May 31, 2008

「優劣のかなたに」―大村はまさんのこと

全国集会では、のべ50人近い人の証し(体験談)を聞いた。たとえは悪いかもしれないけど、『遠野物語』(柳田國男)みたいだったよ。
市井の人のささやかな生活の中にある、ささやかな奇跡や感動。
まさに珠玉の短編!って話もあれば、とうとう時間内に収めきれずに、すさまじく取り留めのない話になってしまっている方もいた。

プログラムによって時間はさまざまで、一人20分のスピーチの場合もあれば、分科会などで一人3分、ひとことずつ、ということもあった。
時間がくると、小さなベルが「ちーん」となる。
大勢の人が聞いているところで、3分くらいで、上手にお話をするっていうのは、かなりのテクニックがいる。
ときどき鳴る「ちーん」を聞きながら、nikkouはふと、大村はまさんを思い出した。

41ct2tbowdl__ss500_ はまさんはnikkouの勤める教科書編集部の、精神的支柱となっている教育者のひとりだ。
3年前の4月に98歳で亡くなった。
有名な大学の教授とか文筆家とかというわけではなく、生涯、ごく普通の公立中学校の国語の先生だった。

この先生、今から50年前から、中学生に「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」を徹底的に仕込んだ人である。
いま流行りのフィンランドメソッドやらPISA型なんかも真っ青の、実力重視。
はまさんの言葉でいえば「聞きひたり」「話ひたり」「読みひたり」「書きひたる」国語教育。

はまさんが「時間内に、わかりやすく話をする訓練」に使ったのが、まさに「ちーん」となるベルだった。

はまさんの授業は、たとえばこんな感じ。(教室をいきいきと1』より要約)
はまさんはよく、グループ学習をした。学習の目的によって、グループのメンバーがかわり、そのつど、席替えをした。
そのために、席順表を配る。
そして、ひとつ、注意をする。
「おれの席はどこだぁ?」とか「○○ちゃん、こっち、こっちよぉ」とか、やらないこと。
「どこだあ」と聞かなくても、席順表を見ればわかります。
また「○○ちゃん、こっち、こっちよぉ」というのは、相手がわからないとでも思っているみたいで、大人の場合、失礼です。
これは、単に、授業中は静かにしなさい、というしつけではなく、その後、授業で展開していく「話し合い」(今で言うディスカッション)のための下準備だそうだ。
仲良しのだれだれちゃんと同じ意見、とか、
みんながそう言うならそうだと思います、
というくせをつけない。
相手を一人の大人として尊敬し、また自分の意見を堂々と発表する下準備、というわけ。
もちろん、これは下準備で、これ以外にも、「相手を尊敬し、自分も堂々とする」ための工夫がてんこもりにある。
はまさんの一番のモットーは「明るく生き生きした教室」だった。
そして、そのために重視したのが「優劣のかなた」だった。
中学の国語の授業では、生徒が優越感や劣等感を抱くことがあってはならない。
そうではなく、ひとりひとりにあたえられた能力の中で、ただ「聞きひたり」「話しひたり」「書きひたり」「読みひたる」。そういう態度を身につけさせる。

はまさんは「学力」観は、目の前の受験だけでなく、人生全体を見通したものだった。
たとえば、将来、夕食の買い物がてら、スーパーの袋を下げて本屋さんに寄れる奥さんになること、会社の会議で「話し合い」の上手な人になること、育児のふとしたことを書きとめたり、つらい気持ちを、書くことで整理したりできること…、そんな、豊かな言語活動を身につけた「大人」になることだった。

2005年4月、はまさんが亡くなった時、「大村はま先生のお葬式は、○○教会にて。」と聞いて nikkouは、思わず、イスがひっくり返りそうな勢いで飛び上がってしまうところだった。
そうか、はまさん、クリスチャンであったか!
うかつにも、はまさんの講演会で肉声を聞き、著書も読んだのに、まったく気付かなかった。
しかし、たしかに、「優劣のかなた」とは、聖書的だ。ひとりひとり、体の器官のように役割があって、目が耳に、「あんた、耳のくせに」なんて言わない。それぞれが最大限の役割を発揮せよ、とね。
はまさんは敬虔ぶって、聖書を引用したり、清らかなことを言うタイプの人ではなかった。
主イエスの「神の国と神の義をまず求めよ」というみことばを、自分の持ち場でどのように実践するか、真剣に考えて、命がけで実践した人だった。
口先でなく、生き方そのものから、キリストの香りが香る人、押し付けがましくなく、仕事のなかで、ただ黙々と聖書を実践すると、こうなるんだ、という人。人間だから罪も犯すけれど、方向性においてはきっと、間違っていない、という人。
そういうクリスチャンに、nikkouもなりたい。

3分以内で証しが収まりきらなかった、という方、
ぜひ大村はまさんの著作をどうぞ。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

March 05, 2008

イエスの容貌

Acchrist_3 先日、高校国語の参考書をぱらぱらめくっていたら、本文の「キリスト」に注がついていて、脚注に「キリスト」の写真、もとい、絵の写真が載っていた。トルコ・アヤソフィア寺院蔵。

nikkouの脳裏に、アノ「源頼朝」やアノ「聖徳太子」が焼きついているように、高校生の脳裏にはこの「キリスト」が焼き付いちゃったりしそうです。

↓nikkouが初めて「イエス・キリスト」を知った本。
情操教育のためか、5歳のとき、父が買ってくれた。

212ek4pchhl_aa140_ 『わたしたちのイエスさま』
シルベリオ・ピス (著)、三浦 綾子 (翻訳)。

記憶のなかでは、おもいっきりアングロサクソン・イエスがシャンプーのCMみたいに、長~いサラサラの金髪を風になびかせながら、種をまいたり、船に乗ったりしていたような気がします。

幼いころの刷り込みというのは恐ろしいもので、nikkouは長い間、イエスは金髪のヨーロッパ人だと思っていました。

実際はユダヤ人なので、たぶん黒髪、黒眼。肌は浅黒く、彫りは深いほうだろうと思われます。ただ、聖書に彼の容姿に関する記事はない。容貌をたたえる記事すらないので、外見はごく普通の人だったのかもしれない。
上記の本、絵のタッチもすごくリアルで、
サタンなんか、オイルをテラッテラに塗ったボディビルの選手みたいでした。

のなんとも西洋的な空気が5歳児には新鮮で、
何度も眺めたものでありますが、
小学校に上がるや否や興味を失い、
絵本もどこかへ。
そして長い間絶版だったのですが、
アマゾンの古本に出ていることに気づきました。
買おうかなあ、買うまいかなあ。
でも、実際に見たら笑っちゃいそうだなあ。
記憶の中に活かしておくのが一番かなあ。

(ちなみに、ほぼ隔週くらいに我が家にやってくる、某キリスト教三大異端の一派の人たちがくださる機関紙の絵のタッチが、なんだかこの絵本と似ていて、機関紙を見るたびに、そこはかとなく、なつかしい。さらに余談だけど、彼らがくるたびに、nikkouが岩波聖書とか注のついた新共同訳聖書とかと彼らの聖書をつきあわせるせいか、最近、彼らはまったく聖書をひらかず、機関紙をわたすと、後ずさりしながら去っていってしまう。nikkou、いぢめてる?)

Dscn0686ちなみに、アメリカはNY,ハーレムの黒人教会の廊下に貼ってあったイエス像。

黒人さんです。

映画「パッション」は、まあ名画だとは思いますが、ジム・カヴィーゼル演じるイエスは、ちょっとアメリカーンな気がしました。

51vzcrcjk2l__aa240_ 写真集「ジーザス」(いのちのことば社)でブルース・マルチアーノが演じたイエスは、くちゃっと笑う感じが庶民的で気さくなあんちゃん風でいいです。

nikkou自身、讃美や祈りで「イエスさま」と呼びかけるとき、どんな容貌を思い描くかというと、・・・まったく浮かばないんですね、これが。

存在感みたいなものだけ。

あえて像を結ぼうとすると、やっぱりどことなく東洋人的になるんじゃないかという気がします。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

February 07, 2008

イーユン・リー『千年の祈り』

またまた本の話。41esfp46lbl__ss500_ イーユン・リー『千年の祈り』(篠森ゆりこ訳)

表紙からなんとなく韓国の話だと思いこんでいたので、読み始めるなり中国を舞台にした短編集だと気づいたときは、ちょっと面食らった。

でも、とても面白かった。

中国の作品で記憶にあるのは、莫言の『豊乳肥臀』と、彭見明『山の郵便配達』、あとはユン・チアン『ワイルド・スワン』くらいだけど、今回の『千年の祈り』も含めて、いずれも、同じ感覚を起こさせる。

なんていうか、善悪の基準とか、正義とか、人類の進歩とか、

そういうものが、一切、信じられなくなる、という感じ。

四千年の歴史の凄みですかねー。

読みはじめるなり、いちいち途方もないような、馬鹿馬鹿しいような気がして、

最初、なんともいえない嫌悪感が湧くんだけれど、

だんだん、SFを読んでいるようなワクワク感に支配されはじめ、

最後はしみじみと、人間ってわけのわからない存在だなあ、と思わされる。

やはり中国を舞台にした小説に、アメリカ人宣教師の娘パールバックの『大地』があって、これもとても面白いんだけど、イー・ユン・リーや莫言、彭見明に感じる途方もなさみたいなのはなく、どことなくすんなり収まっていた。

中国に少なくとも4代は生きて、王朝、戦争、内戦、文化大革命、毛沢東の失脚、天安門事件…等を“家族”の歴史、「私たち」の歴史として、内側から知っている人たちの物の見方には、世界中、だれもかなわない、という気がする。

51uroeoebl__aa240_ 『千年の祈り』の一篇、「息子」には中国のクリスチャンがちらっと出てくる。…んだけど、キリスト教すら、中国には、どんぶりこっと飲み込まれるような感じがします。というか、互いにがっぷり飲みこみあっているというか。クリスチャンのくせしてnikkou、そこになにか痛快なものを感じました。

訳者あとがきによると作者のイーユン・リーは、この作品を英語で書いたそうな。

中国語で書こうとすると、なぜか自己規制してしまう、という。

そんなひと言にも、「ああ、これは内側の人が書いた物語なんだ」と思った。

(2008.2.7)

| | Comments (2) | TrackBack (0)

January 08, 2008

ベルセポリス

Photo 今、渋谷で「ベルセポリス」という映画が公開中。

すごい、観たい。

原作はマルジャン・サトラピ『べルセポリス』。

ほかに『刺繍』という本も翻訳されていて、昨年、イランにはまった勢いで読んだ。
イラン出身パリ在住のサトラピはグラフィックデザイナーで、
この本たちも、日本で言うところのまんが形式です。

彼女の著書には両方とも、サトラピのおばあちゃんが出てくるんですが、
この人が、もう、すんばらしいんであります。
聡明で、勇気があって、若々しくて、おしゃれで、セクシーで、経験豊富で、現代的。
はねっかえりの孫娘に理解を示しつつ、言うべきことはきっちり言う。

「恨みや復讐ほど最悪なことはない。いつも毅然として、自分に公明正大でいるんだよ」

というのが、おばあちゃんの忠告で、そしておばあちゃんの生き方そのものである。

息詰まるような社会で、人々がどのように感じ、どのように生きているか、ユーモアとペーソスたっぷりに語られている。

じつは、nikkouの書棚には大量のイスラーム関係書が眠っている。
昨年、讃美仲間の1人が「シオニスト=クリスチャン」であることを知って、あわてて買い集めたのだ。

「シオニスト=クリスチャン」ってのがどういう人たちをいうのか、わたしもよく知らないのだけど、
この友人の場合、まず、パレスチナにユダヤ人が入植したことは、神の意志である、と信じている。そして、全世界にちらばっているユダヤ人を説得して、パレスチナに入植させている(この友人は、翻訳作業を通してその手伝いをしている、という)。その結果、それまで某国で医者をしていたユダヤ人が、パレスチナでは食うや食わずになったりするという。
「えー、それって、かなり不自然な話なんじゃないの。中東の石油をねらっているアメリカの思惑にのせられてるだけなんじゃないの~」と
思わず口走ると、
「それはどこで聞いた話?」という。
「テレビ。」
「日本のマスコミは偏ってるんだよ」

…さようですか。
まあ、たしかに、あたしは、パレスチナはおろか、イスラームについてもユダヤについても、まったくの無知ですわ。
で、パレスチナ関連書と、それに類するイスラーム関係書を買い集めたってわけ。
ただ、まあ、そのうちね、と思って積読していたのです。

小説をきっかけに、一気にイスラーム革命を経験したイランへ導かれたわけですが、
なんだか、ミャンマーについて読みふけったときと、まったく同じ事態が発生中。
ヤスミナ・カドラやアーザル ナフィーシーが描く抑圧的なイランもイランなら、サトラピが描く聡明でセクシーなおばあちゃんもイランである。
革命や戦争はどの本にも描かれているけれど、とらえ方はそれぞれ微妙に違う。
怒りだったり、共感だったり、あきらめだったり、無視だったり…。
そして、イランという国がどんどん輪郭を失っていくと同時に、
イランの人々がどんどん身近になっていくのを感じる。

でもこれはちょっと、おもしろい感触でもある。
イランからパレスチナにむかって、このまま突き進もうか、思案中。
でもなんか、抜けられない深いもんが待ってそうで怖い。

| | Comments (0)

November 19, 2007

小説について

415zjrecb5l_aa240__2
『サフラン・キッチン』『カブールの燕』に触発されて、『テヘランでロリータを読む』を読んだ。
今度は、ノンフィクション。
イランではホメイニーによるイスラーム革命以後、人々の生活が大きく抑圧されるようになるのだけれど、そのあおりで大学の職を追われた英文学の先生が、自宅でこっそり女学生たちとともに英文学を読んだ記録である。

なかほどまで読んだところで、あれ、どこかで読んだ状況と似ているぞ、と思う。
…あ、あれだ、『ワイルド・スワン』。中国の文化大革命を描いたノンフィクション。
ホメイニーのイスラーム革命は1970年代、中国の文化大革命は1960年代で、ちょっと遅れるけれど、まねしたのか?

しかし、イランにせよ中国にせよ、かつて世界的な文明を誇った国が独裁化するにあたって、そうした過去を否定するかのように、暴力的に文学や芸術を抹消しようとするのはなぜなんだろう。

イランはイスラーム国家だけど、
不肖キリスト教徒のnikkouだって、「聖書以外の書物、特に文学を読むことを禁ず」なんて法律の国なんかにいたら、速攻、亡命する。
…と、言ったら、相方が、自分は文学を読まなくてもなんの痛痒も感じない、てなことをほざいた(←nikkouまだちょっと怒っている)。
そういえば婚約中にも、
某作家について「同時代人であることを幸せに思う」とnikkouが熱く語ったら、「小説など読むなんて、時間の浪費だ」というようなことを相方が言い放って、大喧嘩になった。
あの喧嘩をもう一度かと身構えたところ、
「まあ、nikkouさんの文学観と、俺の文学観はどうも違うようだから、話し合いにならないよ」と逃げられた。

200604201812000
今、nikkouは教科書編集部にいて、教科書編集の時期になると、高校生に読んでほしい小説とはなにか、ということを会議で議論し、たくさんの小説を読む。
そんなこんなで発掘した小説の新教材を携え、学校に営業に回ると、
面白いことに男子校の100%で言われる。「うちは男の子だから、小説がわかんないんだよね」。
で、女子校の100%で言われる。「うちは女の子だから、小説ばかり読むんですよ。」
…小説の好き嫌いに男女差があるものなのか?
イスラーム社会では男性に圧倒的な支配権があるらしいけど、女性を抑圧するのと同じ理屈で小説を排斥するのか?

あるベテランの国語の先生がnikkouに言うには、文学の好き嫌いなんてのは、後天的なものだそうだ。
文学を楽しむ家庭環境にいなかったか、最低最悪の国語教師に文学の世界の喜びを奪われたか、どっちか。
たしかに、小説家も詩人も文芸書編集者も男女とも同率くらい(?)いるように思える。
身近なところでは、nikkouの父は文学が好きで、どっさり積もった本で家はいつも薄暗く、床はぬけそうだった。
そんな環境で育った娘たちは、外出時、化粧ポーチは忘れても文庫本は忘れない人間に育ったので、やはり後天的なものかもしれない。
(相方のほうは図鑑や科学読み物ばかり与えられて育ったんだそうだ。)

男は生まれつき文学がわからない、というものではないのだ。
当然イランにだって、文学好きの男もいる。
そして、文学を好きになると、他者を抑圧することは不可能になる。
なぜなら、よい文学は、いやおうなしに、自分とは全く違う他者の痛み、他者の悲しみ、他者の喜びを、まるで自分のもののように体験させる力を持つものだから。
だから、文学に惹かれた男たちが、葛藤し、反発し、あるいは現実との戦いに敗れ虚しく引きこもっていく様子も、確かにこの本には描かれている。

そして、女たちは、
学ぶこと、働くこと、人を愛すること、人前で笑うさえことも禁じられた女たちは、それこそ必死に、命がけで文学を読む。
その喜びは、あまりにも鋭く、あまりにも深く、
わが身に引き比べて、なんだか恥ずかしくなる。
岡真理さんのいう、イスラームの女性は哀れで愚かな存在なんかじゃない、というのは本当だ、ということがよく分かる。
彼女たちは、いつか、内側から、社会を変えるかもしれない。
だから、今わたしにできることは、彼女らに同情すること、優越感にひたることじゃないんだな。
どうすりゃいいのかわからないけど、たとえばただ、じっとその彼女たちの状況を心におぼえておくことも大事かなと思う。

| | Comments (4)

November 05, 2007

イスラーム世界の恋

彼らがしつこくたずね続けていると、彼(イエス)は身を起こして、彼らに言った。
「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネによる福音書8章7節)

41wsm19pbjl__aa240_
アラブ文学の研究者で、第三世界フェミニズムの論者でもある、岡真理さんという学者さんが、『彼女の「正しい」名前とはなにか』(青土社)という本のなかで、
イスラームの女性に対して、
「あなたたちは古い因習に抑圧された気の毒な方たちだ」
という言い方をしたり、
彼女たちをその抑圧から解放するように求めるキャンペーンを叫んだりすることは、
誇り高き彼女らを、傷つけることなのだ、という意味のことを書いている。
もしその世界の価値観が打ち破られるとするなら、
彼女たちの意思で、また彼女たちの力でなされるべきであって、
「第三世界」からの搾取から成り立っている「先進国」の人間たちが、自省することなく強制的に変化を要求するなんてのは、
逆に彼女たちを貶めることだ、と。

それを読んだときは、なるほどなあ、気をつけなければなあ、と
素直に思ったのに、
ここんところ、立て続けにイスラーム圏の作家の小説を読んで、
激しく揺さぶられている。

51xq8hysryl__aa240_
ヤスミン・クラウザー『サフラン・キッチン』(新潮社クレストブックス)。
綺麗な表紙に惹かれて買ったのに、
なかなかショッキングな内容だった。
作家は、母親がイラン出身のイギリス人である。

ヤスミナ・カドラ『カブールの燕たち』も読んだ。
タリバン政権のもと、混乱のカブールでの、二組の夫婦の衝撃的な生き方が描かれる。
この作者はアルジュリアの軍人だった人で、現在フランスに亡命。

51xdlkwdqrl__aa240_
いずれも、人々―とくに女性に
対して、あまりにも苛酷な状況に思えてならない。
前近代的、非人道的、抑圧的、理不尽で、野蛮で、暴力と差別に支配された、暗く貧しい世界…
そうとしか言いあらわしようがないのではないか、と
思わずこぶしを握りしめてしまうような、そんな世界。
日本も「格差社会」になりつつある、なんていうけれど、
ここに描かれているのは、本当の「格差社会」、
生まれた家や性別や環境によって、与えられるチャンスも、生きていく道のりも、あらかじめ厳然と定められている社会。
裁くな、という言葉を反芻して、
岡真理さんの忠告に従おう、と思いつつ、ただ、胸はちくちくと痛む。
もう、ほんと正直言って、「イスラームに生まれなくってよかったなあ」と思っちゃうもんね。

で、ありながら、
『サフラン・キッチン』の主人公、マリアムは、ロンドンでは見つけられなかった深い愛を、イランの大地で取り戻し、
『カブールの燕』では、ひとつの恋に激しい祝福が、命がけの祝福が、与えられる。
自由に恋をし、自由におしゃれをし、教育でも職業でも、チャンスは与えられるべきものとしてある社会では、きっと得られない、激しい恋と激しい祝福。そして、抑圧を跳ね返す、愛への渇望。
激しすぎて、呆然とする。

『サフラン・キッチン』なんて、会社の昼休みに読み終えちゃったもんだから、午後はしばらく仕事にもならずに、ぼーっとしてしまった。

『カブールの燕』では、石打ちの刑のシーンがある。
聖書にも出てくるんだよね、石打ち。まさに姦淫の現場を押さえつけられた女に対して行われようとする。現代でも、親の決めた結婚相手以外の男に恋をしてしまったイスラームの女性は、姦淫の罪を犯したとして、殺されてしまうらしい。
ああ、そうだとすると、この聖書の「姦淫」の女というのは、
たとえば30歳くらい年上の夫に、強制的に嫁がされて暴力と差別を受けていた中で、本当の恋を見つけてしまった人だったりして。―小説の読みすぎかな?
イエスはこの時、「罪のないものから石を投げよ」と言い放って、人々をたじろがせてしまうのだけど。

聖書の中の、古代の言い回しでさっくり書かれている石打ちの刑とちがって、
現代小説において、現代を舞台に描かれる石打ちの刑というのは、けっこう壮絶で、
nikkouの想像の棒高跳びバーなんか、楽々はるか天空へ飛び越えちゃう感じだった。

| | Comments (0)

December 17, 2006

バビロンの流れのほとりにて

『眠られぬ夜のために』第二部

「12月13日
『詩篇』第90篇、第116篇および第118篇は、数千年後の今日でも、人生のいくたの辛酸に鍛えられた人物がつい昨日その備忘録に書き付けたかとおもわれるほど新鮮で、いきいきと真実感にあふれた、三つの太古の歌である。『詩篇』第37篇(とくに第25節を見よ)、第109篇および第110編は、さらにその補足となるものである。(以下略)」

(筑摩叢書・前田敬作訳)

詩篇116編は、nikkouも感動したよ。この詩は「わたしは主を愛する。」で始まる。「主に仕えよ」とか、「主のいましめを守れ」とかいうフレーズの多い旧約聖書で、こんなに気持ちのいい信仰告白はないかも、と思ったくらい。
詩篇には、ゴスペルの歌詞になっているフレーズがたくさん出てきて、読んでいるとつい口ずさんでしまう。ゴスペルに採られているのはやはり、軽快な調子の詩が多い。
でも、そういうのばっかりじゃないんだな、詩篇って。それこそ寛容の精神のかけらもないようなおどろおどろしい呪いとうらみに満ちた歌とか、絶望の淵から呼び求める、みたいなものもある。ヒルティが挙げている109篇「わたしの讃美する神よ、どうか黙していないでください」とか、有名な137篇「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」とかがそうだ。nikkouもそういうの、嫌いじゃない。人間臭くって。『聖書』っていうものが、清らかな道徳書なんかじゃなく、長い年月、人間が積み重ねてきた実感を詰めた本なんだ、ということを深く感じられる気がする。

9784480085115
詩篇137篇で、ふと思い立って、森有正「バビロンの流れのほとりにて」を読み始める。前半はヨーロッパの教会や美術館で観た絵画について、見事な描写が続く。筆のタッチや色使いはもちろん、飾られた部屋の空気とか光の当たり具合まで目に浮かぶようで、これはもう、実物の絵は見ないほうが、かえっていいんじゃないか、って気がするくらい。特に宗教画の描写がすばらしくて、その部分だけ繰り返し繰り返し読んでしまう。

森有正の最晩年の恋人は、栃折久美子さんという筑摩書房の元編集者だった。栃折さんは退社して装丁家として独り立ちし、同時に森有正の私設秘書のような立場になって、こまごまと身のまわりの世話をしたらしい。その辺のことは、栃折さんの『森有正先生のこと』という回想録に詳しい。
9784480814555
二人の関係について、森有正のこんな言葉が残されている。

「お仕事のこと、これを私はまず第一に考えます。私どもはそれぞれ主体的には第一人称の人間、したがってお互いには第三人称(二人称ではありません)の人間でなくてはなりません。だから、お互いの関係は信頼ではなく、信仰なのです。」

栃折さんを、大事な仕事をするひとりの人間として認め、自分自身も、きちんと責任を果たしたいといったところ。森有正の文章を読むと、クリスチャンなのかそうじゃないのか、いつも微妙な感じだけれど、大切な人との間では、ちゃんと「第三人称」になる。つまり、「この世にあなたと私、ふたりっきり」じゃなくって、主という第三者の前で「彼、彼女」という対等な存在であることを意識していた感じがする。
こういうのが大人の男女の関係なんでしょうかね。

栃折さんはやがて森有正に励まされたその仕事が軌道にのり、そのまま、のめりこんでいくうちに、森有正と疎遠になっていく。
そんな栃折さんの様子を、深く深く理解しながら励ます、森有正の手紙は良かった。『森有正先生のこと』は、時々、ぽんっと投げ出すように森有正のことばが記録されてあって、行間をあれこれ読まなきゃいけない。それがなんだか、ひとりよがりな感じがして、正直ちょっと、いらっとするんだけど、でも、その「いらっ」てのをすべて忘れてしまうほどいい手紙だった。

「時の流れは実に早く、しかも我々は時の中をうしろ向きにしか進めないのです。… わたしもあとずさりをしながら進んで行きます。時々横目であなたをみます。もしうしろに崖があったら、横からは見えますからすぐ教えてあげます。」

こんな手紙を送ってすぐ、森有正はなくなってしまう。
そして栃折さんは、森有正と結婚しなくて良かった、結婚していたら、森有正になにもかも捧げつくしてしまって、今の仕事はなかった、と振り返る。いさぎよい。
うしろ向きに進みながら、見えているものが、最終的に納得のいくものだったら、本当にいいよね。
仕事でも、恋愛でも。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

October 09, 2006

ミャンマーの「真理」

『眠られぬ夜のために』第二部

「10月8日

われわれは、人間や世界について多くのことをまなび
知れば知るほど、
キリストの人間知の偉大さにおどろき、
また、この人間知のかわりにべつな世界観を立てようとする人たちの愚かさに
おどろかざるをえない。」

(筑摩叢書:前田敬作訳)

みなさま、ごぶさたしておりました。
帰宅してからも、本ばかり読んでおりました。
なにを読んでいたか、というと、じゃーん、ミャンマー(ビルマ)関係書です。
200610091234000

左上から
*『ミャンマーの柳生一族』
 高柳秀行・集英社文庫・2006年3月25日
 (初出「小説すばる」2004年8月~2005年10月)
*『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』
 田辺寿夫・根本敬・角川Oneテーマ21・2003年5月10日
*『ミャンマーという国への旅』
 エマ・ラーキン・大石健太郎訳・晶文社・2005年8月30日
 (著者がミャンマーを訪れたのは1995年)
*『マヌサーリー』
 ミンテインカ・高橋ゆり訳・てらいんく・2004年8月10日
 (原著の初版は1976年)
*『自由―自ら綴った祖国愛の記録』
 アウンサンスーチー著・マイケル・アリス(アウンサンスーチーの夫)編
 ヤンソン由実子訳・集英社・1991年12月20日
*『変わりゆくのはこの世のことわり マウン・ルーエイ物語』
 テイッパン・マウン・ワ著・高橋ゆり訳
 てらいんく・2001年3月20日
 (原著は1930年~1941年に発表)
*『ミャンマーの実像―日本大使が見た親日国』
 山口洋一・勁草書房・1999年8月30日
(著者がミャンマーに滞在したのは1995年)
*『希望の声』
 アウンサンスーチー著・大石幹夫訳・岩波書店・2000年7月26日

で、ミャンマー(ビルマ)についてなにか分かったか、と申しますと、
読めば読むほど、分からなくなる!というのが正直な感想です。
旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』を思い出しました。

「知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す」

(1章18節)

最初の2冊めを読み終わったときは、「もー、ミャンマーのことはなんでも分かった!」と思いました。
「軍事政権」という言葉のおどろおどろしさと裏腹に、東南アジア特有のなんくるないさー感がたゆたう、微温的な国。
でも、子どもの駄々のような軍部のてきとーさによる経済破綻と人権侵害に国民はうんざりしていて、
そんな中で、東洋の精神性と西洋の知性が融合した才女アウンサンスーチーが民主化運動を進めている国。
その軍部は日本が戦時中にイギリスからの独立をけしかけてこさえたそうな…。

ところが、3冊め『ミャンマーという国への旅』にきて、ふと、不安になりました。
この本が描くのは、軍部による文化人への激しい迫害や、教育の崩壊、そして恐怖。先の2冊は、表面的な理解だったのだろうか。それともこの本が極端なのか。
さらに4冊目『マヌサーリー』を読んで、途方にくれました。
ミャンマーで最も人気のある小説だそうですが、nikkou、この小説の面白さが、さーっぱり分からなかったのであります。

アウンサンスーチーの『自由』に描かれていたのは「発展途上国、最貧国ビルマ」ではなく、王朝文化と仏教の倫理観に培われた豊かな国であり、今は、アメリカ型資本主義でも、もちろん高圧的な軍事政権ではない、最善を求めて歩み続ける一つの国でありました。

今、『変わりゆくのはこの世のことわり』を読んでいるところ。70年前の小説ですが、これはちょっと面白い。
次に『ミャンマーの実像』を読もうと思っている。
『ミャンマーという国への旅』と同時期のミャンマーに滞在した日本大使の記録です。
ぱらっとめくったところ、「ミャンマーに人権侵害はない、軍事政権はたいへんよろしくやっている、アウンサンスーチーにだまされてはいけない」的な主張のようであります。今まで読んできた本と真逆の主張のようです。
200610091228000

以上、どの本も、それぞれミャンマーの一面なのでしょうが、読めば読むほど、全体は分からなくなる。
だいたいにして、日本人の私たちだって、日本の現状と日本の将来のことなんかそう的確に分かっているわけじゃないです。ましてや、外国の現状と将来なんて、わかるはずがない。

「コヘレトの言葉」とか「ヨブ記」なんかでは、よく、「人間には、なーんも分からないのさ」ということが主張されている。限られた期間、限られた場所、限られた人しか、知らないのに、知ったようなことなど、言えるだろうか。

イエスの言葉、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31節32節)も思い出されました。

「真理」というのは、つまり、「人間には、なーんも分からないのさ、知っているのは『永遠の主なる神』だけなのさ」ということなのかしら、と思います。
「ああ、わたし、なーんも分からんわ」と思うと、確かに、偏見や傲慢さからは「自由」になれますな。

では、nikkouには何が出来るのか。
主イエスの言葉にとどまるならば、やはり「あなたの隣人を愛せ」だろうと思う。
ユーミンちゃんがどんな立場であろうと、どんな考えだろうと、nikkouはユーミンちゃんの「best friend」だ。(←ユーミンちゃんが、そう言ってくれた)。ミャンマーはユーミンちゃんの国で、nikkouには、何も口出しできない。
ただ、日本にいる間、日本のいいところも、もちろん悪いところも、できるかぎり案内してあげようと思う。
そして、ユーミンちゃんのミャンマーでの活躍に、少しでも役立てればいいと思う。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

September 25, 2006

ろうあ教会で讃美

『眠られぬ夜のために』第二部

「9月24日

あなたが心軽やかな生活を望むなら、マタイによる福音書6章33節~34節に従って生活しなければならない。

マタイによる福音書6章33節~34節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」

(岩波文庫:草間・大和訳)

今日はろうあ教会で手話讃美の発表会。
ろうあ教会の礼拝から参加したのですが、とても興味深かった。
200609241119000
讃美歌は、太鼓で礼拝堂を振動させてみんなを一致させる。
聖歌隊(聖手話隊?)もちゃんといる。
200609241119001


メッセージは健聴者の牧師さんだったので、手話通訳がついていました。おかげで、手話の勉強になった。
礼拝後、「風の音」で讃美を披露したのですが、「とてもきれい」「合格」とお褒めいただきました。ほんとは緊張して、あちこちぶっとんじゃったんだけどね。また頑張って練習します。

Wildswan1
さて、ろうあ教会の方の中に、中国からいらいしたMさんという女性がおられました。
日本の手話もぺらぺら(?)なので、日本人ろうあ者とのコミュニケーションには不都合はないとのこと。
実はnikkou、たった今、ユン・チアン著『ワイルド・スワン』を読んでいたところ。
『ワイルド・スワン』とは、抗日戦争、共産党と国民党の内乱、そして文化大革命を経験したユン・チアンの祖母、母、自分と三世代の回顧録であります。
406263813409
ちょうど文庫の下巻が手元にあったので、取り出して見せたところ、Mさん、「はっ」と息をのみました。そして、「この著者のおかあさんと私のおかあさんは親友だった」とおっしゃるのです。
「ひぇっ」と、今度はnikkouが息をのみました。
文庫の口絵には写真が載っているのですが、その写真を指差しながら、「ユン・チアンの弟と、自分の兄は同級生だった」とも。
ということは、おそらくMさんの両親は共産党の高官だったのでしょうね。
Wildswan3
さらに、「ユン・チアンの両親は文化大革命の受難を生き延びたけれども、自分の両親は処刑された。親族はみんなアメリカに逃げてしまった。自分は4人兄弟だったのだけれど、全員他人に預けられて育った。文化大革命以後、兄弟とも親戚とも、会っていない」と、しゅぱしゅぱ、っと手話で語りました。そして、ばっとMさんの目に涙がにじんだので、「あ、やばい、泣かせちゃった」と思ったのですが、Mさん、ふっと横をむいて、向き直ったときにはもう、涙はありませんでした。勝気な人なんだなあ、と思いました。

『ワイルド・スワン』に描かれた戦後50年の中国は、よく言えばダイナミック、正直に言えば凶暴な印象。あまりにも話がでかいので、下巻にさしかかったときには、もはや「ジャックと豆の木」でも読んでいるみたいな非現実感を抱いておりました。そこへ現れたMさんは、まるで小説の中の登場人物が3次元になって出てきたように見えて、nikkou、思わず、ぼーっとしてしまいました。
文化大革命の時代、中国のクリスチャンの人たちはどんなだったんだろう。Mさんに重ねて聞いてみたいような気もしたけれど、なんだかためらってしまった。

「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」
帰り道、急に生ナマしく見えてきた『ワイルド・スワン』の残りを一気に読み終えて、この人たちにとって、「十分」どころか、「二十分」だったんじゃないか、こりゃ、と思った。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

September 05, 2006

キリスト教式結婚式

『眠られぬ夜のために』第二部

「ほんとうによい結婚とは一体いかなるものであるかは、主として、次のことで知ることができよう。すなわち、来世の新しい生活を考える場合に、先立った妻とそこでまた出会うのがただ自明のように感じられるばかりでなく、ぜひとも必要なことだと感じられる、ということである。もし妻とめぐりあいができないとすれば、自分の精神的自我の一部がかけているという苦痛を覚えるであろう。」
(岩波文庫・草間・大和訳)

ヒルティがこの本を書いたときは、妻に先立たれているから、すごく個人的な妻への愛の告白みたいに聞こえる。
幸せな夫婦だな、と思いますね。
Kankonsosai_1
結婚といえば、先日斉藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)読了。面白かった。
本書の中で、「結婚とあまり関係ない方も、一度はリクルート社の『ゼクシー』という結婚情報誌を覗いてみるといい、きっと驚く。」とあったので、買ってみました『ゼクシー』。
確かに、驚いた。厚さ1348ページ(!)、まるで電話帳の厚さでわずか500円のこの雑誌に、十字架十字架十字架礼拝堂礼拝堂礼拝堂。
めくれどめくれど、まさに教会のタウンページであります。
もちろん、最近のホテルにはチャペルが備え付けられているということぐらいはnikkouも知っていたけど、
「結婚式用の教会」つまり、日曜礼拝には使わない、ただ、結婚式のためにだけに作られた「教会」建築というものが、こんなにもあるとは知らなかった。(下はウチの教会。その下は、「結婚式用の教会」)
06040916wpp0039_1

nikkouが主イエスと出会ったゴスペルクワイアー「オアシス」は、8割がノンクリスチャン、というクワイアーでした。
あるときメンバーのひとりが、ある結婚式用のチャペルにて結婚式を挙げることとなり、披露宴ではわれわれ仲間が、お祝いにゴスペルを讃美しにいくこととなりました。
そこで彼女が選んだのは、「I tried Him for myself」(意訳すると「私自身のために、イエスキリストを信じてみることにした」といったところか?)という、深い信仰を歌ったゴスペル。
いよいよ式がせまってきたある日彼女がこんなことを言った。

Chapel_1

…「I tried Him for myself」を選んだのは、チャペルで結婚式をあげることになってあらためてこの歌の意味が胸にせまってきたから。もし、ゴスペルを知らずに、このチャペルで結婚式を挙げていたら、十字架もただの飾りにしか見えていなかっただろう。十字架を前に、結婚を誓うことの重みを、かみ締めている・・・。

nikkouは、別に、クリスチャンでもないのに十字架の前で結婚式をするなんておかしい、なんて言わない。主イエスはだれにでも愛を注ぐ方だ。
ただ、結婚式のとき、たとえ結婚式専用の十字架であってもその前に立つ予定があるのであれば、せめて、新約聖書一冊買って、福音書だけでも、めいめいが読むといいのに、と思う。もし面倒なら、阿刀田高さんの「新約聖書を知っていますか」でも、三浦綾子さんの「新約聖書入門」でもいい。結婚式場も、聖書を新郎新婦にプレゼントするとか、結婚式をしない日曜(仏滅とか)にはゴスペルコンサートをもちます、くらいのキリスト教へのリスペクトがあってもいいように思う。
「十字架は飾りじゃない」と分かるだけで、キリスト教式結婚式がより感動的になると思うのだけど、余計なお世話なのかな。

無教会クリスチャンの結婚式

神に誓う結婚式

| | Comments (1) | TrackBack (0)