冒涜だと思う。
だから、今、もし、だれかの言葉や行いに傷ついても、あきらめないで、神に期待して、変わらず祈り続けよう。
そう決意する。

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May 11, 2005

出会いは神様の筋書き

5月11日『眠られぬ夜のために』

「神のそば近くあることは、それら(宗教的熱狂や興奮)とはまるで別なことで、むしろ全く独特な、静かで、平和に満ちた感情である。
しかもこの感情、すなわち神の近くにあるという喜びは、あらゆる人間的感情のうちでとりわけ強烈なものである。
つまりこの感情は、それが人の心を完全に満足せしめるばかりでなく、またあらゆる制限から精神を解放し昂揚する効果の点で、友情や恋愛やその他の感情とは、とうてい比べものにならないほど強いのである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

2年くらい前、ふと、「わたし、ひとりで生きてゆけるかも!?」と思った。
今の仕事で十分食べていけるし、仕事も、その後もゴスペルやら買い物やらで充実しているし。
恋愛に関しては、ほとんどオリンピック状態(4年に一回。だからもー、国際的なすさまじいイベントのノリとなる)。

30前のそういう娘に恐れをなした母が、佐野洋子著「100万回生きたねこ」という絵本を押し付けてきた。
有名な絵本なので知っている人も多いと思うけれど、
まあ、ある猫がですね、豪勢な暮らしやら、権力的な地位やら、なにやかにやと、この世の富と誉れを思うままにしながら、何度も生き返ってしまって、なかなか死ねないわけです。
しかし、あるとき、メスの白猫と出会い、彼女を深く愛し、白猫が老衰で亡くなったとき、彼は激しく泣き、そしてそのまま死んで、ようやく、生き返らなかった…というお話。

…あてつけがましい母である。

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April 26, 2005

いつか分かる日がくるさ

昨日紹介した『ガンに生かされて』の前書きに、ヒルティ『眠られぬ夜のために』がが引用されていた。
おおお。なんたる偶然。

http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2005/03/ganniikasarete.htm

うつ病がまだ軽かった頃、一年間かけて、まるで牛が反芻するように読んでいた本に書かれていた言葉が浮かんだ。


「どうしたらすばらしい、愉快なことが楽しめるか」を問うかわりに、「今どんな善いこと、正しいことをなし得るか」をたずね、あるいは、この究局の目的のためにどのように自分の状態を改めたらよいかを絶えず問うことに、あなたの全思考力を向けているならば─あなたが住むこの世界について、全く違った、より満足すべき観念が得られるであろう。(中略)
そうなると、さしあたり、善を行う機会さえあれば(この機会がないことはまれだ)、あなたの生活がいくぶん苦しかろうと楽であろうと、また、あなたが健康であろうと病気であろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでもよくなるだろう。(ヒルティ『眠られぬ夜のために』草間平作他訳/岩波文庫)

病に翻弄され続ける今、僕はこの言葉の持つ深い意味を心の奥底で理解する。

しかしまあ、古典の言葉とは、なんとさまざまな状況で受け取られることよ。
若輩者nikkouには、この言葉が死の直前の精一杯の日々を励ますものとなるとは、想像もできなかった。
読み手の人生の深み、彩りにしたがって、言葉も力を増すものだ。
古典の古典たる所以である。

だから、今は『眠られぬ夜のために』のなかで、なんだかよく分からない、ピンとこない、とかっとばしている箇所も、いずれ、「はっ」と思い当たるようになるのだろうね。
そう思うと、時間を重ね、歳を重ねてゆくのも悪くない。

今日のヒルティは、仕事論である。

4月26日『眠られぬ夜のために』
「どんな仕事でもすべて、長い間かかってまわりくどい『下準備』などはせず、
即座に、元気よくとりかからねばならない。
ただちに目標とする中心的な思想に向かって突進すべきである。
その場合、たいてい、重要な思想は、きわめて数少ないものである。
そうすれば、付随的な思想は、仕事をすすめる間に、おのずからそれにつけ加わって思い浮かぶものである。」
(岩波文庫:草間・大和訳)

今のわたしにできるのは、この忠告にしたがって、仕事には「即座に、元気よく」ということを試してみることだけ。
そうすればいつか、「なるほど『重要な思想は、きわめて数少ないもの』だなあ」と思うようになるのだろうか。
今はまだ、なにもかもがとっても大事に見えて、毎日、こっそり小さなパニックを繰り返している。

やれやれ。早く大人になりたい。

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April 25, 2005

ヨブ記とは何か

4月25日『眠られぬ夜のために』

「われわれは神を喜ばせねばならない。神が喜ばれるように、われわれ自身がならねばならない。
…その方法がヨブ記のなかに、おそらく最も如実に描かれているので、それを参照しなさい。」
(岩波文庫版:草間・大和訳)

「ヨブ記」というのは、旧約聖書のなかでもおそらく、かなりの人気を誇る章である。
ヨブというきわめて誠実に生きてきた男がある日突然、10人の息子、娘と、財産と、健康を一気に失う。
そこへ、友人3人が訪れてきて、なぜこんな目にあうのか、ということをヨブと延々議論する、という話である。

最近買った『ガンに生かされて』(飯島夏樹・新潮社)の扉にも「ヨブ記」が引かれている。

「私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私は彼処へ帰ろう」

飯島氏は若いプロウィンドサーファーであった。サーフィンの世界で絶頂を極めた後、ガンに侵され、四人の子供と妻を残して今年2月他界した。死の直前までの想いをつづったのが本書で、年末にはフジテレビのドキュメンタリーにも取り上げられた。絶頂を極めた後、命を奪われる、という状況が、ヨブにシンクロしたのだろうか。これから読む本なので、まだ何ともいえないけれど。

たぶん、ヨブというのは実在の人物ではないのだろう。
単に実在したひとりの男をルポしたような話じゃない。
この物語には、旧約聖書が結実するまでの長い長い時間に起きたさまざまな不条理、そして、何人分もの嘆きがぎゅうっと凝縮している。
そのくらい、ヨブの言葉には、すさまじい迫力がある。

この物語にも、
―当事者でないくせに「わかる、わかる、つらいよね~」と安易に「理解」するな!
…という叫びがびりびり響いている。
友人たちの「なんか、悪い事をした報いじゃないの?」という説教も、安易な慰めも、「むかつく!だまれ!」というヨブの嘆きと憤りはすんごいリアルである。

芝伸太郎「うつを生きる」(ちくま新書)は、ヨブ記について、面白い解釈をしていた。ヨブは、罪と罰が等価ではない、と「応酬思想」を真っ向から否定している、というのだ。そして、神もその発想をよしとする。

じつは「応酬思想」というのは、聖書にも時々見られる。
「神様の言うことを聞かなかったからわたしたちはこういう目にあうのだ、悔い改めよ…」と。
その一方で罪と罰は等価ではない、と主張する「ヨブ記」みたいな話もあったりする。
聖書は一貫しているようでいて、一冊の中にまったく逆に読めるようなことも、同居していたりするのだ。
(だから、聖書の一部だけ読んで、キリスト教とはこういうものだ、と断言できる人はなんて頭がいいんだろう、とnikkouは思います。わたしはクリスチャンだけど、わからないことばかりだよ。神様は信じるけれど、「理解」できない。)

ヒルティは「ヨブ記」から何を読み取ったのだろう。
『ガンに生かされて』の飯島氏は、何を。
そして、わたしもまた、これからの歩みの中で、「ヨブ記」の読み方が変わってゆくだろう。
今はただ、圧倒的に無力な人間の、みじめで苦しい叫びの記録にしか読めなくても。

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April 06, 2005

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)

『眠られぬ夜のために』4月6日

「今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実なものを見分けるある種の本能である。」
(岩波文庫:草間・大和訳 以下同)

『靖国問題』(高橋哲哉・ちくま新書)読了。
問題点を、順を追って解説してあり、論点がまとまっていて、とても読みやすかった。
「靖国問題」とひとことで言っても、かなり重層的になっているらしいし、
そのすべてについて、わたしにまとまった考えがあるわけではないので、
ここでは、いちクリスチャンとして、思うことを書いてみたい。

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April 01, 2005

『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』

ひさしぶりに痛快な本に出会った。
『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵・常野雄次郎著 理論社YA新書)
不登校の当事者であった著者ふたりが、子供不在の不登校論に異議申し立てをする一冊である。

80年代の「不登校もひとつの生き方、選択である」という考え方に、不登校の子供も親も救われてきた。
「ほんとうにありがとう。」と、貴戸さんは言う。
そして―――

「よくも言ってくれたわね。」


ぎくっ、としないか。

そして、もう一人の著者、常野さんはいう。
「登校拒否」を認める論理には、ひとつの物語がある。
「かつて、不登校でした。でも、今は明るい社会人です。」
あるいは、「学校に行かなくても、明るくのびのびやっています、そういう道を選択したのです。」
だけど、

リアリティのないハッピーエンドはもうたくさんだ。

貴戸さんは、こういう。
学校に行きたくない、行けない。いやだ、本当につらい。
だけど。
家で孤独を抱えているのもつらかった。
行けない、でも、行きたい。
どこにも逃げ場がない。矛盾だらけ。
私は、そんな「生き方」を「選択」したのか?
自分でも分からない。
だから、
軽々しく、「わかる、わかる」「理解できるよ」といわないでほしい。
そして、上野千鶴子のことばを借りて、こういう。

「一番望ましいのはよく理解できないが理解できないものがそこにある、ということを認めること」

このメッセージに、私は肩をつかまれて、がくがく揺さぶられるような衝撃を受けた。
――相手を「理解」しなければならない、「わかる、わかる」とうなづいて、あいづちを打って…、
それが人とのベストのコミュニケーションなのだ、と思っていた。
でも、不可能なのである。
わからないのである。
なぜ、この人がそんなことを言うのか、なぜ、あの人はこんなことをするのか。
当然だ。私の得てきたほんのわずかな知識と経験で、なにが分かるというのだろう。
だから、結局「あの人もイロイロ大変だから、しかたないのよね、わかるわ」と、お茶をにごす。
ちっともわかっていないくせに。

「裁くな」いう聖書の思想は、ひょっとして、「理解しろ」ということではないのではないか、とふと思った。
あ、そういえば、イエスも言っていた。

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。」(マルコによる福音書14章6節)

食事の席に突然入ってきて、イエスの頭に高価な香油をそそいだ一人の女。
あっけにとられて見ていた周囲の人々はわれにかえって、口々に彼女を責めた。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。香油を売って、貧しい人に施したほうがいいのに。」
しかし、イエスは逆にその人々を一喝するのである。
「するままにさせておきなさい。」
イエスは「いやん、やめて~」と身をよじって逃げない。
「何があったのか?話してごらん」と肩に手をおくのではない。
「こんなことよりもっといいことがあるよ」と説教もしない。
堂々として、ただ、まるごと受け止める。
女になにがあったのか、なぜそんなことをしようと思い立ったのか、聖書にはなにも書かれていない。
ただ、イエスの、どっしりとした態度だけが、光っている。

ああ、こんなコミュニケーションのあり方があったんだなあ…、と思う。
私はともすると「頭でっかち」な解釈で、人を理解しようとする。
ニューヨークのハーレムで出会った黒人さんたちを「理解」するため、帰国後アメリカ史をひもとき、
いつまでも社会に出てこない友人を、精神科の本を読むことで「理解」しようとした。
でも、わかんないんだよ、ほんと。
だから、正直にいって、「理解しなくていい」って、言われると、ちょっとほっとしたりする。

ごめん、わからないや。
でも、あなたがそこにいることを、私は知っていて、いつも心にとどめている。
それで、いいかな。

貴戸さんは、最後に自分の妹にいう。
不登校の姉を持ち、学校でも家でもいたたまれない思いをしてきただろう、妹。
ごめんね。

わたしには、あんたの気持ちを書くことはできないから、いつかどこかで、何かのかたちで、あんたが自分のことを語るのを、待ってる。

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March 31, 2005

偉大な主人だけに仕える

20050330_2234_000ちくま新書の今月の新刊「靖国問題」(高橋哲哉)を読んでいる。
立ち読みをしているとき、ふと、
「無惨というべきだろう。当時の日本の基督教はここに至って、「神社非宗教」すなわち「祭教分離」の狡知に完全にはまってしまったと言わざるをえない。」
の一文が目に止まってしまったのが運のつき。
戦時中の日本の基督教「無惨」さに一章を割いている。あ~ぁ。例によって、卑怯者NIKKOU、ぐっと目を閉じて偽りの平和の中に逃げてしまいたいところです。

3月30日のヒルティは、
「われわれも、巨人クリストフォルスのように、この地上の最も偉大な主人にだけ仕えようと硬く決心しなければならない。」という。(岩波文庫版:草間・大和訳。以下同)
でもそれが、
「物質的進歩と享楽」であるか、「祖国とその代表者」か、「教会」か、それとも「神とキリスト」か…
それは、あなたが決めること、とちょっと皮肉っぽい。
(訳注によると、巨人クリストフォルスとはカトリックの聖人で、この世の最大の主人を求めているとき、幼児の姿をしたキリストを、それとしらずに背負って川を渡してやり、その途中に川の水で洗礼を受けて彼に従った、という伝承の人物とのこと)

戦時中の日本人クリスチャンは、神様という偉大な主人にだけ仕えようとせず、軍国主義という主人の二人に仕えたから過った、などと口で言うはたやすい。
この本の第一章で、かの時代の、靖国崇拝に対する感傷的な言葉をいくつか引用されただけでもうすでに、わがかよわい信仰は、不安の波にさらわれそうになる。
おおきな時代の波がうねりをもって、私をさらおうとしたとき、私は主イエス・キリストだけに仕えつづけることができるだろうか。
だからこそ、眼をそらさず、今一度、歴史を学ぶ勇気を、神様私におあたえください。

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March 23, 2005

すばらしい境地

3月23日『眠られぬ夜のために』

「もはやいかなる我意も享楽も念頭にないということは、思いもかけぬすばらしい境地である。」(岩波文庫:草間・大和訳)

このとき、怒りは消え失せ、すべての人と心が通い合い、自分の欠点さえもさらりとなくなってしまう…という。

何度も言うが、よっぽどヒルティは素敵なお爺様だったのでしょうね。
今の私に、そんな境地など、とおいとおい。

先日紹介した、『死んだらどうなるの?』の著者、玄侑宗久さんに、
カトリックのシスター鈴木秀子さんとの対談集がある。
そのなかに、そのような「境地」に至っていたのではないか、という人達が出てくる。
鈴木さんが修道院に入るきっかけになったという、聖心会のシスターたちである。
戦前戦中、戦後に至るまで、「敵国」日本にいても一貫して態度が変わらなかったというアメリカ人やイギリス人のシスターたち。
そして、玄侑さんには、山田無文というお坊さんがそうだった。
静かに禅を組んで、若かりしころの玄侑さんが「食って掛かった」のを静かに受け止めたという山田無文。

どんなに熱心に神や聖書の話をしても、愛がなければやかましいドラやシンバルと同じ、
と、ミもフタもないことを言ったのは2千年前のギリシャ人パウロという人だけど、
今でも時々ドラやシンバルがあちこちでジャカジャカと鳴ってうんざりする。

…いや、人のこと、いえません。
私もある人に言われました。
「君は、ときどき『論破してやる~』という意気込みで迫ってくるので、怖い」と。
そして、「『だって、神様はいるんだもん』と駄々をこねるな、態度でしめせ」とも。

おっしゃるとおりです。
きっと私のなかで、「キリスト教を信じる自分の正当性」を主張しようとするエゴが大きくなってしまっていたのでしょうね。
愛が、つまり、あなたへの思いやりがありませんでした。
自分を誇示するつもりなど、さらさらないんですが、もしまたむくむくとそんな傲慢さが頭をもたげてきたら、
どうぞ遠慮なく教えてくださいませ。

シンバルをばんばかじゃかじゃか打ち鳴らす前に、まずは静かにふるまいを正して、神様の前に謙虚でありたい、と
…心がけます。ハイ。

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March 19, 2005

「ある種の世界的倫理観や哲学」について

4480687033.09.LZZZZZZZ昨日付けのヒルティ「眠られぬ夜のために」は、仏教やイスラム教などの「世界的倫理観や哲学」についてキリスト教との比較が述べられている。
ヒルティ自身の文化的時代的背景によるものなのだろうけれど、
あまり理解ある書き方じゃないなあ、と思った。
とはいえ、私のほうが理解している、といえるような事項でもないのだけど。
でも、仏教のことについて、ちょっと書いてみたい。

7年前、大切な人を事故で失った。
その日、急に世界から色が抜け落ちた。
モノクロ映画の中で生きているみたい。
ああ、これが「色即是空」か、と思った。
若くて健康だった人が、突然消えうせるなんて。

文学部だったから、一応「仏教概論」等の授業は受けていて、そのおぼろげな知識で、
なんとなーくの感覚だけど、むかしの日本人に共感したのだった。

最近、玄侑宗久「死んだらどうなるの」(ちくまプリマーブックス)を読んだ。
玄侑さんは、禅宗のお坊さんで、芥川賞作家である。
この本のなかで、良寛の歌が紹介されている。

「形見とて何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

 つまり自然のなかに広がった我々のからだのエレメントは、しばらくするとまた新しい命の材料としてつかわれていくだろう。春の花にも、夏山で啼くほととぎすにも、あるいは秋に綺麗に紅葉する葉っぱのなかにだって、私は居るぞ。それ以外にとりたてて形見を残すこともあるまい。」(「死んだらどうなるの」玄侑宗久)


死んだ身体が焼かれて煙になったり、土になったりして、
やがてそれが植物や動物や、いずれはまた人間の身体の一部になってゆく、
その分子の一粒一粒に自分がいる、と考えてもいいじゃないか、ということだろうと思う。
こうした考え方というのは、昔の日本人にとって、「信ずるもの」「宗教」というよりは、
見たまま感じたままの実感だったんだと思う。

大切な人を失ったとき、大学時代の同級生に無理やり引きずられて、教会に行った。
新宿にある大きな教会だった。
そこで旧約聖書にある「ヨブ記」の話を聞いた。

(「ヨブ記」というのは、ヨブというおじさんが、10人もの子供も財産も健康も一気に失って、
それでも神様を信じる、といったり、神様にうらみごとを訴えたりするお話で、
文学的にはこの世の不条理を現した話として、わりと評価が高かったりする。
でも、信仰的にはよく分からない話である。)

なんて気の毒な人がいたものだろう、と思った。
そして、なんと残酷な神だろう、と思った。
牧師の話のオチも、とってつけたようで、ひどかった。
そのうえ、同級生は、私に信仰を迫った。
キリスト教もクリスチャンもきらいだ、と思った。

そのとき圧倒的になぐさめになった考え方は日本の仏教だったといえる。
少なくとも、自分のおかれた状況を理解する手助けにはなった。
なるほど、すべてはむなしい。「諸行無常」だ、って。

イエスに出会ったのはそれから3年後である。
「求めなさい、そうすれば与えられます」という彼のせりふは、
わたしには、「あきらめないで、あなたの命はむなしくないよ、その意味はきっとあるよ」
と聞こえた。
びっくりした。
「ああ、意味を問うてもいいんだ。答えはあるんだ」と思った。
ぼんやりしていた世界が、またくっきり見えるようになった。
だから私は仏教徒ではなく、クリスチャンになった。

キリスト教と他の宗教は簡単に比較できない気がする。
それもまた、私にとっては
「求めなさい」といわれる課題のひとつだと思っている。

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